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千曲川のスケッチ(ちくまがわのスケッチ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 8:57:14  点击:  切换到繁體中文


     一ぜんめし

 私は外出したついでに時々立寄って焚火たきびにあててもらう家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処おんやすみどころ揚羽屋あげばやとした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子でしを相手にして、石菖蒲せきしょうぶ万年青おもとなどの青い葉に眼を楽ませながら錯々せっせと着物をこしらえる仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹ようかん店頭みせさきに並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網とあみをさげてよく帰って来る髪の長い売卜者えきしゃが居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾こんのれんを軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩あんまを渡世にする頭をまるめた盲人めくらが居る。駒鳥こまどりだの瑠璃るりだのその他小鳥がかごの中でさえずっている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装なりふりに関わず働く内儀かみさんがよく荷をかついで、襦袢じゅばんの袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空にとおる声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだとすぐに分る。自分の家でもこの女から油揚あぶらあげだのがんもどきだのを買う。近頃は子息むすこも大きく成って、母親おっかさんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでもやっこでもトントンとやるように成った。
 揚羽屋には、うどんもある。もっとも乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺ではめん類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐ばんさんに麺類を用うるという家を知っている。蕎麦そばはもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走ちそうに成っている。それから、「お煮掛にかけ」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋おおなべのかけてある炉辺ろばたに腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱あたたかさを取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何いかがでごわす」などと言って、内儀さんが大丼おおどんぶりに熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲ずもうに弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、すすけた壁も、よごれた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来につないである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。

     松林の奥

 夷講えびすこうの翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉ばっしょうするには面白い道連だ。
 小諸の町はずれに近い、与良町よらまちのある家の門で、
いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
 こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭陀袋ずだぶくろに米を入れ、毛布ケットを肩に掛け、股引ももひき尻端折という面白い風をして、洋傘こうもりを杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
 出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。八幡のもりを離れたのが、午後の四時半だった。日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿たどって、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。西の山々のかなたには、日も隠れた。私達は後方うしろを振返り振返りして急いで行った。
 静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。林の中をれて射し入る残りの光が私達の眼に映った。西の空にはわずかに黄色が残っていた。鳥の声一つ聞えなかった。
 そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。その時は、西の空は全く暗かった。月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄ゆうもやけぶるようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂ものさみしい。
 宵の月は半輪はんりんで、えてはいたが、光は薄かった。私達が辿たどって行く道は松かげに成って暗かった。けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。そこまで行くと、最早もう人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極くかすかな響に耳を立てたり、暗い奥の方をうかがうようにしてながめ入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方こちらを向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、なお奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧もうろうと影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘こうもりに力を入れて、ち上った。
 いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足がさきへ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
 こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石につまずいて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠ぼうばくとした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山のに満ちた。空の彼方かなたには青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。

     深山の燈影

 赤々と障子に映る燈火ともしびを見た時の私達の喜びはたとえようもなかった。私達はようやくのことで清水しみずの山小屋に辿り着いた。
 小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆きゃはんのままで炉辺ろばたくつろいだ。W君は毛布を身にまといながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日あすは大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納ゆいのうが来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
 お竹さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。W君はこの人達と懇意で、話し方も忸々なれなれしい。
 米を入れた頭陀袋、牛肉の新聞紙包、それから一かけの半襟はんえりなぞが、土産みやげがわりにそこへ取出された。
 番人は小屋へ入りがけに、
「肉にはねぎよろしゅうごわしょうナア」
 と言うと、W君も笑って、
「ああ葱は結構」
ついでに、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」と番人は屋外そとへ出て行って、葱、芋の貯えたのを持って来た。やがて炉辺へドッカと座り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸おおひばしであらけ、ぱっと燃え付いたところへくぬぎの枝を折りくべた。火勢が盛んに成ると、皆なの顔も赤々と見えた。
 番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引移って、五月に細君を迎えたという。火に映る顔はすこやかに輝き眼は小さいけれど正直な働き好きな性質を表していた。話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌の見える程に笑うのが癖のようだ。その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌味いやみの無い面白い若者だ。すぐに懇意に成れそうな人だ。細君はまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。まことに似合った好い若夫婦だ。
 部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉辺のみ明るく見えた。小屋の庭のすみにはかまどが置いてあって、そこから煙が登り始めた。飯をたく音も聞えて来た。細君はザクザクと葱を切りながら、
「私は幼少ちいさい時からさみしいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実ほんとに寂しい思をいたしやした」
 こう山住やまずみの話をして聞かせる。亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうに、その年作ったという葱の出来などを話し聞かせて夫婦して夕飯の仕度をしてくれた。炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯じゃがいもを煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取替えられた。細君が芋を入れれば、亭主はその上へふたを載せる。私達は「手鍋提げても」という俗謡うたにあるような生活をのあたり見た。
 小猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包のそばへ鼻を押しつけ、亭主にしかられた。やがて私達の後を廻って遠慮なくW君の膝に上った。「野郎」と復た亭主に叱られて炉辺に縮み、寒そうに火を眺めて目を細くした。
「私はこの猫という奴が大嫌だいきらいですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
 と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
「すこしけむったくなって来たナア。開けるか」とW君は起上って、細目に小屋の障子を開けた。しばらく屋外そとを眺めて立っていた。
「ああ好い月だ、え冴えとして」
 と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白いあわを吹いて、湯気も立のぼった。
「さア、もういいよ」
「肉を入れて下さい」
「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
 亭主は貝匙かいさじで芋を一つすくった。それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。芋は肉を入れても可い程に煮えた。そこで新聞紙包が解かれ、竹の皮が開かれた。赤々としたぎゅうの肉のすこし白い脂肪あぶらも混ったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
「どうもうまそうなにおいがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」と亭主がW君に言った。
 細君は戸棚とだなから、ぜん茶碗ちゃわん塗箸ぬりばしなどを取出し、飯は直に釜から盛って出した。
「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
 と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。その時は余程空腹を感じていた。
「さア、肉も煮えやした」と細君は給仕しながら款待顔もてなしがおに言った。
「お竹さん、勘定して下さい、沢山頂きますから」とW君も心易い調子で、「うまい、この葱はうまい。あつ、熱。フウフウ」
「どうも寒い時は肉に限りますナア」と亭主は一緒にやった。
 三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食欲を満たした。私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
「さア、おかえなすって――山へ来て御飯おまんまがまずいなんておっしゃる方はありませんよ」
 と細君が言ううち、つとW君の前にあった茶碗を引きたくった。W君はあわてて、奪い返そうとするように手を延ばしたが、間に合わなかった。細君はまた一ぱい飯を盛って勧めた。
 W君は笑いながら頭をかかえた。「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際入りません」とW君は溜息ためいきいた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
 楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。戸棚の中に入れられた小猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうにひろげて、読んだ。W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時しばらくあおのけに倒れていた。
 炭焼、うさぎ狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方あちらに倒れて、可恐おそろしい思をしたことを話した。めったに外へ泊ったことの無い夫がその晩に限って本家で泊った、とも話した。
 新築の家というは小屋に近く建ててあった。私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。漸く普請が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙からかみを押つけ、その透間から月の光もれた。私達は毛布にくるまり、燈火あかりも消し、疲れて話もせずに眠った。

     山の上の朝飯

 翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早起き出す様子だ。この人達の話声は、前の晩遅くまで聞えていた。雉子きじの鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
 私達はかさなりかさなった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引たなびいた。次第に山のも輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松からまつの林も見えて来た。
 亭主と連立って、私達は小屋の周囲まわりにある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。大根乾した下の箱の中から、家鴨あひるが二羽ばかり這出はいだした。そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴くちばしを振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
 亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。冬季のことだから毛も長く延び、背は高く、目は優しく、肥大な骨格の馬だ。亭主は例のフスマに芋、葱のうでたのを混ぜ、ツタを加えて掻廻し、それを大桶おおおけに入れて、馬小屋のかぎに掛けてった。馬はあまえて、朝飯欲しそうな顔付をした。
「廻って来い」
 と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞分けて、ぐるりと一度小屋の内を廻った。
「もう一度――」
 とた亭主が馬の鼻面はなづらを押しやった。それからこの可憐かれんな動物は桶の中へ首を差込むことを許された。馬がゴトゴトさせて食うそばで、亭主は一斗五升の白水が一吸に尽されることを話して、私達を驚かした。
 山上の雲はようやく白く成って行った。谷底も明けて行った。光の触れるところは灰色に望まれた。
 細君が膳の仕度の出来たことを知らせに来た。めずらしいところで、私達は朝の食事をした。亭主は食べおわった茶碗に湯を注ぎ、それを汁椀しるわんにあけて飲み尽し、やがて箱膳はこぜんの中から布巾ふきんを取出して、茶碗もはしも自分でいて納めた。
 もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下した。亭主は望遠鏡まで取出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前のくぼみが霊泉寺の沢、と一々指して見せた。八つが岳、蓼科たでしなの裾、御牧みまきが原、すべて一望の中にあった。
 層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗ききょう山辺やまべ横取よこどり多計志たけし八重原やえばらなどの村々を数えることが出来る。白壁も遠く見える。千曲川も白く光って見える。
 十二月に入ると山のきじは畠へ下りて来る、どうかすると人の足許あしもとより飛び立つことがある。兎も雪の中の麦をいに寄る。こうした話が私達にはめずらしい。


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   その九


     雪国のクリスマス

 クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸をち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。私はそれも果した。
 雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物なにか君の想像を動かすものがあるであろう。しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
 毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居すまいで眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩のように細かい雪の降りつもるのが、こういう土地の特色だ。あまりに周囲あたりの光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。朝通いの人達が、下駄の歯につく雪になやみながら往来を辿たどるさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。赤い毛布ケットで頭を包んだ草鞋穿わらじばきの小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立たたずむ鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園かいこえんの松に掛った雪が、時々くずれ落ちるたびに、濛々もうもうとした白いけむりを揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のようにて了ったのをも見た。
 岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。馬丁の吹き鳴らす喇叭らっぱの音が起る。薄いござを掛けた馬のからだはビッショリとぬれて、あらく乱れたたてがみからはしずくしたたる。ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪がすべり始める。白く降りうずんだ道路の中には、人の往来ゆききの跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまがながめられる。家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景ありさまだ。
 薄い靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ちめた。その日の黄昏時たそがれどきのことだ。晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのがえりにかかる。ヤア降ってるのかと、思わず髪にさわると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。二度ばかり掻取かきとった路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
 雪明りで、暗いなかにも道は辿ることが出来る。町を通う人々の提灯ちょうちんの光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞもPicturesqueだ。
 君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみてもらいたい。殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へと復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
 しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったは一尺ほどで、軒先には細い氷柱つららも垂下り、庭の林檎りんごも倒れしていた。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被ひきかぶせられたように成った。雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。見るもまぶしい。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、わびしく静かな思をさせる。
 更に小諸町裏の田圃側たんぼわきへ出て見ると、浅々とえ出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き伏すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔かに深い鉛色を帯びて見える。この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。朦朧もうろうとして、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
 翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間たにあいへ出たことがあった。日光が恐しく烈しい勢で私に迫って来た。四面皆な雪の反射はほとんど堪えられなかった。私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。まぶしいところは通りして、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。そこはだらだらと次第下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草におおわれ、ところどころ赤黝あかぐろい土のあらわれた場所もある。その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、はるかに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川のすさまじい音を立てて流れるのをも聞いた。
 こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲あたりは半ば凍りつめた世界である。高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日もまれだ。小諸の停車場に架けたかけひからは水があふれて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方むこうは降ってるナと思うこともある。冬至近くに成れば、雲ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条しょうじょうとした趣は日没などに殊に私の心を引く。その頃には、軒の氷柱つららも次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。草葺くさぶきの屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。その間から顔を出す石南木しゃくなぎなぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強いつぼみだけは大きく堅く附着くっついている。冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
 こういう寒さと、凍った空気とをいて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵こたつにあたりながらの気象学の話や、文学上のくわしい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
 私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。快活な声で笑う人だった。その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。やがて降誕祭クリスマスを祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
 私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部うしろの方に起る女連おんなれんの笑声を聞くこともあった。その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほどすべってころんだことを知った。
 赤々とした燈火は会堂の窓をれていた。そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎いなからしいクリスマスの晩を送った。

     長野測候所

 翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
 途次みちみち技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名はるなの朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何いかがなどと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべてくわしかった。
 測候所は建物としては小さいが、眺望ちょうぼうの好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
 やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階はしごだんを昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしいもやが立ちめて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
 風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨あらしの前の雲――たとえば広濶こうかつな海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃しなのの地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
 こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
 と私に指して尋ねた。
 私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。

     鉄道草

 鉄道が今では中仙道なかせんどうなり、北国ほっこく街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静かな農民の生活までも変えつつある。
 鉄道は自然界にまで革命を持来もちきたした。その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入しきたったものであるという。野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延まんえんしないところは無い。そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。

     屠牛とぎゅうの一

 上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
 正月の元日だ。新年早々屠牛を見に行くとは、随分物数寄ものずきな話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々ぼつぼつとしておさえ難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居すまいを出た。
 小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多かるたの遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素いつもより更に閑静しずかで、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
 初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子ガラスに射し入った。窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠くわばたけ、茶色なくぬぎの枯葉なぞが、私の眼に映った。車中にも数えるほどしか乗客がない。すみのところには古い帽子を冠り、古い外套がいとうを身にまとい赤い毛布ケットを敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。(この山の上の単調な鉄道生活にえ得るものは、実際は越後人ばかりであるとか)
 上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷びんしょうを以て聞えた土地だ。この一般の気風というものも畢竟つまり地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。寒い気候とせた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。堅い地大根の沢庵たくあんみ、朝晩味噌汁みそしるに甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行はやったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那だんな衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。私は、他所よそで着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更きがえながら小諸に入る若い謀反むほ人のあることを知っている。要するに、表面おもてむなしく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ。これが生活上の形式主義を産む所以ゆえんであろうと思う。上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさてき、又実際の殷富とみの程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて、それで割合に良い品を安く売る。上田ではそれほどノンキにしていられない事情があると思う。絶えず周囲に心を配って、ふるい城下の繁昌を維持しなければ成らないのが上田の位置だ。店々の飾りつけを見ても、競って顧客の注意を引くように快く出来ている。塩、鰹節かつぶし太物ふともの、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少くないという。
 思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。その日は牛のつぶしめとかで、屠牛場の取締をするという肉屋を訪ねると、例のかごを肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。私は肉屋の亭主にも逢った。この人は口数は少いが、何となく言葉に重味があって、牛のことには明るい人物だった。
 肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。私達もその後にいて、細い流を渡り、太郎山の裾へ出た。新しい建物の前に、鋭い眼付の犬が五六匹も群がっていた。そこが屠牛場だった。
 黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。その中でも重立ったかしらは年の頃五十あまり、万事に老練な物の言振りをする男で、肥った頬に愛嬌あいきょうを見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場けいりゅうじょうでは赤い牝牛めうしが一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
 中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀いたべいを境にして、屠場とじょうに続いている。

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