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惜別(せきべつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-20 9:16:09  点击:  切换到繁體中文


「難破して、自分の身が怒濤どとうに巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁。やれ、うれしや、と助けを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼い女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中だったのですね。ああ、いけない、と男は一瞬戸惑った。遠慮しちゃったのですね。たちまち、どぶんと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一みにして、沖遠くらっし去った、とまあ、こんな話があるとしますね。遭難者は、もはや助かる筈はない。怒濤にもまれて、ひょっとしたら吹雪ふぶきの夜だったかもしれないし、ひとりで、誰にも知られず死んだのです。もちろん、燈台守は何も知らずに、一家団欒だんらんの食事を続けていたに違いないし、もし吹雪の夜だとしたら、月も星も、それを見ていなかったわけです。結局、誰も知らない。事実は小説よりも奇なり、なんて言う人もあるようですが、誰も知らない事実だって、この世の中にあるのです。しかも、そのような、誰にも目撃せられていない人生の片隅に於いて行われている事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのです。それを天賦てんぷの不思議な触角で捜し出すのが文芸です。文芸の創造は、だから、世の中に表彰せられている事実よりも、さらに真実に近いのです。文芸が無ければ、この世の中は、すきまだらけです。文芸は、その不公平な空洞を、水が低きに流れるように自然に充溢じゅういつさせて行くのです。」
 そんな話を聞かせてもらうと、私のような野暮やぼな山猿にも、なるほど、そんなものか、やはりこの世の中には、文芸というものが無ければ、油の注入の少い車輪のように、どんなに始めは勢いよく廻転しても、すぐにきしって破滅してしまうものかも知れない、と合点が行くものの、しかし、また一方、あんなに熱心に周さんの医学の勉強を指導して下さっている藤野先生の事を思うと、悲しくなって、深い溜息ためいきの出る事もあるのである。その頃も、藤野先生は何もご存じ無く、相変らず周さんのノオトに、一週間に一度ずつ、たんねんに朱筆を入れて下さっていたのだ。それでも、さすがに、教えるひとは弟子でしに敏感なところもあって、周さんがこのごろ医学の研究に対して次第に無気力になって来たのを、何かのかんで察知なさるらしく、周さんをしばしば研究室に呼んで、何やらおこごとをおっしゃっている様子で、また、私も、その後二、三度、研究室出頭を命ぜられ、
「周君は、このごろ元気が無いようだが、何か思い当る事は無いか。」
「クラスの中で、周君に意地悪をする者はいないか。」
「研究の Thema にいて、周君と相談したか。」
「解剖実習を、未だ内心いやがっているのではないか。日本の病人たちは、それが医学に役立つならば、死後の Leichnam の解剖など、かえって自分から希望しているくらいのものだ、という事をよく言い聞かせてやったか。」
 など、うるさいくらいに質問の矢を浴びなければならなかったのである。そうして私は、それに対して、いつもいい加減な受けこたえばかりしていた。周さんの医学救国の信念がぐらついて、そうして、日本の維新も、さらによく調べてみたら、それは一群の思想家の著述によって口火を切られたものだという事がわかって、しかし、周さんにはいまのところ、むつかしい思想の著述はおぼつかないので、まず民衆に対する初歩教育のつもりで文芸に着目し、ただいま世界各国の文芸を研究しています、なんて、そんな、先生にとっては全く寝耳に水のような実状を打明けたら、先生は、どんなに驚愕きょうがくし、またさびしいお気持になられるかと思えば、愚直の私も、さすがに言葉をにごさざるを得なかったのである。それでも私は、いちどだけ、周さんに先生の御心配をそれとなく伝言してみた事がある。
「こんど藤野先生から、研究のテエマをもらって、一緒にやってみませんか。纏足てんそくの骨形状など、面白いんじゃないでしょうか。」
 周さんは、かすかに笑って、首を振った。すでに、一さいを察しているようであった。その頃の周さんは、あの夏休み直後の、ひやりとするくらいの、へんに底意地の悪いような表情はしなくなっていたが、それでも、何か私たちと隔絶された世界に住んでいる人みたいに、たいていはただあいまいに微笑して、それに就いてまた、あの苦労性の津田氏など気をもんで、
「あいつ、どうかしているんじゃないか。下宿でも、つまらない小説本ばかり読んで、学校の勉強は、ちっともしていないんだぜ。あいつも、いよいよ革命の党員になったか、いや、それとも、失恋かな? とにかく、あんな工合じゃ、いけない。こんどは、落第するかも知れない。あいつは清国しんこく政府から選ばれて、日本に派遣はけんされて来た秀才だ。日本は、あいつに立派な学問を教え込んでやって帰国させなければ、清国政府に対して面目が無い。僕たち友人の責任も、だから、重大なんだよ。あいつは、どうもこのごろ僕を馬鹿にしているらしくて、僕がさまざまの忠告を試みても、ただ黙ってにやにや笑っている。薄気味が悪くなった。お前の言う事なら、きくかも知れない。いつか、思い切ってこっぴどくやっつけてやったら、どうだい。眼を覚ませ! と言って鉄拳てっけんでも加えてやると、心を改めて勉強するようになるかも知れない。」
 私は、この手記の二、三箇所において、津田氏を嘲笑するような筆致をろうした事を、いまは後悔している。よく考えてみると、周さんを最も愛していたのは、この津田氏ではなかったかしら、というような気さえして来る。いよいよ周さんと別れなければならなくなって、そのささやかな内輪の送別会を私の下宿でひらいて、出席者の酒飲み大工とその十歳の娘、津田、矢島の両幹事、私、それから主賓の周さん、みんな立って、今思えば噴き出したくなるくらいの、声楽の大天才揃いの珍妙きわまる合唱を行い、
  仰げば尊し わが師の恩
  教えの庭にも はやいくとせ
  思えば いととし この年月
  今こそわかれめ いざさらば
  互いにむつみし 日頃の恩
  わかるるのちにも やよ忘るな
 など歌っているうちに、まっさきにくるりとうしろを向いて泣いてしまったのは、この津田氏であった。口では何のかのと威勢のいい事を言っていながら、やっぱり、周さんと別れるのが、誰よりもさびしかったのだろう。私は津田氏と附合って、こんない半面を見るにつれて、以前ほど都会人というものを、おそろしくも、また、いやでもなくなった。また、あの田舎いなかダンディと誤解せられていた矢島君も、その後、附合ってみると、ただ、ひどくまじめな人で、いつか周さんが仙台の人に就いて批評していたように、「東北の雄藩の責任を感じて、かたくなっている」だけなのである。「仙台の面目」とでもいうようなものに、こだわりすぎて、それで初対面の挨拶が固苦しく、尊大にさえ見えるのであるが、こっちのほうから遠慮なく突込んで行くと、急にはにかんで、なかなか親切な、気前のいいとこを見せてくれる。心の弱いのをかくそうとして、あんな尊大の挨拶をするのではなかろうか、と思われる。周さんに対して、あんなまずい手紙を突きつけたのも、決して支那のひとが劣等だからという侮辱の意味ではなくて、かえって、支那の秀才に対する畏敬いけいの気持も含まれていたのではなかろうかとさえ思われる。敬愛の念が、ぎくしゃくと奇妙に倒錯とうさくして、ついに、仙台あなどるべからず、とでもいうような「張り合う」気持などが出て来て、あんなまずい手紙を書いてしまったのではあるまいか。真面目な人が、へんに思いつめた揚句あげくで書くと、あんな工合に書体も奇怪な金釘流かなくぎりゅうになり易いものだし、また文章も、下手くそを極めるもののようである。要するに、まじめな人なのである。その頃、周さんが次第に学校の勉強に熱意を失いかけているのを見てとり、或いは自分があんな馬鹿な手紙を差し上げた事も、その周さんの不勉強の原因の一つになっているのではあるまいか、と非常に気にしているらしく、周さんに独逸ドイツ語の大辞典を贈呈したり、宿題をひき受けてやったり、また、学校で講義を聴く時には、いつも周さんの隣りに座席をとって、何かと世話を焼いている様子であったが、しかし、周さんは、藤野先生をはじめ、そのような皆の懸命の努力にもかかわらず、やはり、まもなく私たちから去って行った。
 あれは、たしか二学年の終りの頃の事であったと思う。雪も消えて、つつじヶ岡おか枝垂桜しだれざくらも咲きはじめ、また校庭の山桜も、ねばっこい褐色かっしょく稚葉わかばと共に重厚な花をひらいて、私たちはそろそろ学年末の試験準備に着手していた頃であった。あの、所謂「幻燈事件」が起り、周さんのなつかしい姿が、忽然こつぜんと、私たちの周囲から消えた。前にも言ったように、周さんは、あの幻燈の画面を見て、にわかに医学から文芸へ転換したのではなく、その方針の変化は、ずいぶん前から徐々に行われていたのは事実であるが、しかし、あの「幻燈事件」は、少くともその総決算の口実の役目を勤めたという事は認めざるを得ないのである。謂わば、周さんの仙台引上げの踏切台にはなったのである。二学年になったら、黴菌ばいきん学という学課も加わって、細菌の形状を教えるのに、教室で講師が幻燈を映し、いろいろその形状の特徴など説明して下さったものだが、課業が一段落ついても、なお時間が余っている際には、風景や時事の画片を映して私たちを楽しませてくれた。華厳けごんたきや、吉野山など、ことにも色彩が見事で、いまでもあざやかに記憶に残っているが、時事の画片としては、やはり、旅順港封鎖、水師営すいしえい会見、奉天ほうてん入城など、日露戦争の画面が圧倒的に多かった。そうして、私たち学生は、そのような勇ましい画面が出ると、皆大よろこびで拍手喝采かっさいしたものだ。その学年末の或る日の、黴菌学の時間にも、れいに依って、二〇三高地の激戦とか、三笠艦とかの画面が出て、私たちは大騒ぎで拍手し、そのうちにかたりと画面が変って、ひとりの支那人が、露西亜ロシアの軍事探偵を働いた罪に依って処刑せられる景があらわれた。講師の説明を聞いて、私たちは、またもさかんな拍手を送った。その時、暗い教室の、横のドアをそっとあけて廊下に忍び出た学生の姿を私は認めた。はっと思った。周さんだ。私には何か、周さんの気持が、わかるように思われた。ほって置かれないような気がして、私もつづいてそっと教室から出た。周さんの姿は、既に廊下には見当らなかった。授業中の校舎全体、しんとしている。私は廊下の窓から、校庭のほうをながめ、周さんの姿を見つけた。周さんは、校庭の山桜の樹の下に、仰向あおむけに寝そべっている。私も校庭に出て、周さんの傍へ近寄って行って見ると、周さんは眼をつぶって、意外にもかすかに笑っている。
「周さん。」と小声で呼んだら、周さんはむっくり上半身を起して、
「きっと、あなたが、ついて来ると思っていました。心配する事は無いんです。あの幻燈のおかげで、やっと僕にも決心がつきました。僕は久し振りで、わが同胞におめにかかって、思いをあらたにしました。僕は、すぐ帰国します。あれを見たら、じっとして居られなくなりました。僕の国の民衆は、相変らず、あんなだらしない有様でいるんですねえ。友邦の日本が国を挙げて勇敢ゆうかんに闘っているのに、その敵国の軍事探偵になる奴の気も知れないが、まあ、大方お金で買収されたんでしょうけれど、僕には、あの裏切者よりも、あのまわりに集ってぼんやりそれを見物している民衆の愚かしい顔が、さらに、たまらなかったのです。あれが現在の支那の民衆の表情です。やっぱり精神の問題だ。いまの支那にとって大事なのは、身体の強健なんかじゃない。あの見物人たちは、みんないいからだをしていたじゃありませんか。医学は、いま彼等に決して緊要きんような事ではないという確信を深めましたよ。精神の革新です。国民性の改善です。いまのままでは、支那は永遠に真の独立国家としての栄誉を、確立する事が出来ない。打清興漢であろうと、立憲であろうとも、ただ政治の看板を換えただけで、品物の生地が元のままでは、仕方がないじゃありませんか。僕は、しばらくあの茫然ぼうぜんたる表情の民衆から離れて暮していたので、自分の心の焦点がきまらないで、それであれこれ迷っていたのですね、おかげで、きょうは焦点がきまった。あれを見て、いい事をしました。僕はすぐ医学をやめて帰国します。」
 私も、もはやそれを制止すべきではないと思った。しかし、
「藤野先生が。」とつい一言、口からすべり出た。
「ああ、」と周さんは、うつむいて、「それですよ。あの先生の親切を裏切るのが、せつなくて、それできょうまで僕はこの学校に愚図愚図していたと言ってもよいのです。しかし、」と顔を上げて、「もう、しかし、やむにやまれないのです。あの同胞の表情を見た以上は、もう左顧さこ右眄うべんもして居られません。日本の忠義の一元論も、こんなものではないかしら。そうだ。僕は、やっとあの哲学が体得できました。帰国して、僕はまずあの民衆の精神の改革のため、文芸運動を起します。僕の生涯は、そのためにささげてしまうのです。とにかく一旦いったん、帰国し、故郷の弟とも相談して一緒に文芸雑誌を出して、そう、その雑誌の名前も、きょう、いま、はっきりきまりました。」
「どんな名前ですか?」
「新生。」
 と一言、答えて微笑した。その笑いには、周さん自ら称していたあの「奴隷の微笑」の如き卑屈の影は、みじんも見受けられなかった。


 老医師の手記は、以上で終っているが、自分(太宰)は、さらに次の数行を附加して、この手記の読者の参考に供したい。
 全世界に誇るべき東洋の文豪、魯迅先生の逝去せいきょせられたのは、昭和十一年の秋であるが、それに先立つこと約十年、先生四十六歳の昭和元年に、「藤野先生」という小品文を発表せられた。その一部を抜萃ばっすいすれば、

(松枝茂夫氏の訳に拠る)
「(前略)第二学年の終りになって、僕は藤野先生を訪ねて、もう医学の勉強はやめようと思うこと、そしてこの仙台を去るつもりでいることを、先生に告げた。先生の顔には深い悲哀の色が浮び、何か言いたげな御様子であったが、とうとう言い出されなかった。
『僕は生物学を学ぼうと思います。先生が僕に教えて下さった学問は、やはりそれにも役立つかと思います。』だが実は、僕は生物学を学ぼうと決心していたわけではなかった。先生がひどく悽然せいぜんとした様子をしていらっしゃるのを見たため、先生を慰めるつもりで心にもないうそをついたのである。
『医学のために教えた解剖学の類は、おそらく生物学には大して役にも立つまい。』と先生は、歎息しておっしゃった。
 立つ四五日前に、先生は僕をご自分のお宅に呼んで、そうして僕に先生のお写真を一枚下さった。その写真の裏には『惜別』と二字書かれてあった。そして僕の写真もれるようにと希望された。だが僕はその時あいにく写真をっていなかった。先生は将来、撮って送ってくれるように、そして折々たよりをしてその後の様子を知らせるようにとお頼みになった。
 僕は仙台を去った後、多年写真を撮ったことがなかった。それに、その後の僕の様子も面白くなく、お知らせすれば先生を失望させるばかりであると思うと、手紙さえ書けなかったのである。年月が余計に経過するにしたがい、いよいよ何からお話してよいやらまどうばかりで、たまにお便りを差上げようと思って、筆をっても、一字もしたためる事が出来なかった。かくてそれっきり今日まで、ついに一本の手紙も一枚の写真も送らずに過して来てしまったのである。先生の側からいえば、僕は去ったが最後、ようとして音沙汰おとさたなしというところであろう。
 だが、何故なぜだか知らぬが、僕は二十年後の今でも、折にふれて先生を思い出す。僕がわが師と仰いでいる人の中で、先生こそは最も僕を感激せしめ、僕を鼓舞激励して下さった一人であった。時々、僕はこう考える。先生の僕に対する熱心なる希望と、まざる教晦きょうかいとは、小にしてこれを言えば、これ中国のためであり、即ち中国に新しい医学の起らん事を希望せられたのであり、大にして之を言えば、これ学術のためであり、即ち新しき医学を中国に伝えようと希望されたのである。先生の人格は、僕の眼中に於いて、また心裡しんりに於いて、偉大である。先生の姓名を知る人は極めて少いであろうが。
 先生が訂正して下さったノオトを、僕は三冊の厚い本に装幀そうていして、永久の記念にするつもりで、大事にしまって置いた。不幸にして七年前、遷居せんきょの際に、途中で一つの本箱をわし、その半数の書籍を紛失したが、ちょうどこのノオトも、その時に共に紛失してしまったのである。運送店に捜すよう詰責きっせきしたが、絶えて返事が無かった。ただ、先生のお写真のみは今なお僕の北京ペキン寓居ぐうきょの東側の壁に、書卓のほうに向けて掛けてある。夜間、んじ疲れて、懈怠けだいの心が起ろうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒いせたお顔を瞥見べっけんすると、いまにも、あの抑揚頓挫とんざのある言葉で話しかけようとしていらっしゃるかの如くに思われる。とたちまち、それが、僕の良心を振いおこさせ、そして勇気を倍加させてくれる。そこで僕は一本の煙草に火を点じて、再び、所謂『正人君子』の輩に、深く憎悪されるところの文章を書きつづけるのである。」


 後に日本に於いて、魯迅先生の選集の出版せられるに当り、日本の選者は先生に向って、どの作品を選んだらよいかと問い合せたところが、先生は、それは君たちの一存で自由に選んでよろしい、しかし「藤野先生」だけは必ずその選集にいれてもらいたい、と言われたという。
[#改頁]


     あとがき


 この「惜別」は、内閣情報局と文学報国会との依嘱いしょくで書きすすめた小説には違いないけれども、しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って、その材料を集め、その構想を久しく案じていた小説である。材料を集めるに当って、何かと親しく相談に乗って下さった方は、私の先輩に当る小説家、小田嶽夫たけお氏である。小田氏と支那しな文学の関係にいては、知らぬ人もあるまい。この小田氏の賛成と援助が無かったら、不精ぶしょうの私には、とてもこのような骨の折れる小説に取りかかる決意がつかなかったのではあるまいかとさえ思われるほどである。小田氏にも、「魯迅伝」という春の花のように甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これはまた秋のしもの如くきびしい名著「魯迅」が、全く思いがけなく私に恵送けいそうせられて来たのである。私は竹内氏とは、未だ一度もった事が無い。しかし、竹内氏が時たま雑誌に発表せられる支那文学に就いての論文を拝読し、これはよい、などと生意気にも同氏にひそかに見込を附けていたのである。いつか小田氏にお願いして、竹内氏に紹介してもらおうかとさえ思っていたのであるが、そのうちに竹内氏は出征なされたとか。それで、この竹内氏のご苦心の名著も、竹内氏のお留守の間に出版せられ、そうして、竹内氏が出征の際に、あの本が出来たら、太宰にも一部送ってやれ、とでも言い残して行かれたのであろうか、出版元から「著者の言いつけにり貴下に一部贈呈する」という意味の送状が附け加えられていた。これだけでも既に不思議な恩寵おんちょうなのに、さらにまた、その本のばつに、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手へたな小説を好んで読まれていたらしい意外の事実が記されてあって、私は狼狽ろうばいし赤面し、かつはこの奇縁に感奮し、少年の如く大いに勢いづいてこの仕事をはじめたというわけである。
 しかし、出来栄えはごらんの通りで、小田氏のかずかずの御助力にも、また竹内氏の遠方からの御支持にも、果してお報いできるかどうか、はなは心許こころもとない次第である。
 また、この仕事に取りかかるに当って、仙台医専の歴史調査のため、東京帝大の大野博士、東北帝大の広浜、加藤両博士から、それぞれ紹介状をいただき、また仙台河北新報社の好意で、仙台市の歴史を知るために同社秘蔵の貴重な資料は片端から読破できた事は、私のこの仕事に、どんなに役立ったかわからない、私のような、ほとんど無名の作家に、このような便宜が得られたのは、もちろん内閣情報局と文学報国会の力に依る事と思うが、また、見るからにむさくるしい一介の貧書生に、こころよく紹介状をしたためてくれ、また、門外不出の大事な資料を自由に閲覧させて下さった皆さんの御好志のほどは忘れ難い。
 なお、最後に、どうしても附け加えさせていただきたいのは、この仕事はあくまでも太宰という日本の一作家の責任に於いて、自由に書きしたためられたもので、情報局も報国会も、私の執筆を拘束こうそくするようなややこしい注意など一言もおっしゃらなかったという一事である。しかも、私がこれを書き上げて、お役所に提出して、それがそのまま、一字半句の訂正も無く通過した。朝野一心、とでも言うべきであろうか、これは、私だけの幸福ではあるまい。





底本:「太宰治全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年3月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年6月20日公開
2005年11月1日修正
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