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百姓弥之助の話(ひゃくしょうやのすけのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:18:54  点击:  切换到繁體中文


       三十

 最近の農業は、農業の商業化と云ったような大勢になって居る。
 昔は金肥は殆どつかわず、機械力も極めて単純なもののみであったが、今日はそれとは全く違って居る。
 即ち成るく多く肥料に金をかけ、成る可く多くの収穫を上げようとする行き方になって居る、資本を多く投入して収益を多く見ようという行き方になって居る。つまり農業の資本主義化、商業化である。と云うと小農中の小農制たる日本の、どこに資本の余裕があるかと反問されるかも知れぬが、個々について云うのでなく、全般に於てそうなのである。
 ところでこれを以前の農業の農業でやって行けないものかどうか、昔の農家は今の農家のように、金肥をつかわなかった、金を出して肥料を買うという事は甚だすくなかった、それでも兎に角、農業はやって行けたのである、そうして相当着実でもあり余裕もある中堅農家が相当に存在し得たのである、一体農業というものにだけは、すべてが自給自足出来るようになって居るのが特長では無いか、廃物というものは一つもなく、いて外来物を呼び入れなくとも、行けば行ける性質のものではないか、改良と云い進歩というのは、現在あるものを科学化し或は能率化して行けば、それでよろしいのでは無いか、例えば下肥しもごえの如きも、これを相当科学化して乾燥した固形物とするか、或は粉未として、感じにも取扱いにも効能にも相当の増進率を持たせる、それから蒔物まきものの調節、麦を蒔いたあとへ陸稲とか、そのあとへ何とか、然るべく排列の適否を研究し、金を懸けないで頭と労力を上手に働かして、成功を見るようには出来ないものか。
 弥之助はこの新百姓に取り懸かる時、この事を一農者に尋ねて見るとその人は、言下にこれをしりぞけて言った。
「それは駄目です、今時の百姓はうんと肥料に金を懸けて、うんと収穫をあげるようにしなければ、やって行けないです」
「でも昔の農業は、そう金を懸けずとも立派にやって行けたではないか」
「そりゃあ昔と今では違います、昔はせいぜい一反歩二石も取れれば上々だったのが、今は五石取り十石取りなどという事になって居るです、昔とはてんであがりが違います」
「でも同じ土地で同じ人間の力で、昔は金をかけないでやって行けたのだから、今もそれで、やればやれない筈はないではないか」
「肥料をやらなければ、第一土地がせてしまって収穫がいよいよ低下するばかりです、どうしても肥料に金を懸けなければ駄目です」
「肥料をやらないで野育ちにという訳では無い、成可なるべく金肥をつかわないでやれないか如何どうかという問題である、出来るだけの肥料は自給して、金肥をつかわない方針でやって行く方法は無いかという問題だ」
「そうですね、それは無い事もないです、肥料を多く使わず土地を痩せかさないで、相当の収穫を見て行こうというには、それはなる可く土地を休養させるという方法をとる外はないでしょう」
「そこです、その土地を酷使せず適度の休養を与えて、そのかわり金肥を節約して、農業がやって行けないものかどうか、昔の農業はそれであったのでしょう」
「そうすれば、士地と肥料の調節は出来るとして、問題はその土地ですね、今の農家は適度の休養をさせる程、土地の余裕を持ちません、その点は昔のように、人口が少く比較的に土地が豊富であった時代とは違いますからね」
 弥之助は心ひそかに考えて居る、どうか自分は一つ、その農業の商業化でなく、農業の純農業の立場を行って見度みたい、つまり「土地を酷使せず、相当の休養はさせるが、美食は与えない」という方針でやって見度いものだ、それで相当の改良進歩が行われ、収支経済もつぐなうという道がなければなるまいと考えて居る。

       三十一

 百姓弥之助はうどんを作る事も、そばを打つ事も心得て居る。
 うどん粉というものは、以前は小麦を水車にやってかせたものであるが、近頃は電燈応用の製粉所へやれば、手取早く粉にして呉れる、この水車製粉と電力製粉とを、比較研究して見たわけではないが、昔の水車製粉の甘味は何分忘れられない、米のつき上げに於てもそうである、砂を入れるとか入れないとかいう問題は別として、水車づきの米が何分安心の出来る気分を与える。
 手打うどんを作る段取りは、小麦粉を若干すくい取って、こね鉢の中に入れ適当にこね上げて、それを三尺四方程ののし板の上にのせ、めん棒でのし広げて、畳んで切って熱湯の中へ入れて、ゆで上げれば、それでうどんは出来上ったのであるが、これをざるに取って別に汁をこしらえて、盛りを食べるようにして食べるのが普通の方法である。それからこの地方ではもう一つ俗に「のし込み」というのがある、これはうどんをのして畳んで切って、熱湯の鍋の中へ入れる迄は、前と同じ事だが、それを揚げて取らないで、そのまま野菜を入れ醤油を入れて、煮込みにしてしまうのである。この「のし込み」というのは云わば精進しょうじんのシチューで、原料たる小麦粉が漂白したメリケン粉と違い、日本小麦の持つ原始的の味わいと営養価は、こういう種類の手打ちによって、最もよく発揮される、弥之助は毎日でもこのうどんなり、そばなりを手打ちをして食べ度いと思うけれども、何分手数と時間がかかるので、一人者の弥之助には、そうそうはやりきれない。

       三十二

 一体すべての物と事に相対性原理が行われて居るもので、絶対的に見ると大きな誤算が生ずるものである。同じ容積同じ価格の物が決して同一効果を生じない、例えば、デパートで大量生産的にこしらえたせんべいと、或る小店で手塩にかけてこしらえたせんべいとは、その価格や斤量きんりょうは同じ事でも、営養価が違う、また食器や金物類にしても信用ある独立店で買った方が、デパート物より品物が確かである。一がいには云えないけれども、大量製産物は手工物よりも、目に見えない所に稀薄があるものである。値段の標準を知るにはデパートがよいとしても、好い物を買い、うまいものを食べ度いと思えば、信用のある中小店の方がよろしい。
 そんな様な意味を食物の上に押しつめて行くと、木当のうまいものを食べ様と思えば手料理に限るのである。
 弥之助は三十年来も自炊生活をして居るが、これは特種の性癖であって、決してうまい物を食べ度い贅沢から来て居るのでは無いけれども、その性癖の結果、弥之助独特の美味求真術を悟ったという次第である。
 一体物それ自身の美味は、なまの物に備わって居るに相違ない、だから生食が自然だというのは、一理窟あるけれども、また半面を忘れた大きな欠陥もある、これに就いて弥之助は一つの大きな失敗談を持って居る。それは次のような話である。弥之助が二十何歳の時分の事であった、東京附近の或るお寺の若い住職で生食をもっぱらとする僧侶があった、豆類や野菜を洗って生のまま、重箱に入れて置いて、絶えずそれを食べて一切の火食をしない、そこに本当の味があり健康があるという話を聞いたから、弥之助はその僧侶を尋ねて、生食の福音ふくいんを聞きその儘東京へ帰って、直ちに実行して見たが、たちまち激烈に胃を痛めて今日迄その負傷が残って居る、生食に一面の真理はあるにしてからが、それを行うに体質と心境と環境と歴史を考えなければ、かえって身体を損うようになってしまう、今の人間が純生食をやって見ようとするには、火食に慣らされた胃の腑を徐々に訓練してからでないと、却って有害な結果を見るのである、だから、弥之助は生のものそのものに本来の美味があると云われたからとて、現代人に向って直に生食をなさいとは云わない、必ず相当の料理法を行ったものをお食べなさいと云う。
 そこで料理法というものが登場して来るのだが、これは人間の技巧でその巧拙には際限がない、料理に依って物それの味わいを活殺する事もまた人の知るところである、如何に材料が新鮮優良でも料理の手一つで活かしも殺しもすればこそ割烹店かっぽうてんというものが広大な構えをして、成立って行くのであるが、同時にまた所謂いわゆる巧妙な発達した料理というものが、却って材料を殺してしまっているという例がいくらでもある、殺してしまって居るのではない、活かし得られないのである。
 弥之助は東京の有名な料理店の、相当多数を味わった事もあるが、その店独得の品物や腕前は別として、野菜類などに至ると、どんな腕前を見せた料理でも、弥之助自身が畑から取って来て荒らかに、手鍋の中にぶち込んだ風味に及ぶものはない、それは海岸に於ける魚類に於ても云える事で、ピチピチと網にはねる魚をつかまえて来て直に鍋に入れるという風味は、都会のどんな料理店でもやれない。今日都会の料理店に来る材料は、来る前にもう死んで居るのである、如何に名人上手の庖丁でも死んだものを活かす訳には行かぬ。
 昔江戸時代の料理が、非常に贅沢で高価であって、八百膳などでも茄子なすを鉢植のまま食膳に出し、客がはさみでそれをちぎって食うという、そうして茄子一個の値が一両とか二両とか云われて、涼しい顔をして、それを仕払ったというような話も、あながち悪趣味から来る、豪華のてらいというわけではなく、何か茄子そのものの味に、千金にも替え難き新鮮味が味わえたからではなかったか。
 また別に初松魚はつがつおなどを珍重して、借金を質に入れてまで馬鹿な金を出して、それを買って食うという様な気風も単に江戸ッ子としての見栄みえから来て居るのではない、死んだ材料にばっかり慣らされて居た当時の都会中心人が、新鮮味にえていた変態から出でたのかも知れない、そうしてもう一つは、江戸時代は今より土地の面積も鷹揚おうようであったものだから、名ある料理店となると近い所に、自家の野菜園を持って居たり、堀の外がすぐ農家の畑であったりして、今よりはずっと生きた材料が使えた為に、繁華なお店の台所に腐っていた町人の味覚が飛びつくように新物に随喜した所以ゆえんではないかとも思われる。
 果物についても同じ様な事が云える。近来の果物は出来た果物では無く、こしらえた果物である。スポーツでこしらえた肉体のように豊かには見えるが、引き締まった味というものが無い。弥之助の青年時代には林檎などは高級の果物の方で、書生でこれを食うのはおごりの方であったが、近ごろは、有ゆる果物が進歩した栽培法によって一般国民の間に多量豊富に供給されるにかかわらず、本当にうまいと思う果物を食べたことが無い。





底本:「中里介山全集第十九巻」筑摩書房
   1972(昭和47)年1月30日発行
底本の親本:「百姓弥之助の話 第一冊 植民地の巻」隣人之友社
   1938(昭和13)年4月発行
※「漏れ承る所によると 天皇陛下に」および「この人は毎年麦を 天皇陛下に」の空白は底本のままです。
※「殖民地」と「植民地」、「碾割」と「引割」、「独占」と「独専」の混在は底本通りにしました。
入力:遠藤勇一(隣人館)
校正:多羅尾伴内
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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