彼等の負けぬ気は口先ばかりの腸無しとなった。彼等の奇麗好きはカンシャクとなった。率直が気早となり、単純が早飲み込みとなり、無造作が無執着となった。
彼等の中ッ腹は無知、無定見の辛棒無し……つまり無鉄砲の異名となった。江戸前の気象というのは、只鼻の先の事にばかりカッと逆上せあがる、又はほんの一刹那の興味ばかりを生命よりも大切がって、あとはどうでもいいという上っ調子を云うことになって来た。
熱い湯に這入れぬと云って山の手のものを軽蔑した。洒落がわからぬと云って学者を馬鹿にした。話が早わかりせぬと云って算盤を取るものを仲間外れにした。十両の花火のパッと消えて行くのを喜び、初松魚に身代を投げ出し、明神のお祭りに借金を質に置いた。
彼等の平民的性格の中にこうしたブル気分が流れ込んだ原因の中には、天下泰平から来た武士の無力と、彼等の富の膨張も勿論加わっているのであるが、とにかくこうして彼等の気象の中には次第に亡国的気分があらわれて来たのである。
トドのつまり、彼等は六ヶしいことがわからないのを誇りとするようになった。政治向きのこと、法律のこと、経済のこと、物の道理や筋道……そんなジミな、シッカリしたようなことはかいもくわからぬ単純さを、江戸ッ子の自慢にするようになった。彼等の平民的気象は、太平が長かったためにあまりに洗練され過ぎて、サッパリを通り越してアッサリとなり、とうとう空っぽになってしまったと見られる。
その癖彼等は、器用にお金を使ったり呉れたりする人間を、すぐに親方とか兄いとかにあおいだ。
彼等はいつでも金に困り抜いていながら、金を欲しくないという顔をしている。だからその意気を賞め、その同情を得るだけの言葉……つまり、頼むとか何とか云いさえすれば、「ええ、もう金なんぞはどうでも」と云いながら金を手にするようになった。
その憐れむべき心理状態に自ら気が付かぬほど彼等は無知となった。金で使われているのを気が付かずに、向う鉢巻きの双肌脱いでかけまわるほど憐れな人種となり果てたのであった。
勿論、その間の気合いは支那人のそれとはまるで正反対であるとしても、事実に現われた結果は極端と極端の一致で同じことになる。無気力、無節操なぞいう亡国的人民の資格をすっかり備えていることになるのである。
唯その間に一片同情の涙を灌ぐ余地があるかないかの違いである。
こうしてドン底に近づいた彼等の無気力さが、維新の時、江戸城を安々と官軍に明け渡してしまったのである。勝安房は彼等の無力を理解し過ぎる程理解していたから、あんな手段を執ったのである。江戸城明け渡しは徳川国の滅亡であると同時に、江戸国民が亡国の民たる事実を裏書したのであった。
同様にこうした彼等の無知さが、東京市政を今日の如く腐敗さしたことは、最早疑う余地はないであろう。彼等はその故郷たる東京市の市政がどんなものか、その選らむべき候補者がどんなものでなければならぬか、そんなことを考え得る人民ではない証拠がとっくの昔挙がっている。
特に明治維新後の彼等は、「ギャッと生れたその時から」亡国の民であったのだ。伝統的なお祭りとベランメイ語と、有り来りの江戸趣味のために存在している、古代民族の名残りに過ぎなかった。「ドテッ腹へ風穴をあける」なぞと大きな事を云い合いながら、いつまでも何もし得ない支那人式喧嘩を見得にしている、気の毒な民族であったのだ。
彼等に選挙に対する自覚を望むのは、比丘尼に○○を出させるより無理な注文かも知れぬ。
江戸ッ子の人口減少
江戸ッ子は大和民族としての最初の民衆文化を作った。その性格は大和民族の平民気質を煎じ詰めたものであった。そうして、昔、貴族階級や武士階級の文化がそれぞれブル式に爛熟して亡びたように、彼等の文化も平民的の形をとったブル気分を帯びつつ亡びてしまった。
この事実は何を語るか。
ヤマト民族が到底ブル根性を離れ得ないことを示しているのではあるまいか。吾がヤマト民族が、初めは武人の手に依って、変形的プロ文化を作って失敗した。続いて全国民の中から選り抜いた理想的平民を以て、純真のプロ文化を作ったが、とうとう我慢し切れずにブル気分にカブレて堕落衰亡したものと云えないであろうか。
この次に又別のプロ文化を作る見込は絶えた。そうしてプロの文化を作り得ない民族は必ず堕落滅亡するものとしたら、吾大和民族の文化的使命もこれでおしまいに了ったのではあるまいか。
一方に彼等の文化は徳川の封建制度の反映を受けて堕落したとも云える。吾等大和民族は、このような政治的の反映を受けぬ、純平民的文化を作る力はもう無いのであろうか。そうして平民文化はこうした都会にしか作られないものであろうか。
とにかくにも帝都に居る古代民族……「江戸ッ子」の命脈はとうの昔に上がってしまっている。維新を一段落として、今度の大地震を打ち止めとして、消え消えとなって行きつつある。
彼等のことを思うてここに到ると、思わず身うちがふるえるような気がする。
しかし尚最後に、彼等江戸ッ子の衰亡の原因が、こうした精神的方面からばかり来たものでないことを付け加えておきたい。彼等は人数の上から見ても、早かれ遅かれ亡びて行かねばならぬと考え得べき理由がある。
江戸ッ子の人口減少……何という悲惨な言葉であろう。このような事実を調べた人が前にあるかどうか知ら。記者は只いろんな方面から見て、この悲惨な言葉が事実上にあり得ることを疑い得なくなったのであるが、実に情ない恐ろしいような気がした。殊にその減少の事実とこれを裏書する原因が、どれもこれも深刻な或る意味のことばかりで、書くに忍びないような気がした。
しかし「新東京の裏面」を語るには、どうしてもこの点を明らめねばならぬ。しかもそれは、一面、文化人種滅亡の真原因とも見られるのであるから、思い切って書くことにした。
江戸ッ子減少の第一の事実は江戸ッ子に親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、江戸ッ子が一番多いに違いないという推測は、この事実からでも推測されることである。純粋の江戸ッ子……すなわち永年東京に居るもので、地方に親類を持っているものは極少数であるとは震災前から聴いたことであった。そんなのが昨年の変災後落ちて行く処が無くて、仕方なしに取りあえず避難バラックに逃げ込んだであろうということは、誰しも容易に想像が付く。又事実、避難バラックの住民に江戸ッ子が大多数を占めていることは、前記の通りである。
江戸ッ子に親類がすくないということは彼等の人口が殖えぬということで、結局、彼等の子を産む数が些ないということになる。この事は古い統計にも載っているそうで、江戸ッ子は只新しく仲間入りをする田舎者で補充されて、やっとその命脈を保って来たらしいことが朧気ながら推測される。
さもなくとも、一般に或人種が文化の絶頂に達すると人口が減少する、殊に永年都会に居て、文化的な神経過敏な生活を続けている者は、自然と産児が減少して行くものであることは、近頃の学問でよく問題になっている。東京ばかりでない、世界各国の都市がみんな間違いなくそうなって行くのだそうである。
潔癖から産児制限
都会人は何故繁殖力が減るか!
この疑問を学者たちに説明してもらうと大変な八釜しいことになる。
第一は風俗の淫靡から来るものであるが、これは別としても都会人は減るのが当り前だそうである。
つまり、
▽土と日光と新しい空気と食物に遠ざかったもの
▽運動不足で精神過敏になったもの
は、人間でも動物でも、赤ん坊を生む数が減って行くと考えていればいいのだそうである。
或る人情哲学者はこれに付け加えて、
一法螺 二お世辞 三洒落
を喜ぶ真実味の些ない人間は、いつも魂が上付いているから充実した機能の満足を遂げ得ぬ、だから将来滅亡するようになると云ったが、少々乱暴な議論だけれども、そんなこともないとは限らぬであろう。
とにかく憐れむべき江戸ッ子はこれ等の資格をみんな備えている。彼等は江戸ッ子になった当初から、こうして呪われ続けていると云っていいのである。
しかも江戸ッ子の人口減少の原因はこればかりではないと考えられる。
或る智識階級の江戸ッ子はこんな話をした。
「江戸ッ子が減って行くってのは本当だろうよ。私の友人で子の無いものがある。妻君は江戸ッ子のチャキチャキで、健康状態にはすこしの申し分もなく、どんな医者に見せても子の出来ない筈はないと云う。自分自身も子の無いのを苦にして度々見せたが、同様の診断で、女の上を飛び越しても子が出来るかも知れぬと冷かされた。それでも子が出来ぬから、おかしいと思って気を付けて見ると、私の妻は非常な疳持ちで、尾籠な話だが、事ある毎にそこを徹底的に洗うことに気がついた。これは医者が何と云うか知らぬが、子の出来ぬ唯一の原因と私は思う――とその男が云った。つまり江戸ッ子はあんまり潔癖だから子が出来ないのだね。だから江戸ッ子には親類がすくない訳だろう」
これは余りに江戸ッ子の早合点かも知れぬ。
又或る通人はこう云った。
「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町、柳橋の芸者から松の位の太夫職、下は宿場の飯盛から湯屋女、辻君、夜鷹に到るまで、あらゆる階級の要求に応ずる設備が整っていた。そこへ以って来て、江戸ッ子は金離れがいいと来ているからたまらない。川柳に……三人で三分無くする知恵を出し……というのがあるが、その三分は三人持ち寄りの最後の財産であったろうと思われる。うちを空っぽにして遊ぶことばかり考えている……儲けた金で妻子を肥やすのをシミッタレと考えている心理状態がよくわかる。だから江戸ッ子のうちは繁昌しないのだ」
「江戸ッ子は道中をして帰って来ると、すぐに友達の処へ挨拶にまわる。その先から友達と一所に遊びに行って、道中の使い残しを空っぽにする。『久し振りうちに帰って、嬶珍らしさに出て来ない』と云われたくないために、こうした見得を張ったもので、詰るところ、こんな江戸ッ子の負け惜みが直接の産児制限となったわけだ。花柳病にかかって、間接に子種を亡ぼしたのは云う迄もないだろう」
又或る獣医はこんな話をした。
「牝馬で競馬に出る位の気の勝った馬は、いくら種をかけても決して子を生みません。原因はわかりませんが、一種の神経作用かも知れません。江戸ッ子の女は勝ち気だと云いますから、自然子を生みかねるのでしょう」
こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。勿論、いずれも一理屈あるのはあることである。
江戸を呪う隅田川
それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。
「富士と筑波の山合に、流れも清き隅田川」
と奈良丸がうたい、
「向うは下総葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
と昔円車が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気が付く人はあるまい……と云うと、何だかエライ神秘的な由来でもありそうであるが、説明は頗る簡単である。
隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、彼の広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。
隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。
水ッ子と云っても、その中には堕胎した児、生れてから殺した子、又は捨て児(これも結局は同じ事であるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたわけのものでないが、江戸ッ子の人口減少の一半を引き受けたと認められているのだから恐ろしい。
隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。
但、この水ッ子の親は決して江戸ッ子に限っていなかったことを、ここに断っておかねばならぬ。
旧藩時代の武家は皆きまり切った縁をたよって、子孫代々まで暮さなければならなかった。三百年近く太平の世が続いたために、彼等の大部分は加増を受ける機会もなく、只夢のように生れては死んだ。只恐るるのは家族の殖えることであった。その結果が産児制限となったことは云うまでもない。
その次にはブル階級の江戸ッ子の風俗の堕落である。彼等が如何に奢りを極めたか、彼等の主人が如何に甚だしい道楽を試みたか、彼等の妻子や召し使いなぞが如何に風俗を乱したかは、江戸時代に現われた小説や芝居や絵を見てもわかる。その結果が忌まわしい手術、又は恐ろしい犯罪となって、幾万の生霊を暗から暗へ葬ったことであろうか。
その次は一般市民の生活難である。
前にも述べた通り、花の都の生存競争は生き馬の眼を抜く程激烈なものであった。その間に生存して行くのはとても生やさしいことではなかった。その結果、矢張り前のような恐ろしい習慣を、平気で行って行くよりほかに道が無い事は明らかである。
なおまたこのほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執ったと伝えられているが、これが永い間の太平と共に上下一般に染み渡って、極度にまで人心を堕落さした事は実に非常なものであった。不義者に同情し、心中に共鳴し(これは大阪の方が本家かも知れぬが)、野合を讃美する芸術が流行し、上下の隔ても思案も度外視した恋愛至上主義が一般に崇拝された。
こうした「上下の隔てない」、又は「思案のほか」の花が結んだ因果の種はどうなったか。
田舎なら木の根や石の下、草原なぞの到るところに葬ることが出来るが、名にし負う土一升に金一升の都には、そんな余地は滅多にない。出入りの田舎者に頼んで情を明かしてことづけるほかは、とりあえず流れて行く水にことづけて、あとかたもなく葬ってもらうよりほかに仕方がなかったのであろう。
東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の巷の産物をも、不断に引き受けているのである。
群れ飛ぶ都鳥
隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の子として堕落させて、秘密にその子孫を呪い殺していたか。
その事実を裏書するものはまだいくらでもある。
第一は徳川幕府が幾度も幾度も出した産児制限法の禁令である。これはおしまいまで無効に了ったと認められているが、一面、このような禁令が度々出ただけ、それだけこの産児制限が烈しかったことを裏書しているのである。
事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益盛に横行したらしい。
その大部分は女医であったそうで、就中中条流という堕胎の方法が最流行したと記録に残っている。そのほかおろし婆、御祈祷師なぞは勿論の事、普通の漢方医でも内々この医術を売り物にしていたと察せられる。一説に依ると、徳川時代のすべての医術の中で最も有効に発達したものはこの方法で、この方法の下手な医者は大家に出入りする資格は無かった。否、この手術だけ心得ていれば、あとは売薬を詰めた百味箪笥と、頭の形と、お太鼓持ちだけで、立派なお医者様として生活が出来たという位だから恐ろしい。
このほか医者でも何でもなくて、のれんや看板に堕胎を業とする意味のものを染めたり、描いたりしているものがあったという。たとえば子持縞に錠を染め出すとか、温州の種なしみかんの絵とか、山吹の花を表したものなぞである。
そうした中でも、この種の商売を殆ど公然の秘密のように行っていたのは、今でもある悪姙婦預り所であった。つまり女医や産婆の宅あずかりである。殊に面白い――といってはわるいが、その預り賃が七八ヶ月間最低一両内外で、上は限りなし、大家のお嬢さんなぞで間違いの出来たのが、よく乳母の里へ預かるなぞいうことが物の本にも出ているが、実はここに来て始末したのが多かったそうである。そうしてその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所の回向院へ収めたという事が書き添えられている。
しかしこのような冷酷な商売をする人非人が、果して約束通り残らず回向院へ納めたかどうか怪しいものである。これはその親に対するせめてもの気休めで、実は手軽く水に流したと考え得る理由が充分にある。
この種の例は深く立ち入ったらどれ位あるかわからぬが、ここでは「江戸ッ子減少」の原因を明らかにするだけに止めておく。そうした都会の真ん中を流るる河は、いつもこうした呪わしい、忌まわしい使命を持っていることを説明するに止めておく。
昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦にした被服廠――。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
その岸に立つ回向院――。
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力や菊……扨は又、歌沢の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳山の雪見船、吉原通いの猪牙船……群れ飛ぶ都鳥……。
両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。
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建築交通の巻
現代式の新東京人
「江戸ッ子」はこうして亡びかけている。
山の手の智識階級も、下町のベランメイ党も、共々に昔の夢をなつかしみつつ影のように生き残っている。
そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
その新生面はどんな光彩を放っているか、どんな香霧を漂わしているか。
「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、バラック的なぞといろんな熟語が出来て、バラック気分を天下に宣伝している。現在、その中で呼吸をしている新東京の住民なぞは、もうバラックという言葉までも忘れているらしい。
然るにバラックの中に居ながら、バラックの中に居る事を忘れている時は、バラック生活が苦にならなくなっている時である。魂までバラック式になっている時でなければならぬ。
新しい東京に来る人も何より先にバラックが眼につく。すべてがバラック式……派手で便利で手軽でハイカラで……といった調子で、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった順序である。
恐ろしいもので、こうして東京人の精神的生活の裏面には、チャンと「バラック」の感じが反映している。そうしてバラック式のリズムを作って、様々の悲喜劇を漂わし、いろいろな流行を移りかわらせている。
そこに吾が大和民族の新しい文化の中心の「におい」があり、色彩がある。
生れかわった彼女……「東京」は新しい「バラック」の着物を着てシャンシャンシャンとあるいて行く。どこへ行くのかわからぬが、如何にも得意そうで又嬉しそうである……が……扨……。
高い処に上って見ると、見渡す限りバラックの海である。青、赤、茶、白、黒、黄、紫、灰色なぞの屋根が、生地のトタン屋根と一所に太陽の下に波を作って、焼け木の森に打ち寄せ、鉄橋を漂わせ、小山を這い上り、煙突を浮かせつつ、果ては銀灰色の空の下に煙のように消え込んでいる。その間に黒い枯木が散らばる、廃墟のような大建築が隠見する、煤煙が流れ、雲が渡り、鳶が舞い、飛行機が横切る。
震災後間もない去年九月十四日に撮った写真を見ると、一町内に二三軒宛位の割合で建っていたのが、今では殆ど立ち塞がっていると云ってよかろう。黴菌や虫ケラの力も恐ろしいが、人間の力もこうなるとエライものである。
「早いものですなあ」
とみんな挨拶のように云うが、実際挨拶に云っても差支えない位すさまじい早さである。
バラックの海を眺めて復興の力の偉大さに驚く人は、同時にその底を流るる活動力の清新さを感ずる人である。新しい板壁の反射や生々しいペンキの色は、そうした感じを象徴して際涯もなく波打ち続いている。
一度灰燼となった吾が大和民族の中央都市が、かような活力と元気とに依って溌溂と蘇らせられつつあるのを見ると、真に涙ぐましい程の心強さと嬉しさを感じさせられる。
併し又、バラックの眺望は一種の哀愁をも漂わしている。
昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼の青黒く影絵のように並んだ屋根瓦の一つ一つにも、徳川から明治まで何百年かの歴史の重みが結び付いていた。云い表わし難い情緒が流れていた。
それが今のバラックにはない。その色の安っぽさ、毒々しさを通じて、只生存競争、見かけばかりといったような、さもしい浅墓な気持ちしか感ぜられぬ。
しかしこれ等の感想のどれが中っているかは、まだ容易に断定出来ない。
今度は山を降って下町をあるきまわる。
鉄コンクリの悲哀
下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である。
余談に亘るが、世界中で亜米利加位オセッカイな国はあるまいと思われる。
先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいものを教えてくれた。慌て者の日本人はすっかり驚いて、日本魂までデングリ返らせた結果が、今日では処構わず爆弾を取り落すような悲しい民族的精神となり果てた。
亜米利加はそれでも飽き足らずに、今度は日本に鉄筋コンクリートというものを教えてくれた。
「地震位に恐れて、そんな燐寸箱みたいな家に縮こまってる必要はない。学理と実際の研究で生み出された鉄筋コンクリートの力は、絶対に信用してよろしい。日本中が引っくり返っても、これだけは残る」
と宣伝した。
日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。
日本の博士、技師、請負師なぞの歓迎ぶりと来たら大変なものであった。何しろ学理と数字の上の云いわけは世界に劣らぬが、実際上の損害賠償は一切しないというのが、博士や技師の道徳である。その又博士や技師に一切の責任を負わせて仕事をするのが、請負師の習慣と来ているから堪らない。金は取り放題、責任はアメリカへというので、腕に撚をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中で最新式請合付きのものが、曰く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル」……。
たった五ツと云う勿れ。これ等の一つでも大人国の重箱の何千層倍あろうか。学理と実際……鉄とセメントの化け物然として、吾が国の建築界空前の盛観を作るかのように見えた。
これを見て憤慨したのは日本の「地震鯰」であった。
「ヤンキーがヤンキーなら、ジャップもジャップだ。学問だの数学だのと、あとから出来たものにばかり驚いて、弄戯化た真似をしやがる。百年前に生れた奴は一匹も居ないと見える。憚りながら日本の地震鯰様は昔から無学文盲で押して来た人だ。文明や最新式位に驚く人じゃねえ。畜生、見やがれ……」
と云ったかどうか。
これも腕に撚をかけた向う鉢巻という奴で、そこいらを一ツゆすぶった。
東京会館は腰を抜かした。
丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。
そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。
然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。
その中でも帝国ホテルは極新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。
こんな事実を眼のあたり見て行くと、そこに何らかの暗示がありはしないか。
活動や風俗はもとより、商店の広告からカフェーの設備と、何から何まで米国式流行の日本に何等かの警告を与えている「ある意味」が潜んではいないか。
すくなくとも、一種の「恐米病」又は「酔米病」に囚われている日本には、しっかりしたものは一人も居ない。只「地震鯰」が一匹控えているだけという証拠になりはしまいか。
青空を又押上げる?
地震に居残った旧式の大建築、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。
そのうち七割は飲食店や、菓子、缶詰なぞいう食料品店。あとの三割が煙草屋、雑誌屋、玉突き、理髪、銭湯、占師、貸本屋といったようなもの。それが又大部分が中等以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端な和洋折衷の姿である。
その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼、天プラ、すし等はほかに見られぬ安価なうまいものが見られる。
たとえば洋食や支那料理で二十銭から五十銭も奮発すれば、充分に腹が張るのがある。簡易の一汁一菜が十二銭乃至十五銭、かなりの出前弁当が二十銭、アイスクリームとアズキアイスは最下五銭から十銭位のがある。
どうしてこんな店ばかり集まっているかと云うと、この辺の商売の大顧客とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに雇われた人足達と、その大建築に雲の如く出入りする腰弁達の三つである。その中でも腰弁たちは、身なりだけはなかなか立派なのが多いが、その割りに安物を漁るので、扨こそ彼等を当て込んだ「うまい」「安い」という文化的? な看板がこの辺に殖えたのである。
とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。
銀座に来ると模様がガラリと違う。
地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇き並んで、見様によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。
裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩の気分がチョイチョイ出ている。
京橋を渡りすこし宛落ちて来て、バラック気分が次第に露骨になって来る。同じ毒々しさにも重みがなくて、今にも剥げチョロけそうである。その中に性懲りもなく建てた化粧煉瓦のセメント建築や、昔の焼け残りの大建築が並んでいるといった塩梅で、この辺迄来ると青空も余程広々と輝いて、往来に近付いて見える。
震災前まで東京の空は、次から次に建った大建築のために高く高く押し上げられる一方であったが、それが又こうして急に落ちて来た。これを又押し上げるか押し上げぬかは、日本の建築界の将来に於ける興味ある研究問題ではあるまいか。
裏通りも同様にアケスケな処が殖えて来て、飾も何もないボール箱式が多く、かなりの大きな家をトタン板で貼固めた、ペスト予防よろしくといったようなのも珍らしくない。
この程度のバラックが神田あたりまで続いているが、一度万世橋と東京駅を連ねる高架線のガードを潜ると、又一段と安っぽくなって来る。
表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。
外神田の河岸近くの一帯は、あの大火に不思議に焼け残ったのであるが、その黒い土蔵や、昔風の瓦葺きの屋根、寂びた白壁などが並んだ落ち付いた町並みと、柳原あたりの(この辺は昔もあまり立派な町並みではなかったが)バラックを見比べると、坐ろに今昔の感に打たれざるを得ない。
一年後の死骸臭
上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどことなく気取って、勿体ぶっているのに反して、無暗に大きな看板や、家に不似合な強烈な電燈を並べた店が、広小路を中心に高く低く並んで安ッポイ派手な気分を見せている。これは処柄から止むを得ないであろう。尤もそのウラには、寧ろ貧民窟に近い長屋式の家が、ゴチャゴチャしている事が表通りから見える。
ここから電車通りを菊屋橋伝通院の方へ、平凡なバラック気分を通り抜けると浅草へ来る。
ここへ来ると又ガラリとバラック振りが違って、内容も外飾りも只派手一方になる。真に五色五彩、眼も眩むばかりで、何の事はない、児童の絵本の中を行くような気がする。正にバラックの「安ッポサ」と「アクドサ」を極度に発揮したものである。これも処柄とはいいながら、あまり甚だしいのでギョッとするようなのも珍らしくない。
この気分の中心は、無論、浅草の第六区であるが、ここは論外である。
尤も論外と云えば浅草全体が論外かも知れぬが、震災後はそれが一層甚だしくなった。ヘドの出そうな建築の彩り、眼の玉を引っ掴む広告、耳にたたき込む音楽、魂を奪わねば止まぬ旗や、看板なぞが、押し合いヘシ合い競争をして、気も遠くなる程バラック気分を煽り立てている。その安ッポさ……物凄さ……。
ところが吾妻橋を渡って河一すじ向うに行くと、ガラリと別世界に来たような気持ちになる。
深川のセメント、安田邸、日本ビールなぞいう大建築がチラリホラリとしているだけで、あとは二階さえない位の安バラックや、震災当時のままの掘立小屋、又はそれ以下の乞食にも劣る「屋根石――十間板」のつながりである。
しかもそれがベタ一面にあるわけではない。震災後まだ草も生え込み得ない焼け土の空地が到る処にあって、甚だしきに到っては、震災当時この辺に漲っていた死骸のにおいを残しているところもある。
このにおいは、震災直後の東京を見た人たちの鼻に死ぬまで付いているのだそうで、云うに云われぬ陰惨な気持ちを暖むるものである。
記者が今度東京に来た初めに、「鍛冶橋から日本銀行へ行く河岸をあるいて見ろ、死骸のにおいがするから」と云われて行って見たら、成る程忘れもせぬにおいがした。しかし、まさか丸一年も経った今日この頃まで、こんなにおいがする筈はないと疑っていたが、この辺へ来て見るといかにも間違いないと思った。この辺にあった死骸はみんな半焼けになっていたので、腐りかねているのかも知れないが、とにかくいい気持ちでない。その酢っぱい腥いにおいは、バラックの生々しい赤や青の屋根の間を仄かに漂うて、云うに云われぬイヤラシイ深刻な気分を作っている。小雨の降る夜中なぞはとても平気で通れまいと思われるような処もある。
序に書いておくが、この辺は震災前まで「河向う」と云われていた……今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であった。しかも一度この「河向う」へ落ちて来た江戸ッ子は、二度と再びこの河を越えて一旗揚げた例がない……「河向う」という言葉と「絶望」という言葉とは、場合によって同じような意味に使われている位であった。極端に意味を強めて云えば、「河向う」は「生きた江戸ッ子の墓場」であった。
然るに昨年の九月一日夜の大火は、そこを最も猛烈に焼き立てて、あれだけの死骸の山を築いた。その死骸の臭が今も残っているとは、何という深刻な自然の皮肉であろう。
以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれでバラック以上の鉄筋建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。
只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の不景気で増加の度をゆるめている事を付記しておく。
日本人の頭の悲哀
一口にバラックと云っても、その中にいろんな階級がある事は前に述べた通りであるが、その各階級の中にも又いろんな変化があって、なかなか面白い。一々見て行くと、何の事はない、人間の智恵や工夫の展覧会である。思い切ったものや、セツナイもの、又は御尤も至極なのや、呆れ返らせられるものなぞが、それからそれへと果てしもない。
そのどれもこれもが、申し合わせたように一致しているのは、「何でも驚かしてやろう」という気分である。
尤もこれは表通りの競争の烈しい町並に多く見受けるのであるが、裏通りでもこの気分は多少に拘らず流れている。
中にはコリント式やイオニヤ式、ドリヤ式なぞいう恐ろしく気取ったのもあるが、しかしその生地がセメント塗りで恰好だけ作ってあるので、却てつまらなく見える。
それよりもルネッサンス式の変化したもの、ゴシック式を今一層シツッコクしたものなぞが光っている。その中でも又一番活躍して眼を惹くのは、セセッション式以後の新様式を用いたものである。
未来派式、印象派式はもとより、何という式かわからぬが、往来に面した窓を様々の形にして色硝子と鏡をチャンポンにはめ込んだり、要りもしないバルコニを突出して白ペンキ塗りの格子を張りまわしたり、外側の壁をわざと板張りにして色ペンキで表現派模様を塗りコクッタリ、そのほか、飾り煉瓦や色の付いた壁土であらん限りの模様を工夫して、屋根の形や柱の恰好までも変化を与えている。
特別に変ったのでは、青黒いセメントで陰気な牢獄のような四角い家を作り、前にタッタ一ツ孤光燈を燭している(水銀燈ではなかったとも思う)のがある。
亜剌比亜式の平べったい煉瓦積み(煉瓦は板壁にペンキで描いたもの)に、カーキー色と赤のダンダラの日除けを張りまわしているのがある。
復興式に支那式の色硝子の窓をはめて済ましているかと思うと、小学校のような平凡な家に北欧式の急傾斜な屋根を乗っけている……その近所に露西亜式の旧教会のような丸屋根がある……洋館に破風作りがある……と思うと、南米やアルプスあたりの絵はがきにある丸木小屋をわざわざこしらえたのもあるといったような始末……で、一面から見れば世界各国の建築様式の掃き集めと云ってよい。
ショーウインドや内部の模様はあまり管々しくなるから略するが、要するに外観と同様変化自在で、その大部分は俗悪な壁紙、色ペンキ、又はケバケバしいカアテンや鏡の応用であることは云う迄もない。
東京人は、その家が地震で潰れて、大火で焼けてしまうと、すっかり気がかわった。今までの江戸時代の名残、又は明治時代の建築の中にジッと我慢していなければならぬ境遇から、一時に解放された。
同時に、地震と火事でみじめにたたき付けられた気持ちのする反動が、これに加わった。そこへ市区改正を予期した、一時間に合せの気分が加わった。
そうした気分の東京人は、与えられたバラック建築の自由自在な手軽い特徴を利用して、持っている限りの建築趣味を発揮した。有らん限りの智恵と工夫とを表現した。その結果がこの通りだとすると、日本人の思想もあらかたこんなものではあるまいかと考えられる。誠にハヤ恐れ入った光景である。
千変万化なバラック表現の底を流るる智恵と工夫の浅墓さ、そこに流るる一種の悲哀は、直ちに日本人のアタマの悲哀を裏書するものではあるまいか。
こうした見かけばかり恐ろしく、派手な内容の、薄ッペラなバラック町の気分に朝から晩まで涵っている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。しかし東京人の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内の交通機関、わけても電車と自動車がどんな風に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるのである。
全市が親知らず
東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この上殖やせば到る処の停留所に電車の行列が出来るばかり――否、現在でもその傾きがあって困るとの事。こうなると、あとは地下線と高架線よりほかに抜け道がないとは、一般の所謂識者の観察である。
何だか知らないが、こむことこむこと。
「須田町は花の都の親知らず」
と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争とか優勝劣敗とか、適者生存とかいう学問上の言葉を、一番手っ取り早く説明するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、車掌と運転手の居る処を交通遮断している。そうでもしなければ運転不能に陥るかも知れない。
そんならば空いた電車は一つも無いかというと、そうでもない。非常に混んでいる反対側の線は、大抵ガラ空きだから、いよいよ困る。
東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車を各二度と見たが、僅かの間に数町の間電車の行列が出来た。その行列のおしまいをのぞいて、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。
九月の二十八日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その間に電車から降りて歩き出した人で、往来は人の波を打った。電車が動き出してから、その人の波がどこまで続いているか見ていたら十二三町に及んだ。
電車を降りてあるき出す人の心理状態はいろいろであろうが、十五分位の停車で、しかも架線工事だから山は見えている。いくら降りても知れたもので、記者の見たところでは全車台の三分の一位にしか見えなかった。それで往来は博覧会の出盛りのようになるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。
或る人の話に依ると、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。
その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け……といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。
序に説明しておくが、この頃の電車には早朝の割引時間のほかに、急行時間というのが出来た。これは遠距離から往来する腰弁や労働者の便利を図るために出来たものらしく、朝は六時前後から三時間内外、午後は三時頃から四時間位、すべての電車が急行時間という札をかける。小さな停留場には一切止まらず一気に走って、重立った停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。
震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて、主人を初め雇われ人は成るべく市外から通おうとする傾向がある。
一方に、遠からず市区改正があって、どこが取り潰されるかわからぬという考えがあるために、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬とか、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は珍らしくなくなって来た。
こうして無暗にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の事である。
この頃ならば午前の六時半から九時半まで、午後は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬかも知れぬ。否、現在でもその必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩まで急行にせねば追付かぬようになりそうな傾向が見える。そうなったら、今の乗り合い自動車は勿論の事、人力車が幅を利かし始めるような奇現象を呈するかも知らぬ。否、現在でも急行時間には人力車が繁昌するそうである。
福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇に殖やして、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。
一寸坊揃の女車掌
東京は広くなるばかり。
人間は殖えるばかり。
電車はこむばかり。
この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。
前に云った電車の昇降口の生存競争、優勝劣敗から来る個人主義は車の中までも押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっている。
世間は広いもので、たまには老人や女子供に席を立ってやる人もないではないが、ごく珍らしい方で、見付けたが最後、早く腰をかけなければすぐに失敬されてしまう。同時に、初めから腰なぞをかけようとは思わない覚悟の人も多いらしくて、却って夕刊を読むために、電燈に近く陣取って動かない人なぞがチョイチョイ見うけられる。
車掌はこれと反対に、益冷静になって来たようである。これも一種の個人主義であろうが、車内が雑踏すればする程、彼等は落ち付き払って、只義理に声ばかりかけているのが多い。
「もっと前の方に行って下さいよ。降りる時にはチャンと卸して上げるから。掴まって下さい。動きますから。オヤオヤ又停電か。どうも済みませんね。尤もこの電車ばかりではありませんがネ。一つコーヒーでも準備しますかね」
といった調子で、まるでお客を馬鹿にしているが、それでもお客は笑いも怒りもしない。生活に疲れたあげく、こうした電車に押込まれて神経過敏になった人々は、イヤでも青黒く黙りこくった個人主義になって、只気もちばかりイライラするのをジッと我慢しているという姿になるのは止むを得ない事である。このような烈しい個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか……これも想像に難くないであろう。
電車の次には自動車である。
東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事は茲に詳しく報道したから、此処には省いて、只種類と感じに就いて二三説明しておきたい。
死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は自家用自動車で、震災後一番殖えたのはこの種類である。某自動車会社の専務取締の話に依ると、現在の東京人は「家よりも自動車」という傾向で、万一事ある場合はこれに乗って、という……矢張り地震と火事に脅かされた一種の個人主義のあらわれだそうな。いい自動車を一台置くのと、県知事を一人飼っておくのと同じ位の費用だというから、かなり相当の身分の人々にも、こうした貧民のソレと同様のみじめな個人主義が侵入して来たと見える。一寸面白いような、悲惨なような、又は恐ろしいような気もする話である。
次はタキシーだの何かいう貸自動車と辻待ち自動車で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが平均三四円程度であろう。三人も乗れば人力車より安いが、これにはチップを遣る場合が多いからかなり高価いものに付く上に、行きと帰りの賃金が一定しない欠点がある。それから、辻待ちは殆ど東京市の目抜の通りにしか居ないので、ちょっとオックウな場合が多い。
その次は私営の乗り合い自動車で、型のズッと大きいのが幅を利かしている。角の丸い四角型で、艸緑色に塗って、お尻の処にお化粧の広告を貼付けている。中には腰かけと釣皮があって、ギッシリ詰めたら二十人位乗れよう。賃金は一里三十銭位でもあろうか。電車を追い越し追い越し行くので、割り合い乗り手がある。
運転手は電車のような制服を着た男で、車掌は福岡あたりの女学生と寸分違わぬ姿の若い女である。どっちが真似たのか知らぬが、前にガマ口の大きな位の鞄を下げていなければ、とても区別は出来ぬ。
も一つ面白い事に、どれもこれも揃って一寸坊の姉さん位のばかりだから、どういうわけかと思ったら、これは車内の天井が低いので大きなのを採用しない結果だと、或る「通」が教えてくれた。初めは随分別嬪が居たが、切符を売る序にほかの約束まで売るので、とても長続きがしない。今残っているのは極めて現実的な売れ残りばかりだと、序にその「通」が説明してくれた。「それはちと怪しい。万更でもないのが居るぜ」と云ったら、その方が怪しいと云う。何が怪しいと云ったら、怪しいと云うから怪しいんだと……何だかわからなくなった。
半狂人を作る都会
市営の乗合自動車で、俗に「円太郎」というのがある。話の種に是非一度乗らねばと思いつつ、ついに光栄に浴し得なかったから詳しい事は知らぬが、見かけばかりでなく内容までキタナイのは事実である。ガタ馬車を自動車にしたようなもので、運転手に帽子を持たない奴などが居るところは、市営とも思えぬ位である。その代り賃金はずっと安くて、速力は私営のとあまり変らない。車台の数も多く、盛にブーブーやっている。人も相当に乗っている。客種はズッと落ちる。
あんまりこれでは不体裁な上に収支相償わぬからと、市で廃止しかけたら、運転手連がストライキ……ではない、その反対の運動をやってとうとう喰い止めた。
そこで市でも考えて、今度は新しいハイカラなのを作るというので、その見本を市会議員が下検分したのが十月の上旬であったと記憶する。
以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私用のサイドカー、オートバイ、自転車と往来を八重七合に流れているので、ちょっと往来を横切るにも、耳に飛び付くようなベルや警笛の音を喰らわせられる。
云う迄もなく震災後には特別に繁華になったので、雨天の時なぞ、こんな自動車が警察除け(これは自動車のタイヤの横に警察の命令で取り付けたハネ押えの異名で、何の役にも立たぬが多いから、運転手仲間でこう名付けている)をふりまわしながら、電車と一所に泥煙を揚げて群衆に突貫して行く光景は、壮観? というも愚かである。
こんな風だから、辻々に立っている交通巡査や電車の旗振りでも、生やさしい事ではつとまらない。見る間に電車や自動車が畳み重なって、盛にベルや笛を鳴らして催促をする有り様は、見たばかりでも神経衰弱の種である。
ちょっと余談であるが、この交通巡査の身ぶりを見ていると、なかなか面白いものである。電車の旗振りの方は旗でさしまねくのだから、あまり眼には立たぬが、交通巡査は大抵白い手袋をはめて、手ぶらで交通を支配するのだから、その身体付きや手よう、眼ように自然と個性があらわれていて、小学生なぞが遠くから真似しているのをよく見受ける。
「ホラ、お出お出だ。今度はフラフラダンス。失敬失敬。体操だ体操だ。オイチニオイチニ。又かわるよ。赤旗になったから……」
なぞとやっている。驚いたのは、女学生がこんな事によく気をつけている事で、山の手線電車の待ち合いで大勢寄って、真似し合って笑っているのを見た。
「須田町のはこうよ……駿河台下のはこうよ……」
といった風で、名前ばかりでも十二三聴いた。その中で記者のノートに残っているのは、
まねき猫、お湯埋め、蠅追い、スウェーデン式、鰌すくい、灰掻き、壁塗り
なぞ……女学生と小学生と名前のつけ方が違っているところが面白い。
こんな風に電車の中ばかりでなく、普通の往来まで緊張して来たことは非常なもので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車のわるくなり方も甚だしいと見えて、さなきだに八釜しい往来が一層烈しくドヨメイて、肩を並べながら話しも出来ない有り様である。
その中を只専心一途に自分の方向を守って、眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益冴え、その気持ちには余裕が無くなって疲れ易く、興奮し易く、泣き易く、怒り易くなる運命に陥ることは云う迄もない。
以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。
こうしたバラックの安ッポイ強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは、想像に難くないであろう。
警察で自由恋愛論をやる女学生……今の夫を嫌って前の夫の名を呼びながら往来を走る女……それを間男と間違えて追っかける男……世を厭うて穴の中に住む男……母親にたった一度叱られただけで自殺した女生徒……五円の金を返せないので自殺した妻……逃げた犬を探して公園のベンチに寝る男……なぞいう、狂人に近いあわれな人間の事がこの頃の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。
▲備考 この傾向は紐育のような大都会になると一層烈しいので、同市の自殺原因の統計の中には、朝牛乳瓶が割れたためとか、ヘアピンをなくしたためとか、又は学校に遅刻したためとかいうような物凄いのが驚くべき多数に上っている。
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商売の巻
最新式「無言の正札」
或る哲学者がこんな事を云った。
「おかめとヒョットコの小さなお面を背中合わせにして、中に笛を仕込んだオモチャが昔あった。あのおかめの愛嬌が『商売』を象徴し、ヒョットコの仏頂面が『生活』を標示している。これを両方から押えるから、ピーピーと世間が成り立って行くのだ」
そのつもりで東京人の商売振りを観察して見る。
ボンヤリと浅草に来て見る。ここならいろんな商売があるだろうという了簡である。
雷門前の仲見世は昔にかわらぬ繁昌で、雨の降る日でも一軒二百円の収入があるというが、何だかあまり儲かり過ぎるようだから噂だけにしておく。
どの店も大勢の人通りの前にズラリと商品を並べているが、どの店もどの店も黙りこくった愛嬌のない顔が並んでいるのが一寸眼につく。無論、立寄ればすぐに、「入らっしゃいまし」とか何とか黄色い声を出すが、さもない時は口を一文字に閉じ、つまらなさそうな眼付きをして往来をジロジロ見送っている。
紅梅焼きを焼く銀杏返しを初め、背広を着て店に並んで、朝から晩まで三円五十銭の蓄音機を鳴らす三四人の青年、お人形のお腹を鳴らすお神さん、猫や兎のオモチャを踊らすお婆さん等、どれもこれも買って下さいというような顔は一つもない。只まじめ腐って、生き人形のように手を動かしているばかりである。
震災後二三ヶ月の間のここいらはこんな事ではなかった。皆声を限りにお客を呼んで、素通りをしても昂奮せ上る位であった。これが今では、「入らっしゃい」とも「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。
しかし考えて見ると、いろんな呼び声を出してお客の反感を買うのは野暮の骨頂である。こうして品物を並べたり動かしたりしているのが、最も適切に「イラッシャイ」や「イカガ様」を表現している事は見易い道理である。
しかもその品物のどれにもこれにも、一つ残らず大きな正札が付いているから、一層現実的である。中には五六間離れても見える位大きな価格札があって、品物に依っては札の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか。
こうした現代式は単に浅草の仲見世に限らない。第六区の方へ抜けて行く左右の通りの店はみんなそうである。
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