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千曲川のスケッチ(ちくまがわのスケッチ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 8:57:14  点击:  切换到繁體中文

底本: 千曲川のスケッチ
出版社: 新潮文庫、新潮社
初版発行日: 1955(昭和30)年4月20日、1970(昭和45)年5月5日25刷改版
入力に使用: 1998(平成10)年8月25日68刷
校正に使用: 1998(平成10)年8月25日68刷

 

   序

 敬愛する吉村さん――しげるさん――私は今、序にかえて君にてた一文をこの書のはじめにしるすにつけても、矢張やっぱり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念をようやく今まとめることが出来た。
 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身をたくして、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町ひさまつちょうの小学校へ通われる頃は、私は白金しろかねの明治学院へ通った。君と私とはほとんど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸こもろで家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学をえようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君ひとりで来られた。この書の中にある小諸城址じょうしの附近、中棚なかだな温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地こころもちがする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々いろいろなことを学んだ。田舎いなか教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式をえらぶように成った。この書のおもなる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
 樹さん、君のお父さんも最早もう居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川ちくまがわの川上から川下までを生々いきいきと眼の前に見ることが出来る。あの浅間のふもとの岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいをぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友神津猛こうづたけし君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りであらわした。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。

  大正元年 冬

藤村



[#改ページ]



   その一


     学生の家

 地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧みまきはらの方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分わらびを採った。それから鴇窪ときくぼという村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
 私は今、小諸の城址しろあとに近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜もすももほとんど同時に開く。城址の懐古園かいこえんには二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時いちどきにすべての花をさらって行ってしまう。私達の教室は八重桜の樹で囲繞いにょうされていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。ことに小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早もうすっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑でうずもれていた。
 私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原ひらはら小原こはら、山浦、大久保、西原、滋野しげの、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自めいめいの家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川ちくまがわの岸にいて、かわずの声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡ごぼう人参にんじんなどの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久きたさくの領分でなく、小県ちいさがたの傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
 ここでは男女なんにょはげしく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫とりいれ休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙いそがしい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭こかげが多いから。それに、小諸からその村へ通うはたけの間の平かな道も好きだ。
 私は盛んな青麦の香をぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私はしつけられるような心持こころもちに成る。可怖おそろしい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成かなり大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃いんぎんな家族の人達が私の心をいた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所のわきからじかに裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚ぶどうだななどに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛ちちうしが飼われている。
 Sの兄は大きなバケツをげて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰をかがめて、新鮮な牛乳を罎詰びんづめにする仕度したくをした。暫時しばらく、私は立ってながめていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々いろいろな話を聞いた。牛の性質によって温順おとなしく乳をしぼらせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着おちついたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西にしいり牧場まきばなぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

     鉄砲虫

 この山の上で、私はよく光沢つやけの無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺くさぶきの小屋の前や、桑畠くわばたけの多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
 学校の小使が私にこんなことを言った。

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