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李陵(りりょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:39:23  点击:  切换到繁體中文

     一

 かん武帝ぶてい天漢てんかん二年秋九月、騎都尉きとい李陵りりょうは歩卒五千を率い、辺塞遮虜※(「章+おおざと」、第3水準1-92-79)へんさいしゃりょしょうを発して北へ向かった。阿爾泰アルタイ山脈の東南端が戈壁沙漠ゴビさばくに没せんとする辺の※(「石+角」、第3水準1-89-6)こうかくたる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風さくふう戎衣じゅういを吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北ばくほく浚稽山しゅんけいざんふもとに至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴きょうどの勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿うまごやしも枯れ、にれ※(「木+聖」、第3水準1-86-19)かわやなぎの葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍きんぼうを除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩とかわらと、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野こうやに水を求める羚羊かもしかぐらいのものである。突兀とっこつと秋空をくぎる遠山の上を高くかりの列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同だれ一人として甘い懐郷の情などにそそられるものはない。それほどに、彼らの位置は危険きわまるものだったのである。
 騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬にまたがる者は、陵とその幕僚ばくりょう数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀のきわみというほかはない。その歩兵もわずか五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山しゅんけいざんは、最も近い漢塞かんさい居延きょえんからでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
 毎年秋風が立ちはじめるときまって漢の北辺には、胡馬こばむちうった剽悍ひょうかんな侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民がかすめられ、家畜が奪略される。五原ごげん朔方さくほう雲中うんちゅう上谷じょうこく雁門がんもんなどが、その例年の被害地である。大将軍衛青えいせい嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいの武略によって一時漠南ばくなんに王庭なしといわれた元狩げんしゅ以後元鼎げんていへかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病かくきょへいが死んでから十八年、衛青えいせい歿ぼっしてから七年。※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)野侯さくやこう趙破奴ちょうはどは全軍を率いてくだり、光禄勲こうろくくん徐自為じょじい朔北さくほくに築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼をつなぐに足る将帥しょうすいとしては、わずかに先年大宛だいえんを遠征して武名をげた弐師じし将軍李広利りこうりがあるにすぎない。
 その年――天漢二年夏五月、――匈奴きょうどの侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉しゅせんを出た。しきりに西辺をうかがう匈奴の右賢王うけんおうを天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重しちょうのことに当たらせようとした。未央宮びおうきゅう武台殿ぶだいでんに召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍ひしょうぐんと呼ばれた名将李広りこうの孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射きしゃの名手で、数年前から騎都尉きといとして西辺の酒泉しゅせん張掖ちょうえきってしゃを教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重しちょうの役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚けいその一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討ってで、側面から匈奴の軍を牽制けんせいしたいという陵の嘆願には、武帝もうなずくところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍にくべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重しちょうの役などに当てられるよりは、むしろおのれのために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきをおかすほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手はで好きな武帝は大いによろこんで、その願いをれた。李陵は西、張掖ちょうえきに戻って部下の兵をろくするとすぐに北へ向けて進発した。当時居延きょえんたむろしていた彊弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくが詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶるまずいことになってきた。元来この路博徳ろはくとくという男は古くから霍去病かくきょへいの部下として軍に従い、※(「丕+おおざと」、第3水準1-92-64)離侯ふりこうにまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波ふくは将軍として十万の兵を率いて南越なんえつを滅ぼした老将である。その後、法にして侯を失い現在の地位におとされて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯ほうこうをも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵こうじんを拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴きょうどの馬は肥え、寡兵かへいをもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒えいほうにはいささか当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉しゅせん張掖ちょうえきの騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見るとひどく怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気おじけづくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、なんじはこれと協力する必要はない。今匈奴が西河せいがに侵入したとあれば、なんじはさっそく陵を残して西河にせつけ敵の道をさえぎれ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北ばくほくに至り東は浚稽山しゅんけいざんから南は竜勒水りょうろくすいの辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)野侯さくやこうの故道に従って受降城じゅこうじょうに至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、というはげしい詰問きつもんのあったことは言うまでもない。寡兵かへいをもって敵地に徘徊はいかいすることの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引けんいん力と、冬へかけての胡地こちの気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王ようおうではなかったが、同じく庸王ではなかったずい煬帝ようだい始皇帝しこうていなどと共通した長所と短所とをっていた。愛寵あいちょう比なき夫人の兄たる弐師じし将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛だいえんから引揚げようとして帝の逆鱗げきりんにふれ、玉門関ぎょくもんかんをとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘わがままでも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともとみずかうた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇ちゅうちょすべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。

 浚稽山しゅんけいざんの山間には十日余とどまった。その間、日ごとに斥候せっこうを遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形をあますところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下きか陳歩楽ちんほらくという者が身に帯びて、単身都へせるのである。選ばれた使者は、李陵りりょう一揖いちゆうしてから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨うちまたがると、一鞭ひとむちあてて丘を駈下かけおりた。灰色に乾いた漠々ばくばくたる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
 十日の間、浚稽山しゅんけいざんの東西三十里の中には一人の胡兵こへいをも見なかった。
 彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師じし将軍はいったん右賢王うけんおうを破りながら、その帰途別の匈奴きょうどの大軍に囲まれて惨敗ざんぱいした。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。そのうわさは彼らの耳にも届いている。李広利りこうりを破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※いんう[#「木+于」、10-7]将軍公孫敖こうそんごう西河せいが朔方さくほうの辺でふせいでいる(りょうと手を分かった路博徳ろはくとくはその応援にせつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南かなん(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴きょうどの主力は現在、陵の軍の止営地から北方※(「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-67)居水しっきょすいまでの間あたりにたむろしていなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方をながめるのだが、東方から南へかけてはただ漠々ばくばくたる一面の平沙へいさ、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとしてたかはやぶさかと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵こへいをも見ないのである。
 山峡の疎林のはずれに兵車を並べて囲い、その中に帷幕いばくを連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取っていては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星ろうせいが、青白い光芒こうぼうを斜めにいて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退たちのいて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨ほしょうが見るともなくこの爛々らんらんたる狼星ろうせいを見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬおおきな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨ほしょうが声を立てようとしたとき、それらの遠くのはフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
 歩哨ほしょうの報告に接した李陵りりょうは、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、らいのごとき鼾声かんせいを立てて熟睡した。
 翌朝李陵が目をまして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、ほこたてとを持った者が前列に、弓弩きゅうどを手にした者が後列にと配置されているのである。この谷をはさんだ二つの山はまだ暁暗ぎょうあんの中に森閑しんかんとはしているが、そこここの巌蔭いわかげに何かのひそんでいるらしい気配けはいがなんとなく感じられる。
 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴きょうどは、単于ぜんうがまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時にいた。天地をゆるがす喊声かんせいとともに胡兵こへいは山下に殺到した。胡兵の先登せんとうが二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声こせいが響く。たちまち千弩せんどともに発し、弦に応じて数百の胡兵こへいはいっせいに倒れた。間髪かんはつを入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者じげきしゃらが襲いかかる。匈奴きょうどの軍は完全についえて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首りょしゅを挙げること数千。
 あざやかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上になびいていた旗印から見れば、紛れもなく単于ぜんうの親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰ごづめの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城じゅこうじょうへという前日までの予定を変えて、半月前に辿たどって来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞きょえんさい(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
 南行三日めのひる、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵こうじんの揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右をすきもなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗にりたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍をめて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦はくせんを避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実にえていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野こうやの狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句あげく、いつかは最後のとどめを刺そうとその機会をうかがっているのである。
 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵りりょうは全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器をって闘わしめ、両創をこうむる者にもなお兵車を助けさしめ、三創にしてはじめてれんに乗せてたすけ運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体したいはすべて曠野こうやに遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車しちょうしゃ中に男の服をまとうた女を発見した。全軍の車輛しゃりょうについて一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時にりくったとき、その妻子等がわれて西辺にうつり住んだ。それら寡婦かふのうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とくいとする娼婦しょうふとなり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北ばくほくまで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らをるべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間たにま凹地おうちに引出された女どもの疳高かんだか号泣ごうきゅうがしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙にまれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然しゅくぜんたる思いで聞いた。
 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体したい三千余。連日の執拗しつようなゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気がにわかにふるい立った形である。次の日からまた、もとの竜城りゅうじょうの道にしたがって、南方への退行が始まる。匈奴きょうどはまたしても、元の遠巻き戦術にかえった。五日め、漢軍は、平沙へいさの中にときに見出みいだされる沼沢地しょうたくちの一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘でいねいはぎを没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原かれあしはらが続く。風上かざかみまわった匈奴の一隊が火を放った。朔風さくふうほのおあおり、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近のあしに迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地そじょちの車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘でいねいの中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿たどりついたとたんに、先廻さきまわりして待伏せていた敵の主力の襲撃にった。人馬入乱れての搏兵はくへい戦である。騎馬隊のはげしい突撃を避けるため、李陵は車をてて、山麓さんろくの疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于ぜんうとその親衛隊とに向かって、一時に連弩れんどを発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍せいほうをまとった胡主こしゅはたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于をすくい上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗しつような敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体したいはまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
 この日捕えた胡虜こりょの口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于ぜんうは漢兵の手強てごわさに驚嘆し、おのれに二十倍する大軍をもおそれず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それをたのんでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将にらして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢かぜいを滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北にかえそうということに決まったという。これを聞いて、校尉こうい韓延年かんえんねん以下漢軍の幕僚ばくりょうたちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものがかすかにいた。
 翌日からの胡軍こぐんの攻撃は猛烈を極めた。捕虜ほりょの言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳てきびしい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴きょうどらは遮二無二しゃにむに漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体したいのこして退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚ばくりょう一同いささかホッとしたことは争えなかった。
 その晩、漢の軍侯ぐんこう管敢かんかんという者が陣を脱して匈奴の軍にくだった。かつて長安ちょうあん都下の悪少年だった男だが、前夜斥候せっこう上の手抜かりについて校尉こうい成安侯せいあんこう韓延年かんえんねんのために衆人の前で面罵めんばされ、むち打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間たにまざんに遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣こじんげて単于ぜんうの前に引出されるや、伏兵をおそれて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋なんじゅうを極めている。漢軍の中心をなすものは、将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白とのをもって印としているゆえ、明日胡騎こきの精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅かいめつするであろう、云々うんぬん単于ぜんうは大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
 翌日、李陵りりょう韓延年かんえんねんすみやかにくだれと疾呼しっこしつつ、胡軍の最精鋭は、黄白のを目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道からはるかに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくにそそいだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜※(「章+おおざと」、第3水準1-92-79)しゃりょしょうを出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟とうそうぼうげきの類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、ほこを失ったものは車輻しゃふくってこれを持ち、軍吏ぐんり尺刀せきとうを手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよせまくなる。胡卒こそつは諸所のがけの上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍しし※(「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24)るいせきとでもはや前進も不可能になった。
 その夜、李陵は小袖短衣しょうしゅうたんい便衣べんいを着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山のかいからのぞいて谷間にうずたかしかばねを照らした。浚稽山しゅんけいざんの陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡かたおかの斜面は水にれたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣をうかがってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子をうかがった。遠く山上の敵塁から胡笳こかの声が響く。かなり久しくたってから、音もなくとばりをかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀きょしょうに腰をおろした。全軍斬死ざんしのほか、みちはないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏ぐんりの一人が口を切り、先年※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)野侯さくやこう趙破奴ちょうはど胡軍こぐんのために生擒いけどられ、数年後に漢にげ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵かへいをもって、かくまで匈奴きょうど震駭しんがいさせた李陵りりょうであってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇するみちを知りたもうであろうというのである。李陵はそれをさえぎって言う。陵一個のことはしばらくけ、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様ありさまでは、明日の天明には全軍がしてばくを受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞へんさい辿たどりついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は※(「革+是」、第3水準1-93-79)汗山ていかんざん北方の山地に違いなく、居延きょえんまではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残されたみちはないではないか。諸将僚もこれにうなずいた。全軍の将卒に各二升のほしいいと一個の冰片ひょうへんとがわかたれ、遮二無二しゃにむに遮虜※(「章+おおざと」、第3水準1-92-79)しゃりょしょうに向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗せいきを倒しこれをって地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうるおそれのあるものも皆打毀うちこわした。夜半、して兵を起こした。軍鼓ぐんこの音もさんとして響かぬ。李陵は韓校尉かんこういとともに馬にまたがり壮士十余人を従えて先登せんとうに立った。この日追い込まれた峡谷きょうこくの東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
 早い月はすでに落ちた。胡虜こりょの不意をいて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃にった。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬こばむちうって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙へいさの上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵りりょうはまた峡谷の入口の修羅場しゅらばにとって返した。身には数創を帯び、みずからの血と返り血とで、戎衣じゅういは重くれていた。彼と並んでいた韓延年かんえんねんはすでに討たれて戦死していた。麾下きかを失い全軍を失って、もはや天子にまみゆべき面目はない。彼はほこを取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入かけいった。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢ながれやに当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうとほこを引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部にくらって失神した。馬から顛落てんらくした彼の上に、生擒いけどろうと構えた胡兵こへいどもが十重二十重とえはたえとおり重なって、とびかかった。

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