パート九[#ゴシック体]
すきとほつてゆれてゐるのは
さつきの剽悍な四本のさくら
わたくしはそれを知つてゐるけれども
眼にははつきり見てゐない
たしかにわたくしの感官の外で
つめたい雨がそそいでゐる
(天の微光にさだめなく
うかべる石をわがふめば
おゝユリア しづくはいとど降りまさり
カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
幻想が向ふから迫つてくるときは
もうにんげんの壊れるときだ
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
あんまりひどい幻想だ
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです
(ひばりが居るやうな居ないやうな
腐植質から麦が生え
雨はしきりに降つてゐる)
さうです 農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punkt と
呼びたいやうな気がします
この冬だつて耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いつたり来たりしてゐました
さつきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
そんなことでだまされてはいけない
ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
それにだいいちさつきからの考へやうが
まるで銅版のやうなのに気がつかないか
雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
その貝殻のやうに白くひかり
底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
もう決定した そつちへ行くな
これらはみんなただしくない
いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
発散して酸えたひかりの澱だ
ちひさな自分を劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立つて行く
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる
(一九二二、五、二一)
[#改丁、ページの左右中央に] グランド電柱
[#改ページ] 林と思想
そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ
(一九二二、六、四)
[#改ページ] 霧とマツチ
(まちはづれのひのきと青いポプラ)
霧のなかからにはかにあかく燃えたのは
しゆつと擦られたマツチだけれども
ずゐぶん拡大されてゐる
スヰヂツシ安全マツチだけれども
よほど酸素が多いのだ
(明方の霧のなかの電燈は
まめいろで匂もいゝし
小学校長をたかぶつて散歩することは
まことにつつましく見える)
(一九二二、六、四)
[#改ページ] 芝生
風とひのきのひるすぎに
小田中はのびあがり
あらんかぎり手をのばし
灰いろのゴムのまり 光の標本を
受けかねてぽろつとおとす
(一九二二、六、七)
[#改ページ] 青い槍の葉
(mental sketch modified)
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲は来るくる南の地平
そらのエレキを寄せてくる
鳥はなく啼く青木のほずゑ
くもにやなぎのくわくこどり
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれて日ざしが降れば
黄金の
幻燈 草の青
気圏日本のひるまの底の
泥にならべるくさの列
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲はくるくる日は銀の盤
エレキづくりのかはやなぎ
風が通ればさえ
冴え鳴らし
馬もはねれば黒びかり
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がきれたかまた日がそそぐ
土のスープと草の列
黒くをどりはひるまの
燈籠泥のコロイドその底に
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
たれを刺さうの槍ぢやなし
ひかりの底でいちにち日がな
泥にならべるくさの列
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれてまた夜があけて
そらは
黄水晶ひでりあめ
風に霧ふくぶりきのやなぎ
くもにしらしらそのやなぎ
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

一九二二、六、一二

[#改ページ] 報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
(一九二二、六、一五)
[#改ページ] 風景観察官
あの林は
あんまり
緑青を
盛り過ぎたのだ
それでも自然ならしかたないが
また多少プウルキインの現象にもよるやうだが
も少しそらから
橙黄線を送つてもらふやうにしたら
どうだらう
ああ何といふいい精神だ
株式取引所や議事堂でばかり
フロツクコートは着られるものでない
むしろこんな
黄水晶の夕方に
まつ
青な稲の槍の間で
ホルスタインの
群を指導するとき
よく適合し効果もある
何といふいい精神だらう
たとへそれが
羊羹いろでぼろぼろで
あるいはすこし暑くもあらうが
あんなまじめな直立や
風景のなかの敬虔な人間を
わたくしはいままで見たことがない
(一九二二、六、二五)
[#改ページ] 岩手山
そらの
散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの
微塵系列の底に
きたなくしろく
澱むもの
(一九二二、六、二七)
[#改ページ] 高原
海だべがど おら おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛 風吹けば
鹿踊りだぢやい
(一九二二、六、二七)
[#改ページ] 印象
ラリツクスの青いのは
木の新鮮と神経の性質と両方からくる
そのとき展望車の藍いろの紳士は
X型のかけがねのついた帯革をしめ
すきとほつてまつすぐにたち
病気のやうな顔をして
ひかりの山を見てゐたのだ
(一九二二、六、二七)
[#改ページ] 高級の霧
こいつはもう
あんまり明るい
高級の霧です
白樺も芽をふき
からすむぎも
農舎の屋根も
馬もなにもかも
光りすぎてまぶしくて
(よくおわかりのことでせうが
日射しのなかの青と金
落葉松は
たしかとどまつに似て居ります)
まぶし過ぎて
空気さへすこし痛いくらゐです
(一九二二、六、二七)
[#改ページ] 電車
トンネルへはひるのでつけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで
なあに 山火事でござんせう
なあに 山火事でござんせう
あんまり大きござんすから
はてな 向ふの光るあれは雲ですな
木きつてゐますな
いゝえ やつぱり山火事でござんせう
おい きさま
日本の萱の野原をゆくビクトルカランザの配下
帽子が風にとられるぞ
こんどは青い
稗を行く貧弱カランザの末輩
きさまの馬はもう汗でぬれてゐる
(一九二二、八、一七)
[#改ページ] 天然誘接
北斎のはんのきの下で
黄の風車まはるまはる
いつぽんすぎは
天然誘接ではありません
槻と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
たうとう幹がくつついて
険しい
天光に立つといふだけです
鳥も棲んではゐますけれど
(一九二二、八、一七)
[#改ページ] 原体剣舞連 (mental sketch modified)
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや
異装のげん月のした
鶏の黒尾を
頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の
舞手たちよ
鴾いろのはるの
樹液を
アルペン農の
辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが
朋たちよ
青らみわたる
気をふかみ
楢と
椈とのうれひをあつめ
蛇紋山地に
篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に
粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を
累ねた
師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の
天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし
達谷の
悪路王 まつくらくらの二里の
洞 わたるは夢と
黒夜神 首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い
仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の
蜘蛛をどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく
刃を
合はせ
霹靂の青火をくだし
四方の
夜の
鬼神をまねき
樹液もふるふこの
夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲と風とをまつれ
dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は
射そそぐ銀の矢並
打つも
果てるも火花のいのち
太刀の
軋りの消えぬひま
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は
稲妻萱穂のさやぎ
獅子の
星座に散る火の雨の
消えてあとない
天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

一九二二、八、三一

[#改ページ] グランド電柱
あめと雲とが地面に垂れ
すすきの赤い穂も洗はれ
野原はすがすがしくなつたので
花巻グランド
電柱の
百の
碍子にあつまる雀
掠奪のために田にはひり
うるうるうるうると飛び
雲と雨とのひかりのなかを
すばやく
花巻大三叉路の
百の碍子にもどる雀
(一九二二、九、七)
[#改ページ] 山巡査
おお
何といふ立派な楢だ
緑の
勲爵士だ
雨にぬれてまつすぐに立つ緑の
勲爵士だ
栗の木ばやしの青いくらがりに
しぶきや雨にびしやびしや洗はれてゐる
その長いものは一体舟か
それともそりか
あんまりロシヤふうだよ
沼に生えるものはやなぎやサラド
きれいな
蘆のサラドだ
(一九二二、九、七)
[#改ページ] 電線工夫
でんしんばしらの気まぐれ碍子の修繕者
雲とあめとの下のあなたに忠告いたします
それではあんまりアラビアンナイト型です
からだをそんなに黒くかつきり鍵にまげ
外套の裾もぬれてあやしく垂れ
ひどく手先を動かすでもないその修繕は
あんまりアラビアンナイト型です
あいつは悪魔のためにあの上に
つけられたのだと云はれたとき
どうあなたは弁解をするつもりです
(一九二二、九、七)
[#改ページ] たび人
あめの稲田の中を行くもの
海坊主林のはうへ急ぐもの
雲と山との陰気のなかへ歩くもの
もつと合羽をしつかりしめろ
(一九二二、九、七)
[#改ページ] 竹と楢
煩悶ですか
煩悶ならば
雨の降るとき
竹と
楢との林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ)
竹と楢との青い林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ
そんな髪をしてゐるから
そんなことも考へるのだ)
(一九二二、九、七)
[#改ページ] 銅線
おい 銅線をつかつたな
とんぼのからだの銅線をつかひ出したな
はんのき はんのき
交錯
光乱転気圏日本では
たうとう電線に銅をつかひ出した
(光るものは碍子
過ぎて行くものは赤い萱の穂)
(一九二二、九、一七)
[#改ページ] 滝沢野
光波測定の
誤差から
から松のしんは
徒長し
柏の木の
烏瓜ランタン
(ひるの鳥は曠野に啼き
あざみは青い棘に
遷る)
太陽が梢に発射するとき
暗い林の入口にひとりたたずむものは
四角な若い樺の木で
Green Dwarf といふ品種
日光のために燃え尽きさうになりながら
燃えきらず青くけむるその木
羽虫は一疋づつ光り
鞍掛や銀の錯乱
(寛政十一年は百二十年前です)
そらの魚の
涎れはふりかかり
天末線の恐ろしさ
(一九二二、九、一七)
[#改丁、ページの左右中央に] 東岩手火山
[#改ページ] 東岩手火山
月は水銀
後夜の
喪主 火山
礫は
夜の
沈澱 火口の
巨きなゑぐりを見ては
たれもみんな愕くはずだ
(風としづけさ)
いま
漂着する薬師
外輪山 頂上の石標もある
(月光は水銀 月光は水銀)

こんなことはじつにまれです
向ふの黒い山……つて それですか
それはここのつづきです
ここのつづきの外輪山です
あすこのてつぺんが絶頂です
向ふの?
向ふのは御室火口です
これから外輪山をめぐるのですけれども
いまはまだなんにも見えませんから
もすこし明るくなつてからにしませう
えゝ 太陽が出なくても
あかるくなつて
西岩手火山のはうの火口湖やなにか
見えるやうにさへなればいいんです
お日さまはあすこらへんで拝みます

黒い絶頂の右肩と
そのときのまつ赤な太陽
わたくしは見てゐる
あんまり真赤な幻想の太陽だ

いまなん時です
三時四十分?
ちやうど一時間
いや四十分ありますから
寒いひとは提灯でも持つて
この岩のかげに居てください

ああ 暗い雲の海だ

向ふの黒いのはたしかに早池峰です
線になつて浮きあがつてるのは北上山地です
うしろ?
あれですか
あれは雲です 柔らかさうですね
雲が駒ヶ岳に被さつたのです
水蒸気を含んだ風が
駒ヶ岳にぶつつかつて
上にあがり
あんなに雲になつたのです
鳥海山は見えないやうです
けれども
夜が明けたら見えるかもしれませんよ

(柔かな雲の波だ
あんな大きなうねりなら
月光会社の五千噸の汽船も
動揺を感じはしないだらう
その質は
蛋白石 glass-wool
あるいは水酸化礬土の沈澱)

じつさいこんなことは稀なのです
わたくしはもう十何べんも来てゐますが
こんなにしづかで
そして暖かなことはなかつたのです
麓の谷の底よりも
さつきの九合の小屋よりも
却つて暖かなくらゐです
今夜のやうなしづかな晩は
つめたい空気は下へ沈んで
霜さへ降らせ
暖い空気は
上に浮んで来るのです
これが気温の逆転です

御室火口の
盛りあがりは
月のあかりに照らされてゐるのか
それともおれたちの提灯のあかりか
提灯だといふのは勿体ない
ひはいろで暗い

それではもう四十分ばかり
寄り合つて待つておいでなさい
さうさう 北はこつちです
北斗七星は
いま山の下の方に落ちてゐますが
北斗星はあれです
それは小熊座といふ
あの七つの中なのです
それから向ふに
縦に三つならんだ星が見えませう
下には斜めに房が下つたやうになり
右と左とには
赤と青と大きな星がありませう
あれはオリオンです オライオンです
あの房の下のあたりに
星雲があるといふのです
いま見えません
その下のは大犬のアルフア
冬の晩いちばん光つて
目立つやつです
夏の蝎とうら表です
さあみなさん ご勝手におあるきなさい
向ふの白いのですか
雪ぢやありません
けれども行つてごらんなさい
まだ一時間もありますから
私もスケツチをとります

はてな わたくしの帳面の
書いた分がたつた三枚になつてゐる
事によると月光のいたづらだ
藤原が提灯を見せてゐる
ああ頁が折れ込んだのだ
さあでは私はひとり行かう
外輪山の自然な美しい歩道の上を
月の半分は
赤銅 地球照
お月さまには黒い処もある

後
藤又兵衛いつつも拝んだづなす

私のひとりごとの反響に
小田島
治衛が云つてゐる

山中鹿之助だらう

もうかまはない 歩いていゝ
どつちにしてもそれは
善いことだ
二十五日の月のあかりに照らされて
薬師火口の外輪山をあるくとき
わたくしは地球の華族である
蛋白石の雲は遥にたゝへ
オリオン 金牛 もろもろの星座
澄み切り澄みわたつて
瞬きさへもすくなく
わたくしの額の上にかがやき
さうだ オリオンの右肩から
ほんたうに鋼青の壮麗が
ふるへて私にやつて来る
三つの提灯は夢の火口原の
白いとこまで降りてゐる

雪ですか 雪ぢやないでせう

困つたやうに返事してゐるのは
雪でなく 仙人草のくさむらなのだ
さうでなければ
高陵土残りの一つの提灯は
一升のところに停つてゐる
それはきつと河村慶助が
外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる
御室の方の火口へでもお入りなさい
噴火口へでも入つてごらんなさい
硫黄のつぶは拾へないでせうが

斯んなによく声がとゞくのは
メガホーンもしかけてあるのだ
しばらく躊躇してゐるやうだ

先生 中さ
入つてもいがべすか


えゝ おはひりなさい 大丈夫です

提灯が三つ沈んでしまふ
そのでこぼこのまつ黒の線
すこしのかなしさ
けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ
大きな帽子をかぶり
ちぎれた繻子のマントを着て
薬師火口の外輪山の
しづかな月明を行くといふのは
この石標は
下向の道と書いてあるにさうゐない
火口のなかから提灯が出て来た
宮沢の声もきこえる
雲の海のはてはだんだん平らになる
それは一つの
雲平線をつくるのだ
雲平線をつくるのだといふのは
月のひかりのひだりから
みぎへすばやく擦過した
一つの夜の幻覚だ
いま火口原の中に
一点しろく
光るもの
わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか
私は気圏オペラの役者です
鉛筆のさやは光り
速かに指の黒い影はうごき
唇を円くして立つてゐる私は
たしかに気圏オペラの役者です
また月光と火山塊のかげ
向ふの黒い巨きな壁は
熔岩か集塊岩 力強い肩だ
とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
あすこからこつちへ出て来るのだ
なまぬるい風だ
これが気温の逆転だ
(つかれてゐるな
わたしはやつぱり睡いのだ)
火山弾には黒い影
その
妙好の火口丘には
幾条かの軌道のあと
鳥の声!
鳥の声!
海抜六千八百尺の
月明をかける鳥の声
鳥はいよいよしつかりとなき
私はゆつくりと踏み
月はいま二つに見える
やつぱり疲れからの乱視なのだ
かすかに光る火山塊の一つの面
オリオンは
幻怪月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄
あくびと月光の
動転 (あんまりはねあるぐなぢやい
汝ひとりだらいがべあ
子供等も連れでて目にあへば
汝ひとりであすまないんだぢやい)
火口丘の上には天の川の小さな爆発
みんなのデカンシヨの声も聞える
月のその銀の角のはじが
潰れてすこし円くなる
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと
撚になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い
蔗糖溶液に
また水を加へたやうなのだらう
東は淀み
提灯はもとの火口の上に立つ
また口笛を吹いてゐる
わたくしも戻る
わたくしの影を見たのか提灯も戻る
(その影は鉄いろの背景の
ひとりの修羅に見える筈だ)
さう考へたのは間違ひらしい
とにかくあくびと影ぼふし
空のあの辺の星は微かな散点
すなはち空の模様がちがつてゐる
そして今度は月が
蹇まる
(一九二二、九、一八)
[#改ページ] (犬、マサニエロ等)
犬
なぜ吠えるのだ 二疋とも
吠えてこつちへかけてくる
(夜明けのひのきは心象のそら)
頭を下げることは犬の
常套だ
尾をふることはこはくない
それだのに
なぜさう本気に吠えるのだ
その
薄明の二疋の犬
一ぴきは灰色錫
一ぴきの尾は茶の草穂
うしろへまはつてうなつてゐる
わたくしの歩きかたは不正でない
それは犬の中の狼のキメラがこはいのと
もひとつはさしつかへないため
犬は薄明に溶解する
うなりの尖端にはエレキもある
いつもあるくのになぜ吠えるのだ
ちやんと顔を見せてやれ
ちやんと顔を見せてやれと
誰かとならんであるきながら
犬が吠えたときに云ひたい
帽子があんまり大きくて
おまけに下を向いてあるいてきたので
吠え出したのだ
(一九二二、九、二七)
[#改ページ]
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