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護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:28:31  点击:  切换到繁體中文


 酉(とり)の下刻と思われる頃であった。文吉が背後(うしろ)から九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿(たど)って、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形(ちゅうがた)木綿の単物(ひとえもの)に、古びた花色縞博多(しまはかた)の帯を締めている。
 二人は黙って跡を附けた。月の明るい夜である。横山町を曲る。塩町(しおちょう)から大伝馬町(おおでんまちょう)に出る。本町を横切って、石町河岸(こくちょうがし)から龍閑橋(りゅうかんばし)、鎌倉河岸(かまくらがし)に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被(ほおかぶり)をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶(たす)ける振(ふり)をして附いて行く。
 神田橋外元護寺院(もとごじいん)二番原に来た時は丁度子(ね)の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせをした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後(うしろ)から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫(つか)んだ。
「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。
 無言の二人は釘抜(くぎぬき)で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍(みちばた)の立木の蔭へ、引き摩(ず)って往った。
 九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主(ぬし)に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所(くにところ)と名前を言って、覚悟をせい」
「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産(せんしゅううまれ)で、虎蔵と云うものだ。そんな事をした覚(おぼえ)はねえ」
 文吉が顔を覗(のぞ)き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣(ほくろ)まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」
 男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎(しお)れるように、がくりと首を低(た)れた。「ああ。文公か」
 九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶ノ水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許(やどもと)から参りました。母親が霍乱(かくらん)で夜明(よあけ)まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召(おぼしめし)でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」
「は」と云って、文吉は錦町(にしきちょう)の方角へ駆け出した。

 酒井亀之進の邸では、今宵(こよい)奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。
 りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上草履(うわぞうり)を穿(は)いて、廊下伝(づたい)に老女の部屋へ往った。
 老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰ってお出(いで)。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」
「難有(ありがと)うございます」と、りよはお請(うけ)をして、老女の部屋をすべり出た。
 りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻子(くろじゅす)の帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。
 りよと一しょに奥を下がった傍輩(ほうばい)が二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。
「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言(ひとりごと)のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。
 部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠(つづら)の蓋(ふた)を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子(かたびら)一枚である。次に臂(ひじ)をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗(ふくさ)に包んで持って出た。

 文吉は敵を掴まえた顛末(てんまつ)を、途中でりよに話しながら、護持院原(ごじいんがはら)へ来た。
 りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕はないので、短刀だけを包の中から出した。
 九郎右衛門は敵に言った。「そこへ来たのが三右衛門の娘りよだ。三右衛門を殺した事と、自分の国所名前をそこで言え」
 敵は顔を挙げてりよを見た。そして云った。「わたしもこれまでだ。本当の事を言います。なる程山本さんに創(きず)を附けたのはわたしだが、殺しはしません。勝負事に負けて金に困ったものですから、どうかして金が取りたいと思って、あんなへまな事をしました。わたしは泉州生田郡(いくたごおり)上野原村の吉兵衛(きちべえ)と云うものの伜で、名は虎蔵と云います。酒井様へ小使に住み込む時、勝負事で識合(しりあい)になっていた紀州の亀蔵と云う奴の名を、口から出任せに言ったのです。この外に言うことはありません。どうぞ御存分になすって下さい。」
「好く言った」と九郎右衛門は答えた。そしてりよと文吉とに目ぐわせして虎蔵の縄を解いた。三人が三方からじりじりと詰め寄った。
 縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前屈(まえかがみ)にしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。
 その時りよは一歩下がって、柄(つか)を握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖(かたさき)から乳へ掛けて切り下げたのである。虎蔵はよろけた。りよは二太刀三太刀切った。虎蔵は倒れた。
「見事じゃ。とどめは己が刺す」九郎右衛門は乗り掛かって吭(のど)を刺した。
 九郎右衛門は刀の血を虎蔵の袖で拭いた。そしてりよにも脇差を拭かせた。二人共目は涙ぐんでいた。
「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。

 九郎右衛門等三人は河岸(かし)にある本多伊予守頭取(いよのかみとうどり)の辻番所(つじばんしょ)に届け出た。辻番組合月番西丸御小納戸鵜殿吉之丞(にしまるおこなんどうどのきちのじょう)の家来玉木勝三郎組合の辻番人が聞き取った。本多から大目附に届けた。辻番所組合遠藤但馬守胤統(たじまのかみたねのり)から酒井忠学(ただのり)の留守居へ知らせた。酒井家は今年四月に代替(だいがわり)がしているのである。
 酒井家から役人が来て、三人の口書(くちがき)を取って忠学に復命した。
 翌十四日の朝は護持院原一ぱいの見物人である。敵を討った三人の周囲へは、山本家の親戚が追々(おいおい)馳(は)せ附けた。三人に鵜殿家から鮨(すし)と生菓子(なまがし)とを贈った。
 酉(とり)の下刻に西丸目附徒士頭(かちがしら)十五番組水野采女(うねめ)の指図で、西丸徒士目附永井亀次郎、久保田英次郎、西丸小人目附平岡唯八郎(ただはちろう)、井上又八、使之者志母谷(つかいのものしもや)金左衛門、伊丹(いたみ)長次郎、黒鍬之者(くろくわのもの)四人が出張した。それに本多家、遠藤家、平岡家、鵜殿家の出役(しゅつやく)があって、先ず三人の人体(にんてい)、衣類、持物、手創(てきず)の有無(ゆうむ)を取り調べた。創は誰も負っていない。次に永井、久保田両徒(かち)目附に当てた口書を取った。次に死骸の見分(けんぶん)をした。酒井家に奉公した時の亀蔵の名を以て調書に載せられた創はこうである。「背中左之方(ひだりのほう)一寸程突創(つききず)一箇所、創口腫上(はれあが)り深さ相知不申(あひしれまをさず)、領(えり)に切創(きりきず)一箇所、長さ三寸程、深さ二寸程、同所下之方(しものほう)に切創一箇所、長さ一寸五分程、深さ六分程、左耳之脇(わき)に切創一箇所、長さ一寸、深さ六分程、右之肩より乳へ掛け一尺程切創一箇所、深さ四寸程、同所脇肩に切創一箇所、長さ二寸、深さ一寸程、咽(のど)突創一箇所、長さ三寸程、都合七箇所」衣類は木綿単物、博多帯、持物は浅葱(あさぎ)手拭一筋である。死骸(しがい)は玉木勝三郎に預けられた。次に呼び出されていた、亀蔵の口入人神田久右衛門町代地富士屋治三郎、同五人組、亀蔵の下請宿若狭屋亀吉が口書を取られた。次に九郎右衛門等の届を聞き取った辻番人が口書を取られた。
 見分の役人は戌(いぬ)の上刻に引き上げた。見分が済んで、鵜殿吉之丞から西丸目附松本助之丞へ、酒井家留守居庄野慈父右衛門(しょうのじふえもん)から酒井家目附へ、酒井家から用番大久保加賀守忠真(かがのかみただざね)へ届けた。
 十五日卯(う)の下刻に、水野采女の指図で、庄野へ九郎右衛門等三人を引き渡された。前晩(ぜんばん)酉の刻から、九郎右衛門とりよとを載せるために、酒井家でさし立てた二挺(ちょう)の乗物は、辻番所に来て控えていたのである。九郎右衛門、文吉は本多某に、りよは神戸に預(あずけ)られた。
 この日酉の下刻に町奉行筒井伊賀守政憲(つついいがのかみまさのり)が九郎右衛門等三人を呼び出した。酒井家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩(かち)の文吉とを警固した。三人が筒井政憲の直(じき)の取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。
 十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与力(よりき)仁杉(にすぎ)八右衛門の取調を受けて、口書を出した。
 この日にりよは酒井亀之進から、三右衛門の未亡人は大沢家から願に依って暇(いとま)を遣(つかわ)された。りよが元の主人細川家からは、敵討の祝儀を言ってよこした。
 十九日には筒井から三度目の呼出が来た。九郎右衛門等三人は口書下書を読み聞せられて、酉の下刻に引き取った。
 二十三日には筒井から四度目の呼出が来た。口書清書に実印、爪印をさせられた。
 二十八日には筒井から五度目の呼出が来た。用番老中水野越前守忠邦(ただくに)の沙汰で、九郎右衛門、りよは「奇特之儀(きどくのぎ)に付(つき)構(かまひ)なし」文吉は「仔細無之(しさいこれなく)構なし」と申し渡された。それから筒井の褒詞(ほうし)を受けて酉の下刻に引き取った。
 続いて酒井家の大目附から、町奉行の糺明(きゅうめい)が済んだから、「平常通心得(へいじょうのとほりこころう)べし」と、九郎右衛門、りよ、文吉の三人に達せられた。九郎右衛門、りよは天保五年二月に貰った御判物(ごはんもの)を大目附に納めた。
 閏(うるう)七月朔日(ついたち)にりよに酒井家の御用召があった。辰(たつ)の下刻に親戚山本平作、桜井須磨右衛門が麻上下(あさがみしも)で附き添って、御用部屋に出た。家老河合小太郎に大目附が陪席して申渡(もうしわたし)をした。
「女性(にょしょう)なれば別して御賞美あり、三右衛門の家名相続被仰附(おほせつけらる)、宛行(あておこなひ)十四人扶持被下置(ふちくだしおかる)、追て相応の者婿養子可被仰附(むこようしおほせつけらるべし)、又近日中奥御目見可被仰附(なかおくおめみえおほせつけらるべし)」と云うのである。
 十一日にりよは中奥目見(なかおくめみえ)に出て、「御紋附黒縮緬(くろちりめん)、紅裏真綿添(もみうらまわたそひ)、白羽二重一重(しろはぶたへひとかさね)」と菓子一折とを賜(たまわ)った。同じ日に浜町の後室から「縞(しま)縮緬一反」、故酒井忠質室専寿院(ただたかしつせんじゅいん)から「高砂(たかさご)染縮緬帛(ふくさ)二、扇二本、包之内(つつみのうち)」を賜った。
 九郎右衛門が事に就いては、酒井忠学から家老本多意気揚(いきり)へ、「九郎右衛門は何の思召(おぼしめし)も無之(これなく)、以前之通可召出(いぜんのとほりめしいだすべし)、且行届候段満足褒美可致(かつゆきとどきそろだんまんぞくほうびいたすべし)、別段之思召を以て御紋附麻上下被下置(あさがみしもくだしおかる)」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋(たんものだいせんびき)」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折(まぜさかなひとをり)」を贈った。
 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小役人格に被召抱(めしかかへらる)、御宛行金四両(おあておこなひきんよりょう)二人扶持被下置(ふちくだしおかる)」と達せられた。それから苗字(みょうじ)を深中(ふかなか)と名告(なの)って、酒井家の下邸巣鴨(すがも)の山番を勤めた。
 この敵討のあった時、屋代(やしろ)太郎弘賢(ひろかた)は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。
「又もあらじ魂祭(たままつ)るてふ折に逢ひて父兄の仇討(あたう)ちしたぐひは」幸(さいわい)に太田七左衛門が死んでから十二年程立っているので、もうパロヂイを作って屋代を揶揄(からか)うものもなかった。





底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
入力:砂場清隆
校正:菅野朋子
2000年10月17日公開
2006年5月11日修正
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