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死(し)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:38:03  点击:  切换到繁體中文


「己といふものは亡くなつてしまふ。無論さうだ。何もかも元のままだ。草木さうもくも、人間も、あらゆる感情も元のままだ。愛だとかなんだとかいふ美しい感情も元のままだ。それに己だけは亡くなつてしまふ。何があつても、見ることが出来ない。あとに何もかも有るか無いかといふことも知ることが出来ない。なんにも知ることが出来ないばかりではない。己そのものが無いのだ。綺麗さつぱり無いのだ。いや。綺麗さつぱりどころではない。実に恐るべき、残酷な、無意味なわけだ。なんの為めに己は生きてゐて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといつて、他人よりは自分の方が賢いやうに思つてゐたのだ。己といふものはもう無いではないか。」
 ソロドフニコフは涙ぐんだやうな心持がした。そしてそれを恥かしく思つた。それから涙が出たら、今まで自分を抑圧してゐた、溜まらない感じがなくなるだらうと思つて、喜んだ。併し目には涙が出ないで、ただ闇を凝視してゐるのである。ソロドフニコフは重くろしい溜息を衝いて、苦しさと気味悪さとに体が顫えてゐた。
「己をうじが食ふ。長い間食ふ。それをこらへてぢつとしてゐなくてはならない。己を食つて、その白い、ぬるぬるした奴がうようよと這ひ廻るだらう。いつそ火葬にして貰つた方が好いかしら。いや。それも気味が悪い。ああ。なんの為めに己は生きてゐたのだらう。」
 体ぢゆうがぶるぶる顫えるのを感じた。窓の外で風の音がしてゐる。室内は何一つ動くものもなく、ひつそりしてゐる。
「己ももう間もなく死ぬるだらう。事に依つたら明日死ぬるかも知れない。今すぐに死ぬるかも知れない。わけもなく死ぬるだらう。頭が少しばかり痛んで、それが段々ひどくなつて死ぬるだらう。死ぬるといふことがわけもないものだといふ事は、己は知つてゐる。どうなつて死ぬるといふことは、己は知つてゐる。併しどうしてそれを防ぎやうもない。死ぬるのだな。事に依つたら明日かも知れない。今かも知れない。さつきあの窓の外に立つてゐるとき風を引いてゐる。これから死ぬるのかも知れない。どうも体は健康なやうには思はれるが、体のどこかではもう分壊作用が始まつてゐるらしい。」
 ソロドフニコフは自分で脈を取つて見た。併し間もなくそれを止めた。そして絶望したやうに、暗くてなんにも見えない天井を凝視してゐた。自分の頭の上にも、体の四方にも、冷たい、濃い鼠色の暗黒がある。その闇黒の為めに自分の思想が一層恐ろしく、絶望的に感ぜられる。
「兎に角死ぬるのを防ぐ事は出来ない。一瞬間でも待つて貰ふことは出来ない。早いかおそいか死ななくてはならない。不老不死の己ではない。その癖己をはじめ、誰でも医学を大した学問のやうに思つてゐる。今日の命を繋ぎ、明日の命を繋いだところで、どうせ皆死ぬるのだ。丈夫な奴も死ぬる。病人も死ぬる。実に恐ろしい事だ。己は死を恐れはしない。併しなんだつて死といふものに限つて遣つて来なくてはならないのだらう。なんの意味があるのだらう。誰が死といふものを要求するのだらう。いや。実際は己にも気になる。己にも気になる。」
 ソロドフニコフは忽然思量の糸を切つた。そして復活といふことと、死後の性命といふこととを考へて見た。その時或る軟い、軽い、優しいものが責めさいなまれてゐる脳髄の上へかぶさつて来るやうな心持がして、気が落ち付いて快くなつた。
 併し間もなくまた憎悪、憤怒ふんど、絶望がむらむらとき上がつて来る。
「えゝ。馬鹿な事だ。誰がそんな事を信ずるものか。己も信じはしない。信ぜられない。そんな事になんの意味がある。誰が体のない、形のない、感情のない、個性のない霊といふものなんぞが、※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)かうきの中を飛び廻つてゐるのを、なんの用に立てるものか。それはどつちにしても恐怖はやはり存在する。なぜといふに、死といふ事実の外は、我々は知ることが出来ないのだから。あの見習士官の云つた通りだ。永遠に恐怖を抱いてゐるよりは、寧ろ自分で。」
「寧ろ自分で」とソロドフニコフは繰り返して、夢の中で物を見るやうに、自分の前に燃えてゐる明るい、赤い蝋燭の火と、その向うの蒼ざめた、びつくりしたやうな顔とを見た。
 それは家来のパシユカの顔であつた。手に蝋燭を持つて、前に立つてゐるのである。
「旦那様。どなたかお出ですが」と、パシユカが云つた。
 ソロドフニコフは茫然として家来の顔を凝視してゐて、腹の中で、なんだつてこいつは夜なかに起きて来たのだらう、あんな蒼い顔をしてと思つた。ふいと見ると、パシユカの背後うしろに今一つ人の顔がある。見覚えのある、いやに長い顔である。
「なんの御用ですか」と、ソロドフニコフは物分かりの悪いやうな様子で問うた。
「先生。御免下さい」と、背後の顔が云つて、一足前へ出た。好く見れば、サアベルを吊つた、八字髭の下へ向いてゐる、背の高い警部であつた。「甚だ御苦労でございますが、ちよつとした事件が出来しゆつたいしましたのです。それにレオニツド・グレゴレヰツチユが市中にゐないものですから。」
 レオニツド・グレゴレヰツチユといふのは、市医であつたといふことを、ソロドフニコフはやうやうの事で思ひ出した。
「志願兵が一名小銃で自殺しましたのです」と、警部は自殺者が無遠慮に夜なかなんぞに自殺したのに、自分が代つて謝罪するやうな口吻こうふんで云つた。
「見習士官でせう」と、ソロドフニコフは器械的に訂正した。
「さうでした。見習士官でした。もう御承知ですか。ゴロロボフといふ男です。すぐに検案して戴かなくては」と、警部は云つた。
 ソロドフニコフは何かで額をうんと打たれたやうな心持がした。
「ゴロロボフですな。本当に自殺してしまひましたか」と、ひどく激した調子で叫んだ。
 警部プリスタフの八字髭がひどく顫えた。「どうしてもう御存じなのですか。」
「無論知つてゐるのです。わたしに前以て話したのですから」と、医学士は半分咬み殺すやうに云つて、足の尖で長靴を探つた。
「どうして。いつですか」と、突然変つた調子で警部が問うた。
「わたしに話したのです。話したのです。あとでゆつくりお話しします」と、半分口の中でソロドフニコフが云つた。
     ――――――――――――
 見習士官の家までは五分間で行かれるのに、門の前には辻馬車が待たせてあつた。ソロドフニコフはいつどうして其馬車に腰を掛けたやら、いつ見習士官の家の前に著いて馬車を下りたやら覚えない。只もう雨が止んで、晴れた青空から星がきらめいてゐたことだけを覚えてゐる。
 パン屋の入口の戸がこん度は広く開け放してある。人道に巡査が一人と、それからよく見えない、気を揉んでゐるらしい人が二三人と立つてゐる。さつきのやうに焼き立てのパンと捏ねたパン粉との匂のする廊下へ、奉公人だの巡査だのが多勢押し込んでゐる。ソロドフニコフには其人数がひどく多いやうに思はれた。やはりさつきのやうにランプの附いてゐる、見習士官の部屋の戸も広く開いてゐる。室内は空虚で、ひつそりしてゐる。見れば、ゴロロボフはひどく不自然な姿勢で部屋の真中に、ランプの火に照らされて、猫が香箱かうばこを造つてゐるやうになつて転がつてゐる。室内は少しも取り乱してはない。何もかも二時間前に見たと同じである。
「御覧なさい。小銃で自殺してゐます。散弾です。丸で銃身の半分もあるほど散弾を詰め込んで、銃口を口に含んで発射したのです。いやはや」と、警部プリスタフは云つた。
 プリスタフはいろ/\な差図をした。体を持ち上げて寝台ねだいの上に寝かした。赤い、太つた顔の巡査が左の手で自分のサアベルの鞘を握つてゐて、右の手でゴロロボフの頭を真直に直して置いて、その手で十字を切つた。下顎が熱病病みのやうにがたがた顫えてゐる。
 ソロドフニコフの為めには、一切の事が夢のやうである。その癖かういふ場合にすべき事を皆してゐる。文案を作る。署名する。はつきり物を言ふ。プリスタフの問に答へる。併しそれが皆器械的で、何もかもどうでも好い、余計な事だといふやうな、ぼんやりした心理状態で遣つてゐる。又しては見習士官の寝かしてある寝台へ気が引かれてならぬのである。
 ソロドフニコフはこの時はつきり見習士官ゴロロボフが死んでゐるといふことを意識してゐる。もう見習士官でもなければ、ゴロロボフでもなければ、人間でもなければ動物でもない。死骸である。いぢつても、投げ附けても、焼いても平気なものである。併しソロドフニコフは同時にこれが見習士官であつたことを意識してゐる。その見習士官がどうしてかうなつたといふことは、不可解で、無意味で、馬鹿気てゐる。併し恐ろしいやうだ。哀れだ。
 かういふ悲痛の情は、気の附かないうちに、忽然浮かんで来た。
 ソロドフニコフはごくりと唾を呑み込んで、深い溜息をして、その外にはしやうのないらしい様子で、絶望的な泣声を立てた。
「水を」と、プリスタフは巡査に云つた。その声がなぜだかおびやかすやうな調子であつた。
 その巡査はどたばたして廊下へ飛び出して、その拍子にサアベルの尻を入口の柱にぶつ附けた。そのひまにプリスタフは頻にソロドフニコフをなだめてゐる。「先生。どうしたのです。なぜそんなに。それは気の毒は気の毒です。併しどうもしやうがありませんからな。」
 年寄つた大男の巡査が素焼の茶碗に水を入れて持つて来た。顔は途方に暮れてゐるやうである。
 プリスタフはそれを受け取つて、「さあ、お上がんなさい。お上がんなさい」とすゝめた。
 ソロドフニコフはパンと麹との匂のする生温なまぬるい水を飲んだ。その時歯が茶碗にさはつてがちがちと鳴つた。
「やれやれ。御気分が直りましたでせう。さあ、門までお送り申しませう。死んだものは死んだものに致して置きませう」と、プリスタフは愉快らしく云つた。
 ソロドフニコフは器械的に立ち上がつて、巡査の取つてくれる帽を受け取つて、廊下へ歩み出した。廊下はさつきの焼き立てのパンと麹との匂の外に、多勢の人間が置いて行つた生生いき/\した香がしてゐる。それから階段の所へ出た。
 その時見えた戸外の物が、ソロドフニコフには意外なやうな心持がした。
 夜が明けてゐる。空は透明に澄んでゐる。雨は止んだが、空気が湿つてゐる。何もかも洗ひ立てのやうに光つてゐる。緑色がいつもより明るく見える。丁度ソロドフニコフの歩いて行く真正面に、まだ目には見えないが、朝日が出掛かつてゐる。そこの所の空はまばゆいほど明るく照つて、燃えて、輝いてゐる。空気は自由な、偉大な、清浄な、柔軟な波動をして、震動しながらソロドフニコフの胸に流れ込むのである。
「ああ」と、ソロドフニコフは長く引いて叫んだ。
「好い朝ですな」と、プリスタフは云つて、帽を脱いで、愉快気に兀頭はげあたまを涼しい風に吹かせた。そして愉快気に云つた。「長い雨のあとで天気になつたといふものは心持の好いものですね。兎に角世界は美しいですね。それをあの先生はもう味ふことが出来ないのだ。」
 雀が一羽ちよちよと鳴きながら飛んで行つた。ソロドフニコフはそのあとを眺めて、「なんといふさうざうしい小僧だらう」と、愉快に感じた。
 プリスタフは人の好ささうな、無頓著らしい顔へ、無理に意味ありげな皺を寄せて、「それでは御機嫌よろしう、まだも少しこゝの内に用事がございますから」と云つた。
 そして医学士と握手して、附いて来られてはならないとでも思ふやうな様子で、早足に今出た門に這入つた。
 学士は帽を脱いで、微笑みながら歩き出した。いてゐる窓を見上げるとランプの光が薄黄いろく見えてゐるので、一寸胸を刺されるやうな心持がした。そのとたんに誰やらがランプをおろして吹き消した。多分プリスタフであらう。薄明るく見えてゐた焔が見えなくなつて、窓から差し込む空の光で天井とサモワルとが見えた。
 ソロドフニコフは歩きながら身の周囲まはりを見廻した。何もかも動いてゐる。輝いてゐる。活躍してゐる。その一々の運動に気を附けて見て、ソロドフニコフはこの活躍してゐる世界と自分とを結び附けてゐる、或る偉大なる不可説なる物を感じた。そして俯して、始て見るものででもあるやうに、歩いてゐる自分の両足を見た。それが如何にも可哀らしく、美しく造られてあるやうに感じた。そしても少しで独笑ひとりわらひをするところであつた。
「一体こんな奴の事は不断はなんとも思つてやらないが、旨く歩いてくれるわい」と思つた。
「何もかも今まで思つてゐたやうに単純なものではないな。驚嘆すべき美しさを持つてゐる。不可思議である。かう遣つて臂を伸ばさうと思へば、すぐ臂が伸びるのだ。」
 かう云つて臂を前へ伸ばして見て微笑んだ。
「何がなんでも好い。恐怖、憂慮、悪意、なんでも好い。それが己の中で発動すれば好い。さうすれば己といふものの存在が認められる。己は存在する。歩く。考へる。見る。感ずる。何をといふことは敢て問はない。少くも己は死んではゐない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」
 ソロドフニコフはこの考へを結末まで考へて見ることを憚らなかつた。
 忽然何物かが前面に燃え上がつた。まばゆい程明るく照つた。輝いた。それでソロドフニコフはまたたきをした。
 朝日が昇つたのである。





底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「学生文藝 一ノ二」
   1910(明治43)年9月1日
入力:tatsuki
校正:ちはる
2002年3月5日公開
2005年11月21日修正
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