九
煖炉の火は消えた。併しこの時は天幕の中は殆ど煖炉の中のやうに暖かになつてゐた。窓の氷が解け始めてゐる。それを見ると、外の寒気の薄らいだのが分かる。なぜといふに寒の強い時は、天幕の中はどんなに温めても、窓の氷の解ける事はないのである。そこで我々は煖炉に薪をくべる事を止めた。それから己は例の煙突の中蓋を締めに出た。
霧は実際全く晴れてしまつてゐる。空気が透明になつて、少し寒さが薄らいだらしい。北の方を見ると黒く見える森に包まれてゐる岡の頂の
己は悲しいやうな感じの出て来るのに身を任せて、屋根の上に立つてゐる。己の目は物案じをしながら遠方を見廻してゐる。夜が偉大な、冷かな美しさを以つて大地を一面に覆つてゐる。空には星が
天幕へ帰つて見ると、ワシリはもう寝てゐた。その
己も床の上に横になつた。併し今まで聞いた物語の印象が消えないので、久しく寐付く事が出来なかつた。
何遍か己は寐入りさうになつたが、眠つてゐるワシリが寝返りをしたり、何か分からぬ
想像は己を乗せて、狭い天幕の絶望的な闇から逃れ出て、遠く/\走つて行く。障礙のない所を吹く風が、己の頭の
これは己の血が、流浪人の物語を聞いた為めに、湧き立つたのである。己はこんな事を思つた。若しあれだけの事を、牢屋の中に閉ぢ込められてゐる囚人に聞かせたらどうだらうといふのである。己は自分に問うて見る。一体あの話が己にどんな感動を与へたかといふに、己は脱獄の困難や、逃亡者の受けた辛苦と危険とや、流浪人の感ずるといふ、癒やす事の出来ない、陰気な係恋に刺戟せられたのではない。己は只自由といふものゝ詩趣を感じたのである。これはなぜだらう。又今も海や森や、野原が慕はしい、自由が慕はしいと、切に感じてゐるのはなぜだらう。己でさへ海や、森や、野原に呼ばれ、際限のない遠さに誘はれるのであるから、その
ワシリは眠つてゐる。併し己は色々な事を思ふので、眠る事が出来ない。この時己は、ワシリといふ人間が、
あゝ。どこへ向いて走つたのだらう。
この時ワシリは
日は入つた。大地は偉大に、不可測に、悲みを帯びて、物思に沈んでゐる。その上に一団の雲が重げに、黙つて懸かつてゐる。只遠い地平線のあたりには空の狭い一帯が、
己は遅くなつてから寐入つた。
十
己の目の醒めたのは、おほよそ十一時頃であつたらしい。氷つた
己は用があつて村へ行かなくてはならぬ日であつた。そこで橇に馬を附けて乗つて、門を出て村の街道を進んで行つた。
空は晴れて、気候が割合に暖かである。総て世の中の事は、比較で言ふのである。暖かいと云つても、零下二十度位であつただらう。
この部落に住んでゐる人民の半数は、流罪になつて来た韃靼人である。けふはそれが祭をする日なので、往来が中々賑はつてゐる。そここゝで、人家の門がきしめきながら開かれる。そして中から橇や馬が出て来る。その上には酒に酔つた男が体をぐら付かせて乗つてゐる。モハメツト教徒は余りコオランの経文にある戒律なぞには頓着しない。馬に乗つてゐるものも、道を歩いてゐるものも、妙な稲妻形に歩くのである。どうかすると馬が物に驚いて横飛びをして、橇を引つ繰り返す。そしてその馬は往来を走つて逃げようとする。はふり出されて、雪の中を引き摩られてゐる乗手は、力一ぱいに手綱を控へて、体の
おや。あそこの真つ直ぐな町の脇に、変つた賑ひがあるぞ。馬に乗つてゐるものが脇へ避ける。歩いてゐるものが矢張り避ける。赤い着物を着て化粧をした韃靼人の女が、往来に出てゐる子供を中庭へ追ひ込む。天幕の中から物見高い奴等が顔を出す。そして誰も彼も、一つ方角を見詰めてゐる。
長い町の向うの端に、今丁度一群の騎者が現はれた。それが韃靼人やヤクツク人の間で大層流行つてゐる競馬だといふ事は、己には直ぐに知れた。騎者は凡六人位である。
見物してゐた韃靼人の目は皆輝いてゐる。逆上と
騎者は皆馬を走らせながら、手足を動かして、体をずつと
見物人の同情は、矢張り例の如く
「
ワシリは全身に泡を
ワシリの顔は青くなつて目は
「それは勝手さ」と己は云つた。
「なに、構ひません。おこつては厭ですよ。酒は飲みますが、決して酔ひはしません。あなたに頼んで置きますがね、お内に預けてある袋を誰にも渡さずに置いて下さい。わたくしが自分で行つて、渡して下さいと云つても、渡しては行けませんよ。分かりましたか。」
己は冷淡に答へた。「分かつた。だがね、酒に酔つて己の天幕へ来るのは御免だよ。」
「行きはしません」と云ひながら、ワシリは馬に一鞭当てた。馬は鼻を鳴らして前を挙げて駆け出したが、まだ三間も行かない内に、ワシリは又馬を控へて、己の方へ向いた。「好い馬ですよ。大した金になります。わたくしは賭をしてゐます。この駆ける所を見て下さい。これで韃靼人に売れば、
「なぜ売るのだね。売つてしまつて、これから先どうする。」
「売らなくてはならないから売ります。」ワシリは又一鞭当てた。併し又手綱を控へた。
「実はわたくしは、この村で
我々の
アハメツトの狡猾らしい顔は相好を崩して笑つてゐる。小さい目が面白げに、横着らしく、又親しげに相手の顔を見詰めてゐる。その見方は詞で言つたら、「分かるでせう、無論わたくしは横着者です、併し横着者でなくては駄目ですね」とでも云つたら好からうと思はれる。
この幅の広い骨々しい顔、この目の周囲の面白げな皺、この横へ出張つた、薄い耳を見ては、相手も笑はずにゐられない。
アハメツトは相手が自分を理解してくれたと信じたらしく、満足げに頷いた。そしてワシリを指さして云つた。「友達です。一しよに流浪して歩いたものですよ。」
「今どこにゐるのだね。この土地では見掛けないやうだが。」
「わたくしはこの土地へ旅行券を取りに来ました。鉱山のある土地へ行つて、焼酎を売るのです。」
鉱山で焼酎を売る事は、ロシアでは厳禁してある。掴まへられゝば、懲役になる。こつそり持ち込む道も危ない。道に迷つて飢ゑ死んだり、カサアキ兵の
己はワシリの顔を見た。ワシリは俯向いて手綱をいぢつたが、直ぐに又頭を挙げて、火のやうに赫く目をして、戦を挑むやうに己の顔を見た。堅く結んでゐる口の下唇がぴく/\してゐる。
「わたくしはこいつと一しよに森へ行きます。そんな顔をしてわたくしを見なくても好いぢやありませんか。どうせわたくしは流浪人だから、流浪人で果てますよ。」
最後の詞は、もう馬を飛ばせて、雪を雲のやうに蹴立てながら言つたのである。
一年程立つてから、己は又村でアハメツトに逢つた。又旅行券を取りに戻つたのである。
ワシリは又と戻らなかつた。