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百姓弥之助の話(ひゃくしょうやのすけのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:18:54  点击:  切换到繁體中文

第一冊の序文

 人間世界第一の長篇小説「大菩薩峠」の著者は今回また新たなる長篇小説「百姓弥之助の話」を人間世界に出す。
「百姓弥之助」は日本帝国の忠実なる一平民に過ぎない、全く忠実なる一平民以上でも無ければ以下でもない、この男は日本の国に於て義務教育程度の学校教育だけは与えられている、それ以上の学校教育なるものの恩恵は与えられていない、貧乏と、貧乏から来る内外の体験は厭というほどめさせられているけれども、社会的に人外の差別待遇を蒙るほどの悪視酷遇は受けていない、宗教的には極重罪悪下々凡々の一肉塊に過ぎないが、法律的には未だ前科の極印を打たれた覚えも無い、どうやら人の厄介にならず生きて行けるだけで、人の為に尽そうとしても尽し得る余力が無いのは遺憾きわまりが無いが、如何とも致し難い、官禄の一銭も身に受けていないし、名誉職の一端を荷うほどの器量も無い、ただ一町歩の畑と一町五畝の山林の所有者で、百姓としては珍しく書を読むことと、正道に物を視るだけが取柄である。
「百姓弥之助の話」はこの男が、僅かに一町歩の天地の間から見た森羅万象の記録である、これこそ真に「よしずいから天上のぞく」小説中の小説、囈語中の囈語と云わなければなるまい。「大菩薩峠」は、材を日本の幕末維新の時代に取った一つのロマンスであるとすれば、この「百姓弥之助の話」は、日支事変という歴史的空前の難局の間に粟粒の如く置かれた百姓弥之助の、現実に徹した生活記録とも云えるけれども、要するに小説中の小説であり囈語中の囈語であることは、重ねて多言を要しない。
 自ら筆を執って書いた処もあれば、そうで無いところもあるが、要するに文字上の責任は、百姓弥之助の唯一無二の親友たる介山居士が背負って立ち、出版の方も同氏が一肌ぬいで呉れることになり、隣人社の諸君のお骨折によって、今後、一年に数冊――ずつを、新聞雑誌によらず、この形式で処女単行として世に出し得られる仕組みになっている。ひとえに御賛成を願いたいものである。

神武紀元二千五百九十八年
西暦千九百三十八年
昭和十三年
  春のお彼岸の日
百姓弥之助 敬白
[#改段]


 第一冊 植民地の巻


       一

 百姓弥之助ひゃくしょうやのすけは、武蔵野の中に立っている三階艶消つやけしガラスの窓を開いて、ずっと外を見まわした。いつも見飽みあきている景色だが、きょうはまた馬鹿に美しいと思った。
 秩父ちちぶ連山雄脈、武蔵アルプスが西方に高くそびえて、その背後に夕映の空が金色にかがやいている、それから東南へ山も森も関東の平野には今ぞ秋がたけなわである、弥之助のいる建物は武蔵野の西端の広っぱの一戸建の構えになっている。南に向いている弥之助の眼の前は畑を通して一帯の雑木林が続いて、くぬぎならを主とする林木が赤に黄に彩られている、色彩美しいと云わなければならぬ。その雑木林から崖になっている多摩川沿いに至るまでの間がここの本村になっている、東西は一里、南北は五町乃至ないし十町位のものだろう。そこで多摩川を一つ越すと、それが前にいった通り秩父山脈の余波が、ほぼ平均した高さを以て何里となく東へ足を伸ばしている、だから百姓弥之助の建物のある地盤から見ると「ここは高原の感じがする、山を下に見る」といって山住居やまずまいをしていた或る学者が来て、不思議そうに眺めたことがある。無論高原というほどの地点ではない、武蔵野の一角に過ぎないが、例の秩父山脈の余波の山脚が没入している山のすそよりも原野が高くなっているところを見ると、成るほど薬研やげんのような山谷から来た人の眼には高原と云った感じがするかも知れない。
 さて、百姓弥之助はいつも見飽きているこの植民地のような風景が、今日はバカに美しいと感じながら、しばらくボンヤリと眺めていると、崖下の本村の方から楽隊の音が聞こえ出してゾロゾロと人が登って来る、続いて軍歌の音が送り出されて来る。
天に代りて不義を
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞいで立つ父母の国
…………
 続いて笹付の青竹に旗幟はたのぼりの幾流が続々と繰り出されて来る、村から停車場へと行くこの道は、早くも蜿蜒えんえんたる行列がき栄えられて来た。
 百姓弥之助は、その光景をじっと見てわれに返った。
「また、きょうも出征者だな、家の若い者は誰か見送りに出たかな」
と思いながら、立ちつくしていると、聞くとはなしに軍歌の声が耳に流れ込む、そのうちに彼はなんとなしに自分が幼少時代に見慣れたお葬式の行列のことを思い出した。今から四十年ばかり昔の事だから、もうこの村でもああいった葬式のやり方はすたれてしまっているだろうが、弥之助は思わずその昔の風俗を思い出したのである。

       二

 この辺の寺は大抵禅宗寺になっている。本村に三つ寺があるが、何れも禅宗で、妙心派と建長寺派とに分れている。弥之助の子供の時分にはこの妙心派のお寺が近い隣地にあったものだからよくお葬式の行列を見たり、また納棺最後まで態々わざわざ見届けに行った覚えがある。その時分は火葬ということは無かったから、みんな土葬でひつぎは三尺程高い箱棺で、それに蓮台れんだい天蓋てんがいとはお寺に備えつけのものを借りて来て、天蓋には白紙を張り、それに銀紙でまんじをきざんで張りつけ、蓮台は白木のままの古びた極くお粗末なものであった、そうして、その棺をかつぐのはその庭場庭場の年番の廻持ちでたしか六人位ずつの人足を出していた、穴掘りもそれ等のものがやり、棺を担ぐのもやはりそれ等のものがやったと覚えている。
 愈々いよいよ坊さんの読経も済んで、その家から棺が繰り出す、前後にはそれ相当の紋付、羽織、はかま、女は幾代も幾代も相伝の白無垢しろむくを借着をしたりなんぞして、それぞれ位牌を持ち線香立を持ち、白木のお膳などを持って棺の前後に附き添うと、その周囲には親類だの庭場中の会葬者だのがぞろぞろとついて行くのであった。それからまだ棺の前後には小さな天蓋だの、竜の頭だの仏の名を書いた旗だのというものもつき添っていた。愈々いよいよこの葬列が繰り出すと、同時に棺舁かんかきの六人ばかりの口から念仏の声が前後相呼応して高らかにとなえ出される。
なあーんまいだんぶつ
なあーんまいだんぶつ
 この称名に送られて寺から墓地へと進むのであった、このなあーんまいだんぶつの音律にはおのずから一定した節があって決して出鱈目でたらめではなかった。どうも一寸は真似が出来ないが、あれを遠くで聞いていると、弥之助の幼な心は何となく無常の感じにおそわれて、死出の山路をそろりそろりと人魂ひとだまが歩んで行くような気持がさせられた。
 今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。
勝たずば生きてかえらじと
誓う心の勇ましさ
或は草に伏しかくれ
或は――

 それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、
「生き葬い!」
 ういう気持ちが犇々ひしひしとして魂を吹いて来た。

       三

 この村でも、最早毎日のように出征兵が送られて、二十人以上にも達している。
 上海シャンハイに於て戦死者が一人、負傷者が一人、出たとの事である、それから、この村の人ではないが先程まで、この村で小学校の教鞭をとっていた青年教師が一人これも上海で戦死したそうだ。
 弥之助がついこの間、この畑道から散歩のついでに村の小学校の庭へ入り込んだ事がある。丁度放課時間で子供達が遊戯をしたり、試作園の中で土いじりをしたりしている中を通り抜けて行こうとすると、教室の廊下の中からちょっき姿の若い教師が現われて、なつかしそうに弥之助の傍へ寄って来て、
「百姓先生ではありませんか」
と呼びかけて来た、そこで弥之助も挨拶をすると、その青年教師は弥之助の著書のことから話を切り出して、自分は室町時代の赤松家の後裔こうえいの者であるということを名乗って、赤松家の系図などについて立話しながら、要領のある話をしたことを覚えている。
 この頃聞くと、その教師が最早上海戦の犠牲となってこの世に亡き数に入ってしまったとの事である。実に信ぜられないほどあっけない思いがした。
 弥之助はこの日本の国に生れて今日まで三度出征兵を送り迎えの経験を持っている。
 最初の時は明治二十七八年(西暦一八九四)の日清戦争の時で、その時分はまだ弥之助は九歳か十歳であった、それから第二が明治三十七八年(西暦一九〇四)の時で、彼はその時丁度徴兵検査であった。その時分の彼は東京へ出て所謂いわゆる苦学ということをしていたが、徴兵検査はこの村へ立帰ってこの地の郡役所で受けた。当時の彼はせこけて体量十一貫位であったが、検査の結果は皮膚脆弱というようなことで、乙種の不合格であったと覚えている、しかし戦争が長びけばどうなるか知れないというような噂さは聞いていたものである。それから以来、彼は軍籍には何等の関係の無い身ではあるが、その都度都度の軍国気分というものは可なり深刻に味わされていたものである、が、この度の日支事変に遭って見るとずっと年もとっているし、その立場に於てもはなはだ変ったものが多い。

       四

 つい、この夏、弥之助は信州の高原地でしばらくの間暮した。
 彼は少年時代には相当に肥った丈夫な子供であったが、青年時代は色々の苦しい生活にって非常に健康を害してしまったが、その後修養につとめたせいか、また健康を取り戻し、寒暑共に余り頓着はしなかったが、ようやく老境に入りかけたせいか近来は夏がなかなか苦しい、殊に暑さとに攻められて著作をするというようなことは気がれてたまらない、それでこの頃から高原地へ安居を求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎いなか鉄道が近頃出来上った、この村から汽車で高原地へ行く場合には、この線路をとるのが一番都合がよい、この程、この田舎鉄道の中で、高崎の聯隊へ召集される兵士の幾人かと乗り合せたことがあった、至る処の駅で前に云ったような盛んな送別の行列であった、こんどの召集された兵達は皆相当の年配であって、年は三十五六前後、何れも妻があり子供の二三人もあり、それからそれぞれ一家の業にいそしんでいる人達であった。斯ういう人達が駅から駅へと数を加えて五六名ばかり弥之助の隣りの席で固まって話し出した、何れも初対面の人達ではあるけれども、話し合っている間にトテモ親密な間になってしまったのも無理は無い、死なば諸共もろともという気分が、こういう場合ほどこまやかにき立つ時はあるまい、年功を経た応召兵達の胸を打割った正直な述懐を聞くことが出来た、この辺の本当の土着の農夫としての一人は「もうこれだけにしてもらえば思い置くことはない」といって、正直に感動をしているが、或る技術学校の教師をしていた人だの、東京の下町で然るべき炭薪屋をしながら社大党に属して日頃注意を受けていた人だの、そういう人はかなり立入って自己批判をした、然し、ういう本当の土着の農民もインテリ性を帯びた都会からの帰還入営者も、何等の不平なく国の為に殉じて行くその従順な姿を見ると、日本国民は全く世界無類の忠良な国民だと涙を呑まざるを得なかった。
 それと同時に、斯ういう忠良無比なる国民、妻もあり子もあり、世帯もあり分別もあるこの国の中堅の良民を召集して「好鉄ハ釘トナラズ、好漢ハ兵ニ当ラズ」という伝統の支那兵の鉄砲の前へ肉弾に送ることに於て、当路の責任者は最も深刻にこの国と人を誤らせてはならないという感じを弥之助は犇々ひしひしと胸に焼きつけられた。
 あれからもう三カ月目になる、あの人達は北支か上海かどちらか知らない、今頃はどうなっているか。

       五

 百姓弥之助が、どうしてこの武蔵野の殖民地に住んでいるかということを一通り書いて見ると、彼は今年もう五十二歳になったのである、生れは矢張りこの村の一部で、幼少時代はさのみ貧乏というわけではない、まず中農階級の上等の方にいたものであるが、彼の父が失敗続きで非常なる苦境に陥ってその中で七人の兄弟と共に育ったものだから、云うに云われない生活の苦しみを味っている。
 だが、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それからあらゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは入ることが出来なかったが、そのうち独力で或る一つの発明をして、それが世間に喧伝されその発明が世界的の発明であるというような意味から彼自身もパテントによって相当の産をなして今はその郷里のこの新館に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地に来ていることが多い。
 植民地というのは、かりにそう名づけたこの土地の事で、従来父から僅かばかり残されていた地所があって、それを買い足して全体では三四千坪になっている。ここ七八年来、そのうちの一部にいろいろの建物を十棟ばかり建てて、その他は耕地に使用されている、小作に貸してあるのではない。
 弥之助は感ずるところあって、万事農から出直さなければならないという観念の下に今これだけの地所と別に一町歩あまりの山林とを基礎として小農業の経営を試みてから、これでまだ二年目である。
 弥之助はガラス窓を閉めて三階から降りると、もうあたりは黄昏たそがれの色が流れていた。それから本館を出て赤塗の古風な門をくぐって、農舎の方へ行って見ると、そこで自家用の木炭製造の炭竈すみがまが調子よく煙を吐いていた。
 やがて冬が来る、武蔵野の冬のからッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる青年達にも防寒の用意をさせなければならない、そもそもこの植民地同様のところから出立して、一つ出来るだけ自給自足で行って見ての上の話である。自給自足が最後のものではないけれども、自給自足から出立というのが彼のこの植民地のかなめとなっている。
 そこで、燃料の自給ということから木炭の自家用供給を試みた、試作の順序は良好で、土落ちの加減も煙吸きの調子も甚だ悪くない。だが、かんじんの中味の炭の出来栄できばえが、どういうものかそれは二三日たって見ないとわからない。

       六

 普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
 この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変あいかわらず囲炉裡いろり焚火たきびをやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それにまきの材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
 ところがここに桑の木というものがある。養蚕ようさんの事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、けは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
 先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それにわらを敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇うちわやとうみで盛んにあおった、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
 どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行はやらせてもいい。
 それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云ってよろしい、食物の食いっぷりが極めてよろしい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
 鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利みょうりにそむくと弥之助は考えている。

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