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政治的価値と芸術的価値(せいじてきかちとげいじゅつてきかち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 14:54:57  点击:  切换到繁體中文


            一

 コペルニクスは地動説をとなへたが、それを統一的理論によつて説明するためにはニユウトンをまたねばならなかつた。ところが今日の小学生は万有引力の公式を知つてゐる。だからコペルニクスよりも二十世紀の小学生の方がすぐれてゐる!
 石造建築は木造建築よりも進んだ建築である。某々洋食店は石造建築である。法隆寺は木造建築である。だから、某々洋食店の建築は法隆寺の建築よりもすぐれてゐる!
 これ等の論理には矛盾がない。だがこの理論からひき出された判断は、必らずしも私たちを首肯せしめない。その理由は説明するまでもなく、誰でもちよつと考へて見ればわかることである。
 ところが、次のやうな命題にぶつゝかると問題はそれ程簡単ではない。
 ダンテの作品にはプロレタリア的イデオロギイが含まれてゐない。シンクレアの作品はプロレタリア的イデオロギイに貫かれてゐる。だから、ダンテの作品は、芸術的にシンクレアの作品よりも劣つてゐる!
 もしダンテがあまりに古すぎるなら、これをトルストイとおきかへても、ユゴオとおきかへても、ストリンドベルヒとおきかへてもよい。
 然り! と或る人はこれに賛成して、答へるであらう。芸術作品の価値は、その作品のもつイデオロギイによつて決定される。プロレタリアの勝利のために利益をもたらすものにのみ芸術作品の価値がある!
 否! とある人は答へるであらう。イデオロギイは芸術作品の全価値を決定する要素ではない。そしてプロレタリアの勝利のために、貢献するといふことは、芸術本来の性質とは没交渉である!
 この二つの見方は、最近、マルクス主義文学理論と正統派文学理論とを尖鋭に対立させたのみでなく、マルクス主義文学理論の陣営内に於ても意見の分裂を生ぜしめてゐる問題の焦点である。他の芸術の場合はしばらくおいて、文学作品の評価の基準についての最近の諸議論は、悉くこの問題を中心としてまき起されてゐるやうに思はれる。
 かやうな簡単な問題が、どうして、それ程多くの議論を生むに至つたかは、多くの人々には全く不思議に思はれるであらうが、それにも拘らずこれは事実なのである。
 私は、この不思議は、マルクス主義作家若しくは批評家は、彼がマルクス主義者であると同時に作家であり批評家であるといふ二重性のために存するのだと考へる。マルクス主義者が文学作品を評価する基準は、あくまでも政治的、教育的の基準であり、作家若しくは批評家が文学作品を評価する基準は、芸術的基準である。この二つの基準を調節し、統一しようとする試みに於てマルクス主義批評家若しくは作家の、新しい努力が生れ、そこにさま/″\な意見の分裂が生れたのである。大衆文学の問題の如きもその一つのあらはれに過ぎない。
 マルクス主義は、単なる政治学説でも、経済学説でもなくて一の世界観である。若しさういふ言葉を用ゐてもよいならば一の哲学である。従つて、それは、人間界の凡ゆる現象に対して、統一的な解釈、「見方」をもつべきものであることは無論である。だが、この「もつべきものである」といふことは、現実に、完成された姿でそれを現在もつてゐるといふことゝはちがふ。マルクス主義者の任務は、一の完成された法典を与へられて、凡ての事象を、それに照らして判断してゆく司法官の任務とは全く異つて、この法典を日常の闘争を通じて自らつくつてゆくことであるのである。文芸作品の評価といふやうな問題については、無論私たちはまだ「原理はもうできあがつた。あとはその応用のみである」といふ風な完全な法典を現在与へられてをらぬし、また未来永劫さういふものゝ与へられる気遣ひはないであらう。それは単に、すぐれたマルクス主義者には、もつとほかに重大な仕事があるからといふ理由からばかりではなくて、問題の性質上与へられ得ないのである。
 ところが、こゝに一群の人々がある。それ等の人々は、この政治的価値と芸術的価値とは二つの直線のやうに、全く重ね合はせることができると考へるのである。勝本清一郎氏はそれを「社会的価値」といふ名前で呼んでゐる。そして社会的価値は同時に芸術的価値であり、社会的価値のほかに芸術的価値ありと思ふのは一の迷妄であるとして、芸術的価値といふものを全く解消してしまつた。蔵原惟人氏も、この一元観に関する限りに於いては勝本氏と同意見であるやうに思はれた。

註 勝本氏の三田文学に於ける、及び蔵原氏の朝日新聞に於ける論文をさすのであるが、いまそれを参照してゐるひまがないので、私の読みちがひであつたら、両氏にお詫びする次第であるが、私のこの論文は両氏の議論と独立によまれても些しも理解を妨げるものでない。


 マルクス主義は一の世界観ではあるけれども、最もさしせまつた目的としては、組織されたプロレタリアによるブルジヨア政権の奪取といふ政治の一点に、プロレタリアの凡ての力が集中されることを要求する。だから文学、芸術もこの政治的目的を達するための手段とされねばならぬのである。文学作品は、この視角から見たとき、直接間接の宣伝もしくは煽動の手段としてしか意味がない。これは、政治的に全く正しい解釈である。だから、マルクス主義政党の芸術に関するプログラムに於て、芸術作品の価値は、それがプロレタリアの勝利に貢献する程度の大小によつて評価されねばならぬと規定されることは甚だ当然である。そして、党は、党員たる作家や批評家に、その趣旨を伝達し、また命令することも当然である。芸術は手段ではないとか、文学は宣伝の道具ではないとかいふことを、芸術や文学の立場から絶叫したつて無益である。プロレタリアの解放、勝利といふことが絶対だからである。
 マルクス主義批評家にとつての作品評価の根本規準は、それ故に純然たる政治的規準である。マルクス主義作家及び批評家はまづこの規準を認めなければならない。彼がどんなにすぐれた批評家や作家であつても、この根本規準を拒絶する刹那に、彼はマルクス主義作家でも批評家でもなくなる。何となれば、彼は芸術家であり、批評家である以前にマルクス主義者でなければならぬからである。芸術的価値は、彼にとつては政治的必要に従属せしめられねばならぬからである。
 実際の作品、たとへばチエホフの作品を例にとらう。チエホフがすぐれた作家であつたことはほとんど異論のない事実である。だが彼の作品は、革命の擁護といふ政治的必要からは、好ましからぬ作品であるかも知れぬ。若しさうである場合には、彼の劇がマルクス主義批評家によつて手厳しく批難され、その上演がプロレタリア国家権力によつて禁止されることはあり得る。そしてこの禁止は、政治的に全く正当である。だが、この政治的形勢の変化によりて、国家権力の命令や、政党の決議によつて、チエホフの作品の芸術的価値が、一夜のうちに消えてなくなつてしまふであらうか?
 否! と私は答へる。また誰だつてさう答へざるを得ないと私は考へる。チエホフの作品でなしに、たとへば、ボオドレエル若しくはエドガア・アラン・ポオの作品を例にとらう。これ等の人々の作品は、プロレタリアの勝利に貢献するやうな何物をもゝつてゐないことは誰しも異存のないところである。それどころか、これ等の人々は作品には、一般に人類の幸福をおしすゝめる拍車となるやうなものすら何一つ見当らぬ。それにも拘らず、これ等の作家は、芸術的に何等価値のない作家であるといはれるだらうか? これ等の作家によつて描かれた頽廃性、不健康性はプロレタリアの闘争のためには無論のこと、一般に人類の向上進歩のためにすら反効果をもつものであるのに、私たちが、それ等の作品に、多かれ少なかれ芸術的価値を認めるのは何故であらうか?
 こゝに一元論をもつては解釈しがたい謎がある。
 性急な読者は、私がこゝで、芸術作品の政治的価値を否定、若しくは減弱しようとする意図を抱いてゐるために、かういふ議論をするのだと考へるかも知れない。ところが、私の意図はその反対である。私は文学作品の政治的価値を正しく認識するために、そしてその重要性を立証するために、先づこれを芸術的価値から引きはなすのである。若しこれを一しよくたにして「社会的価値」といふ風呂敷の中にひつくるめてしまふことができるならば、プロレタリア文学とかマルクス主義文学とかいふものゝ特殊性は消滅してしまはねばならぬ。
 プロレタリア文学若しくはその別名或はその一部分としてのマルクス主義文学は、政治的規定を与へられた文学である。政治のヘゲモニイのもとにたつ文学である。この事実はあいまいにごまかしたり、糊塗したりしてはならない。芸術や文学から出発して、マルクス主義文学、プロレタリア文学を合理化しようとする企図はきれいさつぱりと抛棄されねばならぬ。マルクス主義は芸術や文学を社会の現象として解釈することはできるが、芸術や文学はマルクス主義から命令され規定されて、政治的闘争の用具となる約束を少しももつてゐないからである。プロレタリア文学若しくはマルクス主義文学のみがそれをもつてゐるに過ぎないのである。プロレタリア文学は芸術の立場ではなくて政治の立場から、文学論からではなくて政治論から出発してのみ合理化されるのである。
 この関係は、ルナチヤルスキーの場合ですら、紛飾され、婉曲に言ひあらはされ過ぎてゐると私は思ふのであるが、若しこの関係が明白になれば、プロレタリア文学の存在理由が少しでも薄弱になると思ふなら、それは甚だしい誤解である。といふのは非常に簡単な理由からである。即ち、私たちは、階級と階級とが、抑圧者と被抑圧者といふ形で対立してゐる社会をそのまゝにしておいて文学をたのしむよりも、一時文学そのものゝ発達には、多少の障碍となつても、階級対立を絶滅することを欲するからである。他の一切を犠牲にしても、切迫した政治的必要を満すことを欲するからである。このことはブルジヨア文学の発生の場合にも完全にあてはまる。ブルジヨア階級が、その覇権へむかつて進出したときの進行曲として、政治的文学をもつたこと、そしてブルジヨア革命のまつ最中には、歴史的に見れば一時文学の衰頽期を現出したこと等が、それを語つてゐる。ブルジヨア文学は、愛と平和との中に、静かな朗らかなクラリオネツトの音の中に発育したものと思ふのは大間違ひで、血と闘ひとの中から戦ひとられたものである。
 そして勃興期のブルジヨア階級によつて、血によつて戦ひとられた文学が、国民文学として、成熟期のブルジヨア階級の手で、まるで、平和と愛とのシムボルのやうに祭られてゐるのである。ゲエテ、シルレル、ユゴオ等々がそれである。勃興期のブルジヨアジーは、一つの階級でなくて人類を代表してゐた。その故にこの時期の文学は人類の文学となり、国民の文学となり得たのである。といふのはプロレタリアが、階級としてはつきりと対立して来たのは、そしてブルジヨアジーがその階級的性質を露骨に示して来たのは、それ以後の出来事だつたからである。この意味に於いて、勃興期のブルジヨア文学は、ブルジヨアジーによりも寧ろより多くプロレタリアに属している。(メーリンクのレツシング論はこの点で私の主張を裏づけるであらう。)序でに一言しておけば、日本の国民は国民的クラシツクの名に値ひするやうな作家や作品をもつてをらぬ。紅葉、露伴、逍遙、蘆花、漱石、独歩――これ等の作家のうちで、これこそ近代日本を代表する作家であるといへる人はない。それは偶然日本に天才的作家が現はれなかつたことにもよるであらうが、いま一つは、日本のブルジヨアジーが十分革命的階級としての闘争を経過しないで、封建的勢力と妥協して、その庇護のもとに発達して来たからである。

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