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佐橋甚五郎(さはしじんごろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:34:30  点击:  切换到繁體中文

 豊太閤(ほうたいこう)が朝鮮(ちょうせん)を攻めてから、朝鮮と日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智(そうつしまのかみよしとし)が徳川(とくがわ)家の旨(むね)を承(う)けて肝(きも)いりをして、慶長(けいちょう)九年の暮(く)れに、松雲孫(しょううんそん)、文※(ぶんいく)[#「或」の「ノ」の部分が三本、102-2]、金考舜(きんこうしゅん)という三人の僧が朝鮮から様子を見に来た。徳川家康(いえやす)は三人を紫野(むらさきの)の大徳寺(だいとくじ)に泊(と)まらせておいて、翌年の春秀忠(ひでただ)といっしょに上洛(じょうらく)した時に目見(めみ)えをさせた。
 中一年置いて慶長十二年四月に、朝鮮から始めての使が来た。もう家康は駿府(すんぷ)に隠居(いんきょ)していたので、京都(きょうと)に着いた使は、最初に江戸(えど)へ往けという指図(さしず)を受けた。使は閏(うるう)四月二十四日に江戸の本誓寺(ほんせいじ)に着いた。五月六日に将軍に謁見(えっけん)した。十四日に江戸を立って、十九日に興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ)に着いた。家康は翌二十日の午(うま)の刻に使を駿府の城に召(め)した。使は一応老中本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)の邸(やしき)に入って、そこで衣服を改めて登城(とじょう)することになった。
 このたびの使は通政大夫呂祐吉(つうせいたゆうりょゆうきつ)、通訓大夫慶暹(つうくんたゆうけいせん)、同丁好寛(ていこうかん)の三人である。本国から乗物を三つ吊(つ)らせて来た。呂祐吉の乗物には造花を持たせた人形が座の右に据(す)えてあった。捧(ささ)げて来た朝鮮王李※(りえん)[#「日+鉛のつくり」、102-12]の国書は江戸へ差し出した。次は上々官金僉知(きんせんち)、朴僉知(ぼくせんち)、喬僉知(きょうせんち)の三人で、これは長崎(ながさき)で造らせた白木の乗物に乗っていた。次は上官二十六人、中官八十四人、下官百五十四人、総人数二百六十九人であった。道中の駅々では鞍置馬(くらおきうま)百五十疋(ぴき)、小荷駄馬(こにだうま)二百余疋、人足三百余人を続(つ)ぎ立てた。
 駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁(ひろえん)に並(なら)べられた。人参(にんじん)六十斤(きん)、白苧布(しろあさぬの)三十疋、蜜(みつ)百斤、蜜蝋(みつろう)百斤の四色(よいろ)である。江戸の将軍家への進物(しんもつ)十一色に比べるとはるかに略儀(りゃくぎ)になっている。もとより江戸と駿府とに分けて進上するという初めからのしくみではなかったので、急に抜差(ぬきさ)しをしてととのえたものであろう。江戸で出した国書の別幅(べっぷく)に十一色の目録があったが、本書とは墨色が相違(そうい)していたそうである。
 この日に家康は翠色(みどりいろ)の装束(しょうぞく)をして、上壇(じょうだん)に畳(たたみ)を二帖敷(じょうし)かせた上に、暈繝(うんげん)の錦の茵(しとね)を重ねて着座した。使は下段に進んで、二度半の拝をして、右から左へ三人並(なら)んだ。上々官金僉知(きんせんち)、朴僉知(ぼくせんち)、喬僉知(きょうせんち)の三人はいずれも広縁に並んで拝をした。ここでは別に書類を捧呈(ほうてい)することなどはない。茶も酒も出されない。しばらくして上(かみ)の使三人がまた二度半の拝をすると、上々官三人も縁でまた拝をした。上々官の拝がすんでから、上の使の三人は上々官をしたがえて退出した。
 家康は六人の朝鮮人の後影(うしろかげ)を見送って、すぐに左右を顧(かえり)みて言った。
「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか」
 側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいた。案内して来た宗もまだ残っていた。しかし意味ありげな大御所のことばを聞いて、皆(みな)しばらくことばを出さずにいた。ややあって宗が危ぶみながら口を開いた。
「三人目は喬僉知(きょうせんち)と申しまするもので」
家康は冷やかに一目見たきりで、目を転じて一座を見渡(みわた)した。
「誰も覚えてはおらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食わぬ。あれは天正(てんしょう)十一年に浜松(はままつ)を逐電(ちくてん)した時二十三歳(さい)であったから、今年は四十七になっておる。太い奴(やつ)、ようも朝鮮人になりすましおった。あれは佐橋甚五郎(さはしじんごろう)じゃぞ」
 一座は互いに目を合わせたが、今度はしばらくの間誰一人ことばを出すものがなかった。本多は何か問いたげに大御所の気色(けしき)を伺(うかが)っていた。
 家康は本多を顧みて、「もうよい、振舞(ふるま)いの事を頼(たの)むぞ」と言った。これは家康がこの府中の城に住むことにきめて沙汰(さた)をしたのが今年の正月二十五日で、城はまだ普請中(ふしんちゅう)であるので、朝鮮の使の饗応(きょうおう)を本多が邸(やしき)ですることに言いつけておいたからである。
「一応とりただしてみることにいたしましょうか」と、本多はやはり気色を伺いながら言った。
「いや。それは知らぬと言うじゃろう。上役(うわやく)のものは全く知らぬかも知れぬ。とにかくあの者どもは早くここを立たせるがよい。土地のものと文通などをいたさせぬようにせい」
「はっ」といって本多は忙(いそ)がしげに退出した。
 饗応の用意はかねてととのえてあった。使は本多の邸へ引き取って常の衣服に着換(きが)えた上で、振舞いを受けることになっていたのである。城内から帰った本多は、ちょうど着換えが済んで休息している呂祐吉(りょゆうきつ)に、宗をもってそれとなく問わせた。きょうお目見(めみ)えをした者の中に大御所のお見知りになっている人はなかったかと問わせたのである。通事(つうじ)の取り次いだ返答は、いっこうに存ぜぬということであった。しかもそういった呂祐吉の顔は、いかにも思いがけぬ事を問われたらしく、どうも物を包み隠(かく)しているものとは見えなかった。
 饗応に相判などはなかった。膳部(ぜんぶ)を引く頃(ころ)に、大沢侍従(おおさわじじゅう)、永井右近進(ながいうこんのしん)、城織部(じょうおりべ)の三人が、大御所のお使として出向いて来て、上(かみ)の三人に具足三領、太刀三振(たちみふり)、白銀三百枚、次の三人金僉知(きんせんち)らに刀三腰(とうみこし)、白銀百五十枚、上官二十六人に白銀二百枚、中官以下に鳥目(ちょうもく)五百貫を引物(ひきもの)として贈(おく)った。
 本多の指図で、使の一行はその日のうちに立って、藤枝(ふじえだ)まで上った。京都紫野に着いたのが五月二十九日、大阪へ出たのが六月八日で、大阪で舟に乗り込んだのが六月十一日である。朝鮮征伐(せいばつ)の時の俘虜(ふりょ)の男女千三百四十余人も、江戸からの沙汰(さた)で、いっしょに舟に乗せて還(かえ)された。

 浜松の城ができて、当時三河守(みかわのかみ)と名のった家康はそれにはいって、嫡子信康(ちゃくしのぶやす)を自分のこれまでいた岡崎(おかざき)の城に住まわせた。そこで信康は岡崎二郎三郎(じろうさぶろう)と名のることになった。この岡崎殿(どの)が十八歳(さい)ばかりの時、主人より年の二つほど若い小姓(こしょう)に佐橋甚五郎というものがあった。口に出して言いつけられぬうちに、何の用事でも果たすような、敏捷(びんしょう)な若者で、武芸は同じ年頃(としごろ)の同輩(どうはい)に、傍(そば)へ寄りつく者もないほどであった。それに遊芸が巧者で、ことに笛(ふえ)を上手(じょうず)に吹(ふ)いた。
 ある時信康は物詣(ものもう)でに往った帰りに、城下のはずれを通った。ちょうど春の初めで、水のぬるみ初(そ)めた頃(ころ)である。とある広い沼(ぬま)のはるか向うに、鷺(さぎ)が一羽おりていた。銀色に光る水が一筋うねっている側の黒ずんだ土の上に、鷺は綿を一つまみ投げたように見えている。ふと小姓の一人が、あれが撃(う)てるだろうかと言い出したが、衆議は所詮(しょせん)打てぬということにきまった。甚五郎は最初黙(だま)って聞いていたが、皆(みな)が撃てぬと言い切ったあとで、独語(ひとりごと)のように「なに撃てぬにも限らぬ」とつぶやいた。それを蜂谷(はちや)という小姓(こしょう)が聞き咎(とが)めて、「おぬし一人がそう思うなら、撃ってみるがよい」と言った。「随分(ずいぶん)撃ってみてもよいが、何か賭(か)けるか」と甚五郎が言うと、蜂谷が「今ここに持っている物をなんでも賭きょう」と言った。「よし、そんなら撃(う)ってみる」と言って、甚五郎は信康の前に出て許しを請(こ)うた。信康は興ある事と思って、足軽(あしがる)に持たせていた鉄砲(てっぽう)を取り寄せて甚五郎に渡(わた)した。
「あたるもあたらぬも運じゃ。はずれたら笑うまいぞ」甚五郎はこう言っておいて、少しもためらわずに撃ち放した。上下こぞって息をつめて見ていた鷺(さぎ)は、羽を広げて飛び立ちそうに見えたが、そのまま黒ずんだ土の上に、綿一つまみほどの白い形をして残った。信康を始めとして、一同覚えず声をあげてほめた。田舟(たぶね)を借りて鷺を取りに行く足軽をあとに残して、一同は館(やかた)へ帰った。
 翌日の朝思いがけぬ出来事が城内の人々を驚(おどろ)かした。それは小姓蜂谷が、体じゅうに疵(きず)もないのに死んでいて、甚五郎は行方(ゆくえ)がしれなくなったのである。小姓一人は鷺を撃ったあとで、お供をして帰る時、甚五郎が蜂谷に「約束の事はあとで談合するぞ」と言うのを聞いた。死んだ蜂谷の身のまわりを調べた役人は、かねて見知っている蜂谷の金熨斗(きんのし)付きの大小の代りに、甚五郎の物らしい大小の置いてあるのに気がついた。そのほかにはこの奇怪(きかい)な出来事を判断する種になりそうな事は格別ない。ただ小姓たちの言うのを聞けば、蜂谷は今度紛失した大小を平生由緒(へいぜいゆいしょ)のある品だと言って、大切にしていたそうである。またその大小を甚五郎がふだんほめていたそうである。
 甚五郎の行方は久しく知れずにて、とうとう蜂谷の一週忌(いっしゅうき)も過ぎた。ある日甚五郎の従兄(じゅうけい)佐橋源太夫(げんだゆう)が浜松の館(やかた)に出頭して嘆願(たんがん)した。それは遠くもない田舎(いなか)に、甚五郎が隠(かく)れているのが知れたので、助命を願いに出たのである。源太夫はこういう話をした。甚五郎は鷺(さぎ)を撃つとき蜂谷と賭(かけ)をした。蜂谷は身につけているものを何なりとも賭けようと言った。甚五郎は運よく鷺を撃(う)ったので、ふだん望みをかけていた蜂谷の大小をもらおうと言った。それもただもらうのではない。代りに自分の大小をやろうというのである。しかし蜂谷は、この金熨斗(きんのし)付きの大小は蜂谷家で由緒(ゆいしょ)のある品だからやらぬと言った。甚五郎はきかなんだ。「武士は誓言(せいごん)をしたからは、一命をもすてる。よしや由緒があろうとも、おぬしの身に着けている物の中で、わしが望むのは大小ばかりじゃ。ぜひくれい」と言った。「いや、そうはならぬ。命ならいかにも棄(す)ちょう。家の重宝は命にも換(か)えられぬ」と蜂谷は言った。「誓言を反古(ほご)にする犬侍(いぬざむらい)め」と甚五郎がののしると、蜂谷は怒って刀を抜(ぬ)こうとした。甚五郎は当身(あてみ)を食わせた。それきり蜂谷は息を吹(ふ)き返さなかった。平生何事か言い出すとあとへ引かぬ甚五郎は、とうとう蜂谷の大小を取って、自分の大小を代りに残して立ち退いたというのである。源太夫は家康にこの話をして、何を言うにも年若の甚五郎であるから、上(かみ)の思召(おぼしめ)しで助命していただければよし、もしかなわぬ事なら、人手にかけず打ち果たしてお詫(わ)びをしたいと言った。

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