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道化の華(どうけのはな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-22 8:58:22  点击:  切换到繁體中文



 翌る朝は、なごやかに晴れてゐた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼつてゐた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
 い號室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であつた。附添ひの看護婦と、おはやうを言ひ交し、すぐ朝の體温を計つた。六度四分あつた。それから、食前の日光浴をしにヴエランダへ出た。看護婦にそつと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に號室のヴエランダを盜み見してゐたのである。きのふの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て籐椅子に坐り、海を眺めてゐた。まぶしさうにふとい眉をひそめてゐた。そんなによい顏とも思へなかつた。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いてゐた。日光浴用の寢臺に横はつて、薄目あけつつそれだけを觀察してから、看護婦に本を持つて來させた。ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイ夫人。ふだんはこの本を退屈がつて、五六頁も讀むと投げ出してしまつたものであるが、けふは本氣に讀みたかつた。いま、これを讀むのは、いかにもふさはしげであると思つた。ぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから讀み始めた。よい一行を拾つた。「エンマは、炬火たいまつの光で、眞夜中に嫁入りしたいと思つた。」
 ろ號室の患者も、眼覺めてゐた。日光浴をしにヴエランダへ出て、ふと葉藏のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かつた。すぐベツドへもぐり込んでしまつたのである。附添ひの母親は、笑ひながら毛布をかけてやつた。ろ號室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話聲に耳傾けた。
「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑ひ聲が。
 飛騨と小菅が泊つてゐたのである。その隣りの空いてゐた病室のひとつベツドにふたりで寢た。小菅がさきに眼を覺まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴエランダへ出た。葉藏のすこし氣取つたポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを搜しに、くるつと左へ首をねぢむけた。いちばん端のヴエランダでわかい女が本を讀んでゐた。女の寢臺の背景は、苔のある濡れた石垣であつた。小菅は、西洋ふうに肩をきゆつとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠つてゐる飛騨をゆり起した。
「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちやんの大ポオズ。」
 彼等の會話には、「大」といふ形容詞がしばしば用ゐられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる對象が欲しいからでもあらう。
 飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」
 小菅は笑ひながら教へた。
「少女がゐるんだ。葉ちやんが、それへ得意の横顏を見せてゐるのさ。」
 飛騨もはしやぎだした。兩方の眉をおほげさにぐつと上へはねあげて尋ねた。「美人か?」
「美人らしいよ。本の嘘讀みをしてゐる。」
 飛騨は噴きだした。ベツドに腰かけたまま、ジヤケツを着、ズボンをはいてから、叫んだ。
「よし、とつちめてやらう。」とつちめるつもりはないのである。これはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさへ平氣で吐く。その場の調子にまかせるのである。「大庭のやつ、世界ぢゆうの女をみんな欲しがつてゐるんだ。」
 すこし經つて、葉藏の病室から大勢の笑ひ聲がどつとおこり、その病棟の全部にひびき渡つた。い號室の患者は、本をぱちんと閉ぢて、葉藏のヴエランダの方をいぶかしげに眺めた。ヴエランダには朝日を受けて光つてゐる白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もゐなかつた。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ號室の患者は、笑ひ聲を聞いて、ふつと毛布から顏を出し、枕元に立つてゐる母親とおだやかな微笑を交した。へ號室の大學生は、笑ひ聲で眼を覺ました。大學生には、附添ひのひともなかつたし、下宿屋ずまひのやうな、のんきな暮しをしてゐるのであつた。笑ひ聲はきのふの新患者の室からなのだと氣づいて、その蒼黒い顏をあからめた。笑ひ聲を不謹愼とも思はなかつた。恢復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉藏の元氣のよいらしいのに安心したのである。
僕は三流作家でないだらうか。どうやら、うつとりしすぎたやうである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、たうとうこんなにやにさがつた。いや、待ち給へ。こんな失敗もあらうかと、まへもつて用意してゐた言葉がある。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。つまり僕の、こんなにうつとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ惡魔的でないからである。ああ、この言葉を考へ出した男にさいはひあれ。なんといふ重寶な言葉であらう。けれども作家は、一生涯のうちにたつたいちどしかこの言葉を使はれぬ。どうもさうらしい。いちどは、愛嬌である。もし君が、二度三度とくりかへして、この言葉を楯にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。

「失敗したよ。」
 ベツドの傍のソフアに飛騨と並んで坐つてゐた小菅は、さう言ひむすんで、飛騨の顏と、葉藏の顏と、それから、ドアに倚りかかつて立つてゐる眞野の顏とを、順々に見まはし、みんな笑つてゐるのを見とどけてから、滿足げに飛騨のまるい右肩へぐつたり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑ふ。なんでもないことにでも大聲たてて笑ひこける。笑顏をつくることは、青年たちにとつて、息を吐き出すのと同じくらゐ容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであらう。笑はなければ損をする。笑ふべきどんな些細な對象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなからうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑へない。笑ひくづれながらも、おのれの姿勢を氣にしてゐる。彼等はまた、よくひとを笑はす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑はせたがるのだ。それはいづれ例の虚無の心から發してゐるのであらうが、しかし、そのもういちまい底になにか思ひつめた氣がまへを推察できないだらうか。犧牲の魂。いくぶんなげやりであつて、これぞといふ目的をも持たぬ犧牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかつてさへ美談と言ひ得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆゑである。これらは僕の獨斷である。しかも書齋のなかの摸索でない。みんな僕自身の肉體から聞いた思念ではある。
 葉藏は、まだ笑つてゐる。ベツドに腰かけて兩脚をぶらぶら動かし、頬のガアゼを氣にしいしい笑つてゐた。小菅の話がそんなにをかしかつたのであらうか。彼等がどのやうな物語にうち興ずるかの一例として、ここへ數行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの或る名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがつた。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡すれちがつただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を與へてやらなければ氣がすまぬのである。別にどうしようといふあてもないのだが、そのすれちがつた瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本氣になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる經緯を瞬間のうちに考へめぐらし、胸のはりさける思ひをする。彼等は、そのやうな息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは經驗する。だから彼等は油斷をしない。ひとりでゐるときにでも、おのれの姿勢を飾つてゐる。小菅が、深夜、厠へ行つたそのときでさへ、おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たといふ。小菅がそのわかい女とすれちがつたあとで、しみじみ、よかつたと思つた。外套を着て出てよかつたと思つた。ほつと溜息ついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を覗いてみたら、失敗であつた。外套のしたから、うす汚い股引をつけた兩脚がによつきと出てゐる。
「いやはや、」さすがに輕く笑ひながら言ふのであつた。「股引はねぢくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えてゐるのさ。顏は寢ぶくれにふくれて。」
 葉藏は、内心そんなに笑つてもゐないのである。小菅のつくりばなしのやうにも思はれた。それでも大聲で笑つてやつた。友がきのふに變つて、葉藏へ打ち解けようと努めて呉れる、その氣ごころに對する返禮のつもりもあつて、ことさらに笑ひこけてやつたのである。葉藏が笑つたので、飛騨も眞野も、ここぞと笑つた。
 飛騨は安心してしまつた。もうなんでも言へると思つた。まだまだ、と抑へたりした。ぐづぐづしてゐたのである。
 調子に乘つた小菅が、かへつて易々と言つてのけた。
「僕たちは、女ぢや失敗するよ。葉ちやんだつてさうぢやないか。」
 葉藏は、まだ笑ひながら、首を傾けた。
「さうかなあ。」
「さうさ。死ぬてはないよ。」
「失敗かなあ。」
 飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであらうと、この年少の友をぎゆつと抱いてやりたい衝動を感じた。
 飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃りつつ言ひだした。
「失敗かどうかは、ひとくちに言へないと思ふよ。だいいち原因が判らん。」まづいなあ、と思つた。
 すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判つてる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思ふよ。飛騨はこいつ、もつたいぶつてね、他にある、なんて言ふんだ。」間髮をいれず飛騨は應じた。「それもあるだらうが、それだけぢやないよ。つまり惚れてゐたのさ。いやな女と死ぬ筈がない。」
 葉藏になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言つたのであるが、それはかへつておのれの耳にさへ無邪氣にひびいた。大出來だ、とひそかにほつとした。
 葉藏は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。惡徳の巣。疲勞。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶつた。言つてしまはうかと思つた。わざとしよげかへつて呟いた。
「ほんたうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のやうな氣がして。」
「判る。判る。」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がゐないよ。氣をきかせたのかしら。」
 僕はまへにも言ひかけて置いたが、彼等の議論は、お互ひの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのふるためになされる。なにひとつ眞實を言はぬ。けれども、しばらく聞いてゐるうちには、思はぬ拾ひものをすることがある。彼等の氣取つた言葉のなかに、ときどきびつくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんたうらしいものをふくんでゐるのだ。葉藏はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうつかり吐いてしまつた本音ではなからうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或ひは、自尊心だけ、と言つてよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのやうな微風にでもふるへをののく。侮辱を受けたと思ひこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉藏がおのれの自殺の原因をたづねられて當惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。

 その日のひるすぎ、葉藏の兄が青松園についた。兄は、葉藏に似てないで、立派にふとつてゐた。袴をはいてゐた。
 院長に案内され、葉藏の病室のまへまで來たとき、部屋のなかの陽氣な笑ひ聲を聞いた。兄は知らぬふりをしてゐた。
「ここですか?」
「ええ。もう御元氣です。」院長は、さう答へながらドアを開けた。
 小菅がおどろいて、ベツドから飛びおりた。葉藏のかはりに寢てゐたのである。葉藏と飛騨とは、ソフアに並んで腰かけて、トランプをしてゐたのであつたが、ふたりともいそいで立ちあがつた。眞野は、ベツドの枕元の椅子に坐つて編物をしてゐたが、これも、間がわるさうにもぢもぢと編物の道具をしまひかけた。
「お友だちが來て下さいましたので、賑やかです。」院長はふりかへつて兄へさう囁きつつ、葉藏の傍へあゆみ寄つた。「もう、いいですね。」
「ええ。」さう答へて、葉藏は急にみじめな思ひをした。
 院長の眼は、眼鏡の奧で笑つてゐた。
「どうです。サナトリアム生活でもしませんか。」
 葉藏は、はじめて罪人のひけ目を覺えたのである。ただ微笑をもつて答へた。
 兄はそのあひだに、几帳面らしく眞野と飛騨へ、お世話になりました、と言つてお辭儀をして、それから小菅へ眞面目な顏で尋ねた。「ゆうべは、ここへ泊つたつて?」
「さう。」小菅は頭を掻き掻き言つた。「となりの病室があいてゐましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらひました。」
「ぢや今夜から私の旅籠はたごへ來給へ。江の島に旅籠をとつてゐます。飛騨さん、あなたも。」
「はあ。」飛騨はかたくなつてゐた。手にしてゐる三枚のトランプを持てあましながら返事した。
 兄は、なんでもなささうにして葉藏のはうを向いた。
「葉藏、もういいか。」
「うん。」ことさらに、にがり切つて見せながらうなづいた。
 兄は、にはかに饒舌になつた。
「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ませうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただかうと思つて。すぐ、出掛けませう。自動車を待たせてあるのです。よいお天氣だ。」
 僕は後悔してゐる。二人のおとなを登場させたばかりに、すつかり滅茶滅茶である。葉藏と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかつてせつかくよい工合ひにもりあげた、いつぷう變つた雰圍氣も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰圍氣のロマンスにしたかつたのである。はじめの數頁でぐるぐる渦を卷いた雰圍氣をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つてゐたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて來た。しかし、土崩瓦解である。
 許して呉れ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いてゐるうちに、その、雰圍氣のロマンスなぞといふことが氣はづかしくなつて來て、僕がわざとぶちこはしたまでのことなのである。もしほんたうに土崩瓦解に成功してゐるのなら、それはかへつて僕の思ふ壺だ。惡趣味。いまになつて僕の心をくるしめてゐるのはこの一言である。ひとをわけもなく威壓しようとするしつつこい好みをさう呼ぶのなら、或ひは僕のこんな態度も惡趣味であらう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかつたのだ。しかし、それは、はかない努力であらう。あ! 作家はみんなかういふものであらうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなからうか。ほんたうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。かう書きつつも僕は僕の文章を氣にしてゐる。
 なにもかもさらけ出す。ほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描寫の間に、僕といふ男の顏を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあつてのことなのだ。僕は、それを讀者に氣づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れてゐた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつた。いや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな氣がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言ふことをひとことも信ずるな。
 僕はなぜ小説を書くのだらう。新進作家としての榮光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居氣を拔きにして答へろ。どつちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いてゐる。このやうな嘘には、ひとはうつかりひつかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだらう。困つたことを言ひだしたものだ。仕方がない。思はせぶりみたいでいやではあるが、假に一言こたへて置かう。「復讐。」
 つぎの描寫へうつらう。僕は市場の藝術家である。藝術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニユアンスをもたらして呉れたら、それはもつけのさいはひだ。

 葉藏と眞野とがあとに殘された。葉藏は、ベツドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考へごとをしてゐた。眞野はソフアに坐つて、トランプを片づけてゐた。トランプの札を紫の紙箱にをさめてから、言つた。
「お兄さまでございますね。」
「ああ、」たかい天井の白壁を見つめながら答へた。「似てゐるかな。」
 作家がその描寫の對象に愛情を失ふと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言ふまい。なかなか乙な文章だよ。
「ええ。鼻が。」
 葉藏は、聲をたてて笑つた。葉藏のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かつたのである。
「おいくつでいらつしやいます。」眞野も少し笑つて、さう尋ねた。
「兄貴か?」眞野のはうへ顏をむけた。「若いのだよ。三十四さ。おほきく構へて、いい氣になつてゐやがる。」
 眞野は、ふつと葉藏の顏を見あげた。眉をひそめて話してゐるのだ。あわてて眼を伏せた。
「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺が。」
 言ひかけて口を噤んだ。葉藏はおとなしくしてゐる。僕の身代りになつて、妥協してゐるのである。
 眞野は立ちあがつて、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行つた。もとのやうに、また葉藏の枕元の椅子に坐り、編物をはじめながら、眞野もまた考へてゐた。思想でもない、戀愛でもない、それより一歩てまへの原因を考へてゐた。
 僕はもう何も言ふまい。言へば言ふほど、僕はなんにも言つてゐない。ほんたうに大切なことがらには、僕はまだちつとも觸れてゐないやうな氣がする。それは當前であらう。たくさんのことを言ひ落してゐる。それも當前であらう。作家にはその作品の價値がわからぬといふのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の效果を期待した僕は馬鹿であつた。ことにその效果を口に出してなど言ふべきでなかつた。口に出して言つたとたんに、また別のまるつきり違つた效果が生れる。その效果を凡そかうであらうと推察したとたんに、また新しい效果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりゐなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出來榮か、僕はそれをさへ知らうと思ふまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思ひも及ばぬたいへんな價値を生むことであらう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉體からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい氣にもなるのであらう。はつきり言へば、僕は自信をうしなつてゐる。

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