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阿部一族(あべいちぞく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 17:10:53  点击:  切换到繁體中文


 数馬はこう思うと、矢もたてもたまらない。そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、手短てみじかに言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。殉死した人たちは皆安堵あんどして死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底をみ知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房にょうぼうは、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
 あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題さかやきって、髪には忠利に拝領した名香初音はつねき込めた。白無垢しろむく白襷しろだすき白鉢巻しろはちまきをして、肩に合印あいじるし角取紙すみとりがみをつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛まさもりで、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念かたみである。それに初陣ういじんの時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
 手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋わらじ男結おとこむすびにして、余った緒を小刀で切って捨てた。

 阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国おうみのくに和田に住んだ和田但馬守たじまのかみすえである。初め蒲生賢秀がもうかたひでにしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎忠隆ただたかの下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道休無きゅうむとなって流浪したとき、高野山こうやさんや京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭ばんがしらにした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいたかどで、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭そばものがしらになっていたのである。権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前長船おさふねの刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。
 竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。そこへ相役の一人が供先から帰って真裸まはだかになって、手桶ておけげて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕をった。小姓はね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を大袈裟おおげさに切った。
 小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細しさいを話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、はだを脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのままやかたへ出て忠利に申し上げた。忠利は「もっとものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
 小姓はえびらを負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。

 寛永十九年四月二十一日は麦秋むぎあきによくある薄曇りの日であった。
 阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは払暁ふつぎょうに表門の前に来た。夜通し鉦太鼓かねたいこを鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして空家あきやかと思われるほどである。門のとびらとざしてある。板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃きょうちくとう木末うらには、くものいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。つばめが一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。
 数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」と言った。足軽が二人塀を乗り越してうちにはいった。門の廻りには敵は一人もいないので、錠前を打ちこわしてかんの木を抜いた。
 隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のようにして、隅々すみずみまで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。
 二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「や、又七郎か」と、弥五兵衛が声をかけた。
「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」
「ようわせた。さあ」
 二人は一歩しざって槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。弥五兵衛は槍をからりと棄てて、座敷の方へ引こうとした。
卑怯ひきょうじゃ。引くな」又七郎が叫んだ。
「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」言いすてて座敷にはいった。
 その刹那せつなに「おじ様、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の太股ふとももをついた。入懇じっこんの弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気がゆるんでいたので、手錬の又七郎も少年の手にかかったのである。又七郎は槍を棄ててその場に倒れた。
 数馬は門内に入って人数を屋敷の隅々に配った。さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。
「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
 徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔じゃ」数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
 添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
 このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。千場ちば作兵衛も続いてみ入った。
 裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んでいて来る。障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、さらに盛られた百虫ひゃくちゅう相啖あいくらうにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
 市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどのきずを受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。
 太股ふとももをつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をおいなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」と言って、奥へ通り抜けた。「引く足があれば、わしも奥へはいるが」と、又七郎は苦々しげに言って歯咬はがみをした。そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
 今一人の柄本家の被官ひかん天草平九郎というものは、主の退くちを守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
 竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
 高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇やりわきを詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あのたまはわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。小姓は即死した。竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手おもでを負って台所に出て、水瓶みずかめの水をんだが、そのままそこにへたばっていた。
 阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。
 高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋をくずさせて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうどひつじの刻であった。

 光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ払暁ふつぎょうから出かけた。
 やかたのあるお花畠はなばたけからは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。
「今討ち入ったな」と言って、光尚は駕籠かごに乗った。
 駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数馬が討死をしたことは、このときわかった。
 高見権右衛門は討手の総勢を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げて、阿部の一族を残らず討ち取ったことを執奏してもらった。光尚はじきに逢おうと言って、権右衛門を書院の庭に廻らせた。
 ちょうどの花の真っ白に咲いているかきの間に、小さい枝折戸しおりどのあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に突居ついいた。光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」と声をかけた。黒羽二重くろはぶたえの衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を踏み消したとき飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
「いえ。かすりきずでござりまする」権右衛門は何者かに水落みずおちをしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。
 権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
「数馬はどうじゃった」
「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」
「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」
 権右衛門が一同を呼び入れた。重手おもでで自宅へいて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。
「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は大兵だいひょうの臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者新免武蔵しんめんむさしが見て、「冥加至極みょうがしごくのことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいたはかまひもを締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
 光尚は座を起つとき言った。「皆出精しゅっせいであったぞ。帰って休息いたせ」

 竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛はかく五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは米田監物こめだけんもつが承って組頭谷内蔵之允たにくらのすけを使者にやって、賞詞ほめことばがあった。親戚朋友しんせきほうゆうがよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀げんき天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創がえて光尚に拝謁はいえつした。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城ましき小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山やぶやまである。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それをわたくしに拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預えいたいおあずけということになった。
 畑十太夫は追放せられた。竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。また馬廻りの子で近習を勤めていたそれがしは、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」と言って当番をゆるされ、父と一しょに屋根に上がって火の子を消していた。のちにせっかく当番をゆるされた思召おぼしめしにそむいたと心づいておいとまを願ったが、光尚は「そりゃ臆病ではない、以後はも少し気をつけるがよいぞ」と言って、そのまま勤めさせた。この近習は光尚の亡くなったとき殉死した。
 阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。

大正二年一月





底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:進恵子
2000年2月14日公開
2006年5月16日修正
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