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押絵の奇蹟(おしえのきせき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-8 14:13:20  点击:  切换到繁體中文

看護婦さんの眠っておりますすきを見ましては、つたない女文字を走らせるので御座ございますから、さぞかしお読みづらい、おわかりにくい事ばかりと存じますが、取り急ぎますままに幾重いくえにもおゆるし下さいませ。


 あれからのち、お便り一つ致しませずに姿をかくしました失礼のほど、どんなにかおぼし召しておいでになりますでしょう。どう致しましたならばお詫びがかないましょうかと思いますと胸が一パイになりまして、悲しい情ない思いに心が弱って行くばかりで御座いました。そうしてやっとの思いで一昨晩コッソリと帰京致しますと、すぐにあれからのちの新聞を二三通り取り寄せまして、次から次へと繰り返して見たので御座いますが、私の事につきましていろいろと出ております新聞記事と申しますのが又いずれ一つとして私の心を責めさいなまぬものは御座いませんでした。
 あの、丸の内演芸館で催されました明治音楽会の春季大会の席上で、突然に私が喀血かっけつ致しまして、程近い綜合病院に入院致しますと、その夜のうちに行方ゆくえ不明になりました事にきまして、新聞社や、そのほかの皆様から寄せて頂いております御同情の勿体もったいなさ。それから又、最後までお世話になっておりました岡沢先生御夫婦の親身も及びませぬ痛々しい御心配なぞ……そうして、そのような中に、とりわけても貴方様が、あの時からのち、心ならずも貴方様から離れて行きました私の罪をおとがめになりませぬのみか、かずならぬ私の事を舞台を休んでまで御心配下さいまして、いろいろと手を尽して私の行方をお探しになっておりますうちに、思いもかけませず私と同じように喀血をなされました。そうして同じ丸の内の綜合病院に、御入院になりまして、私の名前を呼びつづけておいで遊ばすという事を「処もおなじ……」という雑報欄の記事で拝見致しました時の心苦しさ……。そうしてそれと同時にあなた様と私とが斯様かように同じ運命の手に落ちて参りまして、おなじ病気にかかって同じように血を吐く身の上になりましたことが、けっして偶然でありませぬ事を思い知りました時の空怖ろしさ……。唯さえ苦しいこの呼吸いきが絶え入るまで、ハンカチを絞って泣きましたことで御座いました。
 こんなになりました上は、何をおかくし致しましょう。
 私はずっと前、まだ貴方様に直接のお眼もじ致しませぬうちから、あなた様こそ只今の歌舞伎界で一番お若い、一番のお美しい女形おやまの名優として、外国にまでお名前の高い中村半次郎様こと、菱田新太郎様でおいで遊ばすことを、蔭ながら、よく存じておりました。
 そればかりでは御座いませぬ。
 大変に失礼な申上げようでは御座いますけれども、そのあなた様が、私と同じ年の二十三歳でおいでになりますばかりでなく、今日まで一人も婦人をお近づけになりませずに、女嫌いという評判をそのままに立て通しておいでになりましたことも、よく存じ上げておりました。
 それで、もしか致しましたならば、貴方様は御自分でも御存じのない……ただ、広い世界に私だけが、タッタ一人で存じております或る不思議な運命の糸に縛られておいでになりますので、そのために、ほかの女性をお振り向きにならないのではないかしら。……言葉をかえて申しますれば、あなた様と御一緒の運命に結びつけられる女と申しますのは、この世にたった私一人きりなのではないかしら……と、毎日毎日心の底の奥深いところで、おそれ迷いながら、今日こんにちまで生き永らえておりましたことで御座いました。
 とは申しますものの、貴方様方のような名高いお方のお眼に止まりそうにもないつたないピアノ教師の身として、このような及びもつかぬ事を考えておりますことが、もしも他人にわかりましたならば、どんなにか笑われた事で御座いましょう。
 中村半次郎様こと菱田新太郎様を存じております日本中の女子は皆、おんなじ夢を見ているのだから心配する事はない。自惚うぬぼれの強いのにも程があるといって死ぬ程ひやかされた事で御座いましょう。
 何事も御存じないあなた様としても、私が突然にこのような事をお耳に入れましたならば、さぞかしビックリ遊ばすことで御座いましょう。
「あなた様の御運命を、ずっと前から人知れず、私だけが存じ上げておりました。あなた様からの結婚の御申込みを受けますものは、私という女よりほかにおりませぬでしょうことを、くり返しくり返し想像致しまして、ふるえ、おののきつつ月日を送っておりました」
 と申し上げましたならば、そんな事があり得よう筈はないと、すぐに思し召すで御座いましょう。あとからそのような作り事をして、結婚を避けようとしているのではないかと、お疑いになるで御座いましょう。
 けれども、このような場合に作りごとを申しましてどう致しましょう。
 忘れも致しませぬ、あの丸の内演芸館内の演奏場で、私は拙ないピアノの独奏を致しておりました二日目の事で御座いました。明治音楽会の幹事をしておられます松富さんが、楽屋の入口でヒョイと私の肩をおたたきになりまして、こんな事を云われました。
ぐちさん。シッカリおやんなさいよ。名優の菱田新太郎君が昨日きのうからたった一人であの一番うしろの席に来ておられるのですよ、新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っている、貴女あなたの演奏をききに来て、あなたの番が済むとサッサと帰って行かれるのですからね。たった今新聞記者が、その事を私に知らせてくれましたから、あなたはまだ、そんな事を御存じない筈だと返事をしておきましたがね。何でも大した評判になりかけているらしいですよ。ハハハハハ」
 これをうけたまわりました時の私の驚ろきは、どんなで御座いましたでしょう。今まで想像にだけ描いておりました貴方様と私との間の夢のように不思議な運命のつながりが、思いもよりませぬ晴れやかなところで、あまりにもハッキリと現実にあらわれかかって参りました恐ろしさに、私はもう夢中になってしまいました。病気と云って演奏場から逃げ出そうかしらとも思いましたくらい息苦しくなって、胸がドキドキ致して参りました。
 けれども、それまでの私は、お写真でしかあなた様にお眼にかかった事が御座いませんでしたので、せめてと目なりとも本当のお顔をお見上げして、この世のお名残なごりに致したいというような、やる瀬のない思いに引き止められまして、ワクワク致しながら「月光の曲」を弾いていたので御座いますが、そのうちに鳥打帽と背広を召して、大きな色眼鏡をおかけになった貴方様が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁におりかかりになりました。
 そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでおでになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体からだをお寄せになって色眼鏡をはずして汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。
 そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方ひとかたならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノをよごしましたために、折角せっかくの演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳もうしわけを致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私がねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが、まあ、何という勿体ない事で御座いましょう。
 けれども、ほんとの事を申しますと、私が失神致しましたのは、そうした病気のせいではなかったので御座います。
 私はあの時に、色眼鏡をお外しになった貴方様のお顔を拝見致しますと一緒に、もすこしで、
「あっ。お母様……」
 と叫びそうになったので御座います。そんなにまで貴方様のお顔が私の亡くなったお母様に似ておいで遊ばしたからで御座います。
 もっとも、あなた様のお姿が、私のお母様にソックリでおいで遊ばすことは、予ねてから、色々な雑誌に出ております写真で、よく存じてはおりました。けれども、あのようにソッと私を御覧になりました愛情にみちみちたお眼づかいまでが、ソックリそのまま、私のお母様に生き写しでおいでになりましょうとは夢にも想像致しておりませんでしたので、失礼な言葉か存じませぬけれども、あの時貴方様は、私のお母様の生れかわりとしか思われなかったので御座います。
 私はもう、そう思いますと一緒に、私の運命が眼の前で行き詰まりかけておりますことがアリアリとわかりました。そうして、つい気が遠くなってしまいましたので、病気のせいではありませぬ事を、心から信じているので御座います。
 前にも申上げました通り、私は一生のうちに一度はキット、あなた様からの結婚のお申込みを受けますことを、ずっと前から覚悟致しておりましたので御座います。そうして、それと一緒に、その貴方様からのお申込みばかりは、たとい自分の心がどんなで御座いましょうともお受けしてはならぬ……と申しますような世にも悲しい、恐ろしい運命を持っておりますことをも、身に泌みてよく存じておりましたので御座います。

 そのわけを、只今からあなた様に、スッカリお打ち明けせねばなりませぬ私のせつなさ、情なさ、もう身を切られるようで御座います。とは申せ、世界中で唯お一人、そのわけを御理解下さる貴方様に、只一眼ひとめなりともお目もじがかないまして、このようなお手紙を差し上げられるような身の上になりました事を思いますと、このままにこの秘密を胸に秘めてあの世に旅出ちますよりも、私はどんなにか幸福で御座いましょう。
 そのわけの第一と申しますのは、現在あなた様と私とを、同じように苦しめております、この病気で御座います。わけても私の方のは私のうちの代々からお母様に伝わりましたものなので、もうとても助かる見込みはありませぬことで御座います。
 それから、その次のわけと申しますのは、申し上げたらビックリ遊ばすか存じませぬが、私の右の背中から、右の乳の下へ抜けとおっております刀の刺し傷で御座います。この傷のあとと、それにまつわっております私の生涯の秘密ばかりは、たとい生命いのちにかえましても他人様に気付かれまいと思いましたために、斯様かような病気になりましてもお医者様にも見せずに秘め隠して参ったので御座いますが、只今となりましては、もはや、あなた様にだけは、どうしてもお打ち明け申し上げなければならぬ時節が参りましたものと存じているので御座います。
 それから今一つ、あなた様にこの身をお委せ出来ませぬ一番大切な理由わけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。
 失礼とは存じますが、貴方様と私とは、この世に生れ出ました時から、赤の他人同志ではなかったように思われるので御座います。その証拠の一つとして貴方様は、前にも申し上げますように、私のお母様のミメカタチをそのままのお姿でいらっしゃるので御座いますが、一方に私の姿もまたあなた様のお若い時の御様子を、そのままに女になりました姿でおりますことを、まだ小さいうちからよく存じておりましたので御座います。
 こう申し上げましただけでも、あなた様には私の申しますことがいつわりで御座いませぬ証拠を、たやすくお気づき遊ばすで御座いましょう。そうして、すぐにも私を、血をわけた妹かと思し召して、どんなにか苦しみ遊ばすことで御座いましょう。
 けれども、どうぞ御願いで御座いますから、お心をお鎮めになって、これから私がしたためますことを、おしまいまで御覧下さいませ。
 そう遊ばしたならば、あなた様と私とは、かように両親のみめかたちを取りかえた姿になっておりますままに、もしか致しますとその間には、何の血すじのつながりもあり得ませぬことをハッキリと証拠立てられるようにもなっております事が、追々おいおいとおわかりになるで御座いましょう。そうしてこのような不思議な御縁で、あなた様と結びつけられようと致しておりますことは、世にもいまわしい悪魔の所業なのか、それとも神様の尊い思し召しなのか、よくわかりませぬままに悩み悶えております私の心持ちも、一緒におわかりになるで御座いましょう。
 私はあの演奏場で、あなた様のお顔をお見上げしますと同時に、ねてから想像致しておりました、あなた様と私との運命にまつわる、かような不思議な悩ましさが、もう眼の前に押し迫っておりますことを、マザマザと思い知りましたので御座います。

 御免遊ばせ。私はもう思いが乱れますばかりで、ただ取り止めもない事ばかり認めているようで御座います。
 とは申せ、いずれに致しましてもこのような貴方様と私とにまつわる不思議な因縁がハッキリとわかりませぬうちは、たとい貴方様と私との思いが、どのようになりましょうとも、あなた様のお手にこの身をお委せすることは出来ませぬ。それよりも私の姿が貴方様方のお眼に止まりませぬうちに、この病気で亡くなりました方が、かえって貴方様のおためと存じまして、そればかりを祈っておりましたのに、あのようなことになりまして、私は演奏場からすぐに程近い綜合病院へ運ばれましたので御座いますが、その遅くに看護婦のすきを見て貴方様が、私の病室へお忍び下さいまして、あのようなお言葉をお洩らしになりました時の私の嬉しさと悲しさ……。
「その病気はキット僕がなおして上げる。君さえ承知してくれれば君は僕の妻だ。僕は生命いのちも何もらないのだから。その証拠にサア接吻を……接吻を………」
 ああ。何という雄々おおしいお心で御座いましょう。何という御親切で御座いましょう。もし私があの時に気絶せずにおりましたならば、どのような事になっておりましたでしょうか。
 やがて、ひとりでに気がつきました時に、私の唇や頬に残っておりました貴方様のほのめきのおなつかしかったこと。悲しゅう御座いましたこと……。
 ああ。あの時に私は、どんなに泣きましたことか。何事も御存じないあなた様を、こんなにまでお苦しめ申し上げる私の罪深さ、運命の意地の悪さを、どのように怨み悶えて泣きましたことか。
 そのうちに夜が明けかかりますと、私は附添の看護婦さんの寝息を見すまして起き上りまして、高い熱のためにフラフラ致しますのを構わずに、身のまわりのものを纏めて病院を脱け出しました。それから演奏の時に着ておりましたものの上に被布ひふを羽織りましたまま汽車に乗りまして、故郷の九州福岡へ帰りました。そうして博多駅より二つ手前の筥崎はこざき駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ参詣致しまして、そこの絵馬堂えまどうに掲げてあります二枚の押絵おしえの額ぶちに「お別れ」を致しました。
 あなた様と私の運命にまつわっております不思議な秘密と申しますのは、その二枚の押絵の中に隠れているので御座います。私の背中と胸にあります突ききずと申しますのも、あなた様のお唇を安心してお受け出来ないようになりました原因と申しますのも、みんな、もとを申しますと、その二枚の押絵がした事なのでした。ですから私はその運命とお別れを致したいためにわざわざ九州まで参りましたので御座います。早かれ遅かれ助からぬ生命いのちと存じまして……。

 けれど、その二枚の押絵をあおのいて見ておりますうちに私は何かしら、或る気高けだかい力に引き立てられて行くような気持ちになりました。
 そのうちの一枚は八犬伝の一節で、犬塚信乃いぬづかしの犬飼現八いぬかいげんぱち芳流閣ほうりゅうかくの上で闘っておりますところで、今一つは阿古屋あこや琴責ことぜめの舞台面になっております。どちらも大きな硝子張りの額ぶちに入れてあります上から今一重ひとえ、頑丈な金網で包まれて、絵馬堂の西の正面に並べられているので御座いますが、それを見上げておりますうちに、これは、もしかしたら、その押絵の中にもっております、貴方様と私との運命を包む神秘の力が、今一度新しく、私の心に働らきかけているのではないかしらと思いましたくらい、私の身うちがゾクゾクと致して参りまして、何かしら不思議なお酒に酔っているような気持ちになってしまったので御座いました。
 その時ほどに運命の力というものをシミジミと嬉しく、楽しいものに感じましたことは私の一生のうちに一度も御座いませんでしたでしょう。
 この世の中に運命でないものは一つもない。ですから私はこの病気で死ぬものときまってはいないでしょう。
 もしかすると今一度、不思議と健康な身体からだになって、あなた様にお眼にかかるような事がないとも限りませぬ。
 そのような運命を知っておりますのはこの二つの押絵ばかり……その中でも、刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている阿古屋の二人だけが、何もかもチャンと知っているので、その運命に、私のかよわい力がさからおうとしても何の役に立ちましょう。
 私はこうした運命の手にいだかれて、貴方様のお傍に参りましょう。そうしてお懐かしいお胸にすがって、今までの事をスッカリお打ち明けして、心ゆくまで泣かして頂きましょう。
 それが私のホントの運命なのでしょう。
 こんなような、七八ななやつの子供が夢みますような、甘えた、安らかな気持ちになりまして、うつつともなくウトウトしながら上りの汽車に乗ったことで御座いました。

 東京へ帰りつきますと、わざと、場末の名もないような小さな宿屋に泊りました。そうして前にも申上げましたように、そこであれからのちの新聞を読んだので御座いますが、その記事の中でも、とりわけて身を責められました貴方様の御親切の程……それは私の肉体と心につき纏うております世にも恐ろしい、不思議な秘密のすべてをあらわにしてお眼にかけましても、あとへはお退きになりそうに思われませぬお心のほどと、そのために急に重くおなり遊ばした御病気の事を承知致しますと同時に、あなた様と私との運命を支配致しております、あの押絵の神秘の力を、どのように空恐ろしく思い知りましたことでしょう。どのようにその新聞紙をいだき締めて泣き濡れましたことでしょう。
 そうして幾度思い返しましても、そうした運命にこの身を委せて、あなた様にお眼にかかって、この秘密をお打ち明けするよりほかに道はない。そうしたならば、あなた様と私の病気もおのずとなおってしまうのかも知れない。イエイエ、あなた様と私とが、かように同じ病気にたおれましたのは、そうした眼に見えませぬ運命の手が、自分勝手にあなた様から離れて行こうと致しました私を、ぜひともお傍へ引きもどすための、不思議な親切からしてくれたことかも知れない……というような果敢はかない、遣る瀬のない思いに胸をときめかせながら、いく度あなた様へ差上げるお手紙を書き直しましたことか。お恥かしい心と、つたない文章が気になりまして何枚ペーパを破り棄てましたことか。
 とは申せ、そうした私の思いは、おおかた高い熱に浮かされておりました私の、まぼろしでしか御座いませんでしたでしょう。私は間もなく現実に目ざめなければなりませんでした。
 そのようにして、いく度もいく度も貴方様に差し上げる手紙を書き直しておりますうちに、私はもう、もどかしくてもどかしくて堪えられないようになりました。すぐにも貴方様にお眼もじしなければ死んでしまいそうな思いに一パイになってしまいました。このままにお手紙を書いておりましたならば眼がくらんで、たおれるかも知れないと思うほど息苦しくなりましたので、すぐに宿の払いを済ましまして、他眼ひとめをさけて、あなた様の御見舞に伺うつもりで、すこしばかりの手荷物を纏めかけたので御座いましたが、そのうちに博多で求めました灰色のブランケットを畳んでおりますと間もなく、私は又も、二度目の喀血を致しましたので御座います。
 どうぞお許し下さいませ。
 その時に私は、毛布の上に突伏つっぷしながら、あなた様と私との運命が、みじめに打ちくだかれて行く姿をハッキリとまぼろしに見ました。青い青い、広い広い、大空か海かわかりませぬ清らかな、美しいものが、お互いに血をはきながらもシッカリと一ツにいだき合っている、あなた様と私の身体からだを吸い込もうとして、はるかの向うにピカピカと光りながら待っているのが見えました。そうしてあなた様と私とがズンズンとその方に吸い寄せられて行きますのが、何ともいえませず気持ちよく思われました。
 けれども、そのまぼろしが消えますと、私は一生懸命の思いで、やっと気を取り直しました。そうして息も絶え絶えの思いを致しながら、血のあとを包み消しまして人力車に乗って、この北里先生の療養院に参りましたが、もう私の生命いのちはないものと存じまして、無理をしてはならぬという係りのお医者様のお言葉をお受けはしながら、この紙と鉛筆をソット寝床の下へ忍ばせまして、看護婦さんのすきを見てはお手紙を書いているので御座います。
 この手紙をおしまいまで、お読みになりますれば貴方様は、すぐにあるタッタ一つの事を、お思い出しになるに違いないと思います。それはあなた様にとりまして何でもないほどに、よくおわかりになっていることかと思いますが、それをお思い出しになりさえすれば、すべての秘密を何の苦もなく解いておしまいになることと信じております。
 いずれに致しましても、あなた様と私との間にまつわっております不思議な運命の謎を解いて頂けますお方は、この広い世の中に、あなた様お一人しかおいでにならないので御座います。私は唯、そのたった一つの事を、あなた様にお尋ね致したくてたまらぬ思いに責められながら、そうした勇気を出し得ませぬままに、今日まで生き永らえておったようなもので御座います。
 とは思いながら、何から先に申し上げてよいやらわかりませぬ。この悩ましさをどう致しましょう。あせってもあせっても進みませぬこの筆のもどかしさをどう致しましょう。
 ああ。私は、あなた様の、あの熱い涙のお言葉と、お口づけを一生の思い出としてあの世に旅立ってはわるいので御座いましょうか。

 私はこの頃毎晩のようにあの押絵の夢ばかり見るので御座います。あの芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上にまたがって、銀色の刀を振り上げております犬塚信乃の凜々りりしい姿や、いかめしい畠山重忠の前で琴を弾いております阿古屋あこやの、色のさめたしおらしい姿を、繰返し繰返し夢に見るので御座います。それにつれて私のお父様の顔や、お母様の顔や、または生れてから十二年の間に住まっておりました故郷の家の有様なぞが、幻燈まぼろしのように美しく、千切ちぎれ千切れに見えて参ります。そうして眼が醒めますと、ちょうどその頃の子供心に立ち帰りましたような、甘いような、なつかしいような涙が、いつまでもいつまでも流れまして致しようがないので御座います。
 それは熱のためばかりではないように存じます。おおかた私の生命いのちが、もう残りすくなになっているせいで御座いましょう……とそう思いますと貴方様のお顔が一入ひとしおおなつかしく、又は悲しく思い出されまして胸が一パイになるので御座います。

 私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川なかがわの口の三角洲の上にありました。
 その三角洲は東中洲ひがしなかすと申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋がかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋みずぐるまばしの袂の飢人地蔵うえにんじぞう様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。そのうちは只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもおでになればすぐにわかります。
 もっとも今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸ぎわと、南の端の川が二つに別れている近くに一並びずつしか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種なたねの花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。
 私の家は黒田藩のお馬廻うままわり五百石の家柄で、お父様は御養子でしたが、昔気質かたぎの頑固一徹とよく物の本やお話にあります。あの通りのお方で、近まわりの若い人たちに漢学を教えておいでになりました。それに生れつきお酒がお嫌いで、大の甘党でおいでになりましたので、私が十歳にもなりました時は、よほど胃のお工合がわるく、保養のためといってよく畑いじりをしておいでになりましたが、そのせいかお顔の色が大変黒くて、眉毛の太い、お眼の切れ目の深い、お口の大きい、武士らしい怖い顔のお方で御座いました。
 それに引きかえて私のお母様は世にも美しい、そうして不思議なお方でした。
 私のお母様は、只、生きるためにしか、お食事をなされぬように見えました。よくまああれでお身体からだつものと、子供心にも思わせられました位小食でした。又お母様は、
「あの一軒屋に居りながら、いつの間に見て御座るのか」
 と知り合いの人が感心しておりましたくらい髪なぞもチャンと流行風はやりふうって、白いものなぞをチョッとかけておられましたが、それが又、飾り気がないままにたとえようもなく美しく見えました。そのお母様を育てました乳母で、オセキという元気な婆さんは、そのころ大きな段々重ねの桐の箱を背負うて、田舎まわりの小間物屋をしておりましたが、お母様はその婆さんから折々油や元結もとゆいなぞをお買いになるほかは何一つ贅沢なものを手にお取りになるでもなく、かえってそのオセキ婆さんの方が、お母様のお作りになった絞りの横掛けや、金襴きんらんのお守り袋なぞを頂いて田舎で売ってもうけていたとの事でした。夏なぞは御自分でお染めになった紺絞りの単衣ひとえを着ておられるのが、ツキヌクほど白いお顔の色や、襟足や、お身体の色とうつり合ってホントにお上品に見えました。ある時私に、おまんじゅうを焼いて上げようと仰言おっしゃって、手拭をチョット姉さん冠りにして火鉢の前にお坐りになった、そのお姿のよかったこと、今に眼についております。
「あなたのお母様は絵のようだと申し上げたいが、絵よりもズウットズウットお美しい」
 とある人は申しました。
「女でさえ惚れ惚れする」
 と云って昆布売りの女が見かえり見かえり出て行ったこともあります。嘘か本当か存じませぬが、その頃の福岡の流行はやり歌に、
「みなさんみなさん、福岡博多で、釣り合いとれぬが何じゃいナ。トコトンヤレトンヤレナ。あれはぐち旦那と奥さん。中洲に(泣かずに)仲よく、暮すが不思議じゃないかいな。トコトンヤレトンヤレナア」
 というのがあったと誰からか聞いておぼえておりますが、教えた人は忘れてしまいました。
 けれどもお母様のホントの不思議と申しますのは、そんな事ではありませんでした。
「あなたのお母様は、私と同じ指を持っておいでになるのに、どうしてあのように不思議なお仕事が、お出来になるのでしょう」
 というのは、うちに来られる人のみんなが皆言う事でした。私のお母様は、そんなにまで人が不思議がる程、指先のお仕事がお上手なのでした。
 私が八歳の冬まで生きておいでになりましたお祖母ばあ様や、オセキ婆さんや、人様のお話によりますと、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それからのち、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父じい様やお祖母様がビックリなすったそうです。
 お母様はそれから十一になられますと、博多の小山おやまという所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織はたおりいなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜やかまのお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人おとなのそれよりも綺麗でシッカリしていたという事で御座います。

 私のお父様が月川家から御養子にお出でになりましたのは、お母様の十五の年で、お父様のお年はたしか二十四歳でした。
 それから、これはお母様の事ですが、お母様が御婚礼をなすったあくる年の十六のお正月に、お仕事のお師匠様の処へ御年始にお出でになりました節、御親戚の事とてお師匠様はお雑煮ぞうにを出すからと用意をされました。その時にある人が板のような厚い博多織の男帯を持って来まして、これは今上方かみがたから博多に来ている力士の帯で、わざわざ博多へ注文して織らせて上方で仕立てさしたものだけれど、何だか結び目が工合が悪くて気に入らないから、又仕立て直さしたけれども矢張りいけない。博多織を扱いつけておられるこっちのお師匠さんよりほかに仕立て直して頂く処がなくなりましたから持って来ましたと申しました。するとお師匠さんのお婆さんが、それはよいところへ見えました。今ちょうど何でもお出来になる福岡一の美しい奥さんが見えているから、といってお母様に押しつけて仕舞われました。
 お母様は怖い、意地の悪いお師匠様のお言葉を背きもならず、その上に私のお父様が何でも負ける事がお嫌いなのを、よく御存じでしたので、もし、お断りしてお雑煮も頂かずに逃げて帰ったことが、あとでわかっては大変とお思いになりまして、泣く泣くお引き受けになりましたが、何度も仕立て直したものなので、その縫いにくい苦しさと切なさ。涙が出たとのお話で御座いました。けれども、ともかくも、お雑煮が出来るまでに仕上げて、早速持たせてお遣りになりましたところが、大変にそれが気に入りましたらしく、すぐに沢山の仕立て代を持たせてよこしたのをお母様はキッパリとお断りになりましたそうです。そうしたらその角力すもう取りは、そのあくる日に沢山の縮緬ちりめんとか緞子どんすとかを台に載せて、自分で抱えて人力車に乗ってお母様の処へお礼に来ましたので、そんな訳を御存じないお父様は大層お驚きになりました。そうして御自分で玄関へ出て来て、
「うちの家内はお前達のような者に近づきは持たぬ」
 と仰言ったのを、あとから出てお出でになったお母様がお引き止めになったので、やっと品物をお受け取りになりましたが、角力取りはお玄関で追い返されてしまいました。
「あれはお前を見に来たのに違いない。これから角力取のものなぞ縫うことはならんぞ」
 と、お父様はあとで大層お母様をお叱りになったそうです。

 それから今一つ、お母様が十八の年の二月に博多一番と云われております大金持ちの柴忠しばちゅう(本当は柴田忠兵衛)さんという人が自身でお父様に会いに来られまして、こんな事を云い出されました。
「今日お伺い致しましたのは、私のうちの娘の初の節句に是非ともこちら様の奥様の押絵を飾らして頂きたいと存じまして、その事をお願いに参りましたので御座います。それにつきましては、もう四五日しますと東京の千両役者で中村半太夫はんだゆう(あなた様のお父様で御座います。失礼な言葉づかいを何卒なにとぞおゆるし下さいませ)というのが博多に参りまして瓢楽座ひょうがくざで十日間芝居を致します。そのお目見得めみえ芝居の芸題は阿古屋の琴責めで、半太夫が阿古屋をつとめる事になっておりますから、その舞台を御覧になって、その通りの場面を五人組みに作って頂けますまいか。そのためには正面の一番よい桟敷さじきを初日から千秋楽まで買い切っておきますが、どうぞ充分に御覧下さいませ。下地の錦絵はここに持って参りました。この三枚続きですが芝居を御覧になりました上でどんなにお作りかえになりましても構いませぬ。又衣裳が御覧になりたければ楽屋へお出でになって手に取って御覧になっても構いませぬ。私が御案内を致します。まことに不躾ぶしつけでは御座いますが費用も手数も一切いといませぬから、どうぞ奥様の一世一代のおつもりでのちの世に伝えるものを頂戴致しまして、私の娘にあやからせて頂きとう御座いますが、如何で御座いましょうか」
 と、まごころめてのお頼みでした。
 しかし、厳格なお父様はなかなかお許しになりませんでしたそうです。阿古屋の琴責めという芝居は、どんな筋のものかとお尋ねになったり、楽屋は男でも這入って行けるものか、なぞといろいろお尋ねになりましたので、柴忠さんが説明をされまして、芝居というものは辻学問といって仁義道徳のおしえを籠めたものとか、役者は河原者というけれど東京の俳優はそうばかりではなく、よい役者になると礼儀の正しい立派な人間ばかりで、角力取りや何かとは格式の違うものとか、いろいろに言葉を尽しましたので、やっと、
「それでは見に行こう」
 と仰言ったそうです。
 それからお芝居が始まりますと、小間物売りのオセキ婆さんを呼んで留守番をさせて、お祖母様とお父様と、お母様と三人お揃いで三日の間瓢楽座へお出でになりましたが、その最初の日には中村半太夫という方が羽織袴を召して、お父様たちの御見物の席に見えて御挨拶をされました。そうして、
「私の舞台姿が福岡で名高い奥様のお手にかかるとは一生のほまれで御座います。何とぞよろしく……」
 と仰言って、お祖母様にはお茶器を、お父様にはお煙草盆を、又、お母様には紙入れを、それぞれお土産に下すったそうですが、それにはいずれも私のうち定紋じょうもんの輪ちがいの模様が金と銀とで入っておりましたので、お父様はビックリなすったそうです。そうして半太夫という方の御人品ごじんぴんに大そう感心をされまして「武士ならば千石取りじゃ」と人にお話しになりましたそうです。
 けれども、それから四五日目になりますとお父様は、
「俺はもう頭が痛くなりそうじゃ。お母様も最早もはやきになったそうじゃから、俺はお母様と二人で留守番をする。許すからお前はオセキ婆と二人で見て来い。柴忠の折角の頼みじゃから」
 と仰言ったそうで、それでもお母様はお遠慮をなすったのを、お迎えに来た柴忠さんから無理にすすめられて、あと三日ほど御覧になったそうです。そうして五日目を御覧になった時にザッと下絵をいて、六日目に今一度芝居を見て細かい処をお直しになってから、お仕事にかかられましたが、それから一週間目にはもう阿古屋の琴責めの五人組の人形が立派に出来上りましたそうです。その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本に黒繻子くろじゅすをほごして植えてあるばかりでなく、眼のたまにはお母様の工夫でにかわを塗って光るようにし、緋縮緬ひぢりめんの着物に、白と絞りの牡丹を少しばかり浮かし、その上に飛ぶ金銀の蝶々を花簪かんざしに使う針金で浮かしてヒラヒラと動くようにして帯の唐草模様を絵刳えくみにした、錦絵とも舞台面ともまるで違った眼もまばゆい美しさの中に、阿古屋の似顔が、さながら生き生きとさしうつむいているのでした。それを、瓢楽座で日延べの二の替りを打っておいでになりました貴方のお父様が御覧になりました時、
「これは驚いた。自分が一番苦心をしている、昔の遊女の身体からだのこなしを、どうしてこんなに細かく見て取られたものであろう。この遊女の姿態こなしばかりは現在居る一番の錦絵描きでも描けないので、私のうちの芸の中でも一番むずかしい秘密の伝授になっているものを……あの奥さんは不思議な人だ」
 と云って舌を捲かれたという事で、今でも博多の人の噂に残っているそうで御座います。
 その阿古屋の琴責めの五人組の人形が、柴忠さんのうちの小さな本檜ほんひのき舞台に飾られました時の見物といったら、それは大変だったそうで御座います。申すまでもなくその時はお父様も、お母様も柴忠さんの処へおよばれになって、大層な御馳走が出ましたそうですが、その押絵を見るために態々わざわざ遠方から見えた御親戚や、お知り合いのお節句客の応対だけでも柴忠さんは眼がまわるほど、お忙がしかったそうで御座います。そうしてそんなお客が、お節句を過ぎてまでも、なかなか絶えそうに見えませんでしたので、しまいには柴忠さんも笑いながら、こんな事を云い出されたそうです。
「これはたまらぬ、いくら娘の祝いだというても、こんなに京大阪の旅人たびにんまで聞き伝えて見に来るようでは、今に身代限りになりそうだ。こんなに高価たかく付いた押絵があるものじゃない。何にしてもこれは井ノ口の奥さんが一世一代の精魂を打ち込まれた物だから、いっその事、娘の名前で氏神様に上げてしまった方がよかろう」
 という事になりました。それでその押絵を立派なビイドロ張りの額縁がくぶちに納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。その額ぶちの中にはやはり本檜の指物細工さしものざいくで舞台が浮き出させてありまして、建具までも本物の通り手数をかけた雛形が使ってありましたので、その重かった事、四人とか五人とかで小半日かかって、やっと釣り上げる事が出来たそうで御座います。
 そのようなことで、お母様の評判が前にも倍して高くなりまして、それにつれて頼んで来るお仕事が又、前の倍ももっと上も来るようになりました事も申すまでもありませぬ。けれども、お母様はそれから間もなく、その年の暮近くに私をお生みになる事がおわかりになりましたために、八月からのちに来た注文はピタピタと断っておしまいになったそうです。

 私が生れます前後のお祖母様や御両親たちのお騒ぎになりようというものは、はたから見ていると、とても可笑おかしくてたまらぬ位だったそうで御座います。
「美人は子を生まず」とか「気嵩きかさの女には子種がすくない」とかよく云うようで御座いますが、私のお母様は両方を兼ねておいでになりましたので、お祖母様もこの事ばかりを御心配なすってよくそんな愚痴を仰言ったそうです。もっともお父様はそんな事に就いては黙っておいでになりましたそうですが「三年子なければ去る」というならわしが福岡にもありましたのに、かんじんのお母様がお家付きで、お父様の方が御養子でおいでになるので、お祖母様は、どうなさる事も出来なかったのでしょう。
 それでもお祖母様は、どんなにか初孫ういまごの顔を御覧になりたくておいでになったでしょう。
 お祖母様は、ですから時々御自分から進んでお母様をお連れになっては、お地蔵様だの、観音様だの、御神木なぞを拝みにお出でになったり、御符ごふ御神水ごしんすいなぞを取り寄せて、お母様にお戴かせになったり、色々とお苦心をなすったそうです。「お前、きょうは観音様の日だよ」とか「明日あしたはお地蔵様の何々だよ」とか仰言っては、月に二三度ずつお母様をお出しになったそうですが、その時はお母様もどんなにお仕事がお忙がしくとも「ハイ」と云ってお出かけになりましたそうです。お父様も朝晩神様や仏様に手をお合わせになるほかに、お祖母様がおすすめになる御符や神水なぞも、すなおにおいただきになりましたそうで、決して迷信なぞとは仰言らなかったそうです。

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