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古事記物語(こじきものがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-12 9:38:27  点击:  切换到繁體中文


 

赤い盾(たて)、黒い盾(たて)


       一

 綏靖天皇(すいぜいてんのう)から御(おん)七代をへだてて、第十代目に崇神天皇(すじんてんのう)がお位におつきになりました。
 天皇にはお子さまが十二人おありになりました。その中で皇女、豊※入媛(とよすきいりひめ)が、はじめて伊勢(いせ)の天照大神(あまてらすおおかみ)のお社(やしろ)に仕えて、そのお祭りをお司(つかさど)りになりました。また、皇子(おうじ)倭日子命(やまとひこのみこと)がおなくなりになったときに、人がきといって、お墓のまわりへ人を生きながら埋(う)めてお供(とも)をさせるならわしがはじまりました。
 この天皇の御代(みよ)には、はやり病(やまい)がひどくはびこって、人民という人民はほとんど死に絶えそうになりました。
 天皇は非常にお嘆(なげ)きになって、どうしたらよいか、神のお告げをいただこうとおぼしめして、御身(おんみ)を潔(きよ)めて、慎(つつし)んでお寝床(ねどこ)の上にすわっておいでになりました。そうするとその夜のお夢に、三輪(みわ)の社(やしろ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が現われていらしって、
「こんどのやく病はこのわしがはやらせたのである。これをすっかり亡(ほろ)ぼしたいと思うならば、大多根子(おおたねこ)というものにわしの社(やしろ)を祀(まつ)らせよ」とお告げになりました。天皇はすぐに四方へはやうまのお使いをお出しになって、そういう名まえの人をおさがしになりますと、一人の使いが、河内(かわち)の美努村(みぬむら)というところでその人を見つけてつれてまいりました。
 天皇はさっそくご前にお召(め)しになって、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
 すると大多根子(おおたねこ)は、
「私は大物主神(おおものぬしのかみ)のお血筋(ちすじ)をひいた、建甕槌命(たけみかづちのみこと)と申します者の子でございます」とお答えいたしました。
 それというわけは、大多根子(おおたねこ)から五代(だい)もまえの世に、陶都耳命(すえつみみのみこと)という人の娘(むすめ)で活玉依媛(いくたまよりひめ)というたいそう美しい人がおりました。
 この依媛(よりひめ)があるとき、一人の若い人をお婿(むこ)さまにしました。その人は、顔かたちから、いずまいの美しいけだかいことといったら、世の中にくらべるものもないくらい、りっぱな、りりしい人でした。
 媛(ひめ)はまもなく子供が生まれそうになりました。しかしそのお婿さんは、はじめから、ただ夜だけ媛のそばにいるきりで、あけがたになると、いつのまにかどこかへ行ってしまって、けっしてだれにも顔を見せませんし、お嫁さんの媛にさえ、どこのだれかということすらも、うちあけませんでした。
 媛のおとうさまとおかあさまとは、どうかして、そのお婿さんを、どこの何びとか突きとめたいと思いまして、ある日、媛(ひめ)に向かって、
「今夜は、おへやへ赤土をまいておおき、それからあさ糸のまりを針(はり)にとおして用意しておいて、お婿(むこ)さんが出て来たら、そっと着物のすそにその針をさしておおき」と言いました。
 媛はその晩、言われたとおりに、お婿さんの着物のすそへあさ糸をつけた針をつきさしておきました。
 あくる朝になって見ますと、針についているあさ糸は、戸のかぎ穴(あな)から外へ伝わっていました。そして糸のたまは、すっかり繰りほどけて、おへやの中には、わずか三まわり輪(わ)に巻けた長さしか残っておりませんでした。
 それで、ともかくお婿さんは、戸のかぎ穴から出はいりしていたことがわかりました。媛はその糸の伝わっている方へずんずん行って見ますと、糸はしまいに、三輪山(みわやま)のお社(やしろ)にはいって止まっていました。それで、はじめて、お婿さんは大物主神(おおものぬしのかみ)でいらしったことがわかりました。
 大多根子(おおたねこ)はこのお二人の間に生まれた子の四代目の孫でした。
 天皇は、さっそくこの大多根子を三輪の社の神主(かんぬし)にして、大物主神のお祭りをおさせになりました。それといっしょに、お供えものを入れるかわらけをどっさり作らせて、大空の神々や下界の多くの神々をおまつりになりました。その中のある神さまには、とくに赤色の盾(たて)や黒塗(くろぬり)の盾をおあげになりました。
 そのほか、山の神さまや川の瀬(せ)の神さまにいたるまで、いちいちもれなくお供えものをおあげになって、ていちょうにお祭りをなさいました。そのために、やく病はやがてすっかりとまって、天下はやっと安らかになりました。

       二

 天皇はついで大毘古命(おおひこのみこと)を北陸道(ほくろくどう)へ、その子の建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)を東山道(とうさんどう)へ、そのほか強い人を方々へお遣(つかわ)しになって、ご命令に従わない、多くの悪者どもをご征伐になりました。
 大毘古命(おおひこのみこと)はおおせをかしこまって出て行きましたが、途中で、山城(やましろ)の幣羅坂(へらざか)というところへさしかかりますと、その坂の上に腰(こし)ぬのばかりを身につけた小娘(こむすめ)が立っていて、

  これこれ申し天子さま、
  あなたをお殺し申そうと、
  前の戸に、
  裏(うら)の戸に、
  行ったり来たり、
  すきを狙(ねら)っている者が、
  そこにいるとも知らないで、
  これこれ申し天子さま。

  と、こんなことを歌いました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は変だと思いまして、わざわざうまをひきかえして、
「今言ったのはなんのことだ」とたずねました。
 すると小娘(こむすめ)は、
「私はなんにも言いはいたしません。ただ歌を歌っただけでございます」と答えるなり、もうどこへ行ったのか、ふいに姿(すがた)が見えなくなってしまいました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は、その歌の言葉(ことば)がしきりに気になってならないものですから、とうとうそこからひきかえしてきて、天皇にそのことを申しあげました。すると天皇は、
「それは、きっと、山城(やましろ)にいる、私(わし)の腹(はら)ちがいの兄、建波邇安王(たけはにやすのみこ)が、悪だくみをしている知らせに相違あるまい。そなたはこれから軍勢をひきつれて、すぐに討(う)ちとりに行ってくれ」とおっしゃって、彦国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)という方を添(そ)えて、いっしょにお遣(つかわ)しになりました。
 二人は、神々のお祭りをして、勝利を祈って出かけました。そして、山城(やましろ)の木津川(きつがわ)まで行きますと、建波邇安王(たけはにやすのみこ)は案のじょう、天皇におそむき申して、兵を集めて待ち受けていらっしゃいました。両方の軍勢は川を挟(はさ)んで向かい合いに陣取(じんど)りました。彦国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)は、敵に向かって、
「おおい、そちらのやつ、まずかわきりに一矢(や)射(い)てみよ」とどなりました。敵の大将の建波邇安王(たけはにやすのみこ)は、すぐにそれに応じて、大きな矢をひゅうッと射放しましたが、その矢はだれにもあたらないで、わきへそれてしまいました。それでこんどはこちらから国夫玖命(くにぶくのみこと)が射かけますと、その矢はねらいたがわず建波邇安王(たけはにやすのみこ)を刺(さ)し殺してしまいました。
 敵の軍勢は、王(みこ)が倒れておしまいになると、たちまち総くずれになって、どんどん逃(に)げだしてしまいました。国夫玖命(くにぶくのみこと)の兵はどんどんそれを追っかけて、河内(かわち)の国のある川の渡しのところまで追いつめて行きました。
 すると賊兵のあるものは、苦しまぎれにうんこが出て下ばかまを汚(よご)しました。
 こちらの軍勢はそいつらの逃げ道をくいとめて、かたっぱしからどんどん切り殺してしまいました。そのたいそうな死がいが川に浮かんで、ちょうど、うのように流れくだって行きました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は天皇にそのしだいをすっかり申しあげて、改めて北陸道(ほくろくどう)へ出発しました。
 そのうちに大毘古命(おおひこのみこと)の親子をはじめ、そのほか方々へお遣(つかわ)しになった人々が、みんなおおせつかった地方を平らげて帰りました。そんなわけで、もういよいよどこにも天皇におさからいする者がなくなって、天下は平らかに治まり、人民もどんどん裕福(ゆうふく)になりました。それで天皇ははじめて人民たちから、男から弓端(ゆはず)の調(みつぎ)といって、弓矢でとった獲物(えもの)の中のいくぶんを、女からは手末(たなすえ)の調(みつぎ)といって、紡(つむ)いだり、織ったりして得たもののいくぶんを、それぞれ貢物(みつぎもの)としておめしになりました。
 天皇はまた、人民のために方々へ耕作用の池をお作りになりました。天皇の高いお徳は、後の代(よ)からも、いついつまでも永(なが)くおほめ申しあげました。


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