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百姓弥之助の話(ひゃくしょうやのすけのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:18:54  点击:  切换到繁體中文


       二十五

 百姓弥之助は東京から植民地への帰りに、新聞を見るとドイツ軍のオースタリー侵入の記事が目に附いた、それと共にチェコスロバキアがふるえ上って居るという脇見出しもある。英国が準戦時体制を整えたという別見出しもある。
 いよいよヨーロッパも再び行く所まで行かなければ、引けない時代が来たと思わしめられない訳には行かない。従ってそれが東洋へ波動して来るのは知れた事である、どうしてもこの世界全体が、行く所へ行かなければ納まらない時代を直感する。
 要するに世界の人間が、皆生き度いのである、生きる土地を求め度いのである。生きる土地を求める為に殺し合って行くという時代が到来したのではないか。ドイツでは各種の社交クラブは勿論の事、茶屋小屋の卓のビールのコップの下に敷く紙に迄も、

ドイツには植民地が無い、植民地の無いのは手足が無くて胴だけの人間と同じ事だ、国民は一致協力して軍備を充実し、生産を増加する為に、臥薪嘗胆がしんしょうたんをしなければならぬ。
という事を書いて示して置くそうである。
 奪われたるものはその植民地を取り戻さんとし、持たざるものはその植民地を持たんとし、持てるものはその植民地を擁護しようとし、地上に血みどろの世界を現出して居る。それは百姓弥之助が持つ、僅かに一町歩の植民地問題とは訳が違う。
 一町歩の植民王たる弥之助が、昔から植民の文字に多大な魅惑を感じて居たのは、今の世界共通の血みどろな土地要求の叫びとは違っていた。弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落というものを見ると、いつも胸がおどったのである、打ち続く処女林がある、その中を掘割の清水がたぎり流れる、掘立小屋同様の移住民の住居、労働婦を兼ねたお神さんの肉体、ああいう原始味が今日でもどの位、弥之助を魅惑しているか解らない、そこには張り切った労働を基調とする生々たる平和がある、健康の躍動から来たるところの、溌剌はつらつたる肉体の自由がある、弥之助は都会のどんな大廈たいか高楼にも魅惑を感じないが、この原始的生活の植民情味というものには、渾身の魅惑を感じない訳には行かない。弥之助の最初の理想では植民は侵略ではない、侵略と全く違った天業である、この点では清教徒の北米移住を少年時代に読んだ文字のままが先入主となって、人間の清新にして真正なる自由は植民の天地にのみ求め得られるような夢が今だに去らない。
 従って百姓弥之助は植民は即ち宗教だという先入主から離れるわけに行かぬ、およそ侵略とは根本から種苗を異にしたものが即ち植民である。
 北米と南米とは、どうしてああまで開発の相違があるか、地味に於て物資に於て寧ろ北来に優る南米が、何故に文化に遅るること今日の如きか――という問題に答えたある人の答えを記臆している。
 北米を開いたものは信仰の人であった、が、不幸にして南米に着手した人は掠奪の人であった、北米には自由を求めんが為に、信念の鍬を打ち込んだ人が渡ったが、南米には富と物資を覘う我利我利がせつけた、北米に植民した人はその土地をおのれの土地として、神の土地として愛したが、南米に赴く人は、慾の対象として、物資の乱掘場として、跡は野となれという人によって先発せられたのである――その結果が今日に於て知るべきである云々うんぬん。併し、今日では、もはや、地球上のいずれにも自由と信仰を誘うほどの処女地は窮尽してしまったと思われる。

       二十六

 百姓弥之助は荻窪で立臼たちうすきねを一組買い求めた。
 臼は尺五寸位のけやき、極小さなもので二升位しかけない、新品だが少々ひびが入っている、杵をつけて六円で買い求めた。
 弥之助は、植民地で、地殻搗じがらつきをはじめたいと思っている、どうしても一通り農業を原始的に戻してやって見たい、長い杵を足で、ジタンバタンと臼搗きをする、あれをやって見たいと、その出物を近村に求めたが容易に揃わない、やっと杵だけは相当のものを入手したが、臼が容易に見つからない、コンクリの近頃出来のものならば、安くてあるが、あれを使用する気にはならない、やる以上は、古典的に松か欅、そうで無ければ石の臼が欲しい。
 新規に造らせると、二尺未満のもので二十円から二十五六円もする。併し、まあ、何とかして地殻設備は完全にするつもりだ、一たい農業も、自家で取り上げた穀を精米所へやって搗かせるのでは徹底しない、砂を入れて搗くとか、ゴムロールは胚芽の精分をすっかり磨りつぶして死米としてしまうとか、そういう事は別として、搗き上げるまで、どうしても自家でやらなければ、九仭きゅうじんの功ということになり兼ねないと思われる。今時、電気と機械の世の中に、じったんばったんと、原始的労力を加えるなどは、福沢流に体育化しない限り、不経済のきわみと云わなければならないが、ああしていると全く安心の出来る食料が得られるし、その搗き砕けやぬかは、家畜の飼料その他に有力な利用となる。
 すべて機械文明というものは、劇薬的のもので、人目を驚かす偉力を発揮して今日に至っているけれども、これを永久に平均した人体或いは団体健康の上から見ると大きなる疑問がある。すべての仕事を一度原始的に引き戻して、人間自然の発祥から比較検討し直して見ることの予習をやって見る必要は無いか。
 人間が機械を駆使して自然を征服した、今度は機械が人間を駆使してこれを征服するの時代となるのではないか、どうかそうでない様にしたい、人間と機械が相依り相助けて行く世の中に是正は出来ないものか。

       二十七

 三月の半ば百姓弥之助は東京から帰り道、武蔵野原の自分の山林へと立ち寄って見た。
 松林はよく掃除されている、雑木林の落葉は、まだ手廻り兼ねて大部分残されている。
 百姓弥之助は山林が好きで、殊に武蔵野の雑木林と来ては、故郷そのものの感じである、本来はこの雑木林の中に家を建てたいのだが、何分此処ここは水の手が無い、植民地のある処は四十尺も掘れば水に不足は無いが、それから十余町離れたこの地点では百尺以上も掘らなければ水が出ない、それでもどうかすると当り外れがある、それが為に、この雑木林の中の生活を思い止まっている。それでも、この近いところへ最近バラックを一つ建てた人がある、そこへ寄って見ると、越後から来たという青年が、たった一人でこの小屋を守っていた。別だん思索哲学にふける目的ではなく、百坪ばかりの地を求めて、自ら耕作もし、日雇取りにも行く、水はどうすると云えば、数町離れた葡萄園ぶどうえんから貰うのだと答える。
 曇り勝ちで、今にも雨が落ちて来そうだが、存外長持がしている、植民地へ着いて見たが、変った事は無い、麦が青い色をしている、四頭の豚も、十羽の鶏も、二匹の猫も健在だ。
 今年の冬は、好天気続きで降雨降雪というものが甚だ少ないから、麦の出来が、どんなものか知らん――予想した人によると、今年は麦が不作だろうと云っているものがある、が大した事はあるまい、収穫時の降りだけが気にかかる。
 ずっと離れた道路面に置いてあった印刷工場を門内の道場の中に取り入れた、小野生が一人その中でしきりに植字文選をしている、志村生は休み、活版所を継続するに就いては、二三十年来、弥之助は並々ならぬ苦しみをしている、これに投じた費用労力もすくないものではない、いつも功が労に伴わない恨みがあって、放棄して専門店に任せた方が、すべてに便利だとは思うけれども捨て難い、小さくとも手許に自己の活版所を持っているということには、計数の出来ない利便がある、それでも、ボツボツと集めたり放したりしているうちに、八ポの活字と九ポの活字で、先ず一通りの用は足りるだけになっている、このあたり三郡を通じて、これだけ豊富に活字の揃っている工場は無い――(ただ一箇所の東京出版の会社を除いては)――ということになっている。九ポの方は、もう大ぶ磨滅したから、鋳込いこみ直しをしなければならない。

       二十八

 百姓弥之助は毎月数十種の雑誌に眼を通して居る、それはほとんど全部が皆交換寄贈を受けるものであった。それを弥之助はことごとく眼を通して居る、どんな小さい引札の様なものでも、読まないと云う事はない、そうして読んだ後は要領の索引を作って併せて保存して置く。今日は「能率新報」と云って、失礼ながらたった四頁の引札がわりの、ちらしのような雑誌、神田の阿部商店という「名宛印刷器」製造元の機関紙であるが、その中で次のような一文を発見した。


    国民皆農私説

私は「国民総耕作」と言つたことがある。池田林儀が独乙ドイツ留学から帰つて「優生運動」といふのをやり出した時、その雑誌に書いたのである。十五年もまへだ。
国民皆兵である如く、吾々われわれは皆農でなくてはならぬといふのである。兵役に服すると同様に、一生のうちの一二年間、農業に従事して、その年中の国民の主食物を収穫するのである。
この方法を繰返してゆけば、日本人は、皆自ら耕した所の米を生涯たべる権利と余裕とを持つことができるのである。
青年の労働国家奉仕も、この方法でできる。現在の農家ではできぬ治水、開墾などもできる。
日本中の田畑を耕やすのに、何人入用かは計算できる。その人数を国民のうちから年々徴農するのである。
現在の専門農夫は、指導員、准尉、部隊長であつてよろしい。そのうちにだんだん、整理されていく。
今次の応召家族の間には、はき立てた秋蚕しうさんを棄てた家もあつた。秋の穫入とりいれを老母と、産後の病妻とに託さねばならなかつた人もあつた。
吾々は米と麦とをたべて、日本の地の上に生活するのである。その主食物を各自の共力で収穫することは何より愉快である。
在郷軍人が、現役兵の話を聞いて昔をしのぶごとくに、吾々は、毎朝米を食ふごとに、昔の服農を思ひ出すことができる。
農は百業のもとゐである。吾等は地を離れて生活できない。
土に親しむことは青年修養の一つでもある。大自然の恩恵とその暴威とを知ることでもある。
常に日を拝む百姓では駄目である。日照、霖雨りんう、風害には、これと戦つて勝つ機械化した農でなければならぬ。
それには、国民を総動員したる所のブレーントラストでなければならぬ。
実例は皇軍である。皇軍は人類平和のために戦つてゐる。常に備へられてある。
皆農は大自然と戦ふのである。大自然をして主食物を作らしめるのである。これも常に備へられてあるべきだ。
今日の農業の如く、志願主義――志望主義では面白くない。
 百姓弥之助も以前からこれと同様の事を考えて居た。
 いつかこれを最も組織的に「徴農論」という一書を書いて見たいと思って居たのである。弥之助の考うる所では、世界の本当の平和というものは皆農基本から出直さなければ到底実現されるものではない。国民に徴兵制度をくように、農はただ国民だけではない、広く人類一般にこれを施行する事に依って初めて人類が生活の真正の安定心を得る事が出来、国際的摩擦というものが、そこから緩和もされ解消もされるのである。
 即ち人間の経済生活を貿易本位から生産本位に引き直すのである。そうして生産本位を農業に限定するのである。この主義は今迄の経済学と生活法則とを根本から革新する最も徹底した着実の方案で、戦争の絶滅、国際関係の破局を救うき最後の最善の断案だと弥之助は信じて居る。それは人類を原始生活に押し戻すという消極的の夢想ではなく、最も原始的根本的であると共に、あらゆるリベラリズムも、ソシアリズムも皆卒業した後の断案であると、弥之助は信じて居る。処がこれと略々ほぼ同意見をこういう思いがけない、失礼ながらペラペラ雑誌の紙面で発見しようとは案外であった、弥之助は取りあえずその雑誌社へ向けて次のような葉書を書いた。
貴店益々御清栄奉賀候、略儀ながら取りあえず葉書を以て申上候儀は貴店御発行の能率新報最近号のうち「国民皆農私説」は非常なる御卓見と存じ、日頃小生も御同様問題に就き思考致候折から右御一文を何卒小生著作中へ転載の事御許容下され度御願申上候 早々不備(昭和十三年三月○日)

 程なく筆者阿部彰氏から鄭寧な快諾の御返事を受けた。

       二十九

 百姓弥之助の植民地では四頭の豚を飼っている。
 豚の飼養は農家副業としては、先ず収入になる部に属し、此処の案を立てた人は、大いに豚を飼う方針で、菊芋を盛んに植えたものである、菊芋という奴はたしかに豚の飼料にはよろしい、第一その繁殖力が盛んで、え出してからは、っても苅ってもあとからあとから成長する、併し、良畑をつぶしてこれを多量に植えることは考えものである、不用の空地や、地境等に植えて置くと宜しい。
 コロと称する二貫目位の子豚を買い入れて来て、これを半年以上飼養して二三十貫にして売り出すのであるが、昨今のつぶしは一貫目一円五六十銭から九十銭程度である。飼料や手当等を数えたら、そう大して利益とてはあるまいけれど、肥料の収穫が大きいし、また専門的に百頭千頭と飼養すれば相当な事業になる。つぶしに売ることをしないで別に種とりをやり、子を産ませると、その方が利益になる、ここの本村では全国的には豚の飼養が優秀なものだそうであって他府県へも輸出されるとの事だ。
 ここから三里離れた飛行場で有名な立川には岩崎家の子安養豚所がある、これは飛行場よりはむし草分くさわけなのであるが、さすがに岩崎家のものだけに全国一とか東洋一とかいうもので、ここには西洋から、一頭何千円もする種類の種豚が沢山に集められてある、弥之助も一度これを参観したことがある、所ではこころよく場内を見せて呉れたが、ここの種豚の合格品は非常に高価で売買されるが、その不合格品でさえ一頭数十円で希望者に応じきれない、普通この辺の農家でたちのいいのでも豚コロは五円内外に過ぎないが、岩崎のは不合格品で、四十円もすることになっている。
 豚という奴は食う為に生きていて、食われる為に死んで行くように出来ている。廃物でも腐敗物でもこれでイヤと云うことを云わない、フーフー吹いてむさぼり食う有様は寧ろ痛快と云いたい位である、この豚でさえ、仕つけると相当の礼儀作法は覚える。
 子馬も一頭奥州から買入れて飼養したけれど、手数が煩わしいので売り払ってしまった。
 犬は一頭いる、凡犬だけれども、よく吠えるので用心にはなる。
 なお、この辺では狐を飼っている処も、狸を飼っている処もある、養魚池もある、養蚕は全国的にも歴史を持つ地方である。いずれ、それ等の副業、自分がやらないまでも調査研究はして見たいつもりでいる。
 鶏は白色レグホン種を十羽飼養している、三カ月ものを一羽一円ずつで仕入れて五カ月目から産卵をはじめた、良卵を相当に産む、多い時は一日七箇、少ない時は三箇位の産卵、産まない日は無論一つも産まないのである。すべて市場へ出す卵は幼鶏をブローカーから買求めて飼養するのであって、優良種を自家で孵化ふかするのは方法から云っても手間から云っても六つかしいとされているが、ただ自家用産卵をさせる為ならば、地鶏じどりというのがいいそうである、これは鶏としての体躯も小さいし、卵も小ぶりではあるけれど、これなら、非常に容易たやすく、自分の家で孵化することが出来るそうである、今度は、その種類を少しやって見たいと思っている。
 百姓弥之助は有畜農業を是非する訳ではないが、新百姓であり、かたがた動物性の方は成るべく避けて、植物性農業を主とする方針であった。
 そこでこの辺では副業というよりは寧ろ主業とする所の養蚕は、最初から全くやらない方針で、桑園の桑をすっかり抜き取ってしまった。そうしてその後へはすべてさくを作る方針にして居る。これは此処ここ何年というもの、ずっと生糸の値下りから各町村でも、なるべく桑園を作畑に改めさせ、多少の奨励金を出して居るのと吻合ふんごうするところがある。養豚の如きもこれに触れないつもりであったのである。将来共に自家用程度の有畜はやるにしても、これに主力を置くような事はしたくないと思っている。

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