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一本の花(いっぽんのはな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-2 11:12:54  点击:  切换到繁體中文

       一

 表玄関の受附に、人影がなかった。
 朝子は、下駄箱へ自分の下駄を入れ、廊下を真直に歩き出した。その廊下はただ一条で、つき当りに外の景色が見えた。青草の茂ったこちら側のどてにある二本の太い桜の間に、水を隔てて古い石垣とその上に生えた松の樹とが歩き進むにつれ朝子の前にくっきりとして来る。草や石垣の上に九月末近い日光が照っているのが非常に秋らしい感じであった。そこから廊下を吹きぬける風がいかにも颯爽としているので、ひとしお日光の中に秋を感じる、そんな気持だ。朝子は右手の、窓にまだすだれを下げてある一室に入った。
 ここも廊下と同じように白けた床の上に、大きな長卓子テーブルがあった。書きかけの帯封が積んである場所に人はいず、がらんとした内で、たった一人矢崎が事務を執っていた。丸顔の、小造りな矢崎は、入って来た朝子を見ると別に頭を下げもせず、
「今日は――早いんですね」
と云った。
「ええ――」
 赤インクの瓶やゴム糊、硯箱、そんなものが置いてある机の上へ袱紗ふくさ包みを置き、朝子は立ったまま、
「校正まだよこしませんですか」
と矢崎に訊いた。
「さあ……どうですか、伊田君が受取ってるかも知れませんよ」
 朝子は、ここで、機関雑誌の編輯をしているのであった。
 朝子は、落ついたなかにどこか派手な感じを与える縞の袂の先を帯留に挾んで、埋草に使う切抜きを拵え始めた。
 廊下の遠くから靴音を反響させて、伊田が戻って来た。朝子が来ているのを見て、彼は青年らしい顔を微かにあからめ、
「今日は」
といった。
「校正まだですか」
「来ません」
「使も」
「ええ」
 朝子は、隅にある電話の前へ立ち、印刷所へ催促した。
 再び机へ戻り、朝子は切抜きをつづけ、伊田は、厚く重ねた帯封の紙へ宛名を書き出した。
 これは午後四時までの仕事で、それから後の伊田は、N大学の社会科の学生なのであった。
 黒毛繻子の袋を袖口にはめ、筆記でもするように首を曲げて万年筆を動かしていた伊田は、やがて、
「ああ」
 顔を擡げ、矢崎に向って尋ねた。
「先日断って来た分、こんなかから抜いてあるんでしょうか」
 むっくりした片手で小さい算盤そろばんの端を押え、ふくらんだ事務服の胸を顎で押えるようにし、何か勘定している矢崎は、聞えないのか返事をしなかった。伊田は暫く待っていたが、肩を聳やかし、また書き出した。
 朝子は、新聞に西洋鋏を入れながら、声を出さず苦笑いした。笑われて、伊田は、耳の後をかいた。二日ばかり前、或る対校野球試合が外苑グランドであった。伊田は、午後から帯封書きをすてて出かけて行った。自分にそんな興味も活気もなく、毎日九時から四時までここに坐って日を過す外、暮しようのない矢崎は、それでも他の者がそんなことをすると、甚だ不機嫌になった。彼は、それを根にもって一日でも二日でも、口を利かなかった。
「どの位断って来ました」
 朝子が伊田に訊いた。
「今度はそんなに沢山じゃありません。五十位なもんでしょう」
「去年からでは、でも千ばかり減りましたね。……田舎のひとだって、この頃は婦人雑誌どんどんとるんだから、断るのが自然ですよ。比べて見れば、誰だってほかの雑誌がやすくって面白いと思うんだもの」
 一円本の話が出て、それに矢崎も加わった。
「娘がやかましく云うんで、小学生全集をとっているんですが、一体あんなものはどの位儲かるもんでしょうな……」
「社でも何か一つとってくれないかな、そうすると僕たち助かっちゃうんだが」
「矢崎さん、いかが? それ位のこと出来ませんか」
「さあ」
 伊田が、
「金欠か」
と呟いた。
 いきなり朝子が、
「ああ、矢崎さん、お引越し、どうなりました」
と尋ねた。
「いよいよ渋谷ですか」
「ええ。今月一杯で五月蠅うるさいから行っちゃおうと思ったんですが……来月中には移ります」
「須田さんその後どうしていらっしゃいます?」
 矢崎は、厭な顔をして、
「この頃出かけないから」
と低く答えた。
「ここめることは、もう決ったんですか」
「決ったでしょう」
 黙っていたが朝子の心には義憤的な感情があった。
 須田真吉は、編輯部の広告取りをしていた男で、一風変った人物であった。頭の一部が欠けているのか過剰なのか、度外れなところがあって、或る時は写真に、或る時は蓄音器に、最近はラジオに夢中に凝った。ラジオのためには金銭を惜しむことを知らなかった。種々道具をとり集めラウド・スピイカアに趣味の悪い薄絹の覆いをかけたり、それをビイズ細工のとかえて見たり、朝子に会うと、
「一度是非聴きにいらっしゃい、全くそこいら辺のガアガアの雑音の入るのとは訳が違うんです――もう二三日すると、京城も入るようにします、朝鮮語ってえものは一寸いいですね」
 嬉しげに話した。実際は、然し決して組立てに成功出来る須田ではなかった。成功しないと材料のせいにして、それが和製なら舶来に代える。舶来なら和製を買い、そんなことの度重なるうちに、彼が代表で保管していた町会の金を私消してしまった。千円近い金であった。彼はこのほかに雑誌の広告代にも費いこみがあった。死ぬ覚悟で、須田は家出をした。然し追手に無事に引戻された。須田と姻戚で、須田の紹介で雑誌部の会計となっていた矢崎は、後々の迷惑を恐れ、事が公になりもしないうち、庶務部長の諸戸へ注進した。須田のために弁護の労をとるより寧ろ自分を庇って、話しようでは示談にでもしてもらえた須田を免職させる方へ働いたのであった。須田の好人物を知っていた同僚は、矢崎の態度を非難した。その非難は、親類の間からもあるらしく、矢崎は近頃、『親類なんてものは五月蠅くていけない』と云い出した。俄に、細君の実家の近くへ家を見付けた話を、朝子も程なく聞いたのであった。
 報知新聞は漢字を制限し、ところどころ、切抜きの中にも、かん布摩さつ、機能こう進、昇コウなどと読み難い綴りがある。朝子は赤インクでそれをなおしながら、
「何時?」と訊いた。
「一時半です」
「磯田、何してるんだろう」
 朝子は、電話口へ、
「嘉造さんに一寸どうぞ」
と印刷所の若主人を呼び出した。彼女のふっくりした、勝気らしい張りのある声が、簾越しに秋風の通る殺風景な室に響いた。
「もしもし、十一時半の約束だのにまだ一台も来ないんですが、どうしたんでしょう、え? ああそう。でももう二十三日ですよ。三十分ばかりしたらそちらへ行きますから、じゃ直ぐ出るようにしといて下さい、どうぞ」

        二

 鶴巻町で電車を降り、魚屋の角を曲ると、磯田印刷所へは半町ばかりであった。魚屋の看板に色の剥げた大鯛が一匹と、同じように古ぼけた笹が添えて描かれている。そのように貧しげなごたごたした家並にそこばかり大きい硝子戸を挾まれて、磯田印刷所がある。震災で、神田からここへ移って来たのだった。
「どうも只今は失礼いたしました。もう二台ばかりあがりましたから……どうぞ」
 金庫を背にした正面の机の前から、嘉造が、入って来る朝子に挨拶した。朝子と同じ年であったが、商売にかけると、二十七とは思えない腕があった。
「おい、工場へ行っといで」
「――二階――よござんすか」
 濃い髪が一文字に生えた額際に特徴ある頭を嘉造は、
「どうぞ」
と云う代りに黙って下げた。
 自分の腕に自信があって、全然情にほだされることなく使用人を使うし、算盤を弾くし、食えない生れつきは商売を始めた親父より強そうな嘉造を見ると、朝子はいつも一種の興味と反感とを同時に覚えた。朝子は、団栗眼どんぐりまなこの十二三の給仕が揃えてくれた草履に換え、右手の壁について階段を登った。
 階段は、粗末な洋館らしく急で浅い。朝子の長い膝が上の段につかえて登り難いこと夥しかった。片手に袱紗包をかかえ、左手を壁につっ張るようにし、朝子は注意深く一段一段登って行った。三分の二ほど登ると社長室の葭戸よしどが見えた。葭戸を透して外光が階段にもさして足許が大分明るくなった。
 何の気もなく、朝子はバタバタと草履を鳴らし若い女らしく二三段足速に登った。
 その途端に、さっと葭戸が開き、室内から十七ばかりの給仕女が、とび出したとしか云えない急激な動作で踊り場の上へ出た。その娘は素早く朝子をかわして、ドタドタドタ、階下へ駈け降りた。
 朝子が思わずもう誰も見えない暗い階段の下の方を見送っていると、あから顔の社長は、葭戸と平行に、書棚でも嵌め込む積りか壁に六尺に二尺程窪みがついている、その窪みの処から、っくりさり気なく室の中央へ向って歩き出した。
 朝子は何となし厭な心持がした。
 二階で親父が若い給仕娘をその室から走り出させたりしているのを、嘉造は知っているのだろうか。朝子は二重に厭な心持がして、社長室のリノリウムを踏んだ。
 建坪の工合で、校正室は、社長室を抜けてでないと行けなかった。朝子は、黙って軽く頭を下げ、通りすぎた。磯田は、机のこちら側に立って、煙草に火をつけかけていた。彼は、下まぶたに大きな汚点しみのある袋のついた眼を細め、マッチを持ち添えスパスパ火をよびながら、
「や」
と曖昧に声をかけた。
 校正室では備えつけの筆がすっかり痛んでいる。
 朝子はベルを鳴らして新しいのを貰い、工場から持ってきたばかりで、インクがまだ湿っぽい校正を、検べ始めた。
 下手な応募俳句を読み合わせているところへ、ぶらりと磯田が入って来た。
「――大分凌ぎよくなって来ましたなあ、久しくお見えなさらんようでしたが、海辺へでもお出かけでしたか」
「ずっと東京でした……あなたは? いかがです、その後」
「やあ、どうも」
 白チョッキの腹をつき出して、磯田は僅に髪の遺っている後頭部に煙草をもった手を当てた。
「年ですな一つは……一進一退です。然し梅雨頃に比べれば生れ更ったようなもんです、湿気は実に障りますなあ」
 磯田は近年激しい神経痛に悩まされ、駿河台の脳神経専門家のもとで絶えず電気療法を受けていた。朝子などには、慢性神経痛だと云った。実際の病気は決してそんな単純なものではなかりそうなことは、知らぬものないこの男の家庭生活のひどさを思っても推測されるのであった。
 さっきの小娘のことを皮肉に思い合わせ、朝子は、
「もう浅野さんはおやめですか」
と訊いた。浅野というのが駿河台の医者であった。ふっと、老人らしい眼付で窓外の景色を眺めていた磯田は、
「ああ、いやまだです」
と元気な声と共に、眼を朝子に移した。
「実は今日もこれから出かけにゃならんのです……浅野御存知ですか……遠藤伯なんぞあの人を大分信任のようですな」
 そして、半ば独語のように、
「その縁故で、死んだ津村二郎なんぞ、金を出させたって云う話もあるが……」
 朝子が仕事をしている硝子のインクスタンドの傍にマジョリカまがいの安灰皿があった。それへ磯田は話しながら煙草の灰を落した。
「この間上海から還った浅野慎ってえのが弟でね……面倒だろう、なかなか……」
 話が途切れ、磯田は暫く朝子の手許を見下していたが、
「どれ、じゃあ、どうも失礼致しました」
と立ちなおした。
「そう?……どうも失礼」
 歩きかけた磯田は、
「偉く日がさすね」
 一二歩小戻りして、丁度朝子の髪に照りつけた西日の当る窓のカアテンを下した。
 工場で刷り上げる間、三四十分ずつ手が空く。朝子は、その間に、自分一人いるきりの二階の窓々をあちらこちらへぶらぶらと歩いた。
 一つの窓と遠く向い合う位置に、工場の小窓が開いていた。普通の場末の二階家をそのまま工場に使っていた。穢い羽目の高いところに、三尺に一間の窓、そこには格子も硝子もなくていきなり内部が見えた。窓と云うより、陰気な創口のようであった。両側からもたせあった長い活字棚、その中へ、活字を戻している小僧や若い女工の姿も見えた。
 外見既にがたがたで、活字の重さや、人間の労働のために歪み膨らんだ建物の裡は、暗そうであった。女工が、その、こちらに向いて開いた狭い窓際を何かの用で通り過るときだけ、水浅黄の襦袢の衿など朝子の目に入った。朝子はもう余程前、
「いつか工場見せて下さいな」
と嘉造に云った。
「どなたにもお断りしておりますんで――どうも……穢くて仕方ありませんですよ御覧になったって」
 彼は、そう云って、机の上にひろげた新聞の上へ両手をつき、片手をあげて、ぐるりと頭の後を掻いた。
 朝子のいる室を板戸で区切った隣室で、二人の職工がこんなことを云っている声が聞えた。
「――陰気くさいが、柳なんぞ、あれで、ようのもんだってね」
「そうかねえ」
「昔何とか云う名高い絵描きが幽霊の絵をたのまれたんだとさ。明盲あきめくらにしたり、いろいろやるが凄さが足りない。そこで考えたにゃ、物は何でも陰陽のつり合が大切だ。幽霊は陰のものだから陽のものを一つとり合わせて見ようてんで、柳を描いたら、巧いこと行ったんだって」
「ふうむ」
「――死ぬと変りますね、男と女だって、生きてるときは男が陽で女が陰だが、土左衛門ね、ほら、きっと男が下向きで、女は上向きだろう。――陰陽が代って、ああなるんだとさ」
「……じゃあお辞儀なんか何故陰の形するんだろう……」
 工場らしい話題で、朝子は興味をもち、返事を待った。けれども、何故辞儀に陰の形をするのか、職工はうまい説明が見当らなかったらしく、やや暫くして静かに、
「そりゃ私にも解らないねえ」
と云う声がした。

        三

 五時過ぎて朝子は帰途についた。
 日の短くなったことが、はっきり感じられた。印刷所を出たとき、まだ明るかったのに、伝通院で電車を待つ時分にはとっぷり暮れた。角の絵ハガキ屋の前に、やっぱり電車を待っている人群れが逆光で黒く見える、その人々も肌寒そうであった。
 朝子は、夕暮の雰囲気に感染し、必要以上いそぎ足で講道館の坂をのぼった。向うから、自動車が二台来た。それをさけ、電柱の横へ立っている朝子の肩先を指先で軽くたたいた者があった。
 朝子は振りかえった。敏捷に振り向けた顔をそのまま、立っている男を認めると、彼女は白い前歯で下唇をかむように、活気ある笑顔を見せた。
「――なかなか足が速いんだな。電車を降りると、後姿がどうもそうらしいから、追い越してやろうと思ったけれど、とうとう駄目だった」
「電車が一つ違っちゃ無理だわ」
 朝子は大平と並んで、先刻よりやや悠っくり、坂を登り切った。
「どこです? 今日は――河田町?」
 河田町に、兄が家督を継いで、朝子の生家があるのであった。
「いいえ……印刷屋」
「なるほど、二十三日だな、もう。すみましたか?」
「もう少し残ってるの、てきぱきしてくれないから閉口よ。でも、まあすんだも同然」
「一月ずつ繰り越して暮すようなもんだな、あなたなんぞは……」
 彼等は、大通りから、右へ一条細道のある角で、どっちからともなく立ち止った。
「どうなさるの」
 大平は、その通りをずっと墓地を抜けた処に、年とった雇女と暮しているのであった。
「幸子女史はどうなんです、家ですか」
「家よ、きっと」
「ちょっと敬意を表して行くか」
 向いは桃畑で、街燈の光が剪定棚の竹や、下の土をしんと照し出している。同じような生垣の小体こていな門が二つ並んでいる右の方を、朝子は開けた。高く鈴の音がした。磨硝子の格子の中でそれと同時にぱっと電燈がついた。
「かえって来たらしいよ」
 女中に云う幸子の声がした。
 上り口へ出て来た幸子は大平を見て、
「ほう、一緒?」
と云った。大平は帽子の縁へ軽く手をかけた。
「相変らず元気だな」
悄気しょげるわけもないもん」
「はっはっは」
 大平は、神経質らしい顔つきに似ず、闊達に笑った。
「いやに理詰めだね」
 朝子は、赤インクでよごれた手が気持わるいので、先に内に入った。
「上らないの?」
「ちょっと尊顔を拝するだけのつもりだったんだが……」
「お上んなさい。――どうせ夕飯これからなんでしょう」
 問答が朝子の手を洗っている小さい簀子すのこの処まで聞え、遂に大平が靴を脱ぎ、入って来た。タオルで手を拭き拭き、朝子は縁側に立って、
「いやに世話をやかすのね」と笑った。
「本当さ。昔からの癖で一生なおらないと見える」
 大平は、幸子と向い合わせに長火鉢のところへ腰を下しながら、
「まあ、お互に手に負えない従兄妹を持ったと諦めるんだね」と云った。
「――然し、実のところ、これから遙々帰って、お婆さんとさし向いで飯を食うのかと思うと足も渋る」
 わざとぞんざいに、然し暖く叱るように幸子が云った。
「だから、早く奥さんをみつけなさいって云うんだのに」
 大平はそれに答えず、幸子が心理学を教えている女子大学の噂など始めた。二年ばかり前、彼の妻は彼の許を去った。初めの愛人が、今は彼女と暮している模様だ。大平は三十六であった。
 食後、三人はぴょんぴょんをして遊んだ。初め、大平はその遊びを知らず、二枚折の盤の上の文字を、
「何? ピヨン? ピヨン?」
と読んだ。
「ぴょん、ぴょんよ」
と朝子に云われた。
 幸子が簡単にルールを説明すると、
「そんならダイアモンドじゃあないか」と云い出した。
「それなら、やったことがある。対手の境界線の上まで行っていいんだ」
「これは違うのさ、一本手前までしか行っちゃいけないの」
「一番奥のが出切るまで陣へ入っちゃいけないって云うんだろう? だから、きっと行けるんだ」
「頑固だなあ」
 幸子が、じれったそうに、力を入れて宣告した。
「これは違うんだってば」
 勝負の間、彼等は、朝子が二人に何をしても平気の癖に、大平が幸子の駒を飛びすぎたり、幸子が彼の計画を打ち壊したりすると、
「こいつめ」
「生意気なことをするな、さ、どうだ」
「ほら、朝っぺ! うまいぞうまいぞ」
などというそれ等の言葉は、本気とも冗談ともとれた。
「なんて負けず嫌いなの。二人とも?」
「ああ、女の執念ですからね」
 大平が、行き悩んで駒で盤の上を叩きながら云った。
「対手にとって不足はないが、と。……どうも詰っちゃったな。朝子さん、何とかなりますまいかね」
「相互扶助を忘れた結果だから、さあそうして当分もがもがしていらっしゃい」
 この桃畑の家を見つけたのは大平であった。幸子はそれまで小日向こびなたの方にいた。朝子は一年半程前に夫を失い、河田町の生家に暮していた。幸子と二人で家を持つと決ったとき、大平は、
「よし……家探しは僕が引受けてあげましょう。どうせ学校のまわりだろう? そんならお手のもんだ」
と云った。
「隣りへ空いたなんて云って来たって行きませんよ、五月蠅くてしようがありゃしない」
 すると、まだ四五遍しか会っていなかった朝子を顧み、大平は、敏感な顔面筋肉の間から、濃やかな艶のある、右と左と少しちんばなような、印象的な眼で笑いかけた。
「念を押すところが未だしも愛すべきですね。『かしまし』に一つ足りないなんてもの、まあこちらから願い下げだ」
 或る二月の午後、幸子から電話がかかり、朝子も出かけ、この家を見た。雪降り挙句で、日向の往来は泥濘だが、煉瓦塀の下の溝などにまだ掻きよせた雪があった。そんな往来を足駄でひろって行くと、角の土管屋の砂利の堆積の上に、黒い厚い外套を着、焦茶色の天鵞絨ヴェルヴェット帽をかぶった大平が立って待っていた。
「この横丁が霜解けがひどそうで御難だが、悪くないでしょう? こちら側が果樹園なのは気が利いている」
 溶け残った雪が、薄すり果樹園一面に残っていて、日光に細かくチカチカ輝いていた。青空から、快晴な雪解の日につきものの風が渡って、杉の生垣を吹き、朝子のショウルの端をひるがえした――。
 これは、一年余り前のことだ。

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