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銀河鉄道の夜(ぎんがてつどうのよる)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-29 15:49:07  点击:  切换到繁體中文

 

(此(こ)の間原稿(げんこう)なし)
「ボール投げなら僕(ぼく)決(けっ)してはずさない」
 男の子が大いばりで言(い)いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」青年がみんなに言(い)いました。
「僕(ぼく)、も少し汽車に乗ってるんだよ」男の子が言(い)いました。
 カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立ってしたくをはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです」青年はきちっと口を結(むす)んで男の子を見おろしながら言(い)いました。
「厭(いや)だい。僕(ぼく)もう少し汽車へ乗(の)ってから行くんだい」
 ジョバンニがこらえかねて言(い)いました。
「僕(ぼく)たちといっしょに乗(の)って行こう。僕(ぼく)たちどこまでだって行ける切符(きっぷ)持(も)ってるんだ」
「だけどあたしたち、もうここで降(お)りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」
 女の子がさびしそうに言(い)いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕(ぼく)の先生が言(い)ったよ」
「だっておっ母(か)さんも行ってらっしゃるし、それに神(かみ)さまがおっしゃるんだわ」
「そんな神(かみ)さまうその神(かみ)さまだい」
「あなたの神(かみ)さまうその神(かみ)さまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたの神(かみ)さまってどんな神(かみ)さまですか」青年は笑(わら)いながら言(い)いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人(ひとり)の神(かみ)さまです」
「ほんとうの神(かみ)さまはもちろんたった一人(ひとり)です」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神(かみ)さまです」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神(かみ)さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈(いの)ります」青年はつつましく両手(りょうて)を組みました。
 女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別(わか)れが惜(お)しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣(な)き出そうとしました。
「さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」
 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙(だいだい)や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架(じゅうじか)が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環(わ)になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈(いの)りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜(うり)に飛(と)びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない深(ふか)いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架(じゅうじか)は窓(まど)の正面(しょうめん)になり、あの苹果(りんご)の肉(にく)のような青じろい環(わ)の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)っているのが見えました。
「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言(い)えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈(でんとう)の灯(あかり)のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架(じゅうじか)のちょうどま向(む)かいに行ってすっかりとまりました。
「さあ、おりるんですよ」青年は男の子の手をひき姉(あね)は互(たが)いにえりや肩(かた)をなおしてやってだんだん向(む)こうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら」女の子がふりかえって二人に言(い)いました。
「さよなら」ジョバンニはまるで泣(な)き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに言(い)いました。
 女の子はいかにもつらそうに眼(め)を大きくして、も一度(ど)こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上(はんぶんいじょう)も空(す)いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに吹(ふ)き込(こ)みました。
 そして見ているとみんなはつつましく列(れつ)を組んで、あの十字架(じゅうじか)の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子(ガラス)の呼(よ)び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに銀(ぎん)いろの霧(きり)が川下の方から、すうっと流(なが)れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉(は)をさんさんと光らしてその霧(きり)の中に立ち、黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(でんきりす)が可愛(かわい)い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
 そのとき、すうっと霧(きり)がはれかかりました。どこかへ行く街道(かいどう)らしく小さな電燈(でんとう)の一列(いちれつ)についた通りがありました。それはしばらく線路(せんろ)に沿(そ)って進(すす)んでいました。そして二人(ふたり)がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと消(き)え、二人(ふたり)が過ぎて行くときまた点(つ)くのでした。
 ふりかえって見ると、さっきの十字架(じゅうじか)はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま胸(むね)にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚(なぎさ)にまだひざまずいているのか、それともどこか方角(ほうがく)もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
 ジョバンニは、ああ、と深(ふか)く息(いき)しました。
「カムパネルラ、また僕(ぼく)たち二人(ふたり)きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕(ぼく)はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕(ぼく)のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」
「うん。僕(ぼく)だってそうだ」カムパネルラの眼(め)にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
 ジョバンニが言(い)いました。
「僕(ぼく)わからない」カムパネルラがぼんやり言(い)いました。
「僕(ぼく)たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが胸(むね)いっぱい新しい力が湧(わ)くように、ふうと息(いき)をしながら言(い)いました。
「あ、あすこ石炭袋(せきたんぶくろ)だよ。そらの孔(あな)だよ」カムパネルラが少しそっちを避(さ)けるようにしながら天の川のひととこを指(ゆび)さしました。
 ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔(あな)が、どおんとあいているのです。その底(そこ)がどれほど深(ふか)いか、その奥(おく)に何があるか、いくら眼(め)をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼(め)がしんしんと痛(いた)むのでした。ジョバンニが言(い)いました。
「僕(ぼく)もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕(ぼく)たちいっしょに進(すす)んで行こう」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集(あつ)まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
 カムパネルラはにわかに窓(まど)の遠くに見えるきれいな野原を指(さ)して叫(さけ)びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言(い)ったように思われませんでした。
 なんとも言(い)えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、向(む)こうの河岸(かわぎし)に二本の電信(でんしん)ばしらが、ちょうど両方(りょうほう)から腕(うで)を組んだように赤い腕木(うでぎ)をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕(ぼく)たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言(い)いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席(せき)に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
 ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。そして誰(だれ)にも聞こえないように窓(まど)の外へからだを乗(の)り出して、力いっぱいはげしく胸(むね)をうって叫(さけ)び、それからもう咽喉(のど)いっぱい泣(な)きだしました。
 もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
「おまえはいったい何を泣(な)いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
 ジョバンニは、はっと思って涙(なみだ)をはらってそっちをふり向(む)きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席(せき)に黒い大きな帽子(ぼうし)をかぶった青白い顔のやせた大人(おとな)が、やさしくわらって大きな一冊(さつ)の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言(い)ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果(りんご)をたべたり汽車に乗(の)ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福(こうふく)をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符(きっぷ)をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強(べんきょう)しなけぁいけない。おまえは化学(かがく)をならったろう、水は酸素(さんそ)と水素(すいそ)からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑(うたが)やしない。実験(じっけん)してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀(すいぎん)と塩(しお)でできていると言(い)ったり、水銀(すいぎん)と硫黄(いおう)でできていると言(い)ったりいろいろ議論(ぎろん)したのだ。みんながめいめいじぶんの神(かみ)さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たが)いほかの神(かみ)さまを信(しん)ずる人たちのしたことでも涙(なみだ)がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論(ぎろん)するだろう。そして勝負(しょうぶ)がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強(べんきょう)して実験(じっけん)でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験(じっけん)の方法(ほうほう)さえきまれば、もう信仰(しんこう)も化学(かがく)と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理(ちり)と歴史(れきし)の辞典(じてん)だよ。この本のこの頁(ページ)はね、紀元前(きげんぜん)二千二百年の地理(ちり)と歴史(れきし)が書いてある。よくごらん、紀元前(きげんぜん)二千二百年のことでないよ、紀元前(きげんぜん)二千二百年のころにみんなが考えていた地理(ちり)と歴史(れきし)というものが書いてある。
 だからこの頁(ページ)一つが一冊(さつ)の地歴(ちれき)の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前(きげんぜん)二千二百年ころにはたいてい本当(ほんとう)だ。さがすと証拠(しょうこ)もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次(つぎ)の頁(ページ)だよ。
 紀元前(きげんぜん)一千年。だいぶ、地理(ちり)も歴史(れきし)も変(か)わってるだろう。このときにはこうなのだ。変(へん)な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史(れきし)だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
 そのひとは指(ゆび)を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者(がくしゃ)や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広(ひろ)い世界(せかい)ががらんとひらけ、あらゆる歴史(れきし)がそなわり、すっと消(き)えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験(じっけん)は、このきれぎれの考えのはじめから終(お)わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖(くさり)を解(と)かなければならない」
 そのときまっくらな地平線(ちへいせん)の向(む)こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲(せいうん)だ。さあもうきっと僕(ぼく)は僕(ぼく)のために、僕(ぼく)のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福(こうふく)をさがすぞ」
 ジョバンニは唇(くちびる)を噛(か)んで、そのマジェランの星雲(せいうん)をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福(こうふく)なそのひとのために!
「さあ、切符(きっぷ)をしっかり持(も)っておいで。お前はもう夢(ゆめ)の鉄道(てつどう)の中でなしにほんとうの世界(せかい)の火やはげしい波(なみ)の中を大股(おおまた)にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符(きっぷ)を決(けっ)しておまえはなくしてはいけない」
 あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹(ふ)き自分はまっすぐに草の丘(おか)に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博士(はかせ)の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。
「ありがとう。私はたいへんいい実験(じっけん)をした。私はこんなしずかな場所(ばしょ)で遠くから私の考えを人に伝(つた)える実験(じっけん)をしたいとさっき考えていた。お前の言(い)った語はみんな私の手帳(てちょう)にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢(ゆめ)の中で決心(けっしん)したとおりまっすぐに進(すす)んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談(そうだん)においでなさい」
「僕(ぼく)きっとまっすぐに進(すす)みます。きっとほんとうの幸福(こうふく)を求(もと)めます」ジョバンニは力強(ちからづよ)く言(い)いました。
「ああではさよなら。これはさっきの切符(きっぷ)です」
 博士(はかせ)は小さく折(お)った緑(みどり)いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪(てんきりん)の柱(はしら)の向(む)こうに見えなくなっていました。
 ジョバンニはまっすぐに走って丘(おか)をおりました。
 そしてポケットがたいへん重(おも)くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべてみましたら、あの緑(みどり)いろのさっき夢(ゆめ)の中で見たあやしい天の切符(きっぷ)の中に大きな二枚(まい)の金貨(きんか)が包(つつ)んでありました。
「博士(はかせ)ありがとう、おっかさん。すぐ乳(ちち)をもって行きますよ」
 ジョバンニは叫(さけ)んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸(むね)に集(あつ)まってなんとも言(い)えずかなしいような新しいような気がするのでした。
 琴(こと)の星がずうっと西の方へ移(うつ)ってそしてまた夢(ゆめ)のように足をのばしていました。

 ジョバンニは眼(め)をひらきました。もとの丘(おか)の草の中につかれてねむっていたのでした。胸(むね)はなんだかおかしく熱(ほて)り、頬(ほお)にはつめたい涙(なみだ)がながれていました。
 ジョバンニはばねのようにはね起(お)きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯(あかり)を綴(つづ)ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱(ねっ)したというふうでした。
 そしてたったいま夢(ゆめ)であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線(ちへいせん)の上ではことにけむったようになって、その右には蠍座(さそりざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置(いち)はそんなに変(か)わってもいないようでした。
 ジョバンニはいっさんに丘(おか)を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待(ま)っているお母さんのことが胸(むね)いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松(まつ)の林の中を通って、それからほの白い牧場(ぼくじょう)の柵(さく)をまわって、さっきの入口から暗(くら)い牛舎(ぎゅうしゃ)の前へまた来ました。そこには誰(だれ)かがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かの樽(たる)を二つ載(の)っけて置(お)いてありました。
「今晩(こんばん)は」ジョバンニは叫(さけ)びました。
「はい」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「なんのご用ですか」
「今日牛乳(ぎゅうにゅう)がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ、済(す)みませんでした」その人はすぐ奥(おく)へ行って一本の牛乳瓶(ぎゅうにゅうびん)をもって来てジョバンニに渡(わた)しながら、また言(い)いました。
「ほんとうに済(す)みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの柵(さく)をあけておいたもんですから、大将(たいしょう)さっそく親牛(おやうし)のところへ行って半分(はんぶん)ばかりのんでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます」
「ええ、どうも済(す)みませんでした」
「いいえ」
 ジョバンニはまだ熱(あつ)い乳(ちち)の瓶(びん)を両方(りょうほう)のてのひらで包(つつ)むようにもって牧場(ぼくじょう)の柵(さく)を出ました。
 そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流(なが)しに行った川へかかった大きな橋(はし)のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
 ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集(あつ)まって橋(はし)の方を見ながら何かひそひそ談(はな)しているのです。それから橋(はし)の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
 ジョバンニはなぜかさあっと胸(むね)が冷(つめ)たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあったんですか」と叫(さけ)ぶようにききました。
「こどもが水へ落(お)ちたんですよ」一人(ひとり)が言(い)いますと、その人たちは一斉(いっせい)にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中(むちゅう)で橋(はし)の方へ走りました。橋(はし)の上は人でいっぱいで河(かわ)が見えませんでした。白い服(ふく)を着(き)た巡査(じゅんさ)も出ていました。
 ジョバンニは橋(はし)の袂(たもと)から飛(と)ぶように下の広い河原(かわら)へおりました。
 その河原(かわら)の水ぎわに沿(そ)ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向(む)こう岸(ぎし)の暗(くら)いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜(からすうり)のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰(はい)いろにしずかに流(なが)れていたのでした。
 河原(かわら)のいちばん下流(かりゅう)の方へ洲(す)のようになって出たところに人の集(あつ)まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会(あ)いました。マルソがジョバンニに走り寄(よ)って言(い)いました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ」
「ザネリがね、舟(ふね)の上から烏(からす)うりのあかりを水の流(なが)れる方へ押(お)してやろうとしたんだ。そのとき舟(ふね)がゆれたもんだから水へ落(お)っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛(と)びこんだんだ。そしてザネリを舟(ふね)の方へ押(お)してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんなさがしてるんだろう」
「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連(つ)れられてった」
 ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに囲(かこ)まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服(ふく)を着(き)てまっすぐに立って左手に時計(とけい)を持(も)ってじっと見つめていたのです。
 みんなもじっと河(かわ)を見ていました。誰(だれ)も一言(ひとこと)も物(もの)を言(い)う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな波(なみ)をたてて流(なが)れているのが見えるのでした。
 下流(かりゅう)の方の川はばいっぱい銀河(ぎんが)が巨(おお)きく写(うつ)って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
 ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河(ぎんが)のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
 けれどもみんなはまだ、どこかの波(なみ)の間から、
「ぼくずいぶん泳(およ)いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲(す)にでも着(つ)いて立っていて誰(だれ)かの来るのを待(ま)っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言(い)いました。
「もう駄目(だめ)です。落(お)ちてから四十五分たちましたから」
 ジョバンニは思わずかけよって博士(はかせ)の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と言(い)おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも言(い)えませんでした。すると博士(はかせ)はジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩(こんばん)はありがとう」とていねいに言(い)いました。
 ジョバンニは何も言(い)えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか」博士(はかせ)は堅(かた)く時計(とけい)を握(にぎ)ったまま、またききました。
「いいえ」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日(おととい)たいへん元気な便(たよ)りがあったんだが。今日(きょう)あたりもう着(つ)くころなんだが。船(ふね)が遅(おく)れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後(ほうかご)みなさんとうちへ遊(あそ)びに来てくださいね」
 そう言(い)いながら博士(はかせ)はまた、川下の銀河(ぎんが)のいっぱいにうつった方へじっと眼(め)を送(おく)りました。
 ジョバンニはもういろいろなことで胸(むね)がいっぱいで、なんにも言(い)えずに博士(はかせ)の前をはなれて、早くお母さんに牛乳(ぎゅうにゅう)を持(も)って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原(かわら)を街(まち)の方へ走りました。





底本:「銀河鉄道の夜」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年7月20日改版初版発行
   1987(昭和62)年3月30日改版50版
入力:幸野素子
校正:土屋隆
2005年8月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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