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あやかしの鼓(あやかしのつづみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:01:26  点击:  切换到繁體中文


「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」
「エッ……」
「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼がくらみそうになって枕の上に突伏した。
「あのね……」
 と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。
「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命いのちにかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」
「覚悟とは……」
 と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。
「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」
 と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒をぐと半分ばかり一息に呑み干した。それから真赤な唇をチョッとめて言葉をつづけた。
「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だからわたしは好きになっちゃったんです。あたしは、あたしの云う通りになる男に飽きたんです。あの鼓の音にそそられて、そんな男をオモチャにするのに飽きていたんです。私の顔ばかり見ないで気もちを見てくれる人を探していたんです。その時にあなたに会ったんです。私は前の主人の墓参りの帰りにあなたにお眼にかかったのを何かの因縁だと思うのよ。私はもうあなたの純な愛をたよりに生きるよりほかに道がなくなったのよ」
 と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ちゆがんだ丸髷を直し初めた。私は人に捕えられた蜘蛛くものように身を縮めた。
「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの革鞄カバンに入れてしまいました。みんなあなたに上げるのです。明日あした死に別れるかも知れないのを覚悟してですよ。そんなにまで私の気持ちは純になっているのですよ……只あの『あやかしの鼓』だけは置いて行きます……可哀そうな妻木敏郎のオモチャに……敏郎はあれを私と思って抱き締めながら行きたいところへ行くでしょう」
 私は両手を顔に当てた。
「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」
 私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。
「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」
 と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。
「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」
 と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった伊達巻だてまきと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。
 未亡人はほつれかかるびんの毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私はまばたき一つせずその顔を見上げた。
 未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。
「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたようにおとなしくなったんです。その上にあなたはどうです。この『あやかしの鼓』を作って私の先祖の綾姫を呪い殺した久能の子孫ではありませんか。あなたはその罪ほろぼしの意味からでも私を満足さしてくれなければならないではありませんか。この鼓を見にここへ来たのは取り返しのつかない運命の力だとお思いなさい。よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を……その運命の罰を思い知りたいですか」
 私の呼吸は次第に荒くなった。まさしく綾姫の霊に乗り移られた鶴原未亡人の姿を仰いでひたすらにあえぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら……。
「サ……しょうちしますか……しませんか」
 と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔にさっと閃くと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。
「ああ……わたくしが悪う御座いました」
 と云いながら私は又両手を顔に当てた。
 ……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。
 ガチャリと硝子ガラスの壊れる音がして不意に冷たい手が私の両手を払いけた……と思う間もなく眼を閉じた私の顔の上に烈しい接吻が乱れ落ちた。酒臭い呼吸。女の、お白粉おしろいの香、髪の香、香水の香――そのようなものが死ぬ程せつなく私に襲いかかった。
「許して……許して……下さい」
 と私は身を悶えて立ち上ろうとした。
「奥さん……奥さん奥さん」
 と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にポーッと燃え上る火影ほかげが二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。
「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。
 未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ちふさがった。
「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えてくうに身をらすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。私は廊下に突立っている妻木君の姿と、たおれている未亡人の姿を何の意味もなく見比べながら坐っていた。
 妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。
「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで此女こいつの変態性慾の犠牲になるところだった。こいつは鶴原子爵を殺し、僕を殺して、今度は君に手をかけようとしたのだ。これを見たまえ」
 と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その肋骨あばらから背中へかけて痛々しい鞭の瘢痕あとが薄赤く又薄黒く引き散らされていた。
「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって斯様こんな眼に会わされるのが気持よく感ずる迄に堕落してしまったんだ。けれども此女こいつはそれで満足出来なくなった。今度はおれを失恋させておいて、そいつを見ながら楽しむつもりでお前を引っぱり込んだ。おれが起きているのを承知で巫山戯ふざけて見せた。……けれどもおれが此女こいつを殺したのは嫉妬じゃない。もうお前がいけないと思ったからこの力が出たんだ。お前を助けるためだったんだ」
「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。
「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」
 と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。
 私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄――兄――若先生――妻木君――と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。
 その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。
「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」
 兄の眼から又新しい涙が湧いた。
「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこのうちの全財産でお前が今しがた此女こいつから貰ったものだ。あとは引き受ける。決してお前の罪にはしないから。只老先生へだけこの事を話してくれ。そうしておれたちのあとを……とむらって……」
 兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。
 そのうちに未亡人の身体からだが眼に見えてブルブルと震え始めた。
「ウ――ムムム」
 という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。
「す……み……ませ……ん」
 とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の水注みずさしの方へ力なく手を伸ばした。私は思わず手を添えて持ち上げてやったが、未亡人の白い指からその銀瓶の把手ハンドルに黒い血の影が移ったのを見ると又ハッと手を引込めた。
 未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水がほとばしり流れた。
 未亡人はガックリとなった。
「サ……ヨ……ナ……ラ……」
 と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。
 兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。

 自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。
「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。
 私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。
 東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに国府津こうづ駅で降りて何の意味もなしに駅前の待合所に這入って、飲めもしない酒をあつらえて、グイグイと飲むとすぐに床を取ってもらって寝た。
 夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、
「おれのじゃない」
 と押し問答したあげく、やっと昨夜ゆうべ鶴原家を出がけに兄が自動車の中に入れてくれたものであることを思い出して受け取った。同時にその中に紙幣が一パイ詰まっていることも思い出したが、その時はそれをどうしようという気も起らなかったようである。
 汽車が動き出してから気が付くと私のかたえに東京の夕刊が二枚落ちている。それを拾って見ているうちに「鶴原子爵未亡人」という大きな活字が眼についた。

▲きょうの午前十時に美人と淫蕩で有名な鶴原子爵未亡人ツル子(三一)が一人の青年と共に麻布あざぶ笄町こうがいちょうの自宅で焼け死んだ。その表面は心中と見えるが実は他殺である。その証拠に焼け爛れた短刀の中味は二人の枕元から発見されたにも拘わらず、そのさや口金くちがねはそこから数間を隔てた廊下の隅から探し出された。
▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前からかねに換えていたがその金は焼失していないらしい。
▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。
▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。
 そんな事を未亡人の生前の不行跡と一緒に長々と書き並べてある。それを見ているうちにあくびがいくつも出て来たので、私は窓にりかかったままウトウトと居眠りをはじめた。

 あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、
「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」
 ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく自烈度じれったかった。
 夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞いが二人連れ立って来た。その右側のの眼鼻立ちが鶴原の未亡人にソックリのように見えたので、私は思わず微笑しながら近付いて名前をきいたら右側のは「美千代」、左側のは「玉代」といった。「うちは?」ときいたら美千代が向うの角を指した。その手に名刺を渡しながら、
「どこかで僕とお話ししてくれませんか」
 というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「鶴羽つるば」といううちに案内した。そうして二人共一度出て行くと間もなく美千代一人が着物を着かえて這入って来たので私は奇蹟を見るような気持ちになった。
 その時仲居なかいは「高林先生」とか「若先生」とか云って無暗にチヤホヤした。私は気になって「本当の名前は久弥」と云ったら「それでは御苗字は」ときいたから、
「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。
 それからのち私は鶴原未亡人に似た女ばかり探した。芸妓げいしゃ。舞妓。カフェーの女給。女優なぞ……しまいには只鼻の恰好とか、眼付きとか、うしろ姿だけでも似ておればいいようになった。それから大阪に行った。
 大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。昨夜ゆうべ鶴原未亡人に丸うつしと思ったのが、あくる朝は似ても似つかぬ顔になっていたこともあった。その時私は潜々さめざめと泣き出して女に笑われた。
 酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、生憎あいにく一人もそんなのは見付からなかった。
 そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の懐中ふところが次第に乏しくなると共に私の身体からだも弱って来た。ずっと以前から犯されていた肺尖がいよいよ本物になったからである。
 久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、菜種なたね畠の上にはあとからあとから雲雀ひばりがあがった。
 その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰をおろすと不意に眼がクラクラして喀血かっけつした。その土の上にかたまった血に大空の太陽がキラキラと反射するのを見て私は額に手を当てた。そうしてすべてを考えた。
 私は東京を出てから丸三年目にやっと本性ほんしょうに帰ったのであった。懐中を調べて見ると二円七十何銭しかない。私は畠の横の草原に寝て青い大空を仰いで「チチババチバチバ」という可愛らしい雲雀の声をいつまでもいつまでも見詰めていた。

 東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。
 なつかしいひのきのカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を眉深まぶかくして往来の石に腰をかけた。その時暁星学校の生徒が二人通りかかったが、私の姿を見るとけて通りながら「若い立ちん坊だよ」とささやき合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃ちりまみれの草履ぞうりを穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。
 その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。
 私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓のもその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。
 私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。
「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」
 と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。
「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。
「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日あすの夜中過ぎ一時頃にわたしのへやにお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒ないしょだよ」
 と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。

 その夜は曇ってあたたかかった。
 植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッとしゃがんで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。
 ……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生のへやから起った。
 私はハッと息を呑んだ。
失策しまった。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」
 と思いつつ私は耳を傾けた。
 鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。
 陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓のがいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。
 みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓のになった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。
「イヤア…………ハア…………ハアッ……○○ポポ
 それは名曲『おきな』の鼓の手であった。
「とう――とうたらりたらりらア――。ところ千代ちよまでおわしませエ――。吾等も千秋せんしゅうさむらおう――。鶴と亀とのよわいにてエ――。幸い心にまかせたりイ――。とう――とうたらりたらりらア……」
 と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。
 やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。
 私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながらふすまをソロソロと開いた。
 ……………………
 私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。
 私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。
 室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。
 それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。
 あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして人気ひとけがなくなった頃起き上って鼓箱を開いて見ると、鼓の外に遺書かきおき一通と白紙に包んだ札の束が出た。その遺書には宛名も署名もしてなかったが、まがいもない老先生の手蹟でこう書いてあった。

 これは私のへそくりだからお前に上げる。この鼓を持って遠方へ行ってまめに暮してくれ。そうして見込みのある者を一人でも二人でもいいからこの世に残してくれ。あやかしの鼓にこもった霊魂たましいの迷いを晴らす道はもうわかったろうから。
 私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。

 私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる生命いのちが私にないのかと思うと私は蒲団を掴み破り、畳をかきむしり、老先生の遺書かきおきを噛みしだいてノタ打ちまわった。
 しかしまだ私のごうは尽きなかった。
 私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て伊香保いかほに来た。
 温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。
▲今から丸三年前大正十年の春鶴原未亡人の変死事件というのがあった。右に就て当局のその後の調べに依ると同未亡人を甥の妻木という青年と一緒にその旅立ちの前夜に殺害して大金を奪って去ったものは九段高林家の後嗣あとつぎで旧名音丸久弥といった屈強の青年であることがわかった。
▲然るにその後久弥はその金をつかい果たしたものか、昨夜突然高林家に忍び入って恩師をくびり殺してその臍繰りと名器の鼓を奪って逃げた。
▲彼は数日前から高林家の門前に乞食ていを装うて来て様子を伺い、恩師高林弥九郎氏が何かの必要のため貯金全部を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものらしく、三年前の事件と共に実に功妙周到且つ迅速を極めたものである。
▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。
 これを読んでしまった時、私はどう考えても免れようのない犯人であることに気が付いた。この鼓が犯人だと云っても誰が本当にしよう。世の中というものはこんな奇妙なものかと思い続けながらこの遺書を書いた。そうして今やっとここまで書き上げた。
 私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の先祖音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。
 しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。





底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店
   1998(平成10)年4月10日初版発行
初出:「新青年」博文館
   1926(大正15)年10月
※このファイルは、ディスクマガジン『電脳倶楽部』に収録されたものをもとにしています。
入力:上村光治
校正:浜野 智
1998年11月10日公開
2003年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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