您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 森 鴎外 >> 正文

復讐(ふくしゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 10:02:30  点击:  切换到繁體中文


     三

 評議官の手紙の中で言つてゐることは吾を欺かなかつた。此手紙を読んだ日から己の心の内には新しい感じが生じた。此精神状態はこれまで夢にも見たことの無い状態である。手紙によれば己の性命を覗ふものがある。少くも心の内では、己の玉の緒を絶たうと企ててゐるものがある。これまでは己の死ぬる時刻を極めるのは自然そのものであつたが、もうこれからは自然が単独にそれを極めることは出来ない。或る一人の人が己の性命の時計のはりを前へ進めることを自分の特別な任務にしてゐるのである。その人のためには己の死が偶然の出来事では無くて、一の願はしい、殊更にち得た恩恵である。此人の手に偶然の出来事がいつ己の性命を委ねてしまふか知れない。そればかりでは無い。この目に見えぬ脅迫を避けようとか、この作用を防遏ばうあつしようとか云ふ手段は、毫も己の手中には無い。己の只生きてゐると云ふ丈の事実が、己を迫害の目的物にするのである。
 まあ、なんと云ふ事態の変りやうであらう。己はこれまではば総ての人の同意を得て生きてゐた。己の周囲には己を援助して生をいささかせしめてくれようと云ふ合意が成立してゐた。己を取り巻いてゐる総ての人が此問題のために力を借してくれてゐた。生活と云ふものの驚歎に値する資料を己に供給しようとして、知るも知らぬも、直接又間接に、幾たりの人かが働いてゐた。己の食ふパンを焼うとして小麦粉をねてゐたパン屋も、己の着る衣類を縫つてゐた為立物師も、己にそのパンを食はせよう、その衣類を着せようと云ふより外には、何等の欲望をも目的をも有してゐなかつた。己のために穀物が収穫せられ、己のために葡萄が醸造場の桶に投ぜられた。その外人一人を生きてゐさせるために働いてゐる工匠の数を誰が数へ挙げることが出来よう。人間と云ふものは幾多の労作の形づくつてゐる圏線けんせんの中心点に立つてゐる。併しそれは皆人生の必要品ばかりを言つたのである。若し更に進んで贅沢物に移つて見たら、どうだらう。理髪師と踊の師匠は、丁度外の工匠が己のために必要品を供給してくれるやうに、己に粧飾や消遣せうけんを寄与してゐるではないか。謂はば己は一切の人間の共同して造り上げてゐた製作物であつたのだ。又不幸にして己が或る災難に出合つたとすると、すぐに医者や薬剤師が現れて来て、創や病気の経過を整へてくれ、悪い転帰てんきを取らせぬやうに防ぎ止めてくれた。全体人体の構造を窮め知つて、自然の次第に破壊して行く力を遮り留めるやうにするのは、決して容易な業では無いのだ。
 つゞめて言へば、人間が孤立してゐて、只自己のためにばかり警戒し憂慮してゐたら、必然陥いる筈になつてゐる危険と疲労とを、或る程度まで周囲のあらゆる人間が抑留してくれて、己はその恩沢を蒙つて生きてゐたのだ。世間は己の需要を予測して、潤沢に己に※(「厭/食」、第4水準2-92-73)しよくえんさせてくれた。世間は己の活動して行くに都合の好い丈の意欲を己に起させてくれた。然るに今や忽然こつぜんとして或る未知の女が現れて来て、この一切の好意に反抗しようとする。そいつはたゞに周囲の援助を妨礙ばうがいしようとするばかりでは無い。却つて反対の方向に働かうとする。そいつは公々然として己の敵だと名告なのる。そいつは個個の善意の団体を離れて、独立して働く。そいつの意志の要求する所のものは何か。答へて曰く。己の死である。なぜ己の死を欲するか。答へて曰く。己に侮辱せられた報酬である。併しその侮辱は己が故意に加へたのでは無い。第三者の盲目なる器械となつて、期せずして加へたに過ぎない。それに或る未知の女は己の死を欲する。想ふにそいつは必ず目的を達することだらう。事によつたら明日己を殺すかも知れない。己がその女の名も知らず顔も知らぬのだから、女は目的を達する上に一層の便宜を得てゐるのである。
 以上の事柄を総括して見るに、己に不安を感ぜしむるには十分の功力がある。最初此自覚が己に憂慮を感ぜしめたことを、己は告白しないわけには行かない。併しそれは暫時にして経過してしまつた。そして程なく己は一種の満足を感じた。バルヂピエロ翁は真に吾を欺かない。己の頭の上に漂つてゐる此脅迫は、己を煩はす程に切迫してゐるものでは無いらしい。只己の未来を不確実にするので、己はそれを望んで、一層力を放つて現在の受用を完全にすることを努めなくてはならぬのである。
 その頃から女の顔と云ふものが、己のためには特別の意味のあるものになつた。それは彼未知の女を捜索するからである。己の現にゐる所に其女が来てゐさうには無い。併し此事件の全体には随分偶然が勢力を逞しうしてゐるのだから、それが愈々活動し続けて、深く己の運命に立ち入り、遂には覿面に其女と己とを相対せしめることになるまいものでも無いのである。
 かう云ふ己の感じは、程なく己の許に届いたバルヂピエロの訃音によつて一層強められた。老人は死に臨んで己にその別荘とそこに蓄へてある一切の物品とを遺贈した。併し己はあの美しい荘園を受け取りに往くことを急がなかつた。なぜと云ふに、丁度その時己は或る地位の高い夫人に対して恋をしてゐて、それに身を委ねて飽くことを知らなかつたからである。夫人の恋愛は己に総ての事を忘れさせた。バルヂピエロが遺贈の事も、久しく故郷を離れてゐると云ふ事も、警戒を与へられてゐる脅迫の事も忘れさせた。現在の恋愛に胸を※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐるやうな鋭さがあり、身を殺すやうな劇烈な作用があつて見れば、何も未知の女の己の上に加へようとする匕首ひしゆや毒薬を顧みるには及ばない。
 この不幸な恋をのがれようとして、己は一時旅などをしたこともある。そのうち一年ばかり立つた。或る時己は忽然本国が見たくなつた。中にも見たかつたのはヱネチアである。丁度その時己はアムステルダムにゐた。あそこは幾多の運河が市を貫いて流てゐる所丈恋しいヱネチアに似てゐるが、土地の美しさも天の色も遙かに劣つてゐる。己は博奕の卓に向つて坐して、勝つたり負けたりしてゐるうちに、ふいと卓に覆つてある緑の羅紗の上に散らばつた貨幣の中に、金のチエツキノが一つ交つてゐるのを見附けた。己はそれを拾ひ上げて手まさぐつた。貨幣はヱネチア共和政府の鋳造したもので、羽の生えた獅子の図がある。その時己の目の前にはからずもヱネチアが浮かんだ。幾条かの運河が縦横に流れ、美しい天が晴れ渡つてゐる。そこには宮殿があり、鐘楼がある。そこにはアルドラミン家の館の淡紅色の大理石の花形がある。そして、ロレンツオよ、君の住んでゐる館の赤み掛かつた壁と水につかつた三段の石級せききふとがある。己は忽然として又リワ・スキアヲニに立つてゐる。遊歴を思ひ立つた其日のやうに、立つてゐる己の傍にはバルビさんが立つてゐる。ラグナの澄み切つた空気を穿つて、大きい白い鴎が飛んでゐる。バルビさんは鳩に穀物を投げて遣つてゐる。鳩は皆餌に飽いて、むく/\と太つてゐる。己はその鳩の一羽を手の平に載せてゐるやうな気がした。その鳩は白くて温かで、のどの下に丁度匕首で刺されたやうな、血痕のやうな、赤い斑を持つてゐる。
 二三週の後には己はもうイタリアへ帰る途中にゐた。此旅行にはなんの故障もなかつた。己はバルヂピエロの譲つてくれた別荘に泊つた。丁度その日は天気が好くて、庭には花の香が満ちてゐた。己は黒ん坊に案内させて、別荘の間毎まごとの戸を開けさせて見た。併し己を不思議な目に合せて、続いて老人が手紙で注意してくれたやうな運命に陥いれた、例の部屋は見附からなかつた。どの部屋へも窓から日が一ぱいにさし込んでゐる。どの部屋も秩序と平和との姿を見せてゐる。己は記憶のある鏡の広間に食事を出させて食べた。その時己は考へた。この一切の事件はこと/″\く己の妄想の産み出した架空の話ではあるまいか。あの日に飲んだジエンツアノの葡萄酒に酔つて見た夢ではあるまいかと考へた。バルヂピエロのをぢさんのよこした手紙だつてあの日の笑談ぜうだんの続きだと思はれぬこともない。無論をぢさんは死んだには違ひない。併しあの年になれば死ぬのは当然あたりまへである。何も誰かがわざ/\手段を弄してそれを早めたと見なくてはならぬことは無い。己はこんな風に考へて疑問の解決を他日に譲ることにした。
 ヱネチアに帰つてから己の最初に尋ねたのは、ロレンツオよ、君だつた。丁度昔のやうに、己は波にゆらいでゐるゴンドラの舟を離れて、水に洗はれてつた、君が館の三段の石級を踏んだ。丁度昔のやうに、己が石級の上から君の名を呼ぶと、君はすぐに返事をした。己は白状するが、あの時己は予期しなかつた嫉妬を感じた。それは君が昔のやうに独りでゐないで、青年紳士と一しよにゐたからである。己が這入つて行くと、その紳士が立ち上がつた。紳士は可哀かはいらしくて、上品な体附きをしてゐた。己の這入つたのを見て、紳士は手に持つてゐた楽器を、気の無いやうな表情をして、無造做むざうさに卓の上に投げて、心から相許した友達同志が互に顔色を覗ひ合ふやうな様子で、君の顔を見た。己は初の間此人のゐるのをやゝ不快に感じた。それは此人が君の親友になつてゐて、己が独りで占めてゐるやうに思つた地位を奪つたらしく見えるからであつた。併し己はこの最初の感情に打勝つた。己はかう思つたのである。己は長い間留守を明けてゐた。長い間君に背いて交情をむなしうしてゐた。さうして見れば、己の不実にも放浪生活をしてゐた間、此人が君を慰めてくれたのは、感謝しなくてはならぬ事だと思つたのである。そこで己は青年紳士に好意を表した。紳士は十分に品格と礼節とを備へた態度を以て己に接した。そして君は紳士と己との二人の手を一つにして握つてくれた。
 そんなわけで、君が彼青年紳士レオネルロの友人になつたやうに、己も亦あの人の友人になつた。己は君がどうしてあの人と相識になつたかと云ふ来歴を聞いた。レオネルロはパレルモに生れたのだ。それを両親が当世風の生活に慣れさせるためにヱネチアに来させたのだと、レオネルロが自ら語つた。もう此土地に来てから一年ばかり立つてゐて、レオネルロはどうやら此土地を第二の故郷にして、パレルモの事を忘れてしまつたらしかつた。レオネルロは全くシチリア風の特徴を具へた美少年である。目は生々として表情に富んでゐる。鼻には上品な趣がある。口も人に気に入る恰好をしてゐて、髭は少しも生えてゐない。それに歩く様子がひどく好い。それから手のひどく小さいのを己は珍らしく思つた。段々心安くなつて見ると、温和と謙遜との両面から見て、あの人の性格がいかにも懐かしかつた。あの人は女好では無い。わざとらしく女に接近することを避けてゐた。宗教の信者だらうと思はれた。併し君と己とが遊ぶ時は、あの人も一しよになつては遊ばぬまでも、傍看者として附き合つて丈はくれた。
 己達は又青春の最も美しい快楽を味ひ始めた。君と己とのはもう行楽の時代が過ぎ去らうとしてゐるのに、あの人のはまだ水の出端でばなである。それにあの人が控目にしてゐるのだから、君と己とはそれを手本にして節制を加へなくてはならなかつたが、二人にはそれが出来ぬのであつた。己達は昔のやうに又島の倶楽部の卓を囲むことになり、それよりはしば/\博奕の卓を囲むことになつた。紙で拵へた仮面は己達の顔を掩つた。己達は興をほしいままにした。一体ヱネチアと云ふ土地ではさうせずにはゐられぬ事になつてゐる。君も己もヱネチアの子だから為様しやうが無い。二人の痴戯ちきを窮めるのを見て、レオネルロは微笑ほゝゑんだ。
 そのうちに千七百七十九年のカルネワレの祭日が来た。祭日は例年よりも華美で賑かであつた。遊びは厭きる程ある中に、己達は一日を己の別荘で暮らすことにした。先づそれ丈の約束をして置いて、己は先へ別荘に来て、準備をした。翌日は君とレオネルロと二三の親友とが来る筈である。その又次の日には大勢の客が案内してある。寒気が珍らしく軽いので、大勢の客の来る日には、暮れてから庭で遊びをすることにしてある。己はそれが余程立派になることを期待してゐた。
 君は約束の日に期をあやまらずに来てくれた。一しよに来たのは、兼て極めてあつた五人の友達である。君達は皆仮装をして、それを一輛の美しい馬車が満載して来た。そこで己は君達を別荘の所々しよ/\に連れて廻つて、あすの遊びの準備を見せた。あすの晩には、庭の岩窟いはむろに蝋燭を焚いて舞踏会をして、それから鏡の広間で宴会をしようと云ふので、己は君達と種々しゆ/″\の評議をして、今宵は明かりの工合を試験して置くと云ふことになつた。己はレオネルロと臂を組み合せて鏡の広間に立つてゐた。レオネルロは笑ひながら仮面を扇のやうにして顔のほてりをさましてゐた。己は中央に吊る燭台の明かりをためすために、窓を締めて窓掛を卸すことを、家隷けらい共に命じた。真つ暗でなくては、明かりの工合が分からぬからである。窓を締め窓掛を卸して、蝋燭がまだ附かぬので、広間が一刹那真の闇になつた。己達はその中に立つてゐて、己は家隷共に明かりの催促をした。「早くしないか。いつまでも暗くしてゐては困るぢやないか」と云つたのである。その時突然己は或る冷やかな尖つた物が胸を貫いて、己の性命の中心に達し、己の口一ぱいに血が漲るのを感じた。

     ――――――――――――

 蝋燭が附いてから、己達がバルタザル・アルドラミンを抱き起して見たら、その胸には一つの匕首が深く刺し貫いてあつた。その尖は心の臓を穿つたと見えて、アルドラミンは即死してゐたのである。


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告