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李陵(りりょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:39:23  点击:  切换到繁體中文


       二

 九月に北へ立った五千の漢軍かんぐんは、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞へんさい辿たどりついた。敗報はただちに駅伝えきでんをもって長安ちょうあんの都に達した。
 武帝ぶていは思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利りこうりの大軍さえ惨敗ざんぱいしているのに、一支隊たる李陵の寡軍かぐんにたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北ばくほくから「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛おうせい」の報をもたらした陳歩楽ちんほらくだけは(彼は吉報の使者としてよみせられろうとなってそのまま都にとどまっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
 翌、天漢てんかん三年の春になって、李陵りりょうは戦死したのではない。捕えられてに降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒かくどした。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象のはげしさは壮時に超えている。神仙しんせんの説を好み方士巫覡ほうしふげきの類を信じた彼は、それまでにおのれの絶対に尊信する方士どもに幾度かあざむかれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗しつようにつきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達かったつだった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑さいぎを植えつけていった。李蔡りさい青霍せいかく趙周ちょうしゅうと、丞相じょうしょうたる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀こうそんがのごとき、命を拝したときにおのが運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢こうこつかん汲黯きゅうあんが退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣ねいしんにあらずんば酷吏こくりであった。
 さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属けんぞく家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉ていいが常に帝の顔色をうかがい合法的に法をげて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれをなじったところ、これに答えていう。前主のとするところこれがりつとなり、後主の是とするところこれがりょうとなる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相じょうしょう公孫賀こうそんが御史大夫ぎょしたいふ杜周としゅう太常たいじょう趙弟ちょうてい以下、誰一人として、帝の震怒しんどを犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為をののしる。陵のごとき変節漢へんせつかんと肩を比べてちょうに仕えていたことを思うといまさらながらずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟いとこに当たる李敢りかんが太子のちょうを頼んで驕恣きょうしであることまでが、陵への誹謗ひぼうの種子になった。口をかんして意見をらさぬ者が、結局陵に対して最大の好意をつものだったが、それも数えるほどしかいない。
 ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣ざんぶしているのは、数か月前李陵が都を辞するときにさかずきをあげて、その行をさかんにした連中ではなかったか。漠北ばくほくからの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広りこうの孫と李陵の孤軍奮闘をたたえたのもまた同じ連中ではないのか。てんとして既往を忘れたふりのできる顕官けんかん連や、彼らの諂諛てんゆを見破るほどに聡明そうめいではありながらなお真実に耳を傾けることをきらう君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫かたいふの一人としてちょうにつらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵をめ上げた。言う。陵の平生を見るに、親につかえて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるはまことに国士のふうありというべく、今不幸にして事一たび破れたが、身を全うし妻子をやすんずることをのみただ念願とする君側の佞人ねいじんばらが、この陵の一失いっしつを取上げてこれを誇大歪曲わいきょくしもってしょうの聡明をおおおうとしているのは、遺憾いかんこの上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴きょうど数万の師を奔命ほんめいに疲れしめ、転戦千里、矢尽き道きわまるに至るもなお全軍空弩くうどを張り、白刃はくじんを冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、いにしえの名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずしてくだったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみをふるわせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
 向こう見ずなその男――太史令たいしれい司馬遷しばせんが君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣」の一人が、せん李陵りりょうとの親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令はゆえあって弐師じし将軍とげきあり、遷が陵をめるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞しゅっさいして功のなかった弐師将軍をおとしいれんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀せいれきぼくしつかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜ふそんな態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉ていいに下された。刑はきゅうと決まった。
 支那しなで昔から行なわれた肉刑にくけいおもなるものとして、けい※(「鼻+りっとう」、第3水準1-14-65)(はなきる)、※(「非+りっとう」、第4水準2-3-25)(あしきる)、きゅう、の四つがある。武帝の祖父・文帝ぶんていのとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑きゅうけいのみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ふけいともいうのは、そのきずが腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木ふぼくの実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人えんじんと称し、宮廷の宦官かんがんの大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷しばせんがこの刑にったのである。しかし、後代の我々が史記しきの作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令たいしれい司馬遷はびょうたる一文筆のにすぎない。頭脳の明晰めいせきなことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人ひとに負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人へんくつじんとしてしか知られていなかった。彼が腐刑ふけいったからとて別に驚く者はない。
 司馬氏はもとしゅうの史官であった。後、しんに入り、しんに仕え、かんの代となってから四代目の司馬談しばたんが武帝に仕えて建元けんげん年間に太史令たいしれいをつとめた。この談が遷の父である。専門たるりつれきえきのほかに道家どうかの教えにくわしくまたひろじゅぼくほうめい諸家しょかの説にも通じていたが、それらをすべて一家のけんをもってべて自己のものとしていた。おのれの頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子むすこの遷に受嗣うけつがれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内かいだいの大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
 元封げんぽう元年に武帝が東、泰山たいざんに登って天を祭ったとき、たまたま周南しゅうなんで病床にあった熱血漢ねっけつかん司馬談しばたんは、天子始めて漢家のほうを建つるめでたきときに、おのれ一人従ってゆくことのできぬのをなげき、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史つうしの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集しゅうしゅうのみで終わってしまったのである。その臨終りんじゅうの光景は息子・せんの筆によって詳しく史記しきの最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまたちがたきを知るや遷を呼びその手をって、ねんごろに修史しゅうしの必要を説き、おのれ太史たいしとなりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟じせきむなしく地下に埋もれしめる不甲斐ふがいなさをなげいて泣いた。「死せばなんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、なんじそれおもえやと繰返したとき、遷は俯首流涕ふしゅりゅうていしてその命にそむかざるべきを誓ったのである。
 父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷しばせん太史令たいしれいの職を継いだ。父の蒐集しゅうしゅうした資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝ふしそうでんの天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初たいしょ元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記しき編纂へんさんに着手した。遷、ときに年四十二。
 腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋しゅんじゅうを推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝さでん国語こくごになると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出はあざやかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許みもと調べの欠けているのが、司馬遷しばせんには不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然するていのものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積うっせきしたものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものをつくるという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中でえがいてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子こうしならって、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容をことにした述而不作のべてつくらずである、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
 漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝しこうていの反文化政策によって湮滅いんめつしあるいは隠匿いんとくされていた書物がようやく世に行なわれはじめ、おこらんとする気運が鬱勃うつぼつとして感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、の出現を要求しているときであった。司馬遷しばせん個人としては、父の遺嘱いしょくによる感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然こんぜんたるものを生み出すべく醗酵はっこうしかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀ごていほんぎから夏殷周秦かいんしゅうしん本紀あたりまでは、彼も、材料を按排あんばいして記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽こうう本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
 項王すなわチ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬しゅんめ名ハすい、常ニこれニ騎ス。ここおいテ項王すなわチ悲歌慷慨こうがいシ自ラ詩ヲつくリテいわク「力山ヲ抜キ気世ヲおおフ、時利アラズ騅カズ、騅逝カズ奈何いかんスベキ、虞ヤ虞ヤなんじ奈何いかニセン」ト。歌フコト数※(「門<癸」、第3水準1-93-53)けつ、美人之ニ和ス。項王なみだ数行下ル。左右皆泣キ、ク仰ギルモノシ……。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌はつらつたる述べ方であったか? 異常な想像的視覚をった者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸をめる。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽こううが項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝しこうてい荘王そうおうもみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかい范増はんぞうが、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
 調子のよいときの武帝ぶていまこと高邁闊達こうまいかったつな・理解ある文教の保護者だったし、太史令たいしれいという職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周ほうとうひしゅう擠陥讒誣せいかんざんぶによる地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
 数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚かんぷなきまでに説破することを最も得意としていた。
 さて、そうした数年ののち、突然、このわざわいくだったのである。

 薄暗い蚕室さんしつの中で――腐刑ふけい施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火をおこして暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然ぼうぜんと壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。ざんうこと、死をたまうことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死けいしするおのれの姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵りりょうめ上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念けねんは自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋しゅうろう宮刑きゅうけいにあおうとは! 迂闊うかつといえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものをっていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨こうがいの士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱のには緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことがわかってくるのだと。司馬遷しばせんは自分をだと信じていた。文筆のではあっても当代のいかなる武人ぶじんよりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂くるまざきの刑なら自分の行く手に思いえがくことができたのである。それがよわい五十に近い身で、このはずかしめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室さんしつの中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽おえつとも怒号どごうともつかない叫びが彼の咽喉のどを破った。
 痛憤と煩悶はんもんとの数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢こんていから異なったの国のこととて、当然、彼はまず、武帝をうらんだ。一時はその怨懣えんまんだけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者じゅしゃと違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨しえんのために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらくくとするも、仁君じんくん文帝ぶんていも名君景帝けいていも、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷しばせんは極度の憤怨ふんえんのうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天のせる疾風暴雨霹靂へきれきに見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的ないきどおりへとったが、また一方、逆に諦観ていかんへも向かわせようとする。怨恨えんこんが長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣かんしんに向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心じきょうしんの高い彼にとって、彼ら小人輩しょうじんはいは、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣かんしん酷吏こくりよりも始末が悪い。少なくともかたわらから見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそうしからぬのだ。弁護もしなければ反駁はんばくもせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相じょうしょう公孫賀こうそんがのごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛あゆ迎合げいごうを事としても、杜周としゅう(最近この男は前任者王卿おうけいを陥れてまんまと御史大夫ぎょしたいふとなりおおせた)のようなやつは自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
 司馬遷は最後に忿懣ふんまんの持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵りりょうのために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別まずかったとは考えぬ。阿諛あゆするに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受かんじゅしなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解しかいされようと腰斬ようざんにあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑きゅうけいは――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言しょくげんの余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともにえることもあろうが、おのが身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? おのれのどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
 茫然ぼうぜんとした虚脱きょだつの状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩きまわる。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
 我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣ふんまんとの中で、たえず発作ほっさ的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然ばくぜんと感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
 許されて自宅に帰り、そこで謹慎きんしんするようになってから、はじめて、彼は、自分がこのひと月狂乱にとりまぎれておの畢生ひっせいの事業たる修史しゅうしのことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺からはばむ役目を隠々いんいんのうちにつとめていたことに気がついた。
 十年前臨終りんじゅうとこで自分の手をとり泣いて遺命いめいした父の惻々そくそくたる言葉は、今なお耳底じていにある。しかし、今疾痛しっつう惨怛さんたんきわめた彼の心の中にってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいうたのしいていのものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然こうぜんとして自らをする自覚ではない。恐ろしくの強い男だったが、今度のことで、おのれのいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張いばってみたところで、所詮しょせん己は牛にふみつぶされる道傍みちばたの虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃じじも失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えてもたのしいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁いんねんに近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事とのつながりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
 当座の盲目的な獣のうめき苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れるみちのないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫じょうふたる太史令たいしれい司馬遷しばせん天漢てんかん三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外にみちはなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身をきものと思い込む必要があったのである。
 いつ月ののち、司馬遷はふたたび筆をった。よろこびも昂奮こうふんもない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打むちうたれて、傷ついた脚を引摺ひきずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。いささか後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令ちゅうしょれいに取立てたが、官職の黜陟ちゅっちょくのごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然しょうぜんたる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊あくりょうにでも取りかれているようなすさまじさを、人々は緘黙かんもくせる彼の風貌ふうぼうの中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
 凄惨せいさんな努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることのよろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌ふうぼうの中のすさまじさも全然やわらげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者かんじゃとか閹奴えんどとかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えずうめき声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上しょうじょうに横になったときでも、ふとこの屈辱の思いがきざしてくると、たちまちカーッと、焼鏝やきごてをあてられるような熱いうずくものが全身をけめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺あたりを歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばっておのれを落ちつけようと努めるのである。

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