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あやかしの鼓(あやかしのつづみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:01:26  点击:  切换到繁體中文


 それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣あとつぎにきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。
 しかし私は落胆がっかりした。――とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯下手糞へたくその御機嫌を取って暮らさなければならないのか。――と思うとソレだけでもウンザリした。――老先生の御恩に背いてはならぬぞ――と、いつも云って聞かせた父の言葉がうらめしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増いやました。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢はかない空想であった。
 私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。
 こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、
「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬ちりめんの風呂敷包みを渡された。
 鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、
「誰にも知れないようにするんだよ。うちは笄町の神道本局の筋向うだ。もみの木に囲まれた表札も何もないうちだ」と眼をしばたたかれた。
 私は鳥打に紺飛白こんがすり小倉袴こくらばかま、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯ほおばの足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。
 麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にもひのき作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子すりガラスにも何とも書いてない。このうちだと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。
 玄関の格子戸をあけると間もなく障子しょうじがスーッといて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛かみのけをテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。
「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」
 と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。
 書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書ほうしょに包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙片かみきれが置いてあった。
 私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。
 そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、
「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」
 と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。
「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」
 私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのないへやへ連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李やなぎこうりや何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこしばかりしか坐るところがない。書生さんはそこいらに散らばっている茶器を押しけて、奥から座布団を持って来て私にあてがうと、
「私は妻木つまきというものです。鶴原の甥です」
 と挨拶をした。
 さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つつまんで自分の口に入れてから私のほうにズイと押し進めた。
「いかがです」
 私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白くただれているのに気が付くと、やっとわかった。妻木君は甘い物中毒で始終こんなことをやっているのだ。そのために胃をメチャメチャに壊しているのだ。そうして、かかり合いにするつもりで私を呼び上げたものらしい。用事とはこの事かと思うと私は急にこの青年と心安くなったような気がしてすすめられるままに手を出した。
 ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又流石さすがの私も舌を捲かれた。初めに四つ五つ私を追い越して喰っているばかりでなく、私が三つ喰ううちに四つか五つの割りで頬張って飲み込むので、見る見るうちに箱の半分以上が空っぽになってしまった。
 私はとうとうかぶとを抜いで茶を一パイ飲んだ。すると妻木君はあと二つばかり口に入れてから、うしろの書物の間から古新聞を出して、その中に残ったモナカの二十ばかりをザラザラとあけてグルグルと包んで書物のうしろに深く隠した。それから杉折りを取り上げるとペキンペキンと押し割ってまきのように一束にして、戒名と一緒に奉書の紙に包んだ上から黒水引きでグルグル巻きに縛った。
「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。
「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」
 それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が小児こどものように輝やいた。そうして前よりも一層丁寧に云った。
「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」
 私は思わず吹き出すところであった。
「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」
「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」
 と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。
 その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気きちがいで死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。
 しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。
「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。このうちに又来ることがあるかないかはわからないのだから」
 と考えたが一方に何だか恐ろしく気がとがめるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。
「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」
 妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。
「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」
「……………」
 妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。
「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」
「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。
「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にしてでっち上げたろくでもない伝説なんです。根も葉もないことです」
「そうじゃないように聞いているんですが」
「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」
 私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。
「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人からだまされていらっしゃるのです。その職人はこのうちのおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」
 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカのつぶあんのくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。
 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。
 けれどもそれはほんの一寸ちょっとのことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕をんでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。
「承知しました。お眼にかけましょう」
「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居いずまいを直した。
「けれども今日は駄目ですよ」
「いつでも結構です」
「その前にお尋ねしたいことがあります」
「ハイ……何でも」
「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」
 私はこの時どんな表情かおつきをしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。
「……どうして……それを……」
 妻木君は深くうなずいた。悄然しょうぜんとしていった。
「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのおうちの若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」
 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。
「……若先生は伯母おばからあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……このうちへ来られてその鼓を打たれたんです。それからこのうちを出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」
「若先生は生きておられるのですか」
 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。
「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」
「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」
「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」
 私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。
 それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながらうやうやしく聞いた。
「それからあなたは……どうなさいましたか」
 妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。
「私はこの事をきくと腹が立ちました。たかの知れた鼓一梃が人の一生を葬るようなを立てるなんてしからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生のかたきを取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此家ここに来ました」
「……で……その鼓をお打ちになりましたか」
 と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度じれったくなって又問うた。
「その鼓はどんな恰好でしたか」
 妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。
「僕はまだその鼓を見ないのです」
「エッ……まだ」と私は呆気あっけにとられて云った。
「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」
「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。
「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」
「じゃ何故あなたに隠されるのですか」
 と私は矢継早やつぎばやに問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀だちの気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。
「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」
「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」
 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。
「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」
「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」
「いいえ絶対に……」
「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」
 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥はにかんだ表情をしたが、やがて口籠くちごもりながら弁解をするように云った。
「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬をんで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」
「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」
「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」
 と云うと妻木君は悄然しょんぼりとうなだれた。
「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車かざぐるまのように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。
 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。
 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。
「じゃ全くわからないのですね」
「わかりません。わかれば持って逃げます」
 と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。
「こっちへおいでなさい。うちの中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」
 と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされてへやを出た。

 応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキのがある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。
 それは電気と瓦斯ガスを引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚からかまどの下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯ちょうちん箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。
「女中はいないんですか」と私は問うた。
「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜やかましいので……」
「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」
「いいえ。僕です」
「ヘエ。あなたが……」
「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」
 と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。
 ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向かって一面に硝子障子ガラスしょうじがはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白いドアを開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。
 初めはあまり立派なものばかりなので何のへやだかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりするとすべり倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯じゅうたんが敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にもドアの内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中へやのものがてしもなく向うまで並び続いているように見える――西洋式の白い浴槽ゆぶね、黒い木に黄金色きんの金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子ガラス戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、へやの隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠――。
 妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。
「この室も不思議なことはないんです」
 と妻木君は私の顔を見い見い微笑してドアを閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青いドアの前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。
「この室は……」と私は立ち止まって青いドアを指した。
「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」
 と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。
「ヘエ……」
 と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部なかをのぞいた。
 青黒く地並になった漆喰しっくいの床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣の化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。
「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」
 妻木君は冷笑あざわらっているらしかったが、その時は私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染しみかと思っていたものだった。
「その室で伯父おじは死んだのです。」
 という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退けた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体からだがシャンとこわばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。
「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」
 私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った――このうちにはこれ切りしか室がないのだ――と思いながら……。

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