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踊る地平線(おどるちへいせん)07血と砂の接吻

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 6:53:24  点击:  切换到繁體中文


     6

 その眼前に揶揄係ヴェロニカの紅いきれがなびく。
 興奮エキサイトした牛は、まずこれをめがけて全身的に挑み――牛ってやつは紅いものを見ると非常識に憤慨するくせがある――かかっている。
 噴火のような唸り声だ。
 観客はみんな腰を浮かして呶鳴どなってる。
 が、まだこの怒らせ役ヴェロニカが牛をあつかってるあいだは、実を言うとほんとの闘牛ではない。こうしてい加減、牛の憤怒と惑乱が頂天に達した頃を見計らって、前座格のVERONICAが素早く牛を離れると、同時にいよいよ「血の本舞台リデア」の第一段へ這入る。
 一口に闘牛トウロスと言っても、三つの階梯スエルテから成り立つ。
 1 Picadores
 2 Banderillear
 3 Matadores de Toros
 この順序だが、1のピカドウルは馬に乗ってガロチヤを持っている。これは、紅いきれを見せられてすっかり怒った牛の背中へ、深さ約二インチの穴を二つあけて、ますます怒らせるのがその任務だ。2はバンデリエイル。徒歩だ。三人出る。バンデリラという短い手銛てもりのような物を、正面または横側から牛の背部、首根っこへ近いところへ二本ずつ打ち込む。三人各二本だから合計六本の矢鏃バンデリラを差されて、牛はおいらんこうがいみたいな観を呈する。そこへ単身徒歩で登場して牛に直面し、機を見て急所へ短剣エストケの一撃を加えて目出度めでた仕留しとめるのが、3のマタドウル・デ・トウロスだ。このとどめをさす役が、闘牛中の花形エスパダなのである。
 槍馬士ピカドウルが出て来た。
 日光と槍先と金モウルだ。
 悍馬かんばを御して牛の周囲を駈けめぐってる。
 牛は馬を狙って角を下げている。
 ピカドウルの槍が走った――うわあっ! 血だ血だ! ぶくぶくと血が噴き出したよ牛の血が! 黒い血だ。血はみるみる牛の足を伝わって流れて、砂に吸われて、点々と凝って、虎視眈々と一時静止した牛が、悲鳴し、怒号し、哀泣し――が、どうせ殺すための牛だ。そら! またガロチヤが流れたぞ! もう一つ、紅い傷口がひらくだろう――ひっそりと落ちる闘牛場の寂寞――。
 やあっ! 何だいあれあ?
 棒立ちになった馬、ピカドウルの乗馬が急に紅いひもを引きずり出したぞ。ぬらぬらと日光を反射してる。
 EH! 何だって? 馬が腹をやられた? 牛の角に触れて?――あ! そうだ、数本の馬の臓物がぶら下って、地に垂れて、砂にまみれて、馬脚に絡んで、馬は、邪魔になるもんだから蹴散らかそうとして懸命に舞踏している!
 それを牛が、すこし離れてじいっ白眼にらんでる――何だ、同じ動物仲間のくせに人間に買収されて!――というように。
 総立ちだ。
 足踏みだ。
 大喚声だ。
 傷ついた馬は、騎士を乗せたまま引っ込んで行った。が、直ぐに出て来た。おや! 同じ馬じゃないか。AH! 何という ghastly な! はみ出ていたはらわたを押し込んで、ちょっと腹の皮を縫ってあるだけだ。そのままでまたリングへ追いやる!
 縫目の糸が白く見えている。
 何と徹底した苦痛への無同情!
 馬は、恐怖にいなないて容易に牛に近寄ろうとしない。それへ槍馬士ビカドウルが必死にむちを加える。
 この深紅の暴虐は、私をして人道的に、そして本能的に眼をおおわせるに充分だ。
 が私ばかりじゃない。私の二、三段下に、さっきから顔を押さえて見ないように努めていた仏蘭西フランス人らしい一団は、このとき、たまり兼ねたようにぞろぞろ立って行く。女はみんな蒼い顔をしてはんけちで眼を隠していた。
 ドン・ホルヘは我慢する。
 女のなかには気絶したのもあった。あちこちで担ぎ出されている。道理で、女伴おんなづれの外国人が闘牛券仲買所レベンタへ切符を買いに行くと、最初から出口へ近い座席を選ぶように忠告される。青くなって退場したり、卒倒したり、はじめての女でおしまいまで見通すのはほとんどないからだ。だから、言わないこっちゃない。
 しかし、男でも女でもこういう気の弱いのは初歩の外国人にきまっていて、西班牙スペイン人は大満悦だ。牛の血が噴流すればするほど、馬の臓腑が露出すればするほど、女子供まで狂喜して躍り上ってる。反覆による麻痺まひだろうけれど、見ていると根本的に彼らの道義感を疑いたくなる。私は、無意識のうちに牛の肩を持っている自分を発見した。
 一たい闘牛トウロスに対しては、西班牙スペイン国内にも猛烈な反対運動があって、宗教団体や知識階級の一部はつねに闘牛トウロスの改廃を叫んでいるんだが、この「血の魅力」はすぺいん国民の内部にあまりに深く根を下ろしている。羅馬ローマ法王なんかいくら騒いだって何にもならない。が、牛か人かどっちかが死ななければならないのが闘牛トウロスだとしたら、そして、はじめからリングで殺すつもりで育てた牛である以上、牛の死ぬのはまあ仕方がないとして、馬まで傍杖そばづえを食わして殺すのは非道ひどい。こういう議論が起って、最近では、出場の馬へ硬革製の腹当てをさせることにしている。しかし、これも形式的なもので何ら実際に保護の用をなさない。何しろ相手は火のようにたけり狂ってる野牛だ。馬の逃げ足が一秒でも遅いと、たちまち今日のような惨事を惹起することは眼に見えてる。が、この悲惨とか残酷とかいうのも外国人にとってだけで、すぺいん人はここが闘牛の面白いところだと手を叩いて喜んでるから、始末におえない。闘牛トウロスのつづくかぎり、馬の犠牲も絶えないだろう。
 なぜ地球上にこういう野蛮な存在を許しておくか? これはじつに西班牙スペイン一国内の問題ではない。まさに全人類の牛馬に対する道徳上の重大事である。なんかと度々たびたび海のむこうから文句が出るんだけれど、どうしてもさないものだから、海外の識者もみんな呆れて、諦めて、この頃ではもう黙ってる。おかげで西班牙人スパニヤアドは誰はばからず牛が殺せるというものだ。
 これは、この闘牛トウロスを見てから二、三日してからだったが、例のドン・モラガスが私のところへやって来て、
『どうだったい、こないだの闘牛は?』
 と訊くから、私――というより、私の社交性が、
『うん。なかなか面白かったよ。有難うグラシアス。』
 と答えると、彼は、
『ふふん。』
 と鼻の先でせせら笑って、
『生意気いうない。君みてえなげいこく人に闘牛トウロスの味が解ってたまるもんか。ほんとに闘牛トウロスを見るようになるまでにゃあ、君なんか、そうよなあ、もう十年この西班牙スペインで苦労しなくちゃあ――。』
 私はついむきになって、紅布ミウレタへ挑戦する牛のようにモラガスへ突っかかって行った。
『冗談じゃない。闘牛トウロスなんかもうめんだよ! 一度でたくさんだ。何だ! 一匹の牛を殺すのにああ何人も掛ったりして! ただ残酷というだけじゃない。あれあ卑怯だ。だから、見てるうちに、僕なんか牛に味方して大いに義憤を感じちゃった。すくなくとも文明的な競技じゃないね。』
 どうだ、ぎゃふんだろうとモラガスの応答を待っていると、案の条かれはにやにやして話題の急転を計った。
『うちの一座にメリイ・カルヴィンという女優がいる。』
誤魔化ごまかしちゃいけない。闘牛はどうしたんだ?』
『だからその闘牛のことだが、君、メリイ・カルヴィンって名をどう思う?』
『どう思うって別に――ただ西班牙スペイン名じゃないな。』
『そうだ。アングロ・サクソンの名だね。事実メリイ・カルヴィンは亜米利加アメリカ人なんだ。』
『何だ、面白くもないじゃないか。』
『ところが面白い。』ドン・モラガスはひとりで勝手に面白がって、『いいかい。おまけに彼女は紐育ニューヨークの金持のひとり娘なんだ――では、どうしてこの、紐育ニューヨーク富豪の令嬢メリイ・カルヴィンが西班牙スペイン芝居の下っぱ女優をつとめていなければならないか――ドン・ホルヘ、まあ聞き給え。これには一条の物語がある。』
 なんかと、いやに調子づいたドン・モラガスが、舞台では見られない活々いきいきさをもって独特の金切声を張り上げるのを聞いてみると、こうだ。
 HOTEL・RITZ――マドリッド第一のホテル――の数年まえの止宿人名簿を探すと、メリイ・カルヴィンの自署を発見するに相違ない。あめりかのちょいとした家の子女が誰もかれもするように、学校卒業と同時に最後のみがきポリッシュをかけるべく「大陸をしてドュイング・ゼ・カンテネント」いた彼女が、無事にこの西班牙スペイン国マドリッド市まで来たとき、それはちょうど季節テンポラダで、血の年中行事が市全体を狂的に引っき廻している最中だった。
 すぺいんへの旅行者は闘牛だけは見逃さない。早速彼女も出かけて行った。そして勿論、正確に気絶したひとりだった。気絶どころか、二、三日食物も咽喉のどへ通らないで床に就いたくらいだが、こうして寝ながら、メリイ・カルヴィンは考えたのだ。どうしてああ西班牙スペイン人がみんな面白がって見てるのに、自分だけ気絶なんかしたんだろう? こんなはずはない。Something wrong これはきっと解ると自分も好きになるに相違ない。いや、どうしても好きにならなければならない――と、ここに妙な決心を固めて、それから一週間延ばしに旅程を変更しちゃあ毎日曜日に闘牛へ通い出した。が、やっぱり駄目だ。あのピカドウルの槍の先に血が光るのを見ると、彼女は、何と自分を叱っても身ぶるいがして来て、その次ぎもそのつぎも、二度も三度も続けさまに気絶してしまった。そこで彼女は、もの好きな話だが、すっかり残りの予定を破棄してマドリッドに腰を据え、これではならないとわざと砂に近い席へ陣取って、その季節中一つも欠かさずに、修行のように通い詰めた。言うまでもなく紐青ニューヨークからは、なぜそういつまでも西班牙スペインにいるのかと詰問の電報が矢のように飛来した。が、それを無視して闘牛場の石段にすわっているうちに、数度の失心ののち、ようやく刺激に慣れたと言おうか、だんだん全演技を通じて正視出来るようになって、しまいには、どんな光景に直面しても彼女は平気でいられるようになった。西班牙スペイン人の闘牛の「見方」が、彼女にも少しずつ判りかけたのだ。こうなると、個々の闘牛士の癖とか、無経験な見物には気のつかない危機とか、紅布ミウレタさばき、足の構えの妙味、ちょっとした手銛バンデリラこつとか、つまり専門的に細かい闘牛眼がメリイ・カルヴィンにも備わって来て、そして、そう気のついた時、彼女はもう押しも押されもしない立派な闘牛ファンになり切っていた。
 その年の季節は終った。が、彼女は亜米利加アメリカへ帰るかわりに、地方巡業に出た闘牛士を追っかけて西班牙スペインじゅうを廻り歩いた。そして翌年のマドリッド闘牛場はまたメリイ・カルヴィンの姿を発見した。あめりかも紐育ニューヨークも生家の富も、この血と砂の誘惑のまえには彼女にとっては無力だった。帰国を促す交渉がとうとう破裂しても、西班牙スペインに闘牛があるあいだ、すぺいんを見捨てることは彼女には不可能だった。麺麭パンと入場料をるために彼女は女優になった。そしてずうっとこんにちに及んでいる。いまのメリイ・カルヴィンは、闘牛によってのみ生甲斐いきがいを感じているといっても、過言ではあるまい。
『さあ――何といったらいいか、この気持はちょっと説明出来ないが――。』
 とモラガスは、役者だけにさも困ったように首をかしげて、
『そうだな。動物に対する人間征服感の満足とでも言おうか。いや、決してそんな安価な感情じゃあないんだが、そうかと言って、君はじめ多くの外国人が考えるような、単純な「血の陶酔」でもない。勿論すぺいん人だって普通の感覚は持ってるし、闘牛以外では、ずいぶん人に譲らない動物愛護者のつもりだが――とにかく、メリイ・カルヴィンの場合なんか、メリイには、リングの牛が、不愉快なほど無神経に、愚鈍に見えてしょうがないそうだ。だから、そんな馬鹿には生きてる権利もない、どんなに虐殺しても構わない――と言ったような、自分でも不思議な、まあ一種の制裁的痛快感に、思わず拍手しちまうといってる。それに、も一つ可笑おかしなことは、メリイは、闘牛を見るたびにああ自分があの牛だったらと思ってぞっとするそうだが、この幾分変態的な戦慄スリルスも手伝って、一生闘牛場へ呪縛されるのがあのメリイの運命だろう――。』

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