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雁(がん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:21:04  点击:  切换到繁體中文


     拾捌じゅうはち

 未造がお玉に買って遣った紅雀は、図らずもお玉と岡田とがことばを交すなかだちとなった。
 この話をし掛けたので、僕はあの年の気候の事を思い出した。あの頃は亡くなった父が秋草を北千住きたせんじゅの家の裏庭に作っていたので、土曜日に上条から父の所へ帰って見ると、もう二百十日が近いからと云って、篠竹しのだけを沢山買って来て、女郎花おみなえしやら藤袴ふじばかまやらに一本一本それを立てえて縛っていた。しかし二百十日は無事に過ぎてしまった。それから二百二十日があぶないと云っていたが、それも無事に過ぎた。しかしその頃から毎日毎日雲のたたずまいが不穏になって、暴模様あれもようが見える。折々又夏に戻ったかと思うような蒸暑いことがある。たつみから吹く風が強くなりそうになっては又む。父は二百十日が「なしくずし」になったのだと云っていた。
 僕は或る日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰って来た。書生は皆外へ出ていて、下宿屋はひっそりしていた。自分の部屋へ這入はいって、しばらくぼんやりしていると、今まで誰もいないと思っていた隣の部屋でマッチをる音がする。僕は寂しく思っていた時だから、直ぐに声を掛けた。
「岡田君。いたのか」
「うん」返事だか、なんだか分からぬような声である。僕と岡田とは随分心安くなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもとは違っていた。
 僕は腹の中で思った。こっちもぼんやりしていたが、岡田もぱりぼんやりしていたようだ。何か考え込んでいたのではあるまいか。こう思うと同時に、岡田がどんな顔をしているか見たいような気がした。そこで重ねて声を掛けて見た。「君、邪魔をしに往ってもいかい」
「好いどころじゃない。実はさっき帰ってからぼんやりしていた所へ、君が隣へ帰って来てがたがた云わせたので、奮って明りでも附けようと云う気になったのだ」こん度は声がはっきりしている。
 僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。岡田は丁度鉄門の真向いになっている窓を開けて、机にひじいて、暗い外の方を見ている。たてに鉄の棒を打ち附けた窓で、その外には犬走りに植えた側柏ひのきが二三本ほこりを浴びて立っているのである。
 岡田は僕の方へ振り向いて云った。「きょうも又妙にむしむしするじゃないか。僕の所には蚊が二三びきいてうるさくてしようがない」
 僕は岡田の机の横の方に胡坐あぐらいた。「そうだねえ。僕の親父は二百十日のなし崩しと称している」
「ふん。二百十日のなし崩しとは面白いねえ。なる程そうかも知れないよ。僕は空が曇ったり晴れたりしているもんだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午前の間中寝転んで、君に借りた金瓶梅きんぺいばいを読んでいたのだ。それから頭がぼうっとして来たので、午飯ひるめしを食ってからぶらぶら出掛けると、妙な事に出逢ってねえ」岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いてこう云った。
「どんな事だい」
「蛇退治を遣ったのだ」岡田は僕の方へ顔を向けた。
「美人をでも助けたのじゃないか」
「いや。助けたのは鳥だがね、美人にも関係しているのだよ」
「それは面白い。話して聞かせ給え」

     拾玖じゅうく

 岡田はこんな話をした。
 雲が慌ただしく飛んで、物狂おしい風が一吹二吹衝突的に起って、ちまたちりき上げては又む午過ぎに、半日読んだ支那小説に頭を痛めた岡田は、どこへ往くと云う当てもなしに、上条の家を出て、習慣に任せて無縁坂の方へ曲がった。頭はぼんやりしていた。一体支那小説はどれでもそうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か二十枚かあると思うと、約束したようにしからん事が書いてある。
「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いていただろうと思うよ」と、岡田は云った。
 暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になって、道が爪先下つまさきさがりになった頃、左側に人立ちのしているのに気が附いた。それが丁度いつも自分の殊更に見て通る家の前であったが、その事だけは岡田が話す時打ち明けずにしまった。集まっているのは女ばかりで、十人ばかりもいただろう。大半は小娘だから、小鳥の囀るように何やら言ってさわいでいる。岡田は何事もわきまえず、又それを知ろうと云う好奇心を起すひまもなく、今まで道の真ん中を歩いていた足を二三歩その方へ向けた。
 大勢の女の目が只一つの物に集注しているので、岡田はその視線を辿たどってこの騒ぎの元を見附けた。それはそこの家の格子窓の上にるしてある鳥籠とりかごである。女共の騒ぐのも無理は無い。岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。鳥はばたばた羽ばたきをして、きながら狭い籠の中を飛び廻っている。何物が鳥に不安を与えているのかと思って好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れているのである。頭をくさびのように細い竹と竹との間に押し込んだものと見えて、籠は一寸ちょっと見た所では破れてはいない。蛇は自分の体のおおきさの入口を開けて首を入れたのである。岡田は好く見ようと思って二三歩進んだ。小娘共の肩を並べている背後うしろに立つようになったのである。小娘共は言い合せたように岡田を救助者として迎える気になったらしく、道を開いて岡田を前へ出した。岡田はこの時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽いちわではないと云う事である。羽ばたきをして逃げ廻っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇にくわえられている。片方の羽の全部を口に含まれているに過ぎないのに、恐怖のためか死んだようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。
 この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。「お隣へお為事しごとのお稽古けいこに来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらっしゃって下すったのですが、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」と女は言い足した。小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けなすった時、きゃっと声を立てなすったもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守ですが、いらっしゃったってお婆あさんのかたですから駄目ですわ」と云った。師匠は日曜日に休まずに一六いちろくに休むので、弟子が集まっていたのである。
 この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」と云った。しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。
 岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、ひさしの下をつたって籠にねらい寄って首を挿し込んだのである。蛇の体は縄を掛けたように、庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れている。随分長い蛇である。いずれ草木くさきの茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのがこの頃の気圧の変調を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見附けたものだろう。岡田もどうしようかとちょいと迷った。女達がどうもすることの出来なかったのは無理も無いのである。
「何か刃物はありませんか」と岡田は云った。主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持っておで」と言い附けた。その娘は女中だったと見えて、稽古に隣へ来ていると云う外の娘達と同じような湯帷子ゆかたを着た上に紫のメリンスでくけたたすきを掛けていた。さかなを切る庖刀ほうちょうで蛇を切られては困るとでも思ったか、娘は抗議をするような目附きをして主人の顔を見た。「好いよ、お前の使うのは新らしく買ってるから」と主人が云った。娘は合点が行ったと見えて、駆けて内へ這入って出刃庖刀を取って来た。
 岡田は待ち兼ねたようにそれを受け取って、穿いていた下駄を脱ぎ棄てて、肱掛窓ひじかけまどへ片足を掛けた。体操は彼の長技である。左の手はもう庇の腕木を握っている。岡田は庖刀が新しくはあっても余り鋭利でないことを知っていたので、初から一撃に切ろうとはしない。庖刀で蛇の体を腕木に押し附けるようにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。蛇のうろこの切れる時、硝子がらすを砕くような手ごたえがした。この時蛇はもう羽を銜えていた鳥の頭を頬のうちに手繰り込んでいたが、体に重傷を負って、波の起伏のような運動をしながら、獲物を口から吐こうともせず、首を籠から抜こうともしなかった。岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう蛇を俎上そじょうの肉の如くに両断した。絶えず体に波を打たせていた蛇の下半身しもはんしんが、ずばたりと麦門冬りゅうのひげの植えてある雨垂落の上に落ちた。続いて上半身かみはんしんが這っていた窓の鴨居かもいの上をはずれて、首を籠に挿し込んだままぶらりと下がった。鳥を半分銜えてふくらんだ頭が、弓なりにめられて折れずにいた籠の竹につかえて抜けずにいるので、上半身の重みが籠に加わって、籠は四十五度位に傾いた。その中では生き残った一羽の鳥が、不思議に精力を消耗し尽さずに、また羽ばたきをして飛び廻っているのである。
 岡田は腕木にからんでいた手を放して飛び降りた。女達はこの時まで一同息をめて見ていたが、二三人はここまで見て裁縫の師匠のうちに這入った。「あの籠を卸して蛇の首を取らなくては」と云って、岡田は女主人の顔を見た。しかし蛇の半身がぶらりと下がって、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れているので、主人も女中も内に這入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。
 その時「籠を卸して上げましょうか」と、とんきょうな声で云ったものがある。集まっている一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であった。岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧がひとり通り掛って、括縄くぐなわで縛った徳利と通帳かよいちょうとをぶら下げたまま、蛇退治を見物していた。そのうち蛇の下半身が麦門冬の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置いて、すぐに小石を拾って蛇の創口きずぐちを叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波を打つように動くのを眺めていたのである。
「そんなら小僧さん済みませんが」と女主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。間もなく窓に現れた小僧は万年青おもとの鉢の置いてある窓板の上に登って、一しょう懸命背伸びをして籠を吊るしてある麻糸をくぎからはずした。そして女中が受け取ってくれぬので、小僧は籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に廻って外へ出た。
 小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまいよ」と、女主人が云った。女中は格子戸の中へ引き返した。
 岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶるふるえている。蛇に銜えられた鳥の体は半分以上口の中に這入っている。蛇は体をられつつも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。
 小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのはいが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」と、岡田は笑いながら云った。小僧は旨く首を抜き出して、指尖ゆびさきで鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」と云った。
 この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、そろって隣の家の格子戸の内に這入った。
「さあ僕もそろそろおいとまをしましょう」と云って、岡田があたりを見廻した。
 女主人はうっとりと何か物を考えているらしく見えていたが、このことばを聞いて、岡田の方を見た。そして何か言いそうにして躊躇ちゅうちょして、目を脇へそらした。それと同時に女は岡田の手に少し血の附いているのを見附けた。「あら、あなたお手がよごれていますわ」と云って、女中を呼んで上り口へ手水盥ちょうずだらいを持って来させた。岡田はこの話をする時女の態度を細かには言わなかったが、「ほんの少しばかり小指の所に血の附いていたのを、よく女が見附けたと、僕は思ったよ」と云った。
 岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇ののどから鳥の死骸を引き出そうとしていた小僧が、「やあ大変」と叫んだ。
 新しい手拭てぬぐいの畳んだのを持って、岡田の側に立っている女主人が、開けたままにしてある格子戸に片手を掛けて外を覗いて、「小僧さん、何」と云った。
 小僧は手をひろげて鳥籠を押さえていながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きている分の鳥が逃げる所でした」と云った。
 岡田は手を洗ってしまって、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにいるのだぞ」と小僧に言った。そして何かしっかりした糸のような物があるなら貰いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと云った。
 女はちょっと考えて、「あの元結もとゆいではいかがでございましょう」と云った。
「結構です」と岡田が云った。
 女主人は女中に言い附けて、鏡台の抽斗ひきだしから元結を出して来させた。岡田はそれを受け取って、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結び附けた。
「先ず僕の為事はこの位でおしまいでしょうね」と云って、岡田は戸口を出た。
 女主人は「どうもまことに」と、さも詞に窮したように云って、跡から附いて出た。
 岡田は小僧に声を掛けた。「小僧さん。御苦労ついでにその蛇を棄ててくれないか」
「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てましょう。どこかに縄は無いかなあ」こう云って小僧はあたりを見廻した。
「縄はあるから上げますよ。それにちょっと待っていて下さいな」女主人は女中に何か言い附けている。
 そのひまに岡田は「さようなら」と云って、跡を見ずに坂を降りた。
     ――――――――――――――――
 ここまで話してしまった岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人の為めとは云いながら、僕は随分働いただろう」と云った。
「うん。女のために蛇を殺すと云うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話はそれぎりでは済みそうにないね」僕は正直に心に思う通りを言った。
「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表しはしないよ」岡田がこう云ったのも、矯飾きょうしょくして言ったわけではなかったらしい。しかし仮にそれぎりで済む物として、幾らか残惜しく思う位の事はあったのだろう。
 僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮きんれんに逢ったのではないかと思ったのである。
 大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名だけは知っている。しかし無縁坂の女が末造のめかけだと云うことは、知らぬ人もあった。岡田はその一人いちにんである。僕はその頃まだ女の種性すじょうを好くも知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲って置くのが末造だと云うことだけは知っていた。僕の智識には岡田に比べて一日いちじつの長があった。

     弐拾にじゅう

 岡田に蛇を殺して貰った日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。そう云う時計だとか指環ゆびわだとかが、硝子窓の裏に飾ってある店を、女はそこを通る度にのぞいて行く。わざわざその店の前に往こうとまではしない。何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮しょせん企て及ばぬと云うあきらめとが一つになって、或る痛切で無い、かすかな、甘い哀傷的情緒が生じている。女はそれを味うことを楽みにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感ぜさせる。女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。たとい幾日か待てば容易たやすく手にると知っても、それを待つ余裕が無い。女は暑さをも寒さをも夜闇よやみをも雨雪うせつをもいとわずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。万引なんと云うことをする女も、別に変った木で刻まれたものでは無い。只この欲しい物と買いたい物との境界がぼやけてしまった女たるに過ぎない。岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であったが、今やたちまち変じて買いたい物になったのである。
 お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭いなかまんじゅうでも買って遣ろうか。それでは余り智慧ちえが無さ過ぎる。世間並の事、たれでもしそうな事になってしまう。そんならと云って、小切れで肘衝ひじつきでも縫って上げたら、岡田さんにはおぼこ娘の恋のようで可笑おかしいと思われよう。どうも思附おもいつきが無い。さて品物は何か工夫が附いたとして、それをつい梅に持たせて遣ったものだろうか。名刺はこないだ仲町でこしらえさせたのがあるが、それを添えただけでは、物足らない。ちょっと一筆ひとふで書いて遣りたい。さあ困った。学校は尋常科が済むと下がってしまって、それからは手習をする暇も無かったので、自分には満足な手紙は書けない。無論あの御殿奉公をしたと云うお隣のお師匠さんに頼めばわけは無い。しかしそれはいやだ。手紙には何も人に言われぬような事を書く積りではないが、とにかく岡田さんに手紙を遣ると云うことを、誰にも知らせたくない。まあ、どうしたものだろう。
 丁度同じ道を往ったり来たりするように、お玉はこれだけの事を順に考え逆に考え、お化粧や台所の指図に一旦まぎれて忘れては又思い出していた。そのうち末造が来た。お玉は酌をしつつも思い出して、「何をそんなに考え込んでいるのだい」ととがめられた。「あら、わたくしなんにも考えてなんぞいはしませんわ」と、意味の無い笑顔をして見せて、ひそかに胸をどき附かせた。しかしこの頃はだいぶ修行がんで来たので、何物かを隠していると云うことを、鋭い末造の目にも、容易に見抜かれるような事は無かった。末造が帰った跡で見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買って来て、急いで梅に持たせて出した。その跡で名刺も添えず手紙も附けずに遣ったのに気が附いて、はっと思うと、夢がめた。
 翌日になった。この日は岡田が散歩に出なかったか、それともこっちで見はずしたか、お玉は恋しい顔を見ることが出来なかった。その次の日は岡田が又いつものように窓の外を通った。窓の方をちょいと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合せることは出来なかった。その又次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は草帚くさぼうきを持ち出して、格別五味ごみも無い格子戸の内を丁寧に掃除して、自分の穿いている雪踏せったの外、只一足しか出して無い駒下駄を、右に置いたり、左に置いたりしていた。「あら、わたくしが掃きますわ」と云って、台所から出た梅を、「好いよ、お前は煮物を見ていておくれ、わたし用が無いからしているのだよ」と云って追い返した。そこへ丁度岡田が通り掛かって、帽を脱いで会釈をした。お玉は帚を持ったまま顔を真っ赤にして棒立に立っていたが、何も言うことが出来ずに、岡田を行き過ぎさせてしまった。お玉は手を焼いた火箸ひばしをほうり出すように帚を棄てて、雪踏を脱いで急いで上がった。
 お玉は箱火鉢のそばへすわって、火をいじりながら思った。まあ、私はなんと云う馬鹿だろう。きょうのような涼しい日には、もう窓を開けて覗いていては可笑しいと思って、余計な掃除の真似なんぞをして、切角待っていた癖に、いざと云う場になると、なんにも言うことが出来なかった。檀那の前では間の悪いような風はしていても、言おうとさえ思えば、どんな事でも言われぬことは無い。それに岡田さんにはなぜ声が掛けられなかったのだろう。あんなにお世話になったのだから、お礼を言うのは当前あたりまえだ。それがきょう言われぬようでは、あの方に物を言う折は無くなってしまうかも知れない。梅を使にして何か持たせて上げようと思っても、それは出来ず、お目に掛かっても、物を言うことが出来なくては、どうにも為様しようがなくなってしまう。一体わたしはあの時なぜ声が出なかったのだろう。そう、そう。あの時わたしはたしかに物を言おうとした。唯何と云っていか分からなかったのだ。「岡田さん」と馴々しく呼び掛けることは出来ない。そんならと云って、顔を見合せて「もしもし」とも云いにくい。ほんにこう思って見ると、あの時まごまごしたのも無理はない。こうしてゆっくり考えて見てさえ、なんと云っていか分からないのだもの。いやいや。こんな事を思うのはぱりわたしが馬鹿なのだ。声なんぞを掛けるには及ばない。すぐに外へ駆け出せば好かったのだ。そうしたら岡田さんが足をめたに違いない。足さえ駐めて貰えば、「あの、こないだは飛んだ事でお世話様になりまして」とでも、なんとでも云うことが出来たのだ。お玉はこんな事を考えて火をいじっているうちに、鉄瓶のふたおどり出したので、湯気をらすように蓋を切った。
 それからはお玉は自分で物を言おうか、使を遣ろうかと二様に工夫を凝らしはじめた。そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けていにくい。庭の掃除はこれまで朝一度にまっていたのに、こないだの事があってからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。お玉は湯に往く時刻を遅くして、途中で岡田に逢おうとしたが、坂下の湯屋までの道は余り近いので、なかなか逢うことが出来なかった。又使を遣ると云うことも、日数ひかずが立てば立つ程出来にくくなった。
 そこでお玉は一時こんな事を思って、無理に諦めを附けていた。わたしはあれきり岡田さんにお礼を言わないでいる。言わなくては済まぬお礼が言わずにあって見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩にている。このわたしが恩に被ていると云うことは岡田さんには分かっている筈である。こうなっているのが、かえって下手にお礼をしてしまったよりいかも知れぬと思ったのである。
 しかしお玉はその恩に被ていると云うことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。唯その方法手段が得られぬので、日々にちにち人知れず腐心している。
     ――――――――――――――――
 お玉は気の勝った女で、末造に囲われることになってから、短い月日の間に、周囲から陽におとしめられ、陰にうらやまれる妾と云うものの苦しさを味って、そのおかげで一種の世間を馬鹿にしたような気象を養成してはいるが、根が善人で、まだ人にまれていぬので、下宿屋に住まっている書生の岡田に近づくのをひどくおっくうに思っていたのである。
 そのうち秋日和に窓を開けていて、又岡田と会釈を交す日があっても、切角親しく物を言って、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまって、それ程の事のあったのちが、何事もなかった前と、なんの異なる所もなくなっていた。お玉はそれをひどくじれったく思った。
 末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これが岡田さんだったらと思う。最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。それから末造の自由になっていて、目をつぶって岡田の事を思うようになった。折々は夢の中で岡田と一しょになる。煩わしい順序も運びもなく一しょになる。そして「ああ、嬉しい」と思うとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。はっと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮してられぬので、じれて泣くこともある。
 いつの間にか十一月になった。小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のように見ることが出来た。これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉はふさいでいた。それでも飽くまで素直なたちなので、梅に無理を言って迷惑させるような事はない。ましてや末造に不機嫌な顔を見せなんぞはしない。唯そんな時は箱火鉢のふちに肘をいて、ぼんやりして黙っているので、梅が「どこかお悪いのですか」と云ったことがあるだけである。それが岡田の顔がこの頃続いて見られるので、珍らしく浮き浮きして来て、或る朝いつもよりも気軽に内を出て、池の端の父親の所へ遊びに往った。
 お玉は父親を一週間に一度ずつ位はきっと尋ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことは無い。それは父親が許さぬからである。父親は往く度に優しくしてくれる。何かうまい物でもあると、それを出して茶を飲ませる。しかしそれだけの事をしてしまうと、すぐに帰れと云う。これは老人の気の短い為めばかりでは無い。奉公に出したからには、勝手に自分の所に引き留めて置いては済まぬと思うのである。お玉が二度目か三度目に父親の所に来た時、午前のうちは檀那の見えることは決して無いから、少しはゆっくりしていてもいと云ったことがある。父親は承知しなかった。「なる程これまではおいでがなかったかも知れない。それでもいつ何の御用事があってお出なさるかも知れぬではないか。檀那に申し上げておひまを戴いた日は別だが、お前のように買物に出て寄って、ゆっくりしていてはならない。それではどこをうろついているかと、檀那がお思なされても為方が無い」と云うのであった。
 若し父親が末造の職業を聞いて心持を悪くしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにいるらしい。それはその筈である。父親は池の端に越して来てから、しばらく立つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡を掛けて貸本を読んでいる。それも実録物とか講談物とか云う「書き本」に限っている。この頃読んでいるのは三河後風土記みかわごふうどきである。これはだいぶ冊数が多いから、当分この本だけで楽めると云っている。貸本屋が「読み本」を見せて勧めると、それは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うその書いてある本だろうと云って、手に取って見ようともしない。夜は目が草臥くたびれると云って本を読まずに、寄せへ往く。寄せで聞くものなら、本当か※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)かなどとは云わずに、落語も聞けば義太夫も聴く。主に講釈ばかり掛かる広小路の席へは、余程気に入った人が出なくては往かぬのである。道楽は只それだけで、人と無駄話をすると云うことが無いから、友達も出来ない。そこで末造の身の上なぞを聞き出す因縁は生じて来ぬのである。
 それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだろうと穿鑿せんさくして、とうとう高利貸の妾だそうだと突き留めたものもある。若し両隣に口のうるさい人でもいると、爺いさんがどんなに心安立こころやすだてをせずにいても、無理にも厭なうわさを聞せられるのだが、為合せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖ほうじょうなんぞをいじって手習ばかりしている男、一方の隣がもう珍らしいものになっている板木師はんぎしで、篆刻てんこくなんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るようなおそれはない。まだ並んでいる家の中で、店を開けて商売をしているのは蕎麦屋そばやの蓮玉庵と煎餅屋せんべいやと、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋と云う櫛屋くしやとの外には無かった時代である。
 爺いさんは格子戸を開けて這入はいる人のけはい、軽げな駒下駄の音だけで、まだ優しい声のおとないを聞かぬうちに、もうお玉が来たのだと云うことを知って、読みさしの後風土記を下に置いて待っている。掛けていた目金をはずして、可哀い娘の顔を見る日は、爺いさんのためには祭日である。娘が来れば、きっと目金を脱す。目金で見た方が好く見える筈だが、どうしても目金越しでは隔てがあるようで気が済まぬのである。娘に話したい事はいつもまっていて、その一部分を忘れて残したのに、いつも娘の帰った跡で気が附く。しかし「檀那は御機嫌好くてお出になるかい」と末造の安否を問うことだけは忘れない。
 お玉はきょう機嫌のい父親の顔を見て、阿茶あちゃつぼねの話を聞せて貰い、広小路に出来た大千住おおせんじゅの出店で買ったと云う、一尺四方もある軽焼の馳走になった。そして父親が「まだ帰らなくても好いかい」と度々聞くのに、「大丈夫よ」と笑いながら云って、とうとう正午近くまで遊んでいた。そしてこの頃のように末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくても好いかと云う催促が一層はげしくなるだろうと、心のうちで思った。自分はいつか横着になって、末造に留守のに来られてはならぬと云うような心遣をせぬようになっているのである。

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