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生前身後の事(せいぜんしんごのこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:16:45  点击:  切换到繁體中文


     大菩薩峠出版略史

 それから同時代の史上の人物としては勝海舟かつかいしゅうがある、勝の死んだのは明治三十二年余が十五歳の時のことであった、無論親しくその人を見たことはないが、その頃出た「氷川清話」という本は愛読したもので、少年時代のこれ等の書によって受けたところの感化は少いものではなかった。
 カールマルクスは余が生れる二年程前に死んでいる、ナイチンゲールとも青年時代までは同じ地球の空気を吸っていたことと思う、レニンもまた史上有数の人物だ。
 相撲では梅ヶ谷、常陸山の晩年を国技館の土俵の前で見たことがある、年寄としての大砲も見た、然し国技館の本場所へは僅に一回行って見ただけで、その後は新聞見物に過ぎなかった、太刀山の全盛時代一度その武者振りを見たいとは思ったが進んで行こうという機会を作ることなくして終った、然し普通の姿での太刀山は屡々しばしば見た。
 日本の漢詩学界の豪傑森槐南もりかいなんが亡くなったのは余の二十七歳の時であった。
 渋沢栄一翁の姿は時々見かけた、もとよりこれも親しくは何の交渉も無いけれど、後にその令息の一人秀雄氏と帝劇の関係で知り合いになってから渋沢一家が大菩薩峠の熱心な愛読者であるということを聞いていた、老子爵も都新聞に連載時代から愛読して居られたような形蹟がある、これはまだ歴史の人ではないが岩崎小弥太男もまた都新聞時代から大菩薩の愛読者であったと想像の出来ない事もない。
 明治天皇の御英姿を拝する機会は得られなかったが、大正天皇の行幸を拝したことは一二回ある。

 さて、少くとも吾れと同じ世紀の間に生きていた因縁のある歴史的或は世間的に知名の方々に対してはほぼ右のようなものであり、尚多少の遺漏があるかも知れないが、それは追って思いつき次第補充するとして次には今日まで共にこの世界に生きて来た有縁無縁の人でさまで有名でもなく、歴史にも世間にも印象を残すのなんのという人ではなく最も平凡に生き平凡に死んだ人の思い出を一つ書いて置きたいのであるが、それはまた少し後廻しにして、この機会に昨今、最も身辺の問題となっている大菩薩峠の出版史というようなのを少し述べて置きたいと思う、それも細かく書くと容易ならぬものだからそれは後日の事として概略だけを書いて置きたい。
 新聞に発表したことは別として、書物として初めてこれを世に出したのは大正―年―月―日玉流堂発行の和装日本紙本「甲源一刀流の巻」を最初とする。
 今でこそ大菩薩には一々何の巻何の巻と名を与えているが、最初都新聞に連載した時は、この巻々の名は無かったものである、それをこの出版に際して第一冊に「甲源一刀流の巻」の名を与えたのが例になったのである、この初版の出版ぶりはかなり原始的なものであった、これより先き自分は弟に本郷の蓬莱町へ玉流堂というささやかな書店を開かせた、同時に自分は活字道楽をはじめた、この活字道楽というのは今日までも自分にとって一つのがんのようなもので、かなり苦しめられつつあって、容易に縁の切れない道楽の一つであるが、本来どうか自分は一つ印刷所を持ちたい、それは最少限度のものであってよろしい、兎に角半紙一枚刷りなりともこしらえて、それを知己友人に配るだけの設備でもよいから欲しい、ということは兼ねての念願であった、そうしてまず築地の活版であったか秀英舎であったかの売店へ行って、一千字ばかり一本ずつ売って貰いたいといって申込んだが、先方では取り合われなかったと思っている、然し、それを三本ずつか何かにして仮名を少し余計に買ってそれからケースを三枚ばかり買い込んでそれで手前印刷をはじめたのである、漢字は大抵の場合は片仮名で間に合せることにして、それから手紙の代りのようなものを組みはじめて見たのだが、それからそれと材料を買い入れ、やがてケースも二十枚ばかりになり、活字も数万個を数えるようになって「手紙の代り」だの「聖徳太子の研究」だのという小冊子を拵えては知己友人に配布していたのである、印刷機は今は校正刷に使っている式の手引という原始的の平版であった、その古機械を三十円ばかりで買って据えつけ、それへ自分でインキつけまでして刷り出したものである、組から刷から活字の買入、紙の買出しに至るまで一切合切自分でやって見たのだが、この道楽は実に面白くて面白くて堪らない程であった、活字を拾って組むという事は彫刻をすると同じような愉快が得られる、余り面白いので熱中してしまって病気にかかるほどであった、そうして追々術も熟練し、活字も殖えて来るに従って、これで一つ大菩薩峠を出版して見てやろうという気になって、それが実行にかかったのはかなりロマンチックな仕事振りであった。
 まずあの手引の古機械は美濃版がかかることになっているが、むろん美濃全紙面を印刷面にするわけには行かない、天地左右をあけて四六版の小型に組めば四面だけはかかることになっている、そこで一台に四頁を組みつけてそうして機械きの美濃半紙を一〆ひとしめずつ買って来てはそれにかけて甲源一刀流の巻の最初からやり出したものでとにかくあれが二三百頁あってそれを文選、植字、校正、印刷、一切一人で三百部だけ拵えて刷り上げたのである、然し三百部だけは刷り上げて見たけれども、その中には到底文字の読めない刷り損じが幾枚も出来て、結局ものになったのは、やっと二百五六十に過ぎなかったと思う、文選、植字、印刷、解版皆自分の手でやったが、ただ蓬莱町の店から真島町の自宅へゲラに入れて運ばせるのと、手引の向うへ廻ってルラを持たせてインキつけをさせる役目を弟やなにかにやらせたと思うが、それも皆んないやがってかなり泣き言をいっていたようだ、しかしそうして兎も角もあの甲源一刀流の巻の全部だけは右の如く三百部内高は二百五六十程度を刷り上げてそれを自分も折ったり近所の人も頼んだりして折らせた、然し、製本は到底お手製というわけには行かない、これは近所の人の紹介で神田区の或製本屋へ頼むことにした、それから口絵は小川芋銭氏と井川洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)氏に頼むことにした、三度刷位の木版に注文して芋銭氏にはお地蔵様を描いて貰い、洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)氏には竜之助を描いて貰った、それを都新聞の木版彫刻師に頼んで刷り上げ、そうして製本に廻したのである。
 製本の好みとしては、紫表紙和綴わとじにして金で大菩薩峠の文字を打ち出すことにしたが、これがなかなか思うようには行かなかった、製本屋も本式の大量製産をやる店ではなかったので、なかなか迷惑がったようであるし、自分もまた全く無経験者だから随分奔走した、それから美濃紙の買入についても本郷神田辺の紙屋を一軒一軒自分で聞いて歩いて品があると云えばその店へ坐り込んでその紙の質を一枚一枚吟味して見たりなどするものだから、紙屋でも苦い面をするようだったが、こっちはそれに気がつかなかった、そうしてあちらの店で一〆買い、こちらの店で一〆買って、可成かなり質の違わぬものを買い集めたものであったが、その経験によるとたしか一〆が三四円程度であったと思うが、それでも店によって一〆について一円も相場が違うようなことを発見し、商売というものはやっぱり坪を探すものだなということに気がついた、然し、一〆でそんなに値段が違うというのは自分が見ては質にはそんなに差はないと思ったけれども事実品質がそれだけ違うのか或いは取引とかストックとかの関係でそういうことになるものか、何にしても同じ商品でもそういう高低のあるものだというような知識は与えられたのである。
 さて、そうして第一冊の三百部正味二百五六十部の製本がすっかり出来上ってしまった、そうして都新聞の片隅に小さい広告を出し、一円の定価をつけて売り出したのである、本郷の至誠堂という取次店がこれを扱ってくれたが、永年の読者で直接注文もかなりあった、その注文者のうちにはこんな汚ない不細工の印刷では売り物になるものかといって小言をいって来た人もあったが、その粒々辛苦(或は道楽)の内容を知らないのだ、その汚ない不器用の出来上りが実は無上の珍物であるということを知ろう筈はない、その時は紙型はとらなかった、最初組み出した時は、本郷元町あたりの紙型鉛版屋を探し出して少し取らせはじめて見たのであるが、何をいうにも一人で組んで一人で刷って一人でほごす仕事であるから能率の上らないことおびただしい、折角、勢い込んで自転車で毎日取り集めに来る紙型屋も手を空しゅうして帰ることが多いのでとうとう商売にならぬと諦めて引き下ってしまった、もっともこの紙型鉛版屋もその時、大菩薩峠のことは知っていたと見えて、
「あゝ、この本は売れますぜ、ですが先生のような方が貴重な時間を割いて斯ういうことをなさるのは随分御損ではありませんか」
 と云ったのを覚えている。
 とにかくそういうようなわけで紙型屋を失望せしめる能率であるから遂に紙型なしで一冊をやり上げてしまって、それから第二冊目の「鈴鹿山の巻」に取りかかったのである。
 この巻は前の巻よりも紙数は少なかったが、兎に角同様にして一切合切手塩にかけてやり通した事は前と変りがない。
 しかし、もうそれ以上は労力が許さなくなった、そこで第三冊「壬生みぶと島原の巻」からは自由活版所の岡君のところへ持ち込んだのである、そうして初めて本職の手に移し形式は前と同じことに和装日本紙にして第四冊「三輪の神杉の巻」第五冊「竜神の巻」第六冊「間の山の巻」第七冊「東海道の巻」第八冊「白根山の巻」第九冊「女子と小人の巻」第十冊「市中騒動の巻」までを出した、製本体裁すべて手製の第一冊第二冊と同じことだが、第三冊からはルビ付になっている点がちがう、それから第一冊第二冊もまた改めてルビ付にやり直して貰うようにしたと思っているが、兎に角一切合切手塩にかけてやり上げた珍物は第一冊「甲源一刀流の巻」と第二冊「鈴鹿山の巻」のフリ仮名のつかないのがそれである、然もそれは二百四五十部しかない処、大部分は東京市中へ出ている、それがやがて大震災に遭ったのだから、もし残存しているものがありとすれば非常な珍物中の珍物で後世の愛書家などの手に入ると莫大な骨董的評価を呼ばれるようになるだろうと思う、先年東日、大毎に連載する当時に、著者が神楽坂かぐらざかの本屋で一冊見つけ城戸元亮君に話をすると直ぐに自動車で一緒に駈けつけたが売れてしまっていた、新版のいいものが沢山出ている時代にあれを買った人は果して珍書であることが分って買ったのかどうか、この和製日本紙刷の玉流堂本にもあとで自由活版所にやらせた分もある、春秋社からも和製日本紙本を出しているから、それ等はさほど珍書とはいえない、著者の手製印刷本は前に云う通りルビが付いていない美濃紙四つ折刷の極めて粗末の印刷で、ところどころ不鮮明で読めないようなところもある。印刷発行の日付第一冊「甲源一刀流の巻」は大正―年―月―日印刷の同―日発行となって居り、第二冊「鈴鹿山の巻」は大正七年四月十日印刷の同二十五日発行となっている。
 それをまた誤って仮名のついた後に自由活版所や春秋社版と間違えて、これがその原本ではないかと余の処へ持ち込んで見せる人もあるが、成るほど和装日本紙ではあるけれどもそれは前にいう純粋な手製本とは全く違うのである、ところが、つい近日田島幽峯君が突然持ち込んで来た「鈴鹿山の巻」の一冊は確かにその手製本にまぎれもないから早速証明文を巻頭へ書きつけてあげた、もし諸君のうちで、それに該当するような書物をお持ちでしたら小生のもとまでお届け下さればいつでもその証明自署をしてあげる。
 とにかくそういう風にして第一冊第二冊は手製第三冊以下は自由活版所でたしか第十冊「市中騒動の巻」あたりまで進行させて行った処へ或日のことYMDC君がやって来て、春秋社がトルストイ全集で大いに当てた、更に多方面の出版に乗り出したい、就ては大菩薩峠を出版したいがどうだろうという話であった、自分としては最初は道楽ではじめたことも今となってはなかなか重荷であると思っていたところへこの話であり、又春秋社というのも相当に品位のある出版社であり、社主神田豊穂君という人もなかなかよい人である、どうだ相談に乗らないかという話であったから、それは乗れそうな話だ、よくこちらの心持ちが分って出版して貰えればお任かせ申してもよろしい、では二人で神田君を訪問しようということでその時分、たしか神田辺にあったと思う春秋社の楼上へ神田君を訪ねて話をきめてしまったのである、その時に出版について相当条件も話し合い、それから今までの紙型を神田君に引き渡し、そうして話を決めて帰って来た、神田君が梯子段の下まで送って来て、こちらから伺わなければならないのにお出で下さって恐れ入りますというようなことを云ったと覚えている。
 それから、春秋社の手にかかって洋装本と和装本と二通り出すことにした、洋装本の方は四六型で背中の処へ赤い絹がかかった紙板表紙であり、和装の方は大菩薩峠の文字を紙に木版で彫って張りつけたのである、それから出版が本式に玄人くろうとの手にかかったのである。
 その発売の時にカフェープランタンでYMDC君が司会者になって出版記念会が開かれた、色々の方面の面振れをYMDC君が集めてくれた、YMDC君はブローカーであり、同時に産婆役のような役目を勤めたのである。
 そのうちに、一時中休みをした都新聞紙上へ松岡俊三君の斡旋でまた書き出したように覚えている、それはもっと前であったか、どうか時と日のところは後から考証して埋め合せる、そのうちに前の赤い裏衿のかかった四六版型ではどうも調子が変だから、これを組み替えてもいいからもっと気のいたものに改装して出したいという相談の揚句にフト調べて見ると組み版が前に云ったように美濃紙の手引へ四頁組み込んだのが原型になっているから、普通四六版組よりはずっと小さくなっている、そこでそのままそっくり菊半截型きくはんさいがたの書物の中に納まるのである、それを発見して神田君がこれは妙々菊半截へおさまるおさまるといってよろこんだ、そこで版をわざわざ組み直さないで、その紙型のままで縮刷本が出来ることになった、最初に出来たのは朱の羽二重に金で縮冊大菩薩峠と打ち出し、倶梨迦羅くりから剣や、独鈷とっこの模様を写し出したものと覚えている、そこで、その縮冊で四冊今までの分が完結して発行され、引続きなかなかよく売れたものである、その四冊は第二十の「禹門三級の巻」で終っている、つまり、あの縮冊本の紙数にして四冊全体で二千頁から三千頁の間であり、ここまでがつまり都新聞紙上に掲載したものである、念の為にその巻々の名を挙げて見ると、

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