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惜別(せきべつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-20 9:16:09  点击:  切换到繁體中文

これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。



 先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精鬚ぶしょうひげをはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。そのとおりだ、と私は答えた。
「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」と記者は、胸のポケットから小さい手帖てちょうを出しながら、せっかちに尋ねる。
「たしか、その頃と記憶しています。」私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。はっきり言えば、私にはこの新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。
「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒あおぐろほおに薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っているはずだ。」とあきれるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには鉛筆で大きく、
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅ろじんとなって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
「たとえば、どんなところが?」と、記者は一ひざ乗り出して、「いや、実はね、藤野先生という題の魯迅の随筆を読むと、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になった、と、まあ、そんな事が書かれているのですね、それで私は、この話をうちの新聞の正月の初刷りに、日支親善の美談、とでも言ったような記事にして発表しようと思っているのですがね、ちょうどあなたがそのころの、仙台医専の生徒だったのではあるまいかとにらんでやって来たようなわけです。いったい、どんな工合でした、そのころの魯迅は。やはりこの、青白い憂鬱ゆううつそうな表情をしていたでしょうね。」
「いいえ、別にそう。」私のほうで、ひどく憂鬱になって来た。「変ったところもございませんでした。なんと申し上げたらいいのでしょうか、非常に聡明そうめいな、おとなしい、――」
「いや、そんなに用心しなくてもいいんだ。私は何も魯迅の悪口を書こうと思っているのじゃないし、いまも言ったように、東洋民族の総親和のために、これを新年の読物にしようと思っているのですからね、ことにこれはわが東北地方と関係のあることでもありますから、わばまあ地方文化への一つの刺戟しげきになるのです。だから、あなたもわが東北文化のために大いに自由闊達かったつに、当時の思い出話を語って下さい。あなたにご迷惑のかかるような事は絶対に無いのですから。」
「いいえ、決して、そんな、用心なんかしていませぬのですが。」その日は、なぜだか、気が重かった。「何せもう、四十年も昔の事で、決して、そんな、ごまかす積りはないのですけれども、私のような俗人のたわいない記憶など果してお役に立つものかどうか。――」
「いや、いまはそんな、つまらぬ謙遜けんそんなんかしている時代じゃありませんよ。それでは、私は少し質問しますが、記憶に残っているところだけでも答えて下さい。」
 それから記者は一時間ばかり、当時の事をいろいろ質問して、私のしどろもどろの答弁にすこぶる失望の面持で帰って行ったが、それでも、ことしの正月にはその地方の新聞に、「日支親和の先駆」という題で私の懐古談の形式になっている読物が五、六日間連載された。さすがに商売柄、私のあんな不得要領の答弁をたくみに取捨して、かなり面白い読物にまとめている手腕には感心したが、けれども、そこに出ている周さんも、また恩師の藤野先生も、また私も、まるで私には他人のように思われた。私の事など、どんなに書かれたって何でも無いけれども、恩師の藤野先生や周さんが、私の胸底の画像とまるで違って書かれているので読んだ時には、かなりの苦痛を感じた。これもみな私の答弁の拙劣に原因しているのであろうが、でも、どうも、あんなに正面切って次々と質問されるとこちらは、しどろもどろにならざるを得ないのである。とっさに適切の形容等、私のような愚かな者にはとても思い浮かばず、まごついて、ふとつぶやいた無意味な形容詞一つが、妙に強く相手の耳にはいって自分の真意を曲解されてしまう事も少くないだろうし、どうも私は、この一問一答は、にがてなのだ。それで私は、こんどの記者の来訪には、非常に困惑し、自分のしどろもどろの答弁に自分で腹を立て、記者が帰ってからも二、三日、悲しい思いで暮したのだが、いよいよ正月になって、新聞に連載された懐古談なるものを読み、いまは、ただ藤野先生や、周さんに相すまない気持で一ぱいで、自分も既に六十の坂を越えて、もうそろそろこの世からおいとまをしてもよい年になっているし、いまのうちに、私の胸底の画像を、正しく書いて残して置くのも無意義なことではないと思い立ったのである。といっても私は、何もあの新聞に連載された「親和の先駆」という読物に、ケチを附けるつもりは無いのである。あのような社会的な、また政治的な意図をもった読物は、あのような書き方をせざるを得ないのであろう。私の胸底の画像と違うのも仕方の無いことで、私のは謂わばまあ、田舎いなか耄碌もうろく医者が昔の恩師と旧友を慕う気持だけで書くのだから、社会的政治的の意図よりは、あの人たちの面影をただていねいに書きとめて置こうという祈念のほうが強いのは致し方の無い事だろう。けれども私は、それはまた、それで構わないと思っている。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すというのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかも知れないのである。まあ、いまの老齢の私に出来る精一ぱいの仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れた上天気で、この私の南向きの書斎は火鉢ひばちが無くても春の如くあたたかく、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどの事なく順調に進んで行きそうな、楽しい予感もする。

 さて、私の胸底の画像と言っても、果して絶対に正確なものかどうか、それはどうも保証し難い。自分では事実そのままに語っているつもりでも、凡愚の印象というものは群盲象をさぐるの図に似て、どこかに非常な見落しがあるかも知れず、それに、もうこれは四十年も昔の事で、凡愚の印象さらにあいまいの度を加えて、ただいま恩師と旧友の肖像を正さんと意気込んで筆をっても、内心はなはだ心細いところが無いでもない。まあ、あまり大きい慾を起さず、せめて一面の真実だけでも書き残す事が出来たら満足という気持で書く事にしよう。どうも、としをとると、愚痴ぐちやら弁解やら、言う事が妙にしちくどくなっていけない。どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已ノミ矣」という事だけを心掛けて、左顧さこ右眄うべんもせずに書いて行けばいいのであろう。「ナンジノ知ラザル所ハ、人ソレコレテンヤ」である。
 私が東北の片隅かたすみのある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅しょうちょくが降り、私の仙台に来たころには遼陽りょうようもろく陥落かんらくし、ついで旅順りょじゅん総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、つつじヶ岡おか隊ととなえられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江おうりょっこうの渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功をて、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というにわか仕立ての狂言を上場したりして、全市すこぶる活気横溢おういつ、私たちも医専の新しい制服制帽を身にまとい、何か世界の夜明けを期待するような胸のふくれる思いで、学校のすぐ近くを流れている広瀬川の対岸、伊達だて家三代の霊廟れいびょうのある瑞鳳殿ずいほうでんなどにお参りして戦勝の祈願をしたものだ。上級生たちの大半の志望は軍医になっていますぐ出陣する事で、まことに当時の人の心は、単純とでも言おうか、生気溌剌はつらつたるもので、学生たちは下宿で徹宵てっしょう、新兵器の発明にいて議論をして、それもいま思うとき出したくなるような、たとえば旧藩時代の鷹匠たかじょうに鷹の訓練をさせ、鷹の背中に爆裂弾をしばりつけて敵の火薬庫の屋根に舞い降りるようにするとか、または、砲丸に唐辛子とうがらしをつめ込んでこれを敵陣の真上に於いて破裂させて全軍に目つぶしを喰わせるとか、どうも文明開化の学生にも似つかわしからざる原始的と言いたいくらいの珍妙な発明談に熱中して、そうしてこの唐辛子目つぶし弾の件は、医専の生徒二、三人の連名で、大本営に投書したとかいう話も聞いたが、さらに血の気の多い学生は、発明の議論も手ぬるしとして、深夜下宿の屋根にい上って、ラッパを吹いて、この軍隊ラッパがまたひどく仙台の学生間に流行して、輿論よろんは之を、うるさしやめろ、と怒るかと思えばまた一方に於いては、大いにやれ、ラッパ会を組織せよ、とおだてたり、とにかく開戦して未だ半箇年というに、国民の意気は既に敵を呑んで、どこかに陽気な可笑おかしみさえ漂っていて、そのころ周さんが「日本の愛国心は無邪気すぎる」と笑いながら言っていたが、そう言われても仕方の無いほど、当時は、学生ばかりでなく仙台市民こぞって邪心なく子供のように騒ぎまわっていた。
 それまで田舎の小さい城下町しか知らなかった私は、生れて初めて大都会らしいものを見て、それだけでも既に興奮していたのに、この全市にみなぎる異常の活況に接して、少しも勉強に手がつかず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。仙台を大都会だと言えば、東京の人たちに笑われるかも知れないが、その頃の仙台には、もう十万ちかい人口があり、電燈などもその十年前の日清にっしん戦争の頃からついているのだそうで、松島座、森徳座では、その明るい電燈の照明の下に名題役者なだいやくしゃの歌舞伎が常設的に興行せられ、それでも入場料は五銭とか八銭とかの謂わば大衆的な低廉ていれんのもので手軽に見られる立見席もあり、私たち貧書生はたいていこの立見席の定連じょうれんで、これはしかし、まあ小芝居の方で、ほかに大劇場では仙台座というのがあり、この方は千四、五百人もの観客を楽に収容できるほどの堂々たるもので、正月やお盆などはここで一流中の一流の人気役者ばかりの大芝居が上演せられ、入場料も高く、また盆正月の他にもここに浪花節なにわぶしとか大魔術とか活動写真とか、たえず何かしらの興行物があり、この他、開気館という小ぢんまりした気持のいい寄席が東一番丁にあって、いつでも義太夫ぎだゆうやら落語やらがかかっていて、東京の有名な芸人はほとんどここで一席お伺いしたもので、竹本呂昇ろしょうの義太夫なども私たちはここで聞いて大いにたんのうした。そのころも、芭蕉ばしょうつじが仙台の中心という事になっていて、なかなかハイカラな洋風の建築物が立ちならんではいたが、でも、繁華な点では、すでに東一番丁に到底かなわなくなっていた。東一番丁の夜のにぎわいは格別で、興行物は午後の十一時頃までやっていて、松島座前にはいつものぼりが威勢よくはためいて、四谷怪談よつやかいだんだの皿屋敷さらやしきだの思わず足をとどめさすほど毒々しい胡粉ごふん絵具の絵看板が五、六枚かかげられ、弁や、とかいう街の人気男の木戸口でわめく客呼びの声も、私たちにはなつかしい思い出の一つになっているが、この界隈かいわいには飲み屋、蕎麦そば屋、天ぷら屋、軍鶏しゃも料理屋、蒲焼かばやき、お汁粉しるこ、焼芋、すし、野猪のじし鹿しかの肉、牛なべ、牛乳屋、コーヒー屋、東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、大きい勧工場かんこうばもあれば、パン屋あり、洋菓子屋あり、洋品店、楽器店、書籍雑誌店、ドライクリーニング、和洋酒缶詰かんづめ、外国煙草屋、ブラザア軒という洋食屋もあったし、蓄音機ちくおんきを聞かせる店やら写真屋やら玉突屋やら、植木の夜店もひらかれていて、軒並に明るい飾り電燈がついて、夜を知らぬ花の街のおもむきを呈し、子供などはすぐ迷子まいごになりそうな雑沓ざっとうで、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分だったのである。いったいここの藩祖政宗まさむね公というのは、ちょっとハイカラなところのあった人物らしく、慶長十八年すでに支倉はせくら六右衛門常長を特使としてローマに派遣して他藩の保守退嬰派たいえいは瞠若どうじゃくさせたりなどして、その余波が明治維新後にも流れ伝っているのか、キリスト教の教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に入れなければならぬと思われるほどであって、キリスト教の匂いの強い学校も多く、明治文人の岩野泡鳴ほうめいというひとも若い頃ここの東北学院に学んで聖書教育を受けたようだし、また島崎藤村とうそんも明治二十九年、この東北学院に作文と英語の先生として東京から赴任して来たという事も聞いている。藤村の仙台時代の詩は、私も学生時代に、がらでもなく愛誦あいしょうしたものだが、その詩風には、やはりキリスト教の影響がいくらかあったように記憶している。このように当時の仙台は、地理的には日本の中心から遠く離れているように見えながらも、その所謂いわゆる文明開化の点においては、早くから中央の進展と敏感に触れ合っていたわけで、私は仙台市街の繁華にたまげ、また街の到るところ学校、病院、教会など開化の設備のおびただしいのに一驚し、それからもう一つ、仙台は江戸時代の評定所ひょうじょうしょ、また御維新後の上等裁判所、のちの控訴院と、裁判の都としての伝統があるせいか、弁護士の看板を掲げた家のやけに多いのに眼をみはり、毎日うろうろ赤毛布あかゲットの田舎者よろしくの体で歩きまわっていたのも、無理がなかった、とまあ、往時おうじの自分をいたわって置きたい。
 私はそのように市内の文明開化に興奮する一方、また殊勝らしい顔をして仙台周辺の名所旧蹟をもさぐって歩いた。瑞鳳殿にお参りして戦勝祈願をしたついでに、向山むかいやまに登り仙台全市街を俯瞰ふかんしては、わけのわからぬ溜息ためいきが出て、また右方はるかに煙波渺茫びょうぼうたる太平洋を望見しては、大声で何か叫びたくなり、若い頃には、もう何を見ても聞いても、それが自分にとって重大な事のように思われてわくわくするもののようであるが、かの有名な青葉城の跡を訪ねて、今も昔のままに厳然と残っている城門を矢鱈やたらに出たり入ったりしながら、われもし政宗公の時代に生れていたならば、とらちも無い空想にふけり、また、俗に先代萩せんだいはぎ政岡まさおかの墓と言われている三沢初子の墓や、支倉六右衛門の墓、また、金も無けれど死にたくも無しの六無斎ろくむさい林子平はやししへいの墓などを訪れて、何か深い意味ありげに一礼して、その他、つつじヶ岡おか、桜ヶ岡、三滝温泉、宮城野原みやぎのはら多賀城址たがじょうしなど、次第に遠方にまで探索の足をのばし、とうとうる二日つづきの休みを利用して、日本三景の一、松島遊覧を志した。
 お昼すこし過ぎに仙台を発足して、四里ほどの道をぶらぶら歩いて塩釜しおがまに着いた頃には、日も既に西に傾き、秋風が急につめたく身にしみて、へんに心細くなって来たので、松島見物は明日という事にして、その日は塩釜神社に参拝しただけで、塩釜の古びた安宿に泊り、あくる朝、早く起きて松島遊覧の船に乗ったのであるが、その船には五、六人の合客があって、中にひとり私と同様に仙台医専の制服制帽の生徒がいた。鼻下に薄髭うすひげやし、私より少し年上のように見えたが、でも、緑線を附けた医専の角帽はまだ新しく、帽子の徽章きしょうもまぶしいくらいにきらきら光って、たしかに今秋の新入生に違いなかった。何だか一、二度、教室でその顔を見かけたような気もした。けれども、そのとしの新入生は日本全国から集って百五十人、いや、もっと多かったようで、東京組とか、大阪組とか、出生の国を同じくする新入生たちはそれぞれ群を作って、学校にいても、また仙台のまちへ出ても、一緒に楽しそうに騒ぎまわっていたものの、田舎の私の中学から医専に来たのは私ひとりで、それに私は、生来口が重い上に、ご存じの如くひどい田舎訛いなかなまりなので、その新入生たちにまじって、冗談を言い合う勇気もなく、かえってひがんで、孤立を気取り、下宿も学校から遠く離れた県庁の裏に定めて、同級生の誰とも親しく口をきかなかったのは勿論もちろん、その素人しろうと下宿の家族の人たちとも、滅多めったに打ち解けた話をする事は無かった。それは仙台の人たちだって、かなり東北訛りは強かったが、私の田舎の言葉ときたら、それどころでは無く、また、私も無理に東京言葉を使おうとしたら、使えないわけはないのだが、どうせ田舎出だという事を知られているのに、きざにいい言葉を使ってみせるのも、気恥かしいのである。これは田舎者だけにわかる心理で、田舎言葉を丸出しにしても笑われるし、また努力して標準語を使っても、さらに大いに笑われるような気がして、結局、むっつりの寡黙居士かもくこじになるより他は無いのである。私がその頃、他の新入生と疎遠だったのは、そのような言葉の事情にもるが、また一つには、私にもやはり医専の生徒であるという事の誇りがあって、からすもただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらで無く、漆黒しっこくつばさも輝いて見事に見えるけれども、数十羽かたまって騒いでいると、ゴミのようにつまらなく見えるのと同様に、医専の生徒も、むれをなして街を大声で笑いながら歩いていると角帽の権威も何もあったものでなく、まことに愚かしく不潔に見えるので、私はあくまでも高級学徒としての誇りを堅持したい心から、彼等を避けていたというような訳もあったのである、と言えば、ていさいもいいが、もう一つ白状すると、私はその入学当初、ただ矢鱈に興奮して仙台の街を歩きまわってばかりいて、実は、学校の授業にも時々、無断欠席をしていたのである。これでは、他の新入生たちと疎遠になるのも当り前の話で、その松島遊覧の船でひとりの新入生と顔を合せた時も、私は、ひやりとして、何だかひどく工合ぐあいが悪かった。私は船客の中の唯一の高潔な学徒として、大いに気取って、松島見物をしたかったのに、もうひとり、私と同じ制服制帽の生徒がいたのではなんにもならぬ。しかもその生徒は都会人らしく、あかぬけがしていて、どう見ても私より秀才らしいのだから実にしょげざるを得なかったのだ。毎日まじめに登校して勉強している生徒にちがいない。涼しく澄んだ眼で私のほうを、ちらと見たので、私は卑屈なあいそ笑いをして会釈えしゃくした。どうも、いかぬ。烏が二羽、船ばたにとまって、そうして一羽はやつれて翼の色艶いろつやも悪いと来ているんだから、その引立たぬ事おびただしい。私はみじめな思いで、その秀才らしい生徒からずっと離れた片隅に小さくなって坐って、そうしてなるべく、その生徒のほうを見ないように努めた。きっと東京者にちがいない。早口の江戸っ子弁でぺらぺら話しかけられてはたまらない。私は顔をきつくそむけて、もっぱら松島の風光をで楽しむような振りをしていたが、どうも、その秀才らしい生徒が気になって、芭蕉の所謂、「島々の数を尽してそばだつものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばう、あるは二重ふたえにかさなり三重みえにたたみて、左にわかれ、右につらなる。負えるあり、いだけるあり、児孫じそんを愛するが如し。松のみどりこまやかに、枝葉しよう汐風しおかぜに吹きたわめて、屈曲おのずからためたる如し。そのけしき※(「穴かんむり/目」、第3水準1-89-50)ようぜんとして美人のかんばせよそおう。ちはやぶる神の昔、大山おおやまつみのなせるわざにや。造化ぞうか天工てんこう、いずれの人か筆をふることばを尽さん、云々うんぬん。」の絶景も、はなはだ落ちつかぬ心地ここちで眺め、船が雄島の岸に着くやいなや誰よりも先に砂浜に飛び降り、逃げるが如くすたこら山の方へ歩いて行って、やっとひとりになってほっとした。寛政年間、東西遊記を上梓じょうしして著名な医師、橘南谿たちばななんけいの松島紀行にれば、「松島にあそぶ人は是非ともに舟行すべき事なり、また富山に登るべき事なり」とあるので、その頃すでに松島へ到るには汽車の便などもあったのに、わざわざ塩釜まで歩いて行って、そこから遊覧船に乗り込んでみたのであるが、私とそっくりの新しい制服制帽の、しかも私よりはるかに優秀らしい生徒が乗り合わせていたので、にわかに興がめて、洞庭どうてい西湖を恥じざる扶桑ふそう第一の好風も、何が何やら、ただ海と島と松と、それだけのものの如く思われて、甚だ残念、とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰ちょうかんし、舟行の失敗を埋合わせようと考え、山に向っていそいだものの、さて、富山というのはどこか、かいもく見当がつかぬ。ままよ、何でも、高い所へ登って松島湾全体を眺め渡す事が出来たらいいのだ、それで義理がすむのだ、といまは風流の気持も何も失い、野暮やぼな男の意地で秋草をきわけ、まるで出鱈目でたらめに細い山道を走るようにして登って行った。疲れて来ると立ちどまり振りかえって松島湾を見て、いやまだ足らぬ、これくらいの景色を、あの橘氏が「八百八島つらなれる風景画にかける西湖の図に甚だ似たり遥かに眼をめぐらせば東洋限りもなく誠に天下第一の絶景」などとめるわけはない、橘氏はもっと高いところから眺め渡したのに違いない、登ろう、とまた気を取りなおして、山の奥深くわけいるのであるが、そのうちに、どうやら道を踏み違えたらしく、鬱蒼うっそうたる木立の中に迷い込み、眺望どころでなくなって、あわてて遮二無二しゃにむに木立を通り抜け、見ると、私は山の裏側に出てしまったらしく、眼下の風景は、へんてつも無い田畑である。東北線を汽車が走って行くのが見える。私は、山を登りすぎたのである。まことにつまらない思いで、芝生の上に腰をおろし、空腹を感じて来たので、宿で作ってもらったおにぎりを食べ、ぐったりとなって、そのまま寝ころび、うとうと眠った。
 かすかに歌声が聞えて来る。耳をすますと、その頃の小学唱歌、雲の歌だ。
  またたひまには、山をおおい、
  うち見るひまにも、海を渡る、
  雲ちょうものこそ、すしくありけれ、
  雲よ、雲よ、
  雨とも霧とも、見るまに変りて、
  あやしく奇しきは、
  雲よ、雲よ、
 私は、ひとりで、噴き出した。調子はずれと言おうか、何と言おうか、実に何とも下手へたくそなのである。歌っているのは、子供でない。たしかに大人の、異様な胴間声どうまごえである。まことに驚くべき歌声であった。私も小学校の頃から唱歌は、どうも苦手で、どうやら満足に歌えるのは「君が代」一つくらいのものであったが、それでも、その驚くべき歌の主よりは、少し上手じょうずに歌えるのでなかろうかと思った。黙って聞いていると、その歌の主は、はばかるところ無くその雲の歌を何遍も何遍も繰りかえして歌うのである。あるいはあの歌の主は、かねがねあまりに自分が歌が下手なので、思いあまって、こんな人里はなれた山奥でひそかに歌の修行をしているのかも知れない、と思ったら、同様に歌の下手な私には、そぞろその歌の主がなつかしくなって来て、ひとめそのお姿を拝見したいという慾望が涌然ようぜんと起って来た。私は立ち上って、そのひどい歌声をたよりに山をめぐった。或いはすぐ近くに聞え、或いは急に遠くなり、けれども絶えずその唱歌の練習は続いて、ふいに、私は鉢合はちあわせするほど近く、その歌の主の面前に出てしまった。私もまごついたが、相手は、もっと狼狽ろうばいしたようであった。れいの秀才らしい生徒である。白皙はくせきの顔を真赤にして、あははと笑い、
「さきほどは、しつれい。」とてれかくしの挨拶あいさつを述べた。
 言葉に訛りがある。東京者ではない、と私はとっさのうちに断定した。たえず自分の田舎訛りに悩んでいる私はそれだけ他人の言葉の訛りにも敏感だった。ひょっとしたら、私の郷里の近くから来た生徒かも知れぬ、と私はいよいよこの歌の大天才に対して親狎しんこうの情をいだき、
「いや、僕こそ、しつれいしました。」とわざと田舎訛りを強くして言った。
 そこはうしろに松林のある小高い丘で、松島湾の見晴しも、悪くなかった。
「まあ、こんなところかな?」と私はその生徒と並んで立ったまま眼下の日本一の風景を眺め、「僕はどうも、景色にイムポテンツなのか、この松島のどこがいいのか、さっぱり見当がつかなくて、さっきからこの山をうろうろしていたのです。」
「僕にも、わかりません。」とその生徒は、いかにもたどたどしい東京言葉で、「しかし、だいたいわかるような気がします。この、しずかさ、いや、しずけさ、」と言いよどんで苦笑して、「Silentium,」と独逸ドイツ語で言い、「あまりに静かで、不安なので、唱歌を声高く歌ってみましたが、だめでした。」
 いや、あの歌だったら松島も動揺したでしょう、と言ってやろうと思ったが、それは遠慮した。
「静かすぎます。何か、もう一つ、ほしい。」とその生徒は、まじめに言い、「春は、どうでしょうか。海岸の、あのあたりに桜の木でもあって、花びらが波の上に散っているとか、または、雨。」
「なるほど、それだったらわかります。」なかなか面白い事を言うひとだ、と私はひそかに感心し、「どうも、この景色は老人むきですな。あんまり色気が無さすぎる。」調子に乗ってつまらぬ事を言った。
 その生徒は、あいまいな微笑を頬に浮かべて煙草に火をつけ、
「いや、これが日本の色気でしょう。何か、もう一つ欲しいと思わせて、沈黙。Sittsamkeit, 本当にいい芸術というのも、こんな感じのものかも知れませんね。しかし、僕には、まだよくわかりません。僕はただ、こんな静かな景色を日本三景の一つとして選んだ昔の日本の人に、驚歎しているのです。この景色には、少しも人間の匂いが無い。僕たちの国の者には、このさびしさはとても我慢できぬでしょう。」
「お国はどちらです。」私は余念なく尋ねた。
 相手は奇妙な笑い方をして、私の顔を黙って見ている。私は幾分まごつきながら、重ねて尋ねた。
「東北じゃありませんか。そうでしょう?」
 相手は急に不機嫌ふきげんな顔になって、
「僕は支那しなです。知らないはずはない。」
「ああ。」
 とっさのうちに了解した。ことし仙台医専に清国しんこく留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は聞いていたが、それでは、この人がそうなのだ。唱歌の下手くそなのも無理がない。言葉が妙に、苦しくて演説口調なのも無理がない。そうか。そうか。
「失礼しました。いや、本当に知らなかったのです。僕は東北の片田舎から出て来て、友達も無いし、どうも学校が面白くなくて、実は新学期の授業にもちょいちょい欠席している程で、学校の事に就いては、まだなんにも知らないのです。僕は、アインザームの烏なんです。」自分でも意外なほど、軽くすらすらと思っている事が言えた。
 あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちにさえ打ち解けず、人間ぎらいという程ではなくても、人みしりをするという点では決して人後に落ちない私が、京、大阪どころか、海のかなたの遠い異国からやって来た留学生と、何のこだわりも無く親しく交際をはじめる事が出来たのは、それは勿論、あの周さんの大きい人格のしからしめたところであろうが、他にもう一つ、周さんと話をしている時だけは、私は自分の田舎者の憂鬱から完全に解放されるというまことに卑近な原因もあったようである。事実、私は周さんと話している時には、自分の言葉の田舎訛りが少しも苦にならず、自分でも不思議なくらい気軽に洒落しゃれや冗談を飛ばす事が出来た。私がひそかに図に乗り、まわらぬ舌にむち打って、江戸っ子のべらんめえ口調を使ってみても、その相手が日本人ならば、あいつ田舎者のくせに奇怪な巻舌を使っていやがるとかつはあきれ、かつは大笑いするところでもあったろうが、この異国の友は流石さすがにそこまでは気附かぬ様子で、かつて一度も私の言葉を嘲笑ちょうしょうした事が無かったばかりか、私のほうから周さんに、「僕の言葉、何だか、へんじゃないですか。」と尋ねてみた事さえあったが、その時、周さんは、きょとんとした顔をして、「いや、あなたの言葉の抑揚は、強くてたいへんわかりやすい。」と答えたほどであった。これを要するに、何の事は無い、私より以上に東京言葉を使うのに苦労している人を見つけて私が大いに気をよくしたという事が、私と周さんとの親交の端緒になったと言ってよいかも知れないのである。可笑おかしな言い方であるが、私には、この清国留学生よりは、たしかに日本語がうまいという自信があったのである。それで私は、その松島の丘の上でも、相手が支那の人と知ってからは、大いに勇気を得てすこぶる気楽に語り、かれが独逸語ならばこちらも、という意気込みで、アインザームの烏などという、ぞっとするほどキザな事まで口走ったのであるが、かの留学生には、その孤独アインザームという言葉がかなり気に入った様子で、

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