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一夜(いちや)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 7:34:27  点击:  切换到繁體中文

「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯(ひげ)ある人が二たび三たび微吟(びぎん)して、あとは思案の体(てい)である。灯(ひ)に写る床柱(とこばしら)にもたれたる直(なお)き背(せ)の、この時少しく前にかがんで、両手に抱(いだ)く膝頭(ひざがしら)に険(けわ)しき山が出来る。佳句(かく)を得て佳句を続(つ)ぎ能(あた)わざるを恨(うら)みてか、黒くゆるやかに引ける眉(まゆ)の下より安からぬ眼の色が光る。
「描(えが)けども成らず、描けども成らず」と椽(えん)に端居(はしい)して天下晴れて胡坐(あぐら)かけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語(ぜんご)にて即興なれば間に合わすつもりか。剛(こわ)き髪を五分(ぶ)に刈りて髯貯(たくわ)えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦(じゅ)し了(おわ)って、からからと笑いながら、室(へや)の中なる女を顧(かえり)みる。
 竹籠(たけかご)に熱き光りを避けて、微(かす)かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠(わく)に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣(ゆかた)に片足をそと崩(くず)せば、小豆皮(あずきがわ)の座布団(ざぶとん)を白き甲が滑(すべ)り落ちて、なまめかしからぬほどは艶(えん)なる居ずまいとなる。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝(ひざ)抱(いだ)く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態(わざ)とらしからぬ様(さま)ながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇(うちわ)の柄(え)にて、乱れかかる頬(ほお)の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄(え)の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫(かお)りの中に躍(おど)り入る。
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦(うず)が浮き上って、瞼(まぶた)にはさっと薄き紅(くれない)を溶(と)く。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目(まじめ)にきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹(にじ)の糸、夜と昼との界(さかい)なる夕暮の糸、恋の色、恨(うら)みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱(とこばしら)の方を見る。愁(うれい)を溶(と)いて錬(ね)り上げし珠(たま)の、烈(はげ)しき火には堪(た)えぬほどに涼しい。愁の色は昔(むか)しから黒である。
 隣へ通う路次(ろじ)を境に植え付けたる四五本の檜(ひのき)に雲を呼んで、今やんだ五月雨(さみだれ)がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団(ふとん)を捨てて椽(えん)より両足をぶら下げている。「あの木立(こだち)は枝を卸(おろ)した事がないと見える。梅雨(つゆ)もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独(ひと)り言(ごと)のように言いながら、ふと思い出した体(てい)にて、吾(わ)が膝頭(ひざがしら)を丁々(ちょうちょう)と平手をたてに切って敲(たた)く。「脚気(かっけ)かな、脚気かな」
 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒(いとぐち)をたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚(けが)れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)扇(がんせん)に軽(かろ)く玉肌(ぎょっき)を吹く。「古き壺(つぼ)には古き酒があるはず、味(あじわ)いたまえ」と男も鵞鳥(がちょう)の翼(はね)を畳(たた)んで紫檀(したん)の柄(え)をつけたる羽団扇(はうちわ)で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉(うれ)しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
 この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩(もてあそ)べる人、急に膝頭をうつ手を挙(あ)げて、叱(しっ)と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝(うわえだ)を掠(かす)めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄(す)ててこれも椽側(えんがわ)へ這(は)い出す。見上げる軒端(のきば)を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤(ひつじさる)の方(かた)をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺(てつぎゅうじ)の本堂の上あたりでククー、ククー。
「一声(ひとこえ)でほととぎすだと覚(さと)る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚(よ)りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑(ほととぎす)を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚(ほ)れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥(は)ずかしと云う気色(けしき)も見えぬ。五分刈(ごぶがり)は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞(つか)えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指(おやゆび)で向脛(むこうずね)へ力穴(ちからあな)をあけて見る。「九仞(きゅうじん)の上に一簣(いっき)を加える。加えぬと足らぬ、加えると危(あや)うい。思う人には逢(あ)わぬがましだろ」と羽団扇(はうちわ)がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢(お)うたら?」「はじめて逢うても会釈(えしゃく)はなかろ」と拇指の穴を逆(さか)に撫(な)でて澄ましている。
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細(しさい)らしく髯を撚(ひね)る。「わしは歌麻呂(うたまろ)のかいた美人を認識したが、なんと画(え)を活(い)かす工夫はなかろか」とまた女の方を向く。「私(わたし)には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊(ほそ)い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活(い)きる」と例の髯が無造作(むぞうさ)に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火(かやりび)が消えて、暗きに潜(ひそ)めるがつと出でて頸筋(くびすじ)にあたりをちくと刺す。
「灰が湿(しめ)っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋(ふた)をとると、赤い絹糸で括(くく)りつけた蚊遣灰が燻(いぶ)りながらふらふらと揺れる。東隣で琴(こと)と尺八を合せる音が紫陽花(あじさい)の茂みを洩(も)れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯(ひ)さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿(うが)てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋(ふた)の上に塊(かた)まって茶色の球(たま)が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯(さっ)と来て吹き散らす。塊まらぬ間(うち)に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描(えが)いて、黒塗に蒔絵(まきえ)を散らした筒の周囲(まわり)を遶(めぐ)る。あるものは緩(ゆる)く、あるものは疾(と)く遶る。またある時は輪さえ描く隙(ひま)なきに乱れてしまう。「荼毘(だび)だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊(か)の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾(と)うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍(かたわ)らにある羊皮(ようひ)の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙(ぞうげ)を薄く削(けず)った紙(かみ)小刀(ナイフ)が挟(はさ)んである。巻(かん)に余って長く外へ食(は)み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖(さき)で触(さわ)ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気(しけ)てはたまらん」と眉(まゆ)をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂(たもと)の先を握って見て、「香(こう)でも焚(た)きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
 宣徳(せんとく)の香炉(こうろ)に紫檀(したん)の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫(きざ)んだ青玉(せいぎょく)のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛(くも)が」と云うて長い袖(そで)が横に靡(なび)く、二人の男は共に床(とこ)の方を見る。香炉に隣る白磁(はくじ)の瓶(へい)には蓮(はす)の花がさしてある。昨日(きのう)の雨を蓑(みの)着て剪(き)りし人の情(なさ)けを床(とこ)に眺(なが)むる莟(つぼみ)は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金(しろがね)の糸を長く引いて一匹の蜘蛛(くも)が――すこぶる雅(が)だ。
「蓮の葉に蜘蛛下(くだ)りけり香を焚(た)く」と吟じながら女一度に数弁(すうべん)を攫(つか)んで香炉の裏(うち)になげ込む。「※(「虫+(くさかんむり/嘯のつくり)」、第4水準2-87-94)蛸(しょうしょう)懸(かかって)不揺(うごかず)、篆煙(てんえん)遶竹梁(ちくりょうをめぐる)」と誦(じゅ)して髯(ひげ)ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画(え)を活(い)かす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字(もじ)の上に落つれども瞳裏(とうり)に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。
「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠(とうろう)をつける。百二十間の廻廊に春の潮(うしお)が寄せて、百二十個の灯籠が春風(しゅんぷう)にまたたく、朧(おぼろ)の中、海の中には大きな華表(とりい)が浮かばれぬ巨人の化物(ばけもの)のごとくに立つ。……」
 折から烈(はげ)しき戸鈴(ベル)の響がして何者か門口(かどぐち)をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入(はい)って来た気色(けしき)はない。「隣だ」と髯(ひげ)なしが云う。やがて渋蛇(しぶじゃ)の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微(かす)かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋(ひ)」と賤(いや)しむごとく答える。
「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸(かか)って、その二百三十二枚目の額に画(か)いてある美人の……」
「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
「そんな単調な声じゃない。色には直(なお)せぬ声じゃ。強(し)いて云えば、ま、あなたのような声かな」
「ありがとう」と云う女の眼の中(うち)には憂をこめて笑の光が漲(みな)ぎる。

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