俺はギューと参ってしまった。一言ない……面目ない……と思って残念ながら頭を下げた。
「ムフムフ。シッカリし給え。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上っち来い」
船長を探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出して行く青服の少年を船長は手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵紅茶の箱を、鼻の先に突付けて命令した。
「これを船長室へ持って行て蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」
「CAPTAIN」と真鍮札を打った扉を開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭がムラムラと顔を撲つ。その中に厚硝子張、樫材の固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素瓦斯筒、電気鎔接機、天秤、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日巻の時計の下の折釘に、墨西哥かケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄い銀色の拳銃が二挺、十数発の実弾を頬張ったまま並んで引っかかっているのだ。
話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者で、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多にしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西の大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数でも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員擁済会に寄附して、胃癌で死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹巻線が気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄て、作っては切り棄てる事二万哩。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上甲板に駈け上る。主檣に群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙い撃にして「アハハハハ」と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引返すという変りようだからトテモ吾々凡俗には寄付けない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲板に持って行くと、「アリガトウ」と云って、見る片端から一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後になって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗記でペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲いちまう。……そうかと思うと独逸の潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨んで「モウわかった。彼奴等の根拠地と、通信網と、速力がわかった」と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛唐の嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震駭させながら出帆する、倫敦から一気に新嘉坡まで、大手を振って帰って来る位の離れ業は平気の平左なんだから、到底吾々のアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。
そうした一種の鬼気を含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見比べると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。
毬栗の丸い恰好のいい頭が、若い比丘尼みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁と頬がホンノリして唇が苺みたいだ。睫毛の濃い、張りのある二重瞼、青々と長い三日月眉、スッキリした白い鼻筋、紅い耳朶の背後から肩へ流れるキャベツ色の襟筋が、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給仕服が身体にピッタリと吸付いているが、振袖を着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生娘に見えるだろう。なるほど毛唐が抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐れみを乞うようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。
俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背後の暗闇から襲いかかって来たように思ったもんだよ。
俺は紅茶もバナナも良い加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも「オホホホ」と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛嬌顔と向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣面と睨み合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。
ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否、恐怖が、予想外に酷いのに驚いた。船長が是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水夫連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶を釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽鑵に突込んで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣りかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の「向う疵の兼」がわざわざ鉄梯子を降りて、俺に談判を捻じ込んで来た位だ。
「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯だから一名「出歯兼」ともいう。クリクリ坊主の額が脳天から二つに割れて、又喰付き合った創痕が、眉の間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁を啣えた女の生首の刺青の上に、俺達の太股ぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台にドッカリと腰を卸して出ッ歯をグッと剥き出したもんだ。
「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長の処へ行って来たんでがしょう。親方ア」
「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」
「すみませんが船長があの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫連中の代表になって、船長の云い草を聞かしてもらいに来たんですが」
「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」
「お前さん何にも船長に云わなかったんけエ」
「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長は……」
「ヘエー。何も返事をしねえ」
「ウン。いつもああなんだからな船長は……」
「あの小僧を大事にしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」
「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」
「エムプレス・チャイナへ面当てにした事でもねえんだな」
「むろんないよ。船長はあの小僧を、皆が寄って集って怖がるのが、気に入らないらしいんだ」
「よしッ。わかったッ。そんで船長の了簡がわかったッ」
「馬鹿な。何を云うんだ。船長だって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」
「インニャ。何も船長を悪く云うんじゃねえんでがす。此船の船長と来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪に障るのはあの小僧でがす。……手前の不吉な前科も知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触るんで……遠慮しやがるのが当前だのに……ねえ……親方……」
「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰す気で乗った訳じゃなかろう」
「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」
「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」
「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵は承知しても他の奴等が承知出来ねえ。可哀相と思うんなら早くあの小僧を卸してやっておくんなさい。面を見ても胸糞が悪いから」
「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」
「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命がねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」
「よしよし。俺が引受けた」
「ヘエ。どう引受けるんで……」
「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命を俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達が勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」
「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等あ手を引きましょうが、しかし機関室の兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組の者ですからね」
「わかってるよ。それ位の事あ」
「ありがとうゴンス。出娑婆った口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」
と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命知らずの兇状持ばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室の入口一パイに立塞がって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付をしながら扉の蔭に犇いていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を開けて通してやった。平生なら甲板から塵一本、機関室へ落し込んでも、只はおかない連中であるが……。
そんな訳で、風前の燈火みたような小僧の生命を乗せたアラスカ丸が、無事に上海を出た。S・O・Sどころか時化一つ喰わずに門司を抜けて神戸に着いた。それから船長一流の冒険だが六時間の航程を節約るために、鳴戸の瀬戸の渦巻を七千噸の巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄え上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。
横浜で印度綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩香坡行の木綿類を吃水一パイに積込む。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石炭を、船が割れる程突込む訳だが、その作業は平生の通り二三日がかりで遣るのでさえ相当忙しいのに、向岸の晩香坡から突然に大至急云々の電報が来て、二十四時間以内の出帆という事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影響とかで、臨時人夫が間に合わないと来たので、機関部の石炭運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。
それも一口に地獄と云っただけじゃ局外者にはわからないだろう。普通の客船は別であるが、外国通いの気の利いた荷物船になればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空隙のあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭庫以外に殆んど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪み曲った空隙に石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世の生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後の空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽の鉄蓋まで突き抜けた鉄骨の隙間に、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気の鉄管が一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸が詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後大火傷だ。そこに濛々と渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊した二百燭光の電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠を担いで往復してから急に上甲板の冷めたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒おれるんだ。ところがブッ倒おれたと見ると直ぐに、兄イ連が舷側に引ずり出して頭から潮水のホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。
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