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悟浄歎異(ごじょうたんに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:31:04  点击:  切换到繁體中文

 昼餉ひるげののち、師父しふが道ばたの松の樹の下でしばらくいこうておられる間、悟空ごくう八戒はっかいを近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「りゅうになりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんなててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、いんを結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将あおだいしょうが現われた。そばで見ていたおれは思わず吹出してしまった。
「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空がしかった。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、おれは。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
「だめだめ。てんで気持がらないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
 よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇にしきへびには違いないが、小さな前肢まえあしが生えていて、大蜥蜴おおとかげのようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨふくれており、短い前肢で二、三歩うと、なんとも言えない無恰好ぶかっこうさであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
「もういい。もういい。めろ!」と悟空が怒鳴る。頭をき掻き八戒が現われる。

悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。
悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。

 悟空によれば、変化へんげの法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとくおのれの気持を純一無垢むく、かつ強烈なものに統一する法を学ぶにる。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化へんげの術が人間にできずして狐狸こりにできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事さじたず、したがってこの統一が容易だからである、云々うんぬん

 悟空ごくうは確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこのさるを見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、赭顔あからがお鬚面ひげづらのその容貌ようぼうを醜いと感じたおれも、次の瞬間には、彼の内からあふれ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その面魂つらだましいにもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きとあふれている。この男はうそのつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信にちてくる。彼は火種ひだね。世界は彼のために用意されたたきぎ。世界は彼によって燃されるために在る。
 我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動をうながす機縁だったりする。もともと意味をったそとの世界が彼の注意をくというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界にむなしく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてをあたため、(ときにがすおそれもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、かれ悟空ごくうの眼にとって平凡陳腐ちんぷなものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、溜息ためいきをついて、讃嘆さんたんするのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼をみはるのも、この男である。
 この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身いささかのすきもないたくましい緊張。律動的で、しかも一のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体がよろこび・たけり・汗ばみ・ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をもよろこんで迎える強靱きょうじんな精神力の横溢おういつ。それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵ひまわりよりも、鳴盛なきさかせみよりも、もっと打込んだ・裸身の・さかんな・没我的な・灼熱しゃくねつした美しさだ。あのみっともないさるの闘っている姿は。
 ひと月ほど前、彼が翠雲すいうん山中で大いに牛魔ぎゅうま大王と戦ったときの姿は、いまだにはっきり眼底に残っている。感嘆のあまり、おれはそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。

……牛魔王一匹の※(「けものへん+章」、第3水準1-87-80)こうしょうと変じ悠然ゆうぜんとして草をくらいいたり。悟空ごくうこれを悟りとらに変じけ来たりて香※(「けものへん+章」、第3水準1-87-80)を喰わんとす。牛魔王急に大豹だいひょうと化して虎を撃たんと飛びかかる。悟空これを見て※(「けものへん+俊のつくり」、第3水準1-87-75)からししとなり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王、さらばと黄獅きじしに変じ霹靂へきれきのごとくにほえたけって※(「けものへん+俊のつくり」、第3水準1-87-75)からししを引裂かんとす。悟空このとき地上に転倒すと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻は長蛇ちょうだのごとくきばたかんなに似たり。牛魔王堪えかねて本相をあらわし、たちまち一匹の大白牛はくぎゅうたり。頭は高峯こうほうのごとく眼は電光のごとく双角は両座の鉄塔に似たり。頭より尾に至る長さ千余丈、ひづめより背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわっていわく、※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)なんじ悪猴わるざる今我をいかんとするや。悟空また同じく本相をあらわし、大喝だいかつ一声するよと見るまに、身の高さ一万丈、かしら泰山たいざんに似て眼は日月のごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然鉄棒をふるって牛魔王を打つ。牛魔王つのをもってこれを受止め、両人半山の中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海も湧返わきかえり、天地もこれがために反覆はんぷくするかと、すさまじかり。……


 なんという壮観だったろう! おれはホッと溜息ためいきを吐いた。そばから助太刀すけだちに出ようという気も起こらない。孫行者そんぎょうじゃの負ける心配がないからというのではなく、一ぷくの完全な名画の上にさらにつたない筆を加えるのをじる気持からである。

 災厄さいやくは、悟空ごくうの火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々えんえんと燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽こまのように、彼は、いつも全速力でまわっていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭めいりょうに、彼には見えるのだ。あるいは、そのみち以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜やみよの発光文字のごとくに、必要なみちだけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々鈍根どんこんのものがいまだ茫然ぼうぜんとして考えもまとまらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力を云々うんぬんする。しかし、その驚くべき天才的な智慧ちえについては案外知らないようである。彼の場合には、その思慮や判断があまりにも渾然こんぜんと、腕力行為の中に溶け込んでいるのだ。
 おれは、悟空の文盲もんもうなことを知っている。かつて天上で弼馬温ひつばおんなる馬方うまかたの役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧ちえと判断の高さとを何ものにもして高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関するかぎり、彼の知識は相当なものだ。彼は、たいていの動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実によく心得ている。そのくせ、その動物や植物の名称(世間一般に通用している名前)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、角宿かくしゅくという名も心宿しんしゅくという名も知りはしない。二十八宿しゅくの名をことごとくそらんじていながら実物ほんものを見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字いっていじのないこのさるの前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。

 悟空ごくうの身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつもうれしくてたまらないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏のはちのようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄きはくにもかかわらず、どこか遊戯ゆうげの趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪ようかいを退治するなり、三蔵法師さんぞうほうしを救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。太上老君たいじょうろうくん八卦炉はっけろ中に焼殺されかかったときも、銀角大王の泰山たいざん圧頂の法にうて、泰山・須弥山しゅみせん峨眉山がびさんの三山の下につぶされそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、小雷音寺しょうらいおんじ黄眉こうび老仏のために不思議な金鐃きんにょうの下に閉じ込められたときである。せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いてきりと変じ、これで穴を穿うがとうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものをかして水と化するこの器の力で、悟空の臀部でんぶのほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられた師父しふの身の上ばかりを気遣きづかっていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来た亢金竜こうきんりょうがその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外から金鐃きんにょうを突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角にまといついて、少しのすきもない。風のるほどの隙間すきまでもあれば、悟空は身をけし粒と化してのがれ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心惨憺さんたんの末、ついに耳の中から金箍棒きんそうぼうを取出して鋼鑚きりに変え、金竜の角の上にあな穿うがち、身を芥子粒けしつぶに変じてそのあなひそみ、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなったおのれしりのことを忘れ、すぐさま師父しふの救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までは溌剌はつらつと暴れまわっているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。

 さる人真似ひとまねをするというのに、これはまた、なんと人真似をしないさるだろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得なっとくできないかぎりは。
 因襲いんしゅうも世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。

 悟空ごくうの今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去すぎさったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度つど、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これはわかる。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこのさるっているのだ。

 ただし、彼にもけっして忘れることのできぬおそろしい体験がたった一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさをおれに向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来しゃかにょらい知遇ちぐうし奉ったときのことだ。
 そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲ぐうしほうんくつ穿鎖子さし黄金のよろいを着け、東海竜王とうかいりゅうおうから奪った一万三千五百きん如意金箍棒にょいきんそうぼうふるって闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙れっせんの集まる蟠桃会はんとうえさわがし、その罰として閉じ込められた八卦炉はっけろをも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒しぎ倒し、三十六員の雷将をひきいた討手うっての大将祐聖真君ゆうせいしんくんを相手に、霊霄殿りょうしょうでんの前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉かしょう阿難あなんの二尊者そんじゃを連れた釈迦牟尼如来しゃかむににょらいがそこを通りかかり、悟空の前に立ちふさがって闘いをめたもうた。悟空が怫然ふつぜんとしてってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張いばっているようだが、いったい、お前はいかなる道をしえたというのか?」悟空いわく「東勝神州傲来国ごうらいこく華果山かかざんに石卵より生まれたるこのおれの力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生ふろうちょうせいの法をおわり、雲に乗り風にぎょし一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来いわく、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわがてのひらに上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空ごくうは、いきなり如来にょらいてのひらの上におどり上がった。「おれ通力つうりきによって八十万里を飛行ひぎょうするのに、※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)なんじの掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず※(「角+力」、第3水準1-91-90)斗雲きんとうんに打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。かれはこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊せいてんたいせいとうしいちゆうと墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々とくとくとして言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしをとどめてきたぞ!」「愚かな山猿やまざるよ!」と如来は笑った。「なんじの通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。うそと思わば、この指を見るがよい。」悟空があやしんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕ぼっこんも新しく、斉天大聖到此一遊とおのれの筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いて振仰ふりあおぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急に厳粛げんしゅくに変わった如来の目が悟空をキッと見据みすえたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさにひろがって、悟空の上にのしかかってきた。悟空は総身そうみの血が凍るような怖ろしさを覚え、あわてて掌の外へび出そうとしたとたんに、如来が手をひるがえして彼を取抑え、そのまま五指を化して五行山ごぎょうざんとし、悟空をその山の下に押込め、※(「口+奄」、第3水準1-15-6)※(「口+尼」、第4水準2-3-73)叭※吽おんまにはつめいうん[#「口+迷」、174-17]の六字を金書して山頂にりたもうた。世界が根柢こんていからくつがえり、今までの自分が自分でなくなったような昏迷こんめいに、悟空はなおしばらくふるえていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。爾後じごうるときは鉄丸をくらい、かっするときは銅汁を飲んで、岩窟がんくつの中に封じられたまま、贖罪しょくざいの期のちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度の増上慢ぞうじょうまんから、一転して極度の自信のなさにちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声でいた。五百年って、天竺てんじくへの旅の途中にたまたま通りかかった三蔵法師さんぞうほうしが五行山頂の呪符じゅふがして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のはうれし涙であった。悟空が三蔵にしたがってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
 さて、今にして思えば、釈迦牟尼しゃかむにによって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集ぎょうしゅうする必要があったのである。だが、凝固ぎょうこして小さくなった現在の悟空が、おれたちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!

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