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踊る地平線(おどるちへいせん)09Mrs.7 and Mr.23

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:01:08  点击:  切换到繁體中文

     1

 蜜蜂の群の精励を思わせる教養ある低い雑音の底に、白い運命の玉がシンプロン峠の小川のような清列なひびきを立てて流れていた。
 シャンベルタンの谷の冬の葡萄畑をロウザンヌ発大特急グラン・ラピイドの食堂車の窓から酔った眼が見るような一面に暖かい枯草色のテュニス絨毯なのである。それを踏んで、あたしいま香料浴を済ましてきたところなの、と彼女の全身の雰囲気が大声に公表している、中年近い女が来て私の横にならんだ。ひじが私に触れて、彼女が言った。
『数は? 何が出て?』
 答えるまえに、私はゆっくりとその女を研究した。
 近東型の広い紺いろの顔が、八月の地中海が誇る銀灰色のさざなみによって風景画的に装飾されていた。私はきのうモナコの岩鼻から見物したモウタ・ボウトの国際競争を聯想しなければならなかった。しかし私は、そのことは彼女に話さなかった。彼女の臙脂えんじ色の満唇フル・リプスと黒いヴェネツィア笹絹の夜礼服とが、いつかラトヴィヤのホテルで前菜オウドゥブルに食べた、私の大好きな二種の露西亜塩筋子ロシアキャヴィアの附け合せと同じ効果を出していたからだ。私は鋭利な食慾を感じた。そして食慾はいつも私を無言にする。で、私は私の視線を彼女の下部に投げることによって、この、自分の娘よりも若いに相違ない中婆さんを慰楽アミュウズしようと試みた。
 彼女の属する社会層は瞬間の私にとって完全な神秘だった。が、私はいま何よりもじぶんのいる場処をはっきりと認識しなければならない。このモンテ・カアロの博奕場キャジノでは、どんな神秘も個人の関心をいはしないのだ。じっさいいかに小さな異常現象へでもすこしの好奇心を振り向けることは、ここの多角壁の内部ではそれだけで一つの「許せない規則違反」なのだ。そこで私はただサンマルタン水族館の門番のように、黙ったままこころのなかで彼女の足へ最敬礼することで満足したのである。
 がめたるの靴下が慄悍ひょうかんすねを包んで、破けまいと努力していた。その輪廓は脂肪過多の傾向からはずっと遠かった。アキレス氏すじは張り切って、果物ナイフの刃のように外へむかってほそく震えていた。私の眼にも判る一大きさサイズ小さなゴブラン織りの宮廷靴が、蹴合けあいに勝って得意な時の鶏の足のような華奢きゃしゃな傲慢さで絨毯の毛波ケバを押しつけていた。彼女が足を移動すると、そのけばは一せいに起き上って、絨毯のうえの靴あとが見てる間に周囲に吸われて消えた。あまり繊細に、そして音律的に足が動くので、そのうちに私は、じつは彼女が、咽喉のどの奥で唄う高速度曲に合わせてブダペスト風の踊りを真似してるのであることを知った。
『ね、何を見ていらっしゃるの?』
 この中婆さんは微笑らしいもので私の近代的騎士性を賞美するのである。それから彼女は、伊太利イタリーRIVIERAのサンレモで、眼と声の腐った不潔な少女達が悪魔よけの陶製の陽物と一しょに売ってる、羅馬ローマ皮に金ぴかの戦車を飛び模様に置いた手提バッグをあけて、煙草の挟んでない象牙の長パイプを取り出し、直ぐにそれを指先で廻しはじめた。電灯の光矢こうしがぶつかって、花火のように音を発して散った。私はこの意味の不明瞭な手品に見入っていた。
『あたしね、ちょいと卓子テーブルを明けたの。いま何番が出て?』
 今度はリラとすぺいんねぎのまじったにおいが彼女の口から私の嗅覚を撫でた。この女は歓喜の絶頂で泣きながら男の鼻を噛む種類であると私は測定した。またこの場合、返事はすべて仏蘭西フランス語でされるのでなければ罪悪であることも私は心得ていた。ところで、私は流暢なふらんす語を話すのである。
『番号は三十六です、マダム。』
 私は給仕長のように散漫な好色を隠して言った。
 すると、もった空気をいて彼女の金属性の微風がかすめたのだ。
『あら! どうしてそれを御存じ? 三六号はオテル・エルミタアジュのあたしの部屋の番号よ。』
 彼女の胸で二つの小丘がわなないた。同時にCIRO真珠飾りがちらちらと鳴いて、彼女は歯を見せずに笑った。ぷろしゃ聯隊の伍長のように青々といが栗に刈った頭がいつまでもいつまでも笑いに揺れているのである。それにしても、どうして私は彼女の部屋の番号なんぞ知っていたんだろう? 私はあわてて、36はいま私の立ってるルウレット卓子テーブルで玉の落ちた番号に過ぎないと彼女に告げた。が、そのときはもう全然ほかの興味に彼女は身をゆだねていた。雨の日のシャンゼリゼエに留度とめどもなく滑る自動車の車輪タイヤのように、彼女は自分の心頭しんとうがどこへ流れて行くかじぶんで知らないのである。またその自動車の後窓に、都会の迷信中の傑作として護謨ごむ糸に吊るされて踊ってる身振り人形のピエロのように、彼女は近代的速度を備えた淡いエゴイズムの一本の感覚の尖端にぶら下ってるのだ。
 言葉と彼女の上半身とがいっしょに饒舌しゃべり出した。
『わっら! ムシュウ。ほら、あすこに、そばへ寄るときっとラックフォルト乾酪チーズ酸菜サワクラウトのにおいのしそうな、伯林ベルリンドロティン・ストラッセ街から来た紳士がいるでしょう? あの肥った、そら、いま乾板現像液で茶色に染まってる手を出して、他人の賭金ステイキ誤魔化ごまかしてさらえ込もうとしている――AA! 何て素走すばしっこい事業でしょう! あたしはあの人を讃美します。いいえ、あの人はハンブルグの荷上にあげ人夫ではないのです。コロンの郊外に生産工場を持っていて、半世紀来欧羅巴ヨーロッパじゅうの客車と貨物列車へ打ってきたびょうの供給者なのです。あの人の手はいつも他人ひとのぽけっとへ這入りたがってうずうずしています。あの人は毎朝熱湯に入浴してじぶんの身体からだと一しょにでた玉子をお湯のなかで食べるのです。あの人はエストニア孤児救済委員会の委託金を着服してそれで亜米利加アメリカから理想アイデアル印しの妻楊枝つまようじを輸入したのです。そのために青煙突ブルウ・ファネルのやくざ船をすっかり傭船チャアタしました。うい・むっしゅう! あなたはあの妻楊枝を満載した英吉利イギリス貨物船の編成隊が不意の光線に追われた油虫の家族のように仲の好い一列を作ってダンジグ港へ投錨した時の華美な光景を御存じですか?――そして、あの男の足の小指は、赤い蘇国そこく毛糸の靴下のなかで下へ曲がってるのです。OUI! 両方とも――なぜこんなに詳しくあたしがあの人のことを知ってるだろうってびっくりしてらっしゃるのね。だって、あの人はあたしの良人おっとですもの。Tut-tut !』
 私の眼が高処恐怖病患者と同じ怯懦きょうださで広い博奕場のあちこちへ走った。が、私も負けてはいなかった。やがて私は、すこし向うの卓子テーブルに、鼻の穴から毛の生えてるリヨンの老生糸商と、生水・ENOの果実塩・亜米利加アメリカ肉豆※(「くさかんむり/「寇」の「攴」に代えて「攵」」、第3水準1-91-20)にくずく芽玉菜めたまなだけの食養生を厳守することによって辛うじて絵具付ペインテドシフォンのひだ着物を着れる程度に肥満を食いとめている、安ホテルの椅子みたいに角張ったあめりか女とのあいだに、ルウレットに忘我して顔を真赤にしてる私の妻を見つけて、急いでそのことを言い出したのである。
彼女あれはこのモンテ・カアロのばくちにかけてはじつに天竺鼠てんじくねずみのように上手に立ち廻るのです。御覧なさい。ペイジ色の蜜柑マンダリンがすっかり上気してまるで和蘭オランダのチイス玉のようでしょう。二つ光ってるのは黒輝石の象眼ではありませんよ。あれは単に彼女の眼です。無理もありません。今夜は朝までに三千フラン勝って坂の上の駒鳥屋ロパンで私に一九三三年型の純モロッコの洋杖ステッキと、一流の拳闘選手が新聞記者に会うときに引っかけるような色絹の部屋着を買ってくれようと言うんですからね。いま一生懸命のところです。』
 こう言って、気がついて振り返ってみると、相手はもうそこにいなかった。この女は波斯ペルシャ猫である。だから映画のなかの人物のように音もなく行動するし、たとえモナコ名所犬首岩テエト・ドュ・シアンからいが栗の頭を下にして落ちたところで、すぐ立ち上って懐中爪磨き道具でマニキュアをはじめるだろう。女は両手を腰に akimbo したまま、隣りの六番のルウレット台のまわりをひやかして歩いていた。V字形の割れた背中は、お尻のすぐ上まで法王祈祷台の素材のカララ大理石だった。そこに切紙細工の黒蝙蝠こうもりが一匹うれしそうに貼りついていた。蝙蝠はどこへでも彼女の行くところへいて往った。
 さて、と私は一時にこの現金を数倍もしくは数十倍にもしなければならない目下の事務に返っていた。私はTAXIDOの内隠しから mille の紙幣を二枚抜きながら、それを賭け札カウンタアに換えてくれる「両替シャンジュ」の窓口のほうへ泳ぎ出したのだが、私と窓のあいだには、嘘言とあらゆる悪徳の余地のないほどスキイのようにせて平べったい中欧山岳地方の女地主と、星条旗とフウヴァの Talkie にだけは必ず脱帽する亜米利加アメリカ無政府主義の青年紳士とが挟まっているので、私はしばらく手の千法ミユと遊ばなければならなかった。
 ちょうど晩餐時刻だった。人はみんなオテル・ドュ・パリやCIROやアンバサドウルの食堂で皿や給仕人や酒表と戦ってる最中だった。賭博場はわりにすいていた。それでもこの 1928-29 の「高い季節セゾン」である。着色ジェリイをこんもりと型へめて打ち出して、それへウラルの七宝と、ルイ王朝の栄華と、近古ムウア人の誇示的輪奐美りんかんびとをびざんてん風に模細工もざいくした。そして、香気と名流と大飾灯シャンデリアと八面壁画とに、帝室アルバアト歌劇場のように天井の高いこの「機会の市場」だ。緑いろの羅紗を張った長方形の卓子テーブルのうえでは、丁抹鰻デンマークうなぎのようにすべっこい皮膚をもった好機チャンスの女神――このお方は、しじゅうあの大刈入れ鎌を手にしてる死神のタイピストなんだが、断髪してることを忘れて速記ステノグ用の鉛筆を頭へそうとしてはよく下界へ落とすと言われている。つまりそれほど頼りない女神である――がほほえんだり顔をしかめたりする。するとそのたびに、ナポリの画学生が三日間大富豪になったり、コンスタンチノウプルの旅役者が生れてはじめてすっかり借金を返したり、極東日本の一旅行者夫妻が良人おっとから妻への小切手を振出して夫妻同伴で銀行へタキシしたり、市加古シカゴ豚肉王の夫人が郷里の豚肉王に宛てた軍資追徴の至急報を片手に、山下のモンテ・カアロ本局で同情すべきヒステリイ発作のため痛くないように卒倒したり――。
 その電文にはこうある。

Fifi has no biscuit.

 地上唯一の運命のALHAMBRA、このモンテ――一ぱんには洒落てカアロを略して――の賭博殿堂へ、私――GEO・タニイ――と、彼の蝶形襟飾ネクタイと白襯衣シャツの胸板とが、いま排他的に社交界めかして舞台しているのである。マダム・タニイは巴里パリートロンシェ街の衣裳屋ポウラン夫人が自分で裁断鋏カッタアスをふるったせみの羽にシシリイ島の夕陽の燃えてる夜宴服イヴニングをくしゃくしゃにして、むき出しの細い二の腕へ粒々をこさえたまんまさっさとルウレット台のひとつへ埋没してしまった。

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