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街頭から見た新東京の裏面(がいとうからみたしんとうきょうのりめん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-9 8:42:36  点击:  切换到繁體中文


 しかし見たまえ!
 日本民族が滅亡する時、最後まで踏み止まって闘うものは江戸ッ子じゃないよ。無論、主義者でもなければ、憲法学者でもない。二重橋前の玉石砂利にオデコを埋めて涙を流す赤ゲット連だよ。彼等の無知の底には、切っても切れぬ民族的自覚が流れているのだ。
 彼等は先祖代々、本能的に天朝様を拝み、太陽に手を合わせ、親孝行を知り、老人を尊敬し、子供を愛し、土をなつかしみ、倹約をして天然に安んずるのだ。しかも彼等は自分でもそれを知らない。その自然さと底強さが日本の文化を今日まで背負って来たのだ。この民族の文化的使命を人類世界に発揮する根本動力が彼等赤毛布ゲットの群なのだ……。
 ほかの連中はイザとなると逃げ失せる亡国の民だよ。わけても江戸ッ子はそうなのだ。彼等みたいな田舎者を軽蔑するものが殖えればふえるほど、日本は滅亡に近づくのだ。それを救うためには、おれの所謂いわゆる労農尊重主義が必要になって来るのだ……。
 労農とかソビエットとかいうと当局はビクビクしているが、実はこんな土百姓や労働者を最も尊重した政治をすることだと思う。田舎を嫌って、東京の新知識にカブレて、ルパシカを着て、カフェーで威張っている連中のアタマは、いつの時代にもある文化カブレのなまけ者だよ。本当の労農尊重主義から見れば、実に唾棄すべきプロ型のブル思想なのだよ……。
 江戸ッ子は特に文化カブレの小ブルなのだ。田舎者は『江戸ッ子』を崇拝すべからず。東京は大和民族の大きな事務所、又は勉強所に過ぎないので、そのほかのものはみんな昔からある頽廃気分の変形したものなのだ。江戸ッ子や社会主義者はその中毒者だと云いたい。もとをいえば、そんな気分を作ったブルがわるいのだが、それかといって、そのブルが作った毒瓦斯ガスに当てられた連中を尊敬するわけに行かないだろう……。
 レーニンは赤旗を尊重した。これに対して日本人は赤ゲットを尊敬してもらいたい。青白い江戸ッ子を尊敬してもらいたくない。そうして日本のブル思想と偽もののプロ思想を全滅さして、すべてを赤ゲット化してもらいたい。
 ……おれは江戸ッ子に生れた御蔭で、これだけのことがわかった。実は江戸ッ子の生れ損ないかも知れぬが……」
 と彼は淋しく笑った。記者もうなずいて一所いっしょに笑った。
 彼も記者と同じようにペンをかついだ職人で、都会カブレをしなければ飯の喰えない人種である……赤ゲットを尊敬は出来るが、自身赤ゲットになることは容易な事業でない……寧ろ自分の生活の無意義を呪うあまり、こんな議論に落ちて来た事を互によく自覚していたからである。
 彼はこの新しい日本赤化主義について、まだいろんな事を云った。レーニンの執権政治だの、トルストイのブル思想だのと、記者が耳には初耳のことばかりであったが、要するに江戸ッ子の罵倒論でここには略する。唯、記者の「江戸ッ子衰亡」の観察が、田舎者たる記者の頭から出たものでなく、彼等江戸ッ子からヒントを得たものであることを証明するために、この一節を書き加えたのである。

     最高級の文明人

 ところでそれはいいとして、今度の上京のついでに、そんな「江戸ッ子衰亡論者」たちがどうしているか、震災後の所感でも聴いてやろうと思って心当りを探して見ると驚いた。山の手の潰れないところに居た連中まで、どこへ行ったか一人も居ない。無論、その後、手紙を出したが、彼等は申し合せたように返事をれなかったので、手紙が帰って来ないのだけは生きているとしても、そのほかのは生死の見当さえ付かない。綺麗サッパリと消え失せていた。
 記者は呆れ返った。そうして苦笑した。彼等は矢っ張り江戸ッ子たるを免れなかったか。彼等が罵っていた消極的な個人主義をまぬがれることが出来なかったかと思って……。
 ところがその後、二科会へ行って絵を見ていたら、うしろからソッと肩に手を置いた奴がいる。ふりかえって見たら、美術学校を出た芝居の背景師の下廻りで、有力なる江戸ッ子衰亡論者の一人であった。彼はニヤリと笑って平気な顔で、
「いつ出て来たんだ」
 と云った。記者は開いた口が塞がらなかった。
 それからいろいろ聞いて見ると、みんな無事で、家賃の安い郊外へ引越しているという。久し振り話そうじゃないかと、手紙を出して場所と時日を約束して待っていると、平気な閑寂な顔が昔の通りに寄って来た。地震なんぞはとっくの昔に忘れたという風である。ただし、手紙は見たと云うから、何故返事を呉れなかったのかと聞いて見ると、
「田舎者はオセッカイだなあ」
 とあべこべに笑われた。彼等が江戸ッ子の中の高踏派だとはこの時初めて知った。文明人種の中でも最高級に属するデカダン趣味を、記者はこの時初めて理解し得たのであった。
 こんなのは例外として、今度は往来を歩いている普通の知識階級の江戸ッ子を見まわしてみよう。そうして、彼等が本当に滅亡すべき人種かどうか研究してみよう。
 智識階級の江戸ッ子といっても、一概には云えない。中には変りものや、凝り性、気まぐれもの、又は一種のダダイズムとも見るべき変通人なぞが居るから、往来を歩いてもちょっと見わけにくい。支那や朝鮮の留学生を見わけるのよりも無論骨が折れる。
 殊に震災後は服装がまちまちになったので一層わかりにくくなったが、しかしすこし気を付けるとじきに眼につくようになった。江戸ッ子は飽くまでも江戸ッ子である。
 東京に初めて出て来て往来をあるく人を見て、真先に眼に付くのは田舎者とハイカラ、貧乏者と金持ちの対照である。
 これに反して、江戸ッ子は最も眼に付きにくい部類に属するのであるが、しかし彼等の大部分は気取り屋だから、自ら平凡な市民と区別が付く。しかもその気取りかたは、そこいらの気どり方とはまるでちがう。江戸ッ子特有の気取りかたで、これを解剖的に見てゆくと、現在の江戸ッ子のねうちが自然とわかることになる。
 第一は服装である。
 古いありふれたところでは、足袋たび下駄げたが新しいとか、襟垢えりあかがついてないとかいうのであるが、前にも云ったようにこの頃の服装はいろいろになって来たから、それ位のことでは標準にならない。要するにちょっと眼に立たないで、よく見ると垢抜けがしている……というのが最も平たい言葉であろう。
 パッとした、気取った風采をしているのは、江戸ッ子ではない。
 最新流行仕立おろしのパリパリを着ているのも、どちらかといえば江戸ッ子でないのが多い。
 こう云って来ると馬鹿に六ヶむずかしいが、とにかくどんな姿をしていても、アクドイ嫌味なところがなく、女の髪の結い振り、化粧ぶり、襟や着物の取り合わせ、男なら帽子とオーバー、持っている風呂敷の柄やネクタイなぞ、色や柄がちっとも眼に立たずにチャンと気取っていて、しかもどことなく気位を持っている。すべての点に於て、田舎者や無教育なもの、又は無趣味なものと思われまい、そこいらの野暮天と一所に見られまいという注意が、極めてこまかく払ってある。

     亡国的の消極主義

 次は彼等の態度である。
 東京のことなら俺に聞けというような態度をしているものは、彼等の仲間には決して居ない。
 男と女とあまいふう付きで並んで行くもの、電車の中でツンとしているもの、大声でシャベルもの、矢鱈に他人に親切なもの、ドッシリと落ち付いているもの――こんなのは江戸ッ子の智識階級には少い。
 如何にも街なれた歩きかたでありながら、つつましやかで、人の眼に付かないようにスラスラと影のようにあるく。口を利いても極めて低声で、要点だけ云ったあとは、又さり気なく澄ましている。電車の中でも空いた席を見まわすようなことはないが、見付けるのは極めて素早い……といって、慌ててそこへ尻を持って行くのではない。あたりに気を配って、紳士淑女として恥かしくない場合にソッと座る……といったようなのがそうである。
 こうした彼等のふう付きや態度を一貫しているものを一言にして尽せば、消極的文化式個人主義(少々ややこしいが)である。彼等は先祖代々の都会生活と、自分自身の教育の御蔭でここまで自己を洗練したのである。彼等は極めて消極的な態度で自分の気位を守ると同時に、無言の裡に他のハイカラやばんカラ、又は半可通連を冷笑しているのである。
 彼等は買物をするにも、ほかの非江戸ッ子のようにキョロキョロ往来を見まわしたり何かしない。きまりきった店のほかは滅多に行かないので、彼等がデパートメントストアを田舎者の店と云うのはこの理由である。書物のようなものでも、古本をあさるほかは、知った店に行ってさっさと買って、そこいらの雑誌を二三冊見まわした位ですぐに引き上げて来る。縁日なぞにもよく行くが、只行き抜けて引きかえして来る位のことで、あちこちのぞいて見るようなことは先ずない。寧ろそんな連中を見遣りながら、冷やかに笑って帰る位のところである。
 喰い物でもそうで、彼等が這入はいっている処は、どちらかと云えば顔の通った、価格の知れた、比較的上等の処が多い。彼等は月に一度か二度こんな処へまわって、友人と一杯傾けたりするほか、無駄な銭を使わないが常である。これは記者がそんな通人の行く処へ行って、妙に叮嚀ていねいな冷たい待遇をされた経験から知ることが出来た。
 このような実例を見ると、彼等が如何に消極的の面倒臭がりであるか。同時にその消極的のプライドがいかに高いか。プロ型のブル気分、平民式の貴族気質の持ち主であることもよく察しられるのである。
 こうした彼等の持前は、彼等の家を訪問して見ると一層よくわかる。
 彼等の家は台所の隅までチンマリと小奇麗である。彼等の応対振りもそうで、御馳走ぶりもこの範囲を免れない。一しきりはお世辞を云うがじきに黙ってしまう。よほど気を詰めて、当り当りだけ挨拶をしてサラリと引き上げなければ、こちらはともかくも、彼等の神経がお客に対してそう長く持ちこたえられないらしい。
 そんなら彼等は忙しいかというとそうではない。お客を追っ払った後は、水入らずでボンヤリしている。極く懇意な友達と寝ころんで話す。寄席に行く。講談や夕刊を読む。世間話をする。茶を飲んで寝るといったような風で、その趣味までも極めて消極的な文化式である。
 彼等はだから現代の文化に何者をも与えない。彼等は只批評をするばかりで、共鳴も反対もしない。只冷やかに笑って見ていたいのである。新聞の三面記事を見ても、つまりは「馬鹿だなあ」とか、「つまらねえ」とか云って、自分のプライドを満足させるだけであとは忘れてしまう。
 こうした消極的な文明的な「個人主義」が、江戸ッ子の智識階級をすっかり冷固ひえかたまらしているから、東京の市政が如何に腐敗していても、彼等には何等の刺戟を与えない。彼等の前にそうした記事を満載した新聞をさしつけても、彼等は只一渡り見まわして気の利いた批評をする位のことで、あとは顧みない。あくる日は、又何か別の面白い記事はないかと探している。
 だから選挙なぞは、彼等にとってうるさいものでこそあれ、責任感はすこしも受けない。天下の事に憤慨するよりも、一鉢の朝顔に水を遣る真実味を愛するといった風で、驢背ろはいの安きにかずという亡国の賢人に似たところがある。

     熊公八公の消息

 江戸ッ子の智識階級は亡びてはいない。しかしただ一人一人に生きているというだけで、世間とか、他人とかいうものとは深く関係する事を好まない。
 彼等の性格は、墓石のように、向う三軒両隣がお互に無関係でいたいのだ。彼等の魂は、燐火のように、お互に触れ合わずに、只自分自身だけ照して行きたいのだ。
 こうして彼等は彼等自身を葬ってしまっている。極端にデリケートな自覚のために、無自覚と同じ姿になってしまっている。それを最も利口な文明的生活だと思っている。彼等の霊魂は、こうして青白く、つめたく、浅い光りを放ちつつ、東京市中をさまようているのである。そうして田舎者をおびえさしているのである。
 流石の大地震も大火事も、彼等の自覚的無自覚を呼びさます事が出来なかったらしい。彼等は永久に彼等の墓原……都大路をさまようのであろう。
 しかし彼等智識階級ばかりが江戸ッ子ではない。まだほかにいろんなのが控えている。
 まっ先に飛出して来るのは熊公八公の一派で、記者が最も敬愛する連中である。記者みたいな田舎者を見ると、
「てめえ達あ、しるめえが……」
 と来るから無性に嬉しくなる。
 屋台店なぞをのぞくと、
「おめい、どこだい。フン九州か……感心に喰い方を知っているな。どうだい、ひとツ、コハダの上等の処を握ってやろうか。何も話の種だ。喰ってきねえ、ハハハ」
 という大道ばたの親切が身に沁みて忘れられぬ。
 智識階級の連中はどうでもいいとしても、そんな連中は震災後どうしたか。いくらか昔のおもかげを回復したか知らんと、見に行って見た。
 智識階級は主として山の手や郊外に居るが、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽こびき町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見ると、どうしたことか彼等の巣窟らしい気分がちっともない。
 ひる間ならオッカーのスタイルや、井戸端ではない共用栓の会議ぶり、朝夕なら道六神や兄いの出這入り姿、子供の遊びぶりを見ると、すぐに江戸ッ子町なると感づかれるのである。さもなくとも理髪店のビラの種類、八百屋や駄菓子屋の店の品物、子供相手の飴細工あめざいく※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工しんこざいくの注文振りを見ても、ここいらに江戸ッ子が居るなと思わせられるものである。それが震災後のバラック町になってから、そんな気はいがちっとも見当らなくなった。
 神田の青物市場付近なぞは随分神経をとんがらして見たが、成る程、江戸ッ子らしい兄いや親方が大分居るには居るけれども、よく見ると、彼等のプライドたる鉢巻きのしぶりや売り買いの言葉なぞに、昔のような剃刀かみそりで切ったような気が見えぬ。その他、朝湯に行くらしい男のスタイルを見ると、頭の恰好、着物の着こなし、言葉付き、黒もじのくわえぶりに到るまで、非常に平凡化しているのは事実である。
 記者は少々落胆の気味で、今度築地に出来た魚市場に行って見ると、居た居た、ひげを皮の下まですり込んで、肉に喰い込むような腹かけ股引きに、洗い立ての白鉄火を着た兄い連が、新しい手拭てぬぐいを今にも落ちそうに頭のテッペンに捲き付けて、駈けまわっていた。
「アラヨーッ」
 トットットットッと曳き出す掛け声をきいて、記者は久し振りで溜飲が下がったような気がした。

     しみったれた兄哥あにい

 魚市場のすぐうしろにある、無線電信のポールを秋空高く仰いだ向う岸の築地三丁目以南、起生橋を中心としてベタ一面に並んだ店は、いかさま彼ら兄い連の御蔭で繁昌しているものと見えた。
 つい一年前までは、この辺は墓原や成金壁なぞで埋められていて、夏なぞはせんだんの樹の蝉時雨せみしぐれの風情があるという、かなり淋しいところであった。それが魚市場が出来て、純粋の江戸ッ子が集まって来るにつれて、急にこんなに賑やかになったのだから、ここの店をのぞいて見たら、彼等の趣味や嗜好が手っ取り早くわかるかも知れぬと考えた。
 然るに情ない事に、記者は正しく熊襲くまその末裔と見えて、江戸ッ子のふう付きは一眼でわかるが、彼等の喰い物に対する趣味がどれ位高いかは、まだ充分に味わい出したことがない。喰うのは一渡りつうなものを大抵喰って見たが、物の本や通の話にあるような風味はなかなかわからぬ。只そうかなと思うばかりである。もっともそんな喰い物の材料の上等なこと。店がキタナイようで、実に非常に気が利いていること。その中に一種の江戸趣味といったような気分が流れていることなぞはどうやらわかる。それから、眼の玉の飛び出る程高価なことが、最もよくわかったくらいのことである。
 これ位の程度の江戸通をたよりに、記者はその辺の往来をノソノソあるいて見た。
 寿司を握っている手付きや、海苔のりをあぶるにおい、七厘しちりんの炭のよしあし、火加減、又はまぐろの切り加減なぞをよっく見た。
 天プラ屋の煮え立つ油のにおいを嗅いだり、ころもの色をながめたりした。
 煮売屋に据えてある酒樽の商標や、下げてあるビラの種類を見た。洋紅ようこうで真赤に染めてあるウデだこの顔をながめた。
 どれを見ても江戸ッ子のにおいが薄いようであった。上等とは思えなかった。醤油もいいにおいや味がしなかったようである。
 塩せんべいは大枚十銭がものを買ってじって見たが、焼き加減にムラのあるのがよくわかった。
 ソバ屋へ這入って見たが、ツユの味なぞは福岡あたりのよりおいしいと思った。薬味のネギの中に古葉と新葉とあるのが、百姓だけにすぐ気が付いた。モリやカケはあまり売れず、弁当代りと見えておかめなんぞよく売れると聴いた。天麩羅てんぷらもよく喰われるそうであるが、そんな意味なり随分あじけない話だと思った。
 それから大奮発をして、この辺で一番上等だという小さなうなぎ屋に這入って、どんぶりを喰いながら店の若い衆に聴いて見たら、大串、中串、小串のどれでも、別に八釜やかましい注文はあまりない。「アライところで一本」なぞいう御定連ごじょうれんは無いと云った方が早いくらい。しかもうなぎは千葉から来るのだと、団扇うちわ片手の若い衆が妙な顔をして答えた。
本牧ほんもくから洲崎あたりのピンピンしたのは来ないのかい」と通らしい顔をして聴いたら、若い衆は「エエ」とニヤニヤ笑いながら返事をしなかった。念のため、「お客はみんな河岸のだろうね」と聴いたら、「ええ、だけどこの節は駄目ですよ。不景気でね。おまけに震災後手が足りないってんで、方々から来た人間を使っているんでね」と苦笑していた。記者は折角喰った丼が胸につかえるような気がするのを、流石にこれだけは昔のままの、濃い熱い「お煮花にえばな」で流し込んでここを出た。
 江戸ッ子の喰い物は田舎者の口や眼にもわかる位安っぽくなっている――「熊公八公の滅亡」という感じが直覚的に頭に浮かんだのはこの時であった。

     どこからか拳骨が

 しかし……と記者は又考え直した。
 こんな上っ面の見方ばかりでは駄目である。「わかりもしない癖に」と笑われそうな気がする。そこで今度は本願寺の横を河岸へかけて、この辺一帯に並んでいる小間物屋、仕立て屋、そのほかいろんな店を一々のぞいて見た。
 今度はよくわかった。喰い物の方は別としても、雑貨や何かの方は手に取って見ればわかる。否、手に取って見なくても、一わたりズラリと見ただけで、安っぽい店かどうかすぐにわかる。
 ……記者は江戸ッ子の衰亡をのあたり見せ付けられたような気がした。彼等はこんな見かけだおしの安物で満足しているのかと思うと、つくづく情けなくなった。十円の雪駄せったを素足で踏み、帷子かたびらに背当て尻当てをするのを恥辱とした、彼等の気前はどこにあるであろう。魚河岸ではしゃいでいる連中は、みんな見かけだけの江戸ッ子で、中味は「ヒマシ」になってしまったのか。そういえば、彼等のかけ声には昔のような中ッ腹式の威勢がなく、彼等の眼の光りも昔のようにキラリと光らないように見える。しかも何がしのパリパリでさえこうだから、他は推して知るべしだと思った。
 しかし……と又もや記者は考え直した。記者の観察にはまだ不充分なところが沢山にある。
 第一、記者がお見舞いした前記の喰い物店は、上等のところのつもりで、実はなっていない処ばかりだったかも知れぬ。又、魚河岸付近の店は、本物の江戸ッ子相手ではなく、江戸ッ子の中に立ち交った新分子ばかりを相手にしているのかも知れぬ。
 さもなくとも、記者が江戸ッ子を主眼として見てまわったのは、僅かの時日である。勿論、始終気をつけるにはつけていたが、本気に見てまわったのは二日か三日で、かなりの大急行である。震災後の江戸ッ子の真面目な活躍ぶり、もしくは生活ぶりを見聞できる時間をはずしてばかりあるいたかも知れぬ。
 これで江戸ッ子の滅亡をたしかめようというのはちっと気が早過ぎる。うっかりするとどこからか拳固が飛んで来るかも知れぬ。
 まだある。
 記者が見てまわったのは、震災前江戸ッ子の住んでいたところばかり。そのほかのところは調べてない。つまり今まで目標として研究したのは純プロ階級の江戸ッ子……熊公、与太郎、ガラッパチの旧跡で、ブル階級のそれではない。
 ブル階級の江戸ッ子……すなわち御隠居や若旦那の一人二人、とびかしら位はいつでも飼っておくからという連中は、もうとっくの昔に東京目抜の通りに帰って来て、古いのれんの蔭から盛に芽を吹いている。そうしたおおどこの旦那衆や親方たちの御蔭で東京に帰って来て、新しい、又は昔の商売をやっている江戸ッ子は随分居る筈である。
 まだある。
 昨年の震火災のあと、プロ階級の江戸ッ子はチリヂリバラバラになった。故郷の親戚に便たよって逃げて行ったのもあれば、市から建てたバラックに逃げ込んだのもある。又は郊外に避難小舎を建てて、そのまま居据いすわったのもあるであろう。そんなのが、どれ位東京に引っ返して来て、どんな風に散らばって、どんな生活をしているかはまだ調べられていない。しかもその数はちっとやそっとではあるまいと思われる。
 それから今一つ、立ちん坊級の江戸ッ子というのがある。
 これは、プロに今一つ輪をかけたプロで、或る意味から云えば江戸ッ子以上の江戸ッ子とも云える。
 彼等のむれは諸国から集まった労働者、又は江戸ッ子の成り下がりなぞから成り立っていて、金が無いのは勿論の事、知恵も才覚も気力も無い。うっかりすると名前までも忘れてしまって、只生れ故郷の国の名を呼ばれているといったような、理想的のプロが多い。
 もっとも、その収入はどうかすると日に二三円にもなるのがあるが、それは大抵飲んだり喰ったりして、上機嫌で寝るという風である。
 但し彼等の言葉だけはたしかに江戸弁で、しかもそれが又恐ろしく早い。俗に江戸ッ子の早口と云うが、立ちん坊の江戸弁と来ると、早口は通り越してアクセントばかりである。言葉の頭と尻、又は途中だけをツンケンと並べるのだから、余程慣れないとわからない。といって、正真正銘の江戸弁には相違ないから、彼等も江戸ッ子に相違ない。
 彼等は江戸ッ子のブル階級と同様に、震火災の打撃を徹底的に感じないだけの資格を持っているのだから、焼け死んでいない限り、東京に帰って来ているに違いない。そんなのは今どこに居るか。

     納豆の買いぶり

 こう考えて来ると、江戸ッ子の現状調査は非常な大事業になって来る。自転車に乗って、江戸八百八街を残りなく駈めぐるだけでも大変である。
 市政調査の結果はまだわからないし、わかっても、特に江戸ッ子だけ調べてはないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。それよりも、人間のあたまに直接感じた事実の方が、よっぽどたしかであることは云うまでもない。
 何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛ゆくえを探る方法はないかと考えた末、納豆売りの巣窟を探しまわって売り子の話を聴いて見た。
 江戸ッ子の住家であるかないかは、ナットーの買いぶりや、喰いぶりを見るが一番よくわかるということをかねてから聴いていたが、彼等売り子の話を聞くと、成る程とうなずかせられる。
 時間で云えば朝五時から八時まで、夕方は六時から九時頃まで納豆を喰う人種のうちに、江戸ッ子が含まれていることは云うまでもない。それから、買う時につとをのぞいて、一目でよしあしを見わけるのは大抵江戸ッ子である。
「オウ、納豆屋ア」
 という短い調子や、
「ちょいと納豆屋さん」
 という鼻がかったアクセントを聞くと、いよいよ間違いはない。おかみが買い渋るのを、怒鳴り付けて買わせるのも大抵は江戸ッ子である。それから、買うとすぐに器用な手付きで苞から皿へ出して、カラシをまぜて、熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上にしわを寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭うふう付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ。
「駄目じゃねえか、こんな納豆を持って来やがって。仕方がねえ、一つおいてきネエ。明日あしたっから、もっといいのを持って来ねえと、承知しねえぞ」
 など云うのも江戸ッ子に限っている。
 こうして調べて見ると、江戸ッ子の居るところはあらかたわかる。
 先ず下町は山の手よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町のほかに、大森から蒲田かまたへかけてはかなり居るらしく、小梅あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住せんじゅ、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子としては少ししなが落ちる。北の方から深川方面のは寧ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民ではないが、イナセな気分がすくない。尚、山の手で純江戸ッ子らしい気前を見せるのは青山方面だけで、そのほかのは矢張り貧民に近いか、又は多少シミッタレているとのことである。
 しかし、何といっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる階級を網羅しているので、こちらには立ちん坊、そっちにはくるま屋、隣りには呉服屋の旦那、向家むかいには請負師といった風である。非道ひどいのになると、新橋の芸者を落籍ひかして納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている後家さんも御座るといった調子で、これが大多数の熊公八公や諸国人種と入れまじって、天晴れ乞食長屋を作り、お上の立ち退き命令を鼻であしらっているわけである。
 ちょっと見ると、どれがどうやらわからぬし、納豆を売って見ても、その買いぶりに各所共通の避難民式というのが出来ていてわかりにくいが、流石に育ちは争われぬもので、よく気をつけて見ると、どことなく買いぶりが違う上に、言葉が第一争われぬそうである。
 記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行っただけに、バラックに居る江戸ッ子が想像以上に多いように思えた。

     かおが焼け失せた

 以上述べたところで、震災一年後の江戸ッ子の消息はあらかたわかった。勿論極めてあらかたではあるが、彼等の東京市に対する価値や権威を考えて見るには、これで充分である。
 江戸ッ子衰亡の事実をたしかめるには沢山である。
 震災後、東京では救護事業が一渡り落ち付いて来ると、間もなく労働紹介や身上相談と共に、市内各地に巡回の調停裁判所を設けて、借家人と家主や地主の喧嘩をさばいてまわった。
 家主や地主は、これを機会に焼けあとに新しい家を建てて、高い家賃を貪ろうとする。そこへまえ居た店子が帰って来て、バラックを建てようとする。権利だ義務だと押合っている奴を、当局では片ッ端から裁判して、出来る限りブル階級の家主、地主をたたきつけ、プロ階級の店子や借地人の肩を持って、一日も早く昔の住民を落ち付かせて、家を建てさせ商売を始めさせようとした。これは明らかに当局の民衆化で、賞讃に価する所置であったが、一方に於いてこの方法が極端な江戸ッ子保護となったことは云うまでもない。
 然るに事実はどうかというと、この江戸ッ子保護の御蔭をこうむったものは、或る一部のプロ階級の江戸ッ子で、大多数のプロ階級……即ち生っ粋の江戸ッ子はもとの処に帰っていない。東京郊外の空地の多いところのバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分は、市内各所のバラックに納まっていることがわかる。
 このほか東京近所の各府県、又は遠国に逃げ去ったままのものもあろうが、要するに彼等にはもとの処に帰って来る力の無いものが多いらしい。
 これは彼等が宵越しの銭を使うものを軽蔑したむくいもあろうが、一方には昨年の変災で受けた精神的打撃もあるに違いない。これを要するに、彼等の無気力さ加減はこの一事を見ても充分である。
 一方に、彼等が馬鹿にし切っていた田舎っペイは、この一年の間に潮の如く東京市を眼がけて押寄せて来た。実に素晴らしい勢であった。
 彼等は生え抜きの江戸ッ子のように贅沢でなかった。その趣味は浅草程度で充分であった。彼等は古い江戸ッ子がバラック趣味を軽蔑し、オツな喰い物、意気な音締ねじめ、粋な風俗の絶滅を悲しんで、イヤになって引っ込んでいる間に、ドンドン彼等の趣味を東京市中に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加アメリカ風――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して、ドンドン東京の繁栄を作るべく働き始めた。
 彼等の耳には、江戸ッ子ということが、最早もはや古い時代の人間としか響かなくなっている。江戸趣味というものは、骨董的の価値しかないもののように考えられている。彼等はもうすっかり江戸ッ子を葬り去っているかのように見える。
 これに対して江戸ッ子は何等の反抗を企てようとしない。否、反抗力も何もなくなって、ただ納豆売りの声や、支那ソバのチャルメラの声に昔の夢を思い出して満足しているように見える。
 しかしこれには又無理からぬわけがある。
 彼等江戸ッ子が如何に痩せ我慢で高く止まっていても、の昨年の大変災に出会っては、かいもく意気地がなくなったは止むを得ないところであろう。彼等はほかの非江戸ッ子……上は成金から下は乞食まで、あらゆる種類階級の人々と共に、一様に阿鼻叫喚のちまたにさまようた。御同様に抱き合い、わめき合って、助かったり、死んだりした。
 死んだのはいいとして、助かったものはほかの非江戸ッ子以上に困ることになった。……というのは彼等の「かお」が利かなくなった事である。利くにも利かぬにも、町は茫々たる焼け野原となり、どっちを見ても見ず知らずの赤の他人となって、泣いてもわめいても追っ付かなくなったことである。

     宵越しの銭溜め

 東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人である。引っ越しソバを配るだけの義理が済めば、あとはどこの馬の骨か牛の糞かといった風である。うっかりすると、借りたおして引っ越しされるような心配があるかと思うと、隣の喧嘩を二階から見ている冷やかな面白さもある。これを極端に云うと、「人を見たら泥棒」式で、すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う迄もない。
 然るにその中でも純江戸ッ子だけは、「顔」という人類最高のパスを持っている。このパスの利くところは町内や市場、又は出入りの旦那やおやしきは勿論のこと、大きいのになると随分遠方の隅々まで利く。しかもこのパスは金ばかりでなく、いろんな意味にもパスとして使える。「何とかの何とかを知らねえか」と大きな眼をくのは、このパスを見せているので、「宵越しの金は使わぬ」という気前も、このパスがあるから安心して見せられたものである。
 こうしたパスが利くようになった原因は、彼等が「町内」という故郷を持っているからで、その又ずっと遡った由来を尋ねると、旧幕時代の自身番や家主制度を育てた習慣ではあるまいかと思われる。
 とにかく大多数の江戸人が見ず知らずの赤の他人である中に、彼等ばかりは故郷たる町内を持っていた。その町はいくつかの大集団をなして下町を蔽うていたので、すくなくとも彼等の町内には「かお」が通っていたのである。
 それから今一つ。
 彼等兄い連の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、仕入れをするのにいつも「カリ」で押し通すほかはなかった。
 もっともこの式の習慣は日本全国にあるのであるが、彼等の「カリ」はタチがタチだけによっぽどヒドかったらしく、しかもそれが又彼等のプライドと結び付いて、篦棒べらぼうに利くパスが出来上ったわけである。借用証文、小切手としては無論のこと、喧嘩でも仲裁でもこのパスで押通したもので、彼等の「刺青ほりもの」がこの「顔パス」の利き眼を一層高める意味を持っていたことは明らかである。
 もっともこのパスは彼等の器量に応じて通用の範囲も大小があるが、いずれにしてもこのパスが利く限り、彼等はどこへ行っても肩で風を切って歩けた。言葉を換えて云えば、この「かお」というパスが、彼等の精神的、又は物質的の生活の安定をドン底まで保証していた。維新後も同様にして今日に及んだので、昔ほどのことはなくとも、この習慣が残っていたには間違いない。
 そのパスがアッという間に灰になってしまった。パスが焼けたのではない。パスの利くところが無くなってしまった。タンカを切っても、眼玉を剥いても、だれも相手にしなくなった。
 こうなると彼等はスッカリ意気地がなくなってしまう。彼等は、今まで軽蔑し切っていた宵越しの銭をためる連中と一所いっしょに、往来に並んでおすくまいを貰わなければならなかった。焼けたトタンを以って乞食小屋を作らなければならなかった。そうして何でもかんでも喰うために働かなければならなかった。引き続いて地震がガラガラと来るたんびに、彼等はとりあえず宵越しの喰い物を準備しなければならなかった。
 彼等の気概やプライドは、こうしてすっかりタタキつぶされてしまった。彼等がこのパスを誇りとしていただけ、それだけ屁古垂へこたれ方もヒドかった。彼等はとうとうまずいものを喰って、安ッポい身のまわりで我慢する気になってしまった。パスの代りに宵越しの銭をためねばならなくなった。
 但、これは当分の間だけで、彼等は遠からず、昔の景気に帰るのかも知れぬ。彼等の居どころがあらかたきまって、「かお」のパスが利くようになれば、昔のようにタンカを切り、肩で風を切るようになるので、結局、江戸ッ子復興の途中にあるのかも知れぬ。
 それを記者は、江戸ッ子が衰滅して行く途中と見ているのかも知れぬ。

     亡国的避難民根性

 たとい、これを彼等「江戸ッ子」が息を吹き返しつつある一時の現象と見ても、最早もはや非常な立ちおくれになっていることはたしかである。彼等が今から如何に猛烈な馬力をかけても、この滔々とうとうとしてみなぎり渡る新しい東京人の勢力には到底かなうまい。
 過去何百年の太平に依って洗練された、極めてデリケートな彼等の趣味と生活とは、もう見る見るうちに、新しい荒っぽい新東京人の生活と趣味に圧倒されてしまいつつある。
 彼等の大好きな芝居や、浪花節なにわぶしや、寄席がだんだん這入らなくなって来る。江戸趣味の喰い物店、又は渋い趣味のものを売るいろいろの店なぞが、次第に、ケバケバしい硝子ガラス瓶を並べた酒場バーやカフェー、毒々しい彩りを並べたショーウインドに追いまくられて行く。気の利いた凝った趣のあるビラ、昔風のなつかし味のある簡素な看板なぞは、活動や、缶詰や、最新流行洋式雑貨なぞのデコデコのポスターに蔽い隠されて行く。同じ絵葉書屋の店でも、芸妓や役者の写真は何となく光らなくなって、汚い歯をむき出した活動男優や、化け物みたいな女優のソレが日に増し幅を利かして来る。
 こうした現象は、新東京の街をあるく人の眼にイヤでも這入るところで、彼等の勢力が次第に弱って行く気持ちを、云わず語らずのうちにあらわしているのではあるまいか。
 いずれにせよ彼等江戸ッ子は、こうして精神的、物質的に無力になりかけていると見ねばならぬ。殊に避難バラックの住民の多数を占めている「江戸ッ子」が最近に見せている気分は、この気味合いを最も明らかに見せているので、一言で云えば、唯呆れ返るほかはないのである。
 彼等は避難民バラックに居て、芸者を落籍ひかせて、茶の湯をやり、毎朝ヒゲを剃り、上酒を飲み、新しいにおいのするメクの股引を穿いて出かけるだけの生活の余裕を持っている。これはその筋のしらべであるが、彼等の中では百五十円以上の金を取るものがザラにあるそうである。
 ところが、一度当局の立ち退き命令にぶつかると、彼等の態度はにわかにちぢこまってしまう。
「おまえたちはみんな相当の収入があるではないか。もう立ち退けぬことはあるまい。今は不景気で家賃も高価たかくないから、そんなに困ることはあるまい。東京市民の税金で東京市民のために作った公園だから、そういつまでも、みっともない家で塞いでいるわけに行かぬ。東京の恥、日本の恥だ。無理なことをせぬように何ヶ月前からちゃんと予告してあるのだ。この際是非立ち退いてくれ」
 と、噛んで含めるように腰弁から説明を受けながら、チュウとも云い得ず首をちぢめている。そうして立ち退くかと思うと、矢っ張りグズグズして、屋根の破れにむしろをのっけたり、壁の穴に紙を貼ったりしている。
 とうとう当局で業を煮やして、強制的に立ち退かせようとすると、
「われわれはほかに行く力が無い。われわれの生活を奪うのは残酷ではありませんか」
 と社会主義の腐ったような理窟を、あわれっぽい声で並べて動かないので、始末におえない。
「それは一種の復興気分かも知れぬが、あまり情ないではないか。ほかの市民がちゃんと家賃を払って生活しているのに、お前たちだけ出来ないということはない。飽くまでもお情にすがって、只の家賃にしがみ付いて暮そうという、なまけた乞食のような心を取り去って、この際是非一つ奮発して立ち退いてくれないか」
 と市では今一度念を押したが、それでも返事をしない。

     強制的屋根メクリ

 彼等避難民は、こうして巧妙に裏からと表からと皮肉られ、はずかしめられながら、大きな声で不平も云い得ぬ。それかといって、避難バラック大会を開いて、輿論よろんに訴えるという図々しさもない。……というのは、彼等自身がお互に、恥も体裁もかまわない、市民のために大切な公園を汚すと云われても公共的精神が無いと云われても聴かぬふりをしていよう、出来るだけ無家賃の処にヘバリ付いていようという、サモシイ心根を認め合っているからで、大びらに発表するような理由は無論ない。又仮令たとえ発表しても、世間の同情がとっくの昔に彼等を離れている。彼等が、身から出たさびとはいいながら、一種の侮蔑的の眼で見られていることはよく知っているからである。
 彼等のうちの或るものは止むを得ずドウゾヤどうぞと日延べを願った。そうしてその日限りが来てもグズグズベッタリをきめ込んだ。催促されると、済みません済みませんと云っては、又日延べをする。
「そんな事じゃらちがあかぬ。お前たちがそんな腹なら、こちらも強制的態度をるぞ」
 と云われても、返事が出来ないで、
「相談をして来ましょう」
 と引き退った。
「しかし覚悟がきまらない以上、相談する事はない筈」と冷笑されながら……。
 こんな風で、彼等はほかの市民が揚々と大手をふってあるく中に、意気地もなく取り残されてちぢこまっているようになった。しまいにはそれに慣れてしまって、現在では、警察や市役所のお役人をただ無意味に恨めしいものと思うような連中が殖えたらしい。
 一方に青山あたりのバラック民は敷地が陸軍省のものなので、市役所から立ち退きの日を限られると、すぐに陸軍省へ行って、別に延期の約束をして得意になっているといったようなスバシコイのも居る。
 どちらにしても、一般市民からいくら軽蔑されても構わないという精神のあらわれで、一般の敬意や同情を受けていない事は明らかである。
 とうとう当局では堪忍袋の緒を切らして、去る十月中旬、月島のバラックであったかに吏員を派して、片っ端から屋根をメクリ始めた。そのバラックの連中は大いに驚きあわてて吏員と争ったが、吏員はドシドシ屋根めくりを強行したので、訴えるとか何とかいうことになった。このおさまりがどうなったか聞き洩らしたが、その最初にメクラれたのが、堂々たる江戸ッ子の、しかも問屋の屋根であったことは記憶している。
 記者は避難民のこの態度を憎むものではない。又当局のヤリ口を賞めるものでもない。これは震災後に於ける、一時的の気分のあらわれでなければならぬ事は無論である。しかしこのバラックの中に居る人々の中に、大和民族の代表的性格を体現した、あの「江戸ッ子」が居ようとは、どうしても信じられないことを悲しむのである。
 あれだけの侮辱を受けながら返事もし得ないで、只お金だけ溜めたい、自分の趣味だけを満足させるだけで満足して生きて行きたい、一日恥を忍べば一日だけ得だという亡国的の根性を、これ程までに罵られてだまっている意気地なさ……日本中の或る一部の人種ならいざ知らず(うっかりすると大部分かも知れぬが)、すくなくとも江戸ッ子としては忍び得ないところであろうと考えられる。
 それがそうでないのだから呆れざるを得ない。「江戸ッ子滅亡」を思わざるを得ない。そうしてこの無残な、果敢はかない江戸ッ子の現状に対して、一滴の涙なきを得ない。
 彼等の宣言は真に口先ばかりであったか。彼等は真に東京の文化を背負って立つものではなかったか。彼等のはらわたは昔から本当に無かったのか。彼等の本当の魂は、彼等が足下に踏みにじっていた田舎者のソレよりも、無自覚な、意気地ないものであったか。
 更にもし彼等が日本民族の性格を最高潮に代表していたものとすれば、そうしてもし日本民族の全都が一度ひとたび恐るべき打撃を受けたとするならば、すぐに彼等と同様の亡国的の根性になり果てて、再び立つ勇気が無くなる事を、彼等の現状が説明しているのではあるまいか。
 これはあまりに先走り過ぎた想像、もしくは神経過敏のお仲間で、江戸ッ子ばかりでなく、吾が日本民族を侮辱するものと云う人があるかも知れぬ。
 ……それは実際そうである……実に申しわけがない……相済まぬ次第である……そんな事があってはならぬ……ない方がむろんいいにきまっている……しかし江戸ッ子の現状を見ると、思わずそんな事を考えさせられるのだから仕方がない。
 江戸ッ子の出来た由来を考えて、震災後の現状に照し合わせて見ると、これが天の啓示でなくて何であろうと、思わず身の毛が竦立よだつものがあるのを、記者はどうしても否定することが出来ないのである。

     プロ文化の開山

 すこし話が学校じみておかしいが、順序だからちょっとの勘弁していただきたい。
 日本民族はちょっと見ると、純プロ式の性格を持っているように見える。うっかりすると直ぐに浴衣の尻をマクリたがる、外国に行ってもお茶漬の夢を見るところなぞは正にそうとしか見えない。
 ところがその作った文化を見ると、初めからおしまいまでブル式の文化である。
 言葉を換えて云えば、ヤマト民族はどうしてもプロ階級の文化を作る資格がない。ブル根性が死んでも抜けない人種だと云い得るようである。
 論より証拠、日本の文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華なにわなぞを都として開かれた。それは勿体もったいぶった、優にやさしいものであった。
 その貴族が太平に慣れて、増長をして、無力になると、今度は彼等が馬鹿にしていたいやしい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。その親玉となったものは源氏、北条氏であったが、これがだんだんと堕落してブル気分を含んで来た挙句、足利時代の半分貴族半分武人式の文化を作ると亡びてしまった。
 この頃から、天下を取るものは氏素姓を構わぬという思想が、いよいよ深く一般に行き渡り始めた。これが戦国の世の幻影で、見方に依ってはこの時代を政権に対するプロ思想の普及時代とも考えられるのである。
 余談はさて置いて、結局、氏素姓のちゃんとした織田信長が天下を取ったが、彼の政権に対する思想はともかくもとして、その国家的文化に対する考えはその性格から見てもブル式であった事は疑われぬ。その次に本当のプロレタリアットたる秀吉が天下を取ると、これは又特別あつらえの一代分限式ブル思想の持ち主で、見る見るうちに亡びてしまった。
 この時まで日本民族が作り得た文化は、プロ式なものは一つも無かったと云える。
 ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石おやいしにしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合いぜいで作ったものに相違なかった。
 千代田の城の千代かけて、あおぐ常盤ときわ松平まつだいら――花のお江戸か八百八町――昔にかわる武蔵野の、原には尽きぬ黄金草こがねぐさ――土一升にかね一升、金のる木の植えどころ――百万石も剣菱も、すれちがいゆく日本橋――。
 こうした太平繁華の気分は、日本諸国の集まる勢を夢のように酔わした。
 その中に行わるる激烈な生存競争は、彼等の神経を「生き馬の目を抜く」までにとんがらした。
 この競争に打ち勝って、この盛り場に生存し得るという誇りは、彼等の感情を「誰だと思う、つがもねえ」まで昂ぶらせた。
 こうして日本民族の中にりに選った勝気な、飲み込みの早い、神経過敏な連中ばかりが、この新たに出来た平民の生存競争に居残って、ますますその平民的なプライドを高め、町人的日本やまと魂を磨いて行った。
 奇麗好き、率直、無造作なぞいう性格は極度にまで洗練されて、所謂江戸ッ子の中ッ腹となって現われた。
 趣味の方も同様であった。気の利いたもの、乙なもの、眼に見えずに凝ったもの、アッサリしたものなぞいう、彼等の鋭い神経にだけ理解されるような生活品や見物みもの、ききものがもてはやされた。そうして、そんな趣味のわからぬ者を、彼等は一切馬鹿にした。
 事実彼等は一切の他国人の趣味を軽蔑した。そこには、彼等が日本中で最高の人種である「天下の町人」だというプライドが、云わず語らずのうちに流れていたのである。

     プロ文化の末路

 しかしこうした江戸草創時代の元気横溢した平民の気象――逃げ水をおいつつまきつつ家を建てた時代の芳烈な彼等の意気組は、太平が続くに連れて、次第に頽廃的傾向即ちブル気分を帯びて来た。
 彼等が「江戸ッ子」という集団を作って江戸の町々に根をおろして、最早どんな偉い人様が来ても彼等の前に頭が上らぬとなると、彼等は永久に彼等を踏み付けると同時に、自然仲間同士でもプライドの競争を始めることとなった。
 彼等はその御自慢の性格や趣味をいやが上にも向上さして、あらん限りののぼせ方をした。その結果、その云うことやすることがみんなうわずって、真実味が欠けて来た。うわべは昔以上に生気溌剌たるものがあるようで、実は付け元気や空威張りになって来た。

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