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玄関の手帖(げんかんのてちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 12:57:50  点击:  切换到繁體中文

    小さい就職

 常次は東京へ來て三日目に職業がきまつた。大森の近くにある、或る兵器を造る會社ださうで、會社も大きいけれど、職工の數も大變なものださうである。常次が東京へ出て來た時、私は常次に、また、去年のやうに神田の食堂に出前持ちに行くのかとたづねてみると、常次は學生服のポケツトから、大事さうに新聞の切拔きを出して、軍需工場へ勤めてみたいと云つた。常次は私の甥で、今年十八歳である。信州の山國そだちで、百姓をして暮してゐるのだけれど、冬になると雪に埋れて、何の仕事もない寒村なので、この一二年、冬場になると東京へ働きに出て來てゐるのである。去年は同郷人の開いてゐる神田の食堂へ働きに行つた。四月の雪解けの頃まで三十圓ほど貯金をして田舍へかへり、家族のものたちに泣いてよろこばれたものである。常次は今年は食堂の飯運びより、軍需工場なんかへ働いてみたいと云ふので、私も、食堂のボーイよりもその方がよいと思ひ、二三の軍需工場をまはらせてみた。毎日、仕事を探しに行つて、夕方戻つて來る常次は、たゞ、たまげたものだ、たまげたものだと云つてゐた。何處へ行つても大きな會社ばかりで、明日からすぐ來てくれと云ふのださうである。私は二ツ三ツ選んだなかから、堅實さうな大森の兵器會社を選んでやつたのだけれど、應募した職工の中でも、常次は最年少者なので、何も彼も夢中らしくて、いろいろな話をもたらしてかへつて來る。日給は一圓十錢で、省線の職工パスは割引で驚くほど安い。會社では、地下室で機械の組立があり、時々、地下室でタンタンタン‥‥と試砲を打つ音がきこえる時もあると云つてゐた。山のやうな望遠レンズが製作されてゐたり、タンクが起重機で運び出されてゐたり、田舍出の常次には、まるで戰爭へ行つたやうな驚きであつたのだ。常次は、早く一人前の職工になつて、大砲でも何でも造れるやうな優秀な職工になりたいと希望に燃えてゐた。職工募集の年齡は十八歳から二十五歳までなので晝の休みなんかは、新しい職工の常次の同輩たちは、たいてい日給を、いつから支給されるのか心配をしてゐる樣子で、しかも、大森あたりにはアパートや貸間がないので、田舍から出て來た者たちは金の心配や住居の心配ばかり話しあつてゐると云ふことであつた。常次と同じ年頃の甥を、私はもう一人持つてゐるのだけれど、これも横須賀の飛行機製作所の職工になつてゐるのだけれど、今のところ横須賀の百姓家に間借りをして一ヶ月二十八圓の下宿料をとられてゐる。東京でもアパートや貸間が非常に少ない上に、あつても下宿料が高いので、常次は當分私の家から通つて行く事になつた。――朝は五時に起きて、辨當を持つて行く。七時二十分までに會社の門を這入らなければ半日分引かれるので眠いさかりの常次は、朝は四時頃から眼を覺してゐた。三月間だけ日給が五拾錢で、あとは日給が一圓十錢になるのだ。優秀な職工になると、月四五百圓も貰つてゐるのがゐるさうで、常次は會社へ勤め始めてから、非常なはりきりかたである。「俺だつて兵隊に行つたと同じだね」と素朴なことを云つて私たちを笑はせるのだ。私も弟が一人出來たやうに愉しみであり、時々朝早く起きて辨當をつくつてやつた。朝五時と云へば、まだ眞暗で霜柱が立つてゐる。女中を起すのが可哀相なので、前の晩に仕度をしておいてやるのだけれども感心に、常次はまだ一日も遲れたことがない。夜は五時に戻つて來て夕御飯をたべてすぐ寢ついてしまふ。將來のことはわからないけれども、私は常次が早く機械を造れる職工になつてくれるといゝと思ふ。私は常次を大學へ上げてやりたい希望だつたけれど、常次は學問がきらひなので、無理に學校へやることもないと思ひ、職工にしてしまつた。常次は田舍の青年學校へ、國家の非常時に向ひ、私も微力ながら産業戰線へ一職工として働くことになりました。當分田舍へ歸れませんので、そのうちかへりましたら、またお務めさして戴きたく、皆樣によろしく、と云ふ中々元氣のいゝ手紙を出してゐた。――常次の部屋は北向きの寒い部屋だけれど、壁には父母の恩は山よりも高く、海よりも深し、と云ふ常次の清書が張りつけてある。このごろは田舍も貧しくて齒磨粉も買へないのだ。サフランを少しばかり植ゑて、二三匁の收穫を一圓四五十錢で賣り、柿を賣つたりして、常次はやつと東京までの切符を買つて出て來たのだと云ふ。柿も今年はいつになく豐年だつたけれど、釘が手にはいらないので箱がつくれないし、運輸が思ふやうにゆかないので、柿も二束三文に賣つた話をしてゐた。百圓も貯めて一生涯に一度位は父母を驚かしたいものだと、常次はとらぬ狸の皮算用ばかりしてゐる。

     黄昏

 つゆは娘の甲斐子から三圓の小遣ひを貰つた。甲斐子はきまつたやうに、非常時だから大切に使はなくてはいけませんよと云ふのである。つゆは朝の焚きたての御飯をうんとたべて、娘や女中が掃除をしてゐる間に、臺所で二つ三つ握り飯をつくつた。その握り飯を急いで散紙につゝんで、肩掛けの下へかくして「それでは淺草へお參りして來ますぞな」と云つて戸外へ出て行つた。つゆは家を出ると何かしら吻つとするのである。娘はきげんが惡いとよく小言を云つた。お母さんは、何故佛樣を拜まないのですか、たまには寺へ行きなさい。たまには庭の花の手入れぐらゐはするものですよと云ふのである。つゆは佛樣を拜むことはきらひであつた。長い間連れ添つたつれあひに七年前に死別したのだけれど、死んだ良人が小さい佛壇の中へ來てゐるとは思へなかつたのだ。時々甲斐子が腹をたてながら佛壇を掃除をしてゐるけれど、佛壇の中は娘の云ふやうな、つれあひの魂が來てゐる風にも思へない。朝々茶を淹れて、熱い御飯を佛壇にそなへるのだけれど、それとても、時々、つゆは忘れ勝ちになつてゐる。つゆは今年七十五歳である。つゆは百まで生きたいと思つた。
 娘が三圓の小遣ひをくれたので、つゆは淺草へ遊びにゆかうとふつと考へてゐた。熱い握り飯を肩掛けの下に入れて、薄陽の射してゐる街を歩くのはいゝ氣持である。省線に乘つてからは、つゆは窓向きにクッションの上に坐つて、走る窓外をぢつと眺めてゐた。つゆは遠い以前、つれあひといろいろな旅をしたことを思ひ出してゐた。車窓からは、菊の咲いてゐる小學校があつたり兵隊が出征してゐたり、色々な景色が見渡された。上野で降りて地下鐵で、つゆは淺草へ行つたのだけれど、觀音樣の方へはゆかないで、つゆは駒形橋を渡つて交番のそばのかもじ屋へ這入つて行つたのだ。半年も前に頼んでおいたかもじを取りに行つたのだけれど、かもじ屋では息子が出征してしまつてわからないと云ふので、夕方までに探して貰ふことにして、つゆはぶらぶら松屋の方へ戻り、松屋の屋上へ上つて行つた。空はよく晴れてゐる。十二月のデパートは人がいつぱいであつた。つゆは人ごみに押されながら、反物の賣場や、男の洋服地の方へ行つてみた。つゆのつれあひは昔、男物の洋服地を賣つてゐたので、そんな賣場をみて歩くのは非常に愉しみであつた。昔は玉羅紗とかアルパカだの、カシミヤだのの、いゝウール地が澤山あつたものだが、この頃は手に取つてみると、ぞつとするやうな寒い手ざはりのウール地ばかりであつた。つゆは洋服を着た男の人形の立つてゐる臺の處へ腰を掛けてしばらく休んでゐた。うつらうつら眠たくなるやうな疲れがきて躯がぐつたりしてゐる。たいへんな人ごみですねえ‥‥誰かがさう云つて、つゆのそばへ來て腰をかけた。つゆはふつと眼をあけてみると、自分と同じぐらゐの汚ないお婆さんが、ねんねこで赤ん坊を背負つて自分のそばへ腰を掛けてゐた。「師走だから、買物で大變ですね」つゆは話相手が出來たので、急に元氣になり、前を通つてゆく人間の品定めなんかをして、二人でぼそぼそしやべつてゐた。おばあさんは、つゆに炙のうまいひとがゐるけれど、炙をすゑてみる氣はないかと尋ねた。つゆは炙をすゑるのは好きであつたので、そのおばあさんの案内で吉原の近くだと云ふ炙をすゑる家へ行つてみた。つゆは、七十五歳で、ほんとうは老人の一人歩きは警察でも注意されてゐるので、外に遊びに出たくても中々甲斐子が出してくれないのであつたけれど、つゆはこのごろ娘の名刺を澤山持つて歩くことにしてゐた。自動車にはねられても、道に迷つても名刺を出しさへすれば人がちやんと案内をしてくれると思つたからである。つゆはどこへ行つても娘の話をした。炙點師の處へ案内してくれるおばあさんにもつゆは甲斐子の名刺を一枚出して、娘は小説を書いてゐますぞなと云ふのである。おばあさんは小説と云ふものを知らないので、たゞ、大きい名刺を貰つて、浪花節語りでもあるのかと思つてゐる樣子である。つゆは腹が空いたので握り飯をたべたかつた。隨分歩いて腰が冷えこんだのか、下腹が痛くてしくしくうづきはじめてゐた。何處かで熱い茶がほしいと思つたので、つゆはおばあさんをさそつて小さいミルクホールへ這入つた。つゆは貧し氣なおばあさんを、妹のやうにふびんに思つたのだ。何かおいしいものを食べさせてやりたいと思つた。「何でも云ひませんか、何でも食べませうや」と云ふと、そのおばあさんは雜煮を食べたいと云つた。つゆは汚れた白いまへだれをしてゐる男に、雜煮を二杯註文して、やがて運ばれて來た雜煮の中の、紅いのの字の模樣のついたかまぼこをおかづにして握り飯をひろげた。つゆは愉しくて仕方がなかつた。自分もこのおばあさんのやうなこんなに貧しい時があつたのだ。このおばあさんはどんなによろこんでくれてゐるだらうかと、つゆは入齒をカチカチ鳴らしながら子供のやうにのんきな食事をした。ミルクホールを出ると、丁度正午のぼおが鳴つてゐた。つゆは灸をすえて、それから安い映畫を觀て、かもじを取つて家へ歸らうと思つた。灸點師の家までは中々の道のりである。コンクリートの廣い道へ出ると、おばあさんは、では、お灸の札を安く割引いて買つて來てあげますからと云つた。何でも、そのおばあさんが灸の札を買ふと、半額位にはなるのださうである。始めてのひとは三圓取られるのださうだけれど、自分が行けば特別に安くして貰つてあげると云ふので、つゆはそんなに澤山の金を持つて來てゐないと云つた。赤ん坊をおぶつたおばあさんは、眼をしよぼしよぼさせながら、一圓五十錢にして貰つてあげますよ、折角ですからしていらつしやい、とてもよく利くあらたかな灸だとすゝめるので、つゆは澁々一圓五十錢を出した。かもじ屋の拂ひが足りないので困つたことだとおもつたけれども、かもじよりも灸の方につゆは魅力があつたし、あらたかな灸をすえてもらつて娘にも自慢をしてみせたいと思つた。廣い通りなので砂風が吹き、つゆは立つてゐると、小用をもよほして來て苦しかつた。旗屋の前に、大きな荷箱があつたので、そこの横へしやがんで、おばあさんの曲つて行つた路地の方を眺めてゐた。つゆは隨分待つた。一時間も待つた。あんまり寒くて辛いので、旗屋に行つてはばかりを借りた。用をすましてそとへ出て來ても、まだおばあさんの姿はみえない。つゆは泣きさうだつた。風のかげんがだんだん寒くなつてきたし、空模樣が暗く寒々として來た。つゆは、つゝぱつた腰をのばしのばしして、灸點師の家を探して歩いたけれどもそんな家は一軒もなかつた。按摩さんの家が一軒あつたけれども二三人の男の按摩さんがそんなおばあさんは知りませんねと云つてゐた。そこでは灸はやらないのだと云ふのである。つゆは、ここが東京のどの邊にあたるのかもわからないので困つてしまつた。甲斐子が非常時だから大切につかひなさいと云つて金をくれたのを思ひ出して、つゆは何となく悲しくなつてゐた。つゆはいろんなひとにきいてやつと淺草まで戻つて來たけれど慾も得もなく何處かへ坐つてしまひたくなつてゐた。空はもう黄昏れてゐるし、うそさむい風が吹いてゐる。つゆは駒形のかもじ屋へ寄つてかもじを受取つたけれど、金が足りなかつたので甲斐子の名刺を置いて送つてもらふつもりでゐたが、いつの間にか甲斐子の澤山の名刺をおとしてしまつてゐるのであつた。ミルクホールでおとしたかも知れないとつゆは殘念におもつた。つゆは自分のゐる處を、何區と云ふ事もおぼえてゐなかつたし、まして番地も知らないのである。たゞしもれんじやくまちと云ふところだけを覺えてゐるきりだつた。かもじを送つて貰ふことも出來ずに、つゆは地下鐵に行つたけれど、もう、疲れてもうろうとしてしまつてゐる。つゆは、神田の方へ上つて行つたり、澁谷の方へ行つたりして、方々を迷ひながら、十二時頃、這ふやうにして、吉祥寺の奧の下連雀の家へ歸つて來た。つゆは、もう、ものを云ふのも厭であつた。甲斐子は二階から降りて來るとつゆをがみがみ叱り始めた。「心配をするぢやありませんかツ! いまごろまで何處を歩いてゐたンです、いゝ年をして‥‥」つゆは怒つてゐる娘を呆んやり眺めてゐたが、子供のやうに泣きながら、廊下へ坐つて小用をもらしてゐた。

     鷺の歌

 夜霧の深い晩であつた。
 音樂會がはてて暗い神宮外苑を伊津子はバスの停留所の方ヘ音樂會歸りの人たちにまじつて歩いてゐた。戀と云ふ、もだへのうちにさてはまた、なにごとを思ふともなくともなき、いたづらのすさびの中にとぞいふ‥‥さつきの獨唱がまだ頭の芯にこびりついてゐる。伊津子は外套の襟をたてて歩いてゐたが、夜霧のせゐか、バスの停留場へ來ても、急いで家へ歸りたい氣持がしなかつた。
 夜霧の向ふから、白い馬が飛んで來るやうな、何かしらちらちらしたものが伊津子の眼にみえる。自動車が二臺ほど伊津子の眼の前をすぎて行つた。伊津子はバスに乘つて新宿へ出て行つたけれど、家へは少しもかへりたくなくて、夜更けた新宿の街を歩いた。晨に出發して、夕べにやぶれる徘徊の氣持が、伊津子に嘔吐をもよほさせさうだつた。歩いても歩いても何もない道でありながら、伊津子はたゞ默々と寒い道を歩いてゐた。新宿驛の交番では女の醉つぱらひが、交番の入口に腰をかけて泣いてゐた。人が黒山のやうに交番をのぞいてゐる。伊津子も群集の中に混つてのぞいてみたけれど、もう四十位の女で、紺飛白のうはつぱりを着てきたない手拭で涙を拭いてゐた。群集のまちまちな話をきくと、誰かが出征をして行つて祝ひ酒をのみ、醉つぱらつて、電車道に寢込んでゐたのだと云つてゐた。時々、若い巡査は、何べん厄介をかけるのだ、祝ひ酒だの何だのと嘘を云つては、お前は時々往來で寢てゐるではないかと叱つてゐた。群集は笑つた。群集が笑ふと、醉つぱらひの女は手拭を顏からはなして怒つた。伊津子は見世物ではないぞと叫んでゐる醉つぱらひの女の顏がいたいたしくて、すぐそこから離れて驛へ這入つて行つたけれど、明るい驛の中には、スキーを持つた學生たちや奉公袋をぶらさげた出征者の群や、職工や學生や女の群が驛の中にごつたかへしてゐるのを見て、伊津子は養鷄場の鷄舍のなかを眺めてゐるやうな氣持である。その群集の中には、自分によく似た女もゐた。狂人になつて果てる、モオーパッサンの晩年の小説のなかだつたかに、自分と同じ人間と散歩をしたり會話をしたりする作品があつたけれど、伊津子は自分にも、時々そんな錯覺のあることを感じる時がある。切符賣場で、自分によく似た女が切符を賣つてゐた。伊津子が何も云はないのに、その女は伊津子の目的地の切符をくれた。伊津子はしばらく窓口の女の顏をみつめてゐたけれど、伊津子は膏汗の出るやうな苦しいおもひを我慢してそこをはなれて行つたのだ。――伊津子はたつたこの間、十年ぶりで本當の父親に逢ひに行つてきた。父は半分狂人のやうな状態で寢てゐたけれど、伊津子が枕元に坐るなり、汚れた株劵を出して、これをやるから俺を大切にしてくれと云ふのである。伊津子は鼻をつままれたやうな氣持であつた。父はまたこんなことを云つた。お前とお母さんを捨ててから俺は色々な仕事をした。子供は一人も出來なかつたが、金は相當出來た。お前にいくらでもやりたいのだが、お前は今日からでも俺のそばへ來て、俺を大切にしてくれぬかと云ふのである。九州の父の家は立派な家であつた。若い父の細君は藝者をしてゐた女だとかで、父の枕元で煙草ばかりふかしてゐる。伊津子は鹽水港製糖の十株劵を二枚貰つて東京へ戻つて來た。その株劵を賣れば二千圓近くにはなると云ふことである。伊津子はまるで鬼火につかれたやうに、落ちつかない氣持であつた。あの状態では父は近いうちに亡くなるかも知れない。父はどの位の財産をためてゐるのだらう。伊津子は父についての性格はあまり知らないのだ。たゞ、非常に酒をたしなみ、醉ふと狂人のやうになると云ふことだけ母に聞いて知つてゐた。汚れた株劵が二千圓近くになる‥‥。父はまだ相當汚れた株劵を持つてゐた。金持になつてたいへんせつかちになつてしまつてゐる父は、伊津子に東京の生活なんか捨てて早く九州へ來てくれと云ふのであつた。伊津子は福岡の飛行場から東京行きの飛行機に乘るのであつたけれど、火野葦平と云ふひとががいせんして來ると云ふので、飛行場は澤山の人でにぎやかであつた。――伊津子は飛行機に乘つて、四國の高松邊の上空へ來ると、急に飛行機から墜ちて自殺してしまひたい氣持になつてゐた。黒い鹽田の上に鷺のやうな鳥の飛んでゐるのが澤山見えた。伊津子は自分の血液の中に、あの父のやうなすさまじい狂人の血が流れてゐるとしたら、自分はいつたいどうして生きてよいのかわからなくなつてしまふ。新しい母は、荒れ狂ふ父を毆つてゐた。父は泣きながら、伊津子に金をやらう、お前を困らせただけの金をやらうと怒鳴つてゐた。
 伊津子はさつきの醉つぱらひの女をみて、急に父のことをおもひ、自分も、最後はみすぼらしく狂人病院で果てなければならないのかと思ふと、伊津子は東京の生活を離れて、九州へ行つてしまはうとも思ふのであつた。狂人になんかなつてたまるものか‥‥狂人になんかなつてたまるものか‥‥、伊津子は家へかへつて、夜釣りに行くのだと支度をしてゐる良人をつかまへて、釣りなんか行かないでくれと云つた。そして、交番の醉つぱらひの女のやうに、風呂場から手拭を持つて來て、頭が痛いよ、頭が痛いのよと泣いてみせるのであつた。





底本:「惡鬪」中央公論社
   1940(昭和15)年4月17日発行
※「灸」と「炙」、「灸點師」と「炙點師」の混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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