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生前身後の事(せいぜんしんごのこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:16:45  点击:  切换到繁體中文

 

一甲源一刀流の巻、二鈴鹿山の巻、三壬生と島原の巻、四三輪の神杉の巻、五竜神の巻、六間の山の巻、七東海道の巻、八白根山の巻、九女子と小人の巻、十市中騒動の巻、十一駒井能登守の巻、十二伯耆ほうき安綱の巻、十三如法闇夜の巻、十四お銀様の巻、十五慢心和尚の巻、十六道庵と鰡八の巻、十七黒業白業の巻、十八安房の国の巻、十九小名路の巻、二〇禹門三級の巻。
 この巻々の名は書物にする時につけたので、新聞に掲げている時はういう名前の無かったことは前に云った通りである、この四冊が絶えず売れていたもので、小生もこの印税が生活のうちの大部を維持していた、春秋社としても相当の金箱であったろうと思う。
 そうしているうちに、例の大震災で東京は殆んど全滅的の光景を現出した、市中の書物はもとより紙型類等も殆んど全部焼き亡ぼされてしまったが、この大菩薩峠の紙型だけが焼けないで残されたのは殆んど浅草の観音様が焼け残ったと同じような奇蹟的の恵みであったのだ、神田君は勇気をふるい起して震災版を拵えた、それは赤く太い線をひいた紙表紙版を応急的に拵えて売り出したのだが、当時災害に遭って物質的にも精神的にも飢え切っていた市民は競うてこの震災版を求めること渇者の水に於ける如くで、この震災版が売れたことも震災直後の出版物としては第一等であったろうと思われるが、然し、ああいう際にこの読み物の与えた市民への慰藉はまた確かに著者としても出版者としても一つの偶然な功徳といってよいと思う。
 その事が終ってから、こんどは大毎、東日へ誘われて続きを書くことになったのである、そこでまた宣伝力が大いに拡大して来た、両紙へ書き出したのが「無明の巻」で、こんどは最初から巻の名をつけることにした、それをまた、この両紙へ執筆したのが七〇〇回ばかりに及んで、それを次々にまとめて、五冊、六冊、七冊の三冊各定価三円位ずつ Ocean の巻までを出した、引続き前のと共に盛んに売れたものである、しかし、大毎東日との関係はそこで絶たれてしまって第八冊の「年魚市あいちの巻」は全く新聞雑誌に公表せず書き下しのまままとめて出版したのである、それから第九冊「畜生谷の巻」と「勿来なこその巻」とは国民新聞に連載したのをまた改めて一冊とし、第十冊「弁信の巻」第十一冊「不破の関の巻」は全く書き下ろしの処女出版、第十二冊「白雲の巻」「胆吹の巻」は隣人之友誌上へ、第十三冊「新月の巻」は大部分隣人之友一部分は新たに書き足して今日に至っているのであるが、その間に円本時代というのがある。
 円本時代というのは改造社の創案で日本の出版界に大洪水を起さしめたものである、大菩薩峠もその潮流に乗じて大いに売り出した、出版者としての神田君も素晴らしい活躍をした、そこで印税としても未曾有みぞうの収入を見たという次第である、その後引続いての円本形式をもとの形に引き直そうとしたが、どうしてもそれが出来ずとうとうあの体裁が定本となるようになってしまった。
 然しこの円本時代というものは出版者及び文学者に大きな投機心と成金とを与えたけれども、その功過というものはまだ解決しきれない問題として今日に残されている。
 然し、円本時代が去ったとはいえ大菩薩峠の威力はなかなか衰えなかった、他の出版物は下火になってもこれのみは衰えないのである、そうして春秋社と著者との関係も時々何か小さなこだわりはあったけれども、大体に於て順調であって最近まで来たのであるが、遺憾ながら最近に至って非常に不本意なる事態をき起すに立ち至ってしまったのは遺憾千万のことと云わねばならぬ。
 その原因は出版社としての春秋社が営業不振に陥ったということが原因で、春秋社の営業不振は一つはまた一般出版界の不振の為で、その出版界の不振というのもさかのぼれば円本時代の全盛が遠因をはらんでいると見られないことはない、小生としては春秋社が振わなくなったからというて、それを疎んずるという理由は少しもないのだし、また栄枯盛衰は世の常だから良い時に共に良ければ悪い時にも共に助け合う位の人情を解せぬ男でもないのである、然し春秋社の営業難の為に自分の著作が犠牲になるということは忍び難いことである、春秋社の窮状は風聞には聞いていたけれども自分はあえて立ち入ってそれを慰問するほどのことはないと思い、神田君もまた我輩のところへ窮を訴えて来るようなことは少しもなかったけれども、風聞によると容易ならぬ危険状態であると知ったものだから、そこで春秋社の経営とは別個に大菩薩峠刊行会なるものを起し、両人協同の内容で一年半ばかり進行して行ったがそのうちに小生はどうしても、これは協同ではいけない、自分一個の手に収めることでなければ折角集中した著作物が散々の犠牲になるということを見て取らざるを得なくなったものだから、そこで神田君の手から一切の権利を買収してもっぱら自家の手にまとめるの方法をとった、これは実に小生としては予期しないことであり、これが為に余の受けた煩労と出費は多大のものであったけれども、兎も角弟に出資して全部の権利を神田側の手から買い取ってしまったのである、斯うして置かなければ前途の危険測るべからずと見て取ったからである、然しそうはしたものの最後の瞬間までも小生としてはこれは今は春秋社と切っても切れぬ関係にある神田氏の手に於てはいけないけれど、すべて明白にこちらで引受けてしまった後に春秋社及神田家の整理がつけばまた神田君を営業主として守り立って行ける時が来るだろう、そうすれば充分の保証を立てて神田君に引き渡し自分はまた専ら読書創作の人に帰る――と考えていた、こちらには誠意を持ってした仕事なのだが、先方の譲り渡しに大きなワナが仕かけられていたのである、我々は生一本きいっぽんに引受けてしまってから、そのワナに引懸ったのである、それが為に事業は最大級に悪化してしまった、先方は本来譲り渡す気はなかったのである、一時の急の為に表面上譲り渡すことにしていたが、譲り渡しはしても譲り渡された素人しろうとの吾々が当然進退に窮するような仕組みのワナが拵えられていたのだ、吾々としてはそこまで神田君側が窮迫したり計画したりするほどならば、何故もっと端的にその事情を打ち明けてくれなかったのか、その事情を打ち明けてくれさえすれば、我々といえども貧弱ながら一肌でも二肌でも脱げない筈はなかったろうと思う、それをそうしないで一時譲り渡してたちまちばったり引っかかるワナを設けて置き反間苦肉の策がこしらえてあろうとは全く思いもかけなかった、普通の場合ならばこのワナに引っかかって忽ち参ってしまったかも知れないが、然し吾々はそのワナに引っかかりつつ今強引にそのワナを振り切って進みつつある、我々は最初から生一本だから策も略も無いが、この禍根は今後も相当にうるさく残るだろう、いろいろに形式を変えて我々の事業を妨害し大菩薩峠の今後の出版史に陰に陽に動揺を与えることと思う、神田君が、たとえ窮余とは云いながら、貧すれば鈍するという行き方に出でず、誠意を打ち割ってさえ呉れたなら斯ういう結果にはなるまいと怨むより外は無いが、併し今となっては神田君の誠意をどうしても買うことが出来ない、争うだけ争わねば納るまい事態に落ち込んでしまったが、二十年来提携した間柄として何という荒涼悲惨な事実だろう、併し信仰によらないで利による以上は合うも離れるも争うも闘うも是非なき浮世かも知れない、大菩薩峠の信仰を知らずして、その利益得分をのみ思う時には、当然行き詰まり叩き合うの結果が予想される、今後とても、我々は、幾多のワナや落し穴や流れ矢を受け流しつつ大乗菩薩道の為に進んで行かなければならない悲壮の行程は充分覚悟して居らねばなるまい。
 とは云え、この悲壮なる我々の健闘が決して悲愴なる結果をのみ生むものでは無く、前人の未だかつて夢想しなかったほどの大果報もおのずからその間に生れて来ないとも限らないのである。
中里生いわ
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったりいたりすることは決してない、その辺を御承知の上で御一読を願いたい。(後略)

     大菩薩峠新聞掲載史

 時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
 大菩薩峠の胚芽はいがは余が幼少時代から存していた処であるが、その構想は明治の末であり、そのはじめて発表されたのは大正―年―月―日の都新聞に始まるのである。
 当時余は都新聞の一社員であった、都新聞へ入社したのは当時の主筆田川大吉郎氏に拾われたので、新聞の持主は楠本正敏だんであり、余が二十二歳の時であった。
 田川氏が余輩を拾ったのは、小説家として採用するつもりではなく、むしろ同氏の政治的社会的方面に助力の出来るように、養成されるつもりであったかも知れないが、頑鈍な小生は甚だ融通が利かなくってその方へ向かなかった、今ならば田川さんを助けて政治界へも進出するような余裕もあったかもしれないが、其の当時は、生活と精進とに一杯で、あたら田川さんの期待にそむいてしまったらしい。
 そうして偶然にも予想外の小説の方面に進出し、まあ、相当の成功を見るようになったのは、社中の誰も彼もが皆んな一奇とするところであったが、その辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作の著手といえばもっと古いのだが発表は右の通り、余が二十九歳の時である、当時余は都新聞の一記者として働いていて傍ら小説を書いたのである、小説を書くと多少の特別の手当があり、小説の著作権から来るところの興行の収入、それから※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵木版付で地方新聞へ転載掲載料等の別収入もあったものである、併し余は演劇映画の上演はその頃から絶対謝絶していたから小説を書いたからといって特に目醒めざましい収入というのは無かったのである。
 その書き出しの間もない頃に、伊原青々園君の紹介で、或る本屋から一回一円ずつで買いたいがという交渉があったことを覚えている、当時としては一回一円は却々なかなかよい相場であったらしい、大抵新聞小説などは赤本式に売り飛ばしてしまったらしい、黒岩涙香氏の如きもその探偵小説の版権は無料で何か情誼のある本屋に呉れてしまったというような有様であった。
 併し余は別に考うるところがあったから、興行物も絶対に謝絶し版権も売るようなことをせず、またみだりに出版をあせるようなことをしなかった。
 そうしているうちに百回前後で一きりに切り上げるのを例とした、最初の時に与八がお浜の遺髪を携えて故郷へ帰るあたりで切った時分には読者から愛惜の声が耳に響くほど聞えたようである、しかし新聞は自分の持ちものではなし、いろいろ後を書く人の兼合も考えなければならないから、或る適度で止めるのが賢こい仕方であったのである、そうしているうちにまた次の小説が出たり引込んだりする合間を見ては続稿の筆を執ったのだが、あんまりすんなりとは行かなかった、社中でも奨励するものもあり、内心嫌がっているものもあり、どうもそれはむを得ないことだと思った、それに我輩が誰れが何といって来ても芝居や映画等に同意しなかったものだから、新聞社の景気の為にもその自我を相当に煙たがっていた者もあったようだが、小生はこの小説は長く続く、或は古今未曾有みぞうの長篇になるだろうという腹はその当時から決めていた。
 当時の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵は第一回から通じて井川洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君の筆であった、甚だ稀に数える程洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君が入営するとか、病気とかいう時に門下の人が筆を執ることもあった、洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君も社員の一員として専ら小説の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵を担当し、第一回三回とも毎日二つ描いていた、当時新聞の小説は都でなければならないように思われ、また新聞の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵は洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君の絵に引立てられたものだ、追々洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗※(「厂+圭」、第3水準1-14-82)君と終始して少しも問題は起らなかった。
 それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野しもつけの実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が洋行中のことであった。
 この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
 楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと云われたものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の新聞の羨望の的であった、その新聞を楠本男が急に手離すようになったのは、年漸く老い社務もんで来たせいであろうと思われる、福田氏に譲り渡しの間を周旋したものは松岡俊三君であった。
 松岡君は今は山形県選出の政友会の代議士となっているが都へ入社したのは余と同時であった、当時余は二十二歳、松岡君は二十八歳小生はくすぶった小学校教員上り、松岡君は紅顔の美男子であった、そのうち松岡君は市政方面から政治界へ進出する機会を作ったが、小生は不相変あいかわらず都新聞の第一面の編輯でくすぶっていたのだ、そのうち松岡君は政友会へ入り込んだ、これは市政記者として出入している間に森久保系や何かと懇意なものが出来たせいもあるだろう、余輩もまた同君の政界進出を推奨して、とてもやる以上は寧ろ政友会へ入ったらよかろうと薦めたこともある、しかし、都新聞という新聞はその歴史に於て決して政友系ではあり得ない、先代楠本正敏男が改進系であり、その後の社長も蘆高朗氏も三菱と縁戚関係があり、今の主筆田川氏は大隈系の秀才であり、田川主筆の次席大谷誠夫君は一時円城寺天山あたりと改進党党報の記者をしていたこともあり、編輯氏の山本移山君また四国に於て進歩系の有力家の家に生れた人であったと記憶する、そこを松岡君が政友会の人となり、星亨ほしとおるの追弔文などを書き出したものだから、大谷君が激怒したことがあったように記憶する、つまり松岡君は大谷君が紹介して入社させ、自分が影日向かげひなたになって育てたのに、うらみ重なる政友系の方へ寝返りを打たれたので憤激したものであろうと思っている。
 松岡君はそういう才物であったし、それに男っぷりがいいものだから、先輩に可愛がられる特徴をもっていて、随分金を融通することに妙を得ていた、その松岡君が周旋して都新聞を足利の実業家福田英助氏に買わせた。
 そうして福田君を社長にして自分が先輩を乗り越えて副社長の地位に坐り込んで、その勢で選挙に出馬して首尾よく代議士の議席をち得た、無論政友系として下野の鹿沼あたりから出馬したが、その背景には横田千之助がいたと思われる、松岡と横田との交渉は何処から始まったか知れないが、松岡は大いに横田をつかまえていたらしかった、それと同時に都新聞の背後にも横田系即ち政友系が大いに進出して来た模様であった、しかし社中は従来の歴史を重んじて都新聞を政友系とすることには極力反対していたようであった、これには横田の勢力も松岡の才気も施すすべが無かったようだ、しかし小生としては此度の社の変遷にも何か重大な責任の一部分がありそうな気がしてたまらないからその何れにも関せず、ここで清算しなければならぬと考えたから、当時松岡君がわざわざやって来て是非若いものだけであの新聞をやりたいから踏み止まってくれと説得して来たのは必ずしも儀礼ばかりではない事実上、若いものを主として主力を政友系に置いて大いに発展して見るつもりであったろうと思う、しかし余は全く辞退して前社長楠本男、前主筆田川氏に殉じたとは云わないが、その時代で一時期を画して後任者の経営のもとには全く関係のない身となった、松岡君も我輩の意を諒してその清算に同意してくれた。
 そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
 そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したことになった、その前後に福岡日日新聞で是非あれの続稿を欲しいという交渉が同社の営業部主任たる原田徳次郎君からあったのである、福岡日日へはその前後二三の連載小説を書いたことがあった、そこで原田君の懇望があった時に我輩も考えた、福岡日日新聞という新聞は地方新聞ではあるがなかなか立派な新聞である、新聞格に於ては当時の東京の一流新聞に比べても劣らない、新聞格としては都新聞などよりも上だといってもよろしい、その位の新聞だから、新聞に不足はないけれども、どうも都下の読者でまた後を読みたいという読者が多分にあるのである、どうか東京の読者に読ませるようにしたいものだと思わないことはなかったし、その当時東京朝日新聞などは大いに我輩に目星をつけていたのであるが、妙なことから行き違いになってしまった(この顛末はあとで委しく書く)、しかし、福日が向うからそういう懇望であって見ると、こちらも漸く決心して遂に原田君と約束だけはしてしまって一回の原稿料その時分は八円(これもその当時としてはなかなかいい値であった)ということまで先方の申出で決まってしまったと覚えている。
 そうしているうちに、どういう処から聞きつけたのか、どうして知れたのか、その事は今記憶に無い、或いは小生から出所進退を明かにする為に一応その旨を通告したのかとも考えられるが、兎に角それが松岡君の耳に入ると、松岡君が小生の処へ飛んで来た、ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
「大菩薩峠が他新聞に連載されるとのことだが、これは以ての外のことだ、第一あれほどの作物をあちらこちらへ移動させることは作物に対する礼儀ではないし、色々の事情は兎も角も、発祥地としての都新聞が存在している、殊に友人としての自分が、新聞経営の責任ある地位にり、貴君としても他へ身売りをするような調子になっても困る、都新聞としても他へやることは不面目である、どうか君と我との友人としての意気に於て他新聞へ掲載することは見合せて貰いたい、そうしてやる以上は我が都新聞で自分が責任を持つから同一条件の下に引続いてやってくれ、頼む」
 というようなわけであった、松岡君も斯ういう処はなかなかいい肌合があるので、我輩もその意気には泣かされるものがあった、しかし福日との契約が最早や厳として成立しているのである、それを飜すことは出来ない、いや、それは何とでも、し貴君の方から云いくければこちらから言葉を尽して掛合ってもよろしい、というようなわけで、到頭我輩も松岡君の意気に動かされて、では小生からも一つ福日へ申訳をして見ようということになった、そこで福日でも原田君が他の新聞なら兎に角最初の発祥地である都新聞からの希望ではむを得ないというようなことで、福日も存外分ってくれて話がまとまって、それからまた社外にあって都新聞の為に書き出すことになった。
 それは今の何の巻のどの辺からであったか記憶しないが、相当に続けて行く、松岡君も自分の責任上福日と同一条件で無限に続けてもよろしい、という意気組であったのだが、て進んで行くうちに社中でまた問題が起ったらしい、原稿料が高いとか安いとかいうこともあったろうし、また、無限に続くというようなものを背負い込んでも仕方がないではないかというような苦情もあったろうし、また内容その他に就いても随分批難か中傷かも出て来たらしい、余輩は出社しないからその辺の空気には直接触れなかったが、かなり社中の荷厄介にはなっていたらしく、さりとて松岡君は面目としてどうも社中の空気が困るから見合せてくれとは云ってこられなかろうと思われる、そこは我輩もよき汐合しおあいを見てと思っているうち新聞の方でとうとう堪え切れず、編輯氏の山本移山君が直接に余輩の処へやって来た、山本君は我々や松岡君より先輩で今も都新聞の編輯総長として重きをなしている人だが、同氏も何か堪え切れないものがあったと見えて、当時余輩は早稲田鶴巻町の瑞穂館という下宿屋(これは小生が買い受けて普請をして親戚に貸して置いたもの)の隅っこにいたのであるが、そこへ山本移山君がやって来て、どうか一つ止めて貰いたいという膝詰談判だ。
 そこで余輩は云った、それは松岡君との約束もあるが、小生はそんな約束を楯にとって、ゴテようとは思わないが、何しろプツリと切ることは読んでいてくれる人の為に不忠実である、何でもたしか年の暮まで僅かの一月以内かの日数であったと思うが、ではそれまで書きましょう、そうして中止するにしても相当のくくりをつけて読者にうっちゃりを食わせるような行き方でないように仕末をつけて止めようではないかもう二三十回の処でたしかその年が終える、一月早々別の小説を載せるということは都新聞で幾らも例のあったことであるから、そうしたらどうかという提案を持ち出したが、山本君は、それはどうも困る、自分の立場としては今直ぐに止めて貰いたいという云い分であった、山本君も決して分らない人ではないが、詰り社中の空気が如何に大菩薩峠連載に好感を持っていなかったかという、その力に余儀なくされたものであろうと思う。
 そこで余輩は直ちに答えた、そういうわけならば決して私は要求しません、即時に止めましょう、斯ういう話合で山本君は帰ったのだが、その時に帰り間際に山本君も、しかしまた他の新聞から交渉でもあった時は、都新聞の方へ知らせて貰いたいという希望を一言云われたが、その時小生は、それはお約束は出来ますまい、と云った。
 右のような次第で、こんどは本当に都新聞と絶縁をしてしまったのだ、その時までは都新聞の方でも絶えず新聞も送っていてくれたが、それが済むと新聞の寄贈も無くなり、こちらも辞退した、つまり松岡君との交渉を山本君が代って清算してくれたのだ、小生としては松岡君のかおも立て、都新聞への情誼も尽したつもりでいる、この上他の新聞から交渉がありましたが如何ですかあなたの方はというようなことを云ってやることの出来る筈のものではない、そこで都新聞と大菩薩峠との交渉は一切清算されてしまったのである。
 さてそれから幾程を経て、東京日日と大阪毎日新聞との交渉になるのである。





底本:「中里介山全集第二十巻」筑摩書房
   1972(昭和47)年7月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年6月15日作成
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