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鱗雲(うろこぐも)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 8:50:03  点击:  切换到繁體中文


「気分だつて紛れるよ、お拵えよ。」
「そんなに六ヶ敷いの? 頭と顔が?」と妻は、其処で私の気分をそれにぎ込まうと思つたらしく膝を乗り出して私の顔をのぞき込んだ。
「うむ。」と私は、やつと凧のことに心を移したやうにして点頭いた。
「おばあさんが居たら解るんだけれどもね。いゝえ、私にも朧ろ気には解つてゐるんだけれど?」と母も一層の乗気を示して仔細らしく首をひねつた。
「駄目かなあ!」と私は、更に心底からの嘆息を洩した。私の脳裏にはボーフラの影だけがはつきりと印されてゐた。
「記憶! それに数学的の才能がない者には、記憶の見当が違ふので一切役に立たない。」
 母は自身が批難でもされたかのやうに思つて、顔をあかくした。「思ふと、私も上つてゐる小さい凧の姿しか思ひ出せない。」
「だん/\小さくなる。」と私は呟いた。……毛氈の上の私達が、重箱を開いて弁当をつかつてゐると、突然盆地の一隅からワーツといふおだやかならぬ波のやうな鬨の声が捲き起つた。見ると、あげ手の一団がまさしく蜘蛛の子を散らしたやうにパツと飛び散つた。
「喧嘩かな?」
「毎年一度は屹度だ!」
「早く仲裁が入れば[#「入れば」は底本では「入れは」]好いが?」
 私と祖母と母は、同時に斯う云つて箸を置いた。口々に彼等は何事かを叫んでゐるのだが、遠いので意味は解らなかつた。それにしても喧嘩にしては何だか妙だな? と私は思つた。と、見ると彼等は一勢にスタートを切つて此方に駈け出した。
 空には、何の変りもないボーフラがうつら/\と居眠りをしてゐる。
「お母さん、どうしたのでせう?」と母は祖母を振り返つて訊ねた。
「喧嘩かも知れない、立ちのこうかな?」
 間もなく一団の駈け手は、砂を巻いて、滑走する巨大な磁石になつて次々にあたりの群勢を吸ひ込み、最初の何倍にも人数を増して、私達がおろ/\と立ちあがつた丘の下に差しかゝつた。
「追つかけろウ――」
「糸が切れたア――」
 私達は、はつきりとさういふ叫声を聞きわけた。意味のない悲鳴が、爆竹の音のやうに耳をつんざき、渦になつて眼を眩まし、激流に化して私達の眼の下を流れた。人々の怖ろしく凄まじい形相が、柘榴のつぶてのやうに私達の眼前を寄切よぎつて行つた。私は、思はずよろめいて母の袂に縋つた。人々の眼は、極度に視張られて血走つてゐた。人々の百の眼は一つになつて空の一点のみを凝視したまゝ、一勢に双手を高く差し伸して、烈風の如くおし寄せた。私達は、顔の大半を口にして悲愴な応援を求めながら、韋駄天となつて真ツ先きに駈けて来る青野の主人を見た。はしよりもしない裾が、ひとりでに肌脱ぎになつた袖と一所に尾となつて跳ねあがり、胸板に西陽を浴び、太腿を露出した彼は、差し伸べた両手の先きを次の瞬間には凧をひつかけてしまはうとする熊手にして、白足袋の跣足で駈けて来た。私達は、紋付きの夏羽織を昆布のやうに翻がへして猪の勢ひで突喚して来る山高帽子の村長の浅猿あさましい姿を見た。続く多数の勢子達も、口々にあらゆる驚嘆詞を絶叫しながら、身を忘れて、一様に天空を指差して――誰も彼も足許などに気を配る余裕はない、空の一点以外に視線を放す者はない、亢奮の絶頂に置かれた彼等は、夢中になつて駈けつては、ピヨンと跳ねあがつて無駄に虚空を握む、今にもつかまへて見せるといふ必死の意気が露骨に彼等の五体にみなぎつてゐるのだ、彼等一同は一片の食物の影を見誤つて満腔の憧憬を寄せた動物のやうに、理性を没却し常識に追放され、ひたすらに無知なる性急に逆上して、思はず跳ねあがつては空を握んだ、駈けては又飛びあがつて空しく拳固を拵える、全くの無駄事を繰り返しながら息の切れも知らずに駈けて来た。三間駈けたかと思ふと三尺飛びあがる、果物をもぎとらうとでもするやうに素早く身構えては、軽やかに跳躍する……さういふ動作を間断なく続けながら、不思議とすみやかな速力で駈けてゐる。彼等は見ずにハードルを巧みに飛び越え、――一途に天を凝視した阿修羅になつて駈けてゐる。
 稍おくれて続く者共は、手に手に竹の長竿を打ち振りながら、同じく身を忘れ、奇妙な眺躍をし続けて一散に駈けて来た。
 私達だつて息をつく間もなかつた。どんな言葉を放つ間もなかつた。唖然として立ち竦んだ儘だつた。忽ち、この驚くべき Cross country racer 達の目眩しい流れを、地をゆるがせて一陣の風と共に私達の眼前を通過すると、奇体に猛烈なあの Fox Trot を踏みながら、まつしぐらに野を越え、丘を蹴り、畑をよこぎつて見る間に指呼の彼方に影を没した。
「あの凧の糸が切れたのだらうか、さつきと同じところに止つてゐるやうに見えるけれど――」と私は、漸く言葉を得て嘆声を交へながら母に訊ねた。
「ほんとうにね……?」と母も蒼ざめた顔に不思議な眼を視開いて、私と同じく呆然と空の小さな凧を見あげた。「あれ位ゐの高さになると、一寸とは遠ざかつて行くのが解らないのだね!」
 祖母は、丘に腰を降すと声を挙げて神に念じた。そして、青野の凧が村としての自慢の凧であることや、二度と拵えるわけに行かない昔からの丹精がこもつてゐることや、あれは他所のと違つて張り合ひなどはしないでも済まされてゐる特別な凧である。だから誰も彼もが自分の凧を棄てゝあのやうに血相を変へて追ひかけて行つたのだ等のことを、涙を拭きながら述懐した。
 母の眼にも涙が宿つてゐた。母は震え声を忍ばせて、
「あれあれ! 解るよ、御覧な、もうあんなに小さくなつた。」と私に告げた。
 凧は、ほんとうのボーフラのやうに小さくなつて静かに浮いてゐた。凧のことはそれほどでもなかつたが私は、祖母や母の涙に気がつき、そして小さな凧を仰いでゐると、だん/\に涙がうすら甘く込みあげて来るのに気づいた。睫毛がぬれて凧の姿が眺めにくゝなつて私は、まだしきりに上ばかりを仰いでゐる母の蔭にかくれて、そつと首垂れた。凹地の広い芝生は、もう祭りの翌日のやうにひつそり閑として、竹の皮や紙屑と一処に鮮やかな陽炎がゆら/\としてゐた。
「あれツきりなんだ、だから如何しても思ひ出せないんだ、小さ過ぎる……」
「小さいのを拵えるんだと云つてゐたぢやありませんか、あなたは?」と妻が云つた。
「凧のことぢやないんだよ。他の……」と私は、言葉を濁したが、あくまでもはつきりと浮遊してゐる小さい凧の印象以外のことでは、何の紛す言葉も知らなかつた。凧を話材にされると私の気分は滅入り込むばかりであつたにもかゝはらず――。
 解つてゐる部分だけを眼近く取りあげて幾度となく私は、夢を払つて細工に取りかゝらうと振ひ立つたが、いつの間にか私の心身は共に疲れたと見えて、実務に対する凡ての働きが臆劫になり、数理的の観念が消えて、反動の如く強く徒らに妄想病が募るばかりであつた。妄想の範囲は、あの凧のあれだけの姿に限られてゐた。
 頭や顔ばかりではない、尾の附け方だつて、胴片のつなぎ具合だつて、脚の釣合ひのとり方だつて、釣の掛け方は云ふまでもなく、塗料のあんばいだつて――一途に心が狂奔するばかりで、今はもう部分的に手を取つて見ようとすれば何も彼も滅茶滅茶で凡てが手の施しようもなかつた。そして、たゞボーフラのやうに小さい凧が空の一点からしきりにまねいては嘲笑ひ、私の悲惨な憧憬をいやが上にもたかぶらせながら、絶え間なく白日の夢に髣髴としてゐるのであつた。

     三

「ゆうべもまたあなたは宿をあけたでせう、毎晩毎晩何処へ行くの?」
 妻は、迂論な眼差しで私を屹と睨めた。あたりが薄暗くなつたのを待ち構えて私は、四五日前から引き移つてゐる海辺の旅舎を毎晩空にするのであつた。今も私は、出かけようとして玄関に立ち現れたところを彼女につかまつたのである。
「昼間だつてあたしは、さつきも来て見たのよ。」
「昼間も!」
「毎日のぞきに来てゐるわよ。」
「…………」
 私は、わけもなく酷くたぢろいだ。別段妻に見つけられて後ろ目たい思ひをしなければならないといふやうな種類の行動を為してゐるわけではなかつたのに私は、愕然とした。
「変だ!」と妻は、私の態度から自分の相像が当つたと思ひ違へて、眼を据えた。「ゆうべは、あなたはとう/\帰つて来なかつたんぢやないの、ちやんと解つてゐる。」
「お前は――」と私は静かに諭さうとしたが、妻の想像に弁護すると思はれるのも嫌だつたし、また思ひ返して見れば前夜の自分の行動も酷く曖昧でとらへ処もなかつた。「そんな疑ひを持つものぢやない、自分の気持を汚すばかりでなく此方の気分を……」
「へんツ!」と妻は、鼻先きで卑しくセヽラわらつた。「何が気持さ!」
 私は、私自身を妻の立場から眺めて残酷に感じた。私は、相手からさう見られることに怯えを感じた。だが、説明の仕様しかたがなかつた。此方が、たぢろげばたぢろぐ程妻の嫉妬を掻きたてるやうなものだつた。
「吾家ではお母さんやあたしの手前が具合が悪いもので、それで勉強だとか何とかと吹聴して斯んな処に移つたに相違ない。」
「それは、さうだ。」と私は、思はず実際の気持を表白した。私は、窓に腰を降して海の上を見晴した。寸暇もなかつた激務の間に、ふと休息を持つたやうな静けさを感じた。
「それは、さうだつて?」と彼女は、苛立つて唇を震はせた。「まア、何といふ図々づう/\しいことを平気で云ふ人だらう!」
「…………」
 こんな海の傍に居ながら、この静かな夕暮の海辺の景色を眺める閑もなかつたのか! 俺は! ……私は、帽子をかむつた儘何時になく落着いて、暮れて行く海原を眺めてゐた。
「机の上にはペン一本載つてゐない。部屋中には本一冊見当らない。約束のハガキは書いたの、東京のお友達に?」
「さうだ、忘れてゐた、エハガキとペンとインキを買つて来て呉れ、大急ぎで――あゝ、悪いことをしてしまつた、此方で会ふ約束がしてあつたのだ。遊びに来て呉れるんだ。俺が此方に居る間に――」
「だから吾家に引き上げたら如何? どうせ斯んな風にしてゐる位ひなら……」
「云ふのは、たゞ面倒だから止めてゐるが俺は何もお前が相像してゐるやうな悪い生活を此処に来てしてゐるわけではないよ。」
「だからさ、吾家で凧でも拵えてゐれば好いぢやないの。折角思ひたつた仕事なのに?」
 彼女は、私の想ひなどには夢にも気づかずに強ひて気嫌を直して、そんなことをすゝめた。
余外よけいなことを云はないで呉れ。」と私は、弱々しく歎願すると、にわかに悲し気に頭をかゝえて其処に打ち倒れてしまつた。まつたく私は、吾家にゐると母や妻が空しく凧の製作を私にすゝめ、内心の私の火よりも強い凧の製作慾に惨めな幻滅を覚えさせられることの苦痛から逃れるだけの目的で此方に引き移つたのである。尤も私は、斯んな風にでもしたら凧のことなどは他易く思ひ切れて、創作にも取りかゝれるかも知れないといふ望みも抱いて来たのであつた。
 独りになつて見ると私の凧に対する憧憬は、何のはゞかる者もなくなつた為か、吾家に居る時の状態とは全く変つて、露はに身を焦し始めてゐた。私は、部屋に居ても寸分の間も凝つとしてはゐられなかつた。腕を組み首をかしげて、檻の中の動物のやうに苛々と歩き廻つた。暫く遠ざかつてゐた洋酒に私は再び慣れて、一回りしては一杯づつ傾けた。壜を片手にして私は回り灯籠の影絵のやうにグル/\と堂々回りをした。床に打ち倒れて、ボーフラのやうに身を悶えた。毒薬を嚥んだ者のやうに髪の毛を掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)つて、空壜に等しい頭を殴つた。その挙句の果、泥酔してゐるものゝそれだけ一途に凧を追つてまつしぐらに夜の街に飛び出すのが常だつた。
 故郷の町であるのに其処は全く私にとつては見知らぬ街だつた。といふのは、あの大地震の後に上京した私は、時々此処に帰るのであつたが、いつも何故か無性に人目をはゞかつて、逃げるやうに眼を覆つて母の家に行き着く以外には何処にも出なかつた。だから私には、一朝の間に消え失せて曾ての薄暗い古びた街の印象より他はなかつた。
 私には見当もつかない。道幅の広い瓦斯灯が昼のやうに煌いてゐる樹木の一本もない不思議な街を私は見た。私は此処こそ暗い横丁だらうと思つて逃げ込むと、其処にはペンキ塗りのバーやカフエーが軒をそろえて客を招んでゐる。たしかに知合の茶屋のあたりだと思つて、一散に駈け込むと活動写真館だつた。知つた人の影にも遇はないのは私にとつては幸ひだつたが、せめて知合ひの茶屋の行衛ゆくゑを往来の人を捉へて訊ねて見ると空しく言下に首を振られる。カフエーなどは停車場の前より他には無かつた筈だ。私が母家を離れて住んだことのある竹藪を背つた家の趾らしいあたりには、支那そば屋と氷屋と居酒屋が並んでゐる。母家の趾には銘酒屋が立ち並んで景気の好い三味線の音が鳴つてゐる。私は隣りのバーによろけ込んだ。
「あんた東京の学生さん?」
「うむ……」
「おゝ、嬉しい、妾も東京よ。」
 また隣りの洋食屋に私は移つた。「いけ好かないアンちやんだよう、誰がおなじみなのよ。ふんとに人が悪い、しらばつくれて!」
 ……往来に転げ出ると、思ひも寄らぬタクシーが通つてゐる。「青野に会ひたい、あいつが凧のことを忘れてゐるにしても、あいつの顔を見るだけでも俺はいくらか救はれるだらう。」――屹度私は斯う呟くのである。夢中で私は、一里あまりあるB村に自動車を飛ばせるのが常だつた。私は、大声を挙げて腕を振り地団駄を踏んだ。私は、青野の父や村長の後に続いた決死の勢子達の一員に花々しく吾身を投じた陶酔をはつきりと味つた。
 青野の家は、以前の姿をあたりの景色と同様に全く滅ぼして、丘の一隅に粗末な洋館に変つてゐる。闇の中に一点の灯が浮んでゐる。畑を超えた一軒家である。
「もう来る時分だと思つてゐた。妾、今日あんたの家へ行つてたつた今帰つて来たところなのよ。アラ、歩けないの!」
「青野が留守のことは解つてゐる筈なのに……あゝ、俺はまた来てしまつた。」
 私は、救けられて長椅子に腰を降すと共に直ぐに跳ね上るのであつた。「青野に会ひに来たんだ。……ぢや、さよなら。」
「毎日繰り反してゐる。失敬ね、突然来て、突然さよなら!」
「あの頃は、まだ冬ちやんは赤ン坊の時分だつた、だから冬ちやんは知るまい……」
「昔の話は御免よ。今日もあんたのお母さんから昔の吾家の話を聞されて、退屈してしまつた。何んなことを聞いても妾は何とも思はない、だつて今の生活が気に入つてゐるんだもの。あんたも東京なんて止めにして此処の隣りに斯んな家でも建てないこと、千円位ゐで出来るつてさ、土地はタヾでやるわ。」
「兄さんは何時帰るだらう?」
「解らないんだと云ふのに!……」
「うむ、これで好い。さうだ、冬ちやんも飲むんだつたね。」
 冬子が棚から取り降した洋酒を私は、勢ひ好くあをつた。「おや、此処にお父さんの油絵が懸つてゐた筈だが、あれはどうしたの?」
 さう云つて私は、壁を指差した。確かに其処には兄妹の両親の肖像画が一対並んでゐたのだ。私は、兄妹の父親の肖像が見たかつた。――今見ると其処には冬子の写真が、大きな金縁の額に入つて懸けてあつた。
「それは去年のことぢやないの?」
「さうかなあ! あのお父さんの肖像も僕にははつきり残つてゐる。」
「肖像も?」
「いや、肖像画があり/\と残つてゐる。」
「何をそんな処ばかり眺めてゐるのさ。妾は古い吾家のもので何にも欲しいと思ふものはないけれど、あの馬だけには未練がある。」冬子はさう云つて馬上姿の自分の写真を見上げた。私は、其処にあつた筈の父親の肖像画に未練を繋いでゐたのだ。
「さうだらう、冬ちやんはあの馬と一処に育つたやうなものだからね。」
「まさか――」と冬子は、つまらなさうな苦笑を浮べた。彼女の眼は、此方の顔を眺めてはゐるのだが、例へれば、その網膜には実在の物は映つてゐない、何か形のない物を視詰めてゐる、明るく悩みなく一途に何かを見透してゐる――そんな風に円らに光つてゐるのだ。彼女の眼蓋は、殆んど眼ばたきを見せない。彼女の唇から洩れる言葉は、彼女にとつては徒然に吹く口笛に過ぎない――そんな感じを私に与へるのであつた。私は、悪酒に酔ひ痴れて、一途に凧の影を追つてゐるのみなのだ。そして彼女の呟く言葉も私にとつては遠い囁きに過ぎなかつた。二人は勝手に辻妻の合はぬ言葉を交してゐるに過ぎない。それが何処かの点で稀に対照されたに過ぎない。……彼女は私の顔を眺めてゐる。私も亦彼女の顔を眺めてゐる。だが私の網膜にも彼女の顔は在りの儘には映つてゐない。卑俗な私の眼は、せめて兄弟の父親の眼に触れて心細い凧の憧れを活気づけずには居られなかつたのである。
「妾は馬に乗つて駈ける夢は、今でも見て、風になる程心が躍る……あれは妾にとつて一種の秘密な快楽だつたから……」
 私が極力止めるのも諾かずに冬子は、馬小屋に忍び込んで「お父さんに見つかると叱られるんだが、妾は夕方如何してもこれに乗つて遊んで来ないと夜眠れないのよ。」
 さう云つて私にも一処に乗れとすゝめた。もう私は、たしか中学の初年級に入つてゐた頃だつたらう、私は酷く小柄な少年だつたが、私が前に乗つて、手綱を持つた冬子が私の背後うしろに股がると彼女は首をすぼめて漸く私の胴脇からでないと前方を見ることは出来なかつた。彼女は、臆病な私に様々な警告を与へながら次第に馬の速度をはやめた。私は酷くテレ臭い格構で石のやうにギゴチなく凝然としてゐるばかりであつたが(私は正当な乗手になつて前方を視詰めてゐるわけにも行かなかつた、羞み笑ひを浮べる程の余裕もない、と云つて余り悸々びく/\するのも自尊心に関した。私は主に蹄の音に耳を傾けてゐた。)背後の冬子が如何に爽快に己れの五体を自由な鞭に変へて、毛程の邪魔もなく私の身を軽々とその翼に抱き、如何に見事な騎手の役目を果してゐるかといふことが、安んじて窺はれた。安心がなかつたら、あのやうに一散に駈る馬の背に一時たりとも私が乗つてゐられる筈はない。
 冬子は汽笛のやうに唇を鳴らした。

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