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中西氏に答う(なかにししにこたう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 14:58:29  点击:  切换到繁體中文

 前掲「文藝運動と勞働運動」の一文句に對して中西伊之助氏が「種蒔く人」八月號で猛烈に批難された。これはそれに對する回答である。讀者の中にも同じような疑問をもたれる人があるかも知れぬと思つて轉載する。

 
 大抵の批難には默つていられる程僕も修業をつんできた。「文藝運動と勞働運動」に對する中西氏の批評も相手が別人なら有難くお受けしておいて差支えないのである。併し相手が日本に於ける勞働運動の一先覺者であり、プロレタリヤ運動の一鬪士であり多くの點に於て僕等の先覺と信じて疑わざる中西伊之助氏であつて、しかも、氏の批評が、或は懇々として教え、或は嚴然として叱正し、或は浩然として歎息され、凡(あら)ゆる點に於て親切を極め、好意に滿ちたものである以上、そして最後にあまりに甚だしい誤解である以上、おまけに編輯者からわざわざ僕の手許まで中西氏の原稿が廻送された以上一言挨拶して中西氏の誤解を解く責任があるように感じられる。
 問題の文句は「社會主義運動の中に働くことの嫌いなごろつきや食いたおしがまじりこむと同じように――」という一句である。僕は急いで原稿を書くので、これまでにあとから訂正したくなるような不用意な文句を書いたことは屡※ある。併し、この一節は今でも少しも訂正する必要を感じない。文字通りの意味で今なおそう信じているのである。ところが誰が讀んでもわかりきつた平明の文句の中から、中西氏は一ダースばかりのすばらしい概念をひつぱり出された。何にもない袖の中から一ダースも卵を出して見せる手品師のように。
 中西氏はまず、この文句を讀んで「何というブルジョア的な口吻だろう!」と概括的な第一矢を投げつけ、次に僕(平林)が「ブルジョア的眼光をもつて今の社會運動を見て」いるものと斷定し、「僕等(中西氏)プロレタリヤの感情からすれば到底そんな輕薄な概念で片づけてしまうに忍びない」と自らの立場を表明され、一轉して、僕の例の文句を「失業勞働者」「餓死か破壞か二中一を選ばなければならない悲しい人々」を意味するのだと獨斷し、この獨斷を僕に無雜作になすりつけて、なすりつけられた泥人形の「平林」に向つて「平林君は果してその人々を指してごろつきと言い食い倒しという理由を見出すことが出來るか?」と色を作(な)してきめつけられる。かくして泥人形の「平林」は參つた。生きた人間の平林は參らぬ代りに自分が「泥人形」でないということをわざわざ辯明する「責任」を背負わされた。僕が、中西氏のいうように「現實」を見損つて「輕薄な概念」に走つたか、或は中西氏が周章(あわ)てて千慮の一失の誤解をやられたかは何人の判斷にでも僕はまかせる。
 實を言うと辯明するよりもあの文章をもう一度讀み直していただくだけの勞力をおしまれなかつたら誤解は氷釋する筈だ。僕は「失業勞働者」と「ごろつき」とを混同する程の血迷い方は決してしなかつたつもりだ。中西氏自身で勝手に二つの概念を結びつけて、こん度は自分でこしらえた假想敵に向つて批難を浴せかけられるのだ。
 しかしおのぞみなら辯明する。第一に無論あの文句は「失業勞働者」をさしているのではない。こんなわかりきつた誤解をしたりそれに答えたりするのは吾々の恥辱だ。失業勞働者は誰でも知つている通り、資本主義經濟組織に必然的に伴う犧牲だ。しかも失業によりて資本主義社會のからくりが最も直接にわかるから、失業者の中に最も革命的分子が生ずることさえあり得る。その失業者が社會主義運動の障害になるというような理窟を創造する程僕の頭は獨創的でない。
 次にあの文句は中西氏の批難するように概念ではなく事實を指しているのである。不幸にして社會主義者と名乘つている不良青年組や、何ぞ言えば日本刀を振り廻すような連中のあることを吾々は耳にしている。しかもその背後にいかさま師がひそんでいる場合のあることも聞いている。それが爲めに健全なる勞働大衆に社會主義が如何に誤解され、從つて社會主義運動が障害されたかも知つている。殊に社會主義運動に古い歴史を有する歐米諸國ではこの種のいかさま者が風向次第で社會主義者になつたり、反動派の手先になつたりした例がいくらもある。マルクスが「頼み手のない辯護士、患者のない醫者、田舍新聞のもぐり記者其他々々」とこれ等いかさま社會主義者の合成分子を指摘したのでもそのことは知れる。
「現實」を尊ぶ中西氏が僕の文句を「現實」のままに解釋し、文字通り「ごろつき、食いだおし」と解釋されたら、こんな下らん論爭は起らずにすんだろう。ところが氏はどうしたものか雪と墨、鷺と烏ほど似もつかぬ「失業勞働者」という「概念」を「ごろつき」という現實の中から引つぱり出したために、無益に憤慨し、切齒(せつし)し、罵詈(ばり)し憐憫する必要が起り、ひいて「泥人形」ならぬ「現實」の僕自身もそのまきぞえを食うべく餘儀なくされたのである。「概念」を排する中西氏が「概念」の俘(とりこ)となつたわけである。
 併し勿論これは千慮の一失である。弘法にも筆の誤りがあるのだから神ならぬ中西氏に解釋の誤りがあるのは怪しむに足らぬ。しかもそれは僕に「プロレタリヤ運動の現實に接して貰いたい」という親切あまつての誤解であるから僕は衷心から感謝する。尚僕は實際直接勞働運動に携わつたこともなく、またその能力も覺束ないから、その點に關しては指導されんことを希望する。ただ僕も「失業勞働者」と「ごろつき」との區別がつかん程血迷つてはいないからその點は御安心が願いたい。最後に同志中西氏の健在を祝つて妄言を擱(お)く。
(大正十一年七月)  




底本:「日本現代文學全集69 プロレタリア文學集」講談社
   1969(昭和44)年1月19日初版発行
入力:田中亨吾
校正:大野裕
ファイル作成:野口英司
2000年11月10日公開
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

屡※ある。

第3水準1-2-22


 

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