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父杉山茂丸を語る(ちちすぎやましげまるをかたる)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 9:55:04  点击:  切换到繁體中文

白ッポイ着物に青い博多織の帯を前下りに締めて紋付の羽織を着て、素足に駒下駄こまげた穿いた父の姿が何よりも先に眼に浮かぶ。その父は頭の毛をクシャクシャにして、黒い関羽鬚かんうひげを渦巻かせていた。
 筆者は幼少から病弱で、記憶力が強かったらしい。満二歳の時に見た博多駅の開通式の光景を故老に話し、その夜が満月であったと断言して、人を驚かした事がある位だから……。
 だからそうした父の印象も筆者の二歳か三歳頃の印象と考えていいらしい。父が二十七八歳で筆者の生地福岡市住吉すみよしに住んでいた頃である。この事を母に話したら、その通りに間違いないが、帯の色が青かったかどうかは、お前ほどハッキリ記憶していない、お祖父じい様の帯が青かったからその思い違いではないかと云った。

 その父が三匹の馬の絵をいた小さな傘を買って来てくれた。すると間もなく雨が降り出したので、その傘をさしてお庭に出ると云ったら、母が風邪を引くと云って無理に止めた。筆者は、その「風邪」なるものの意味がわからないので大いに泣いて駄々をねたらしく、間もなく許可ゆるされて跣足はだしで庭に降りると、雨垂れおちの水を足でたたえたりひきを蹴飛ばしたりして大いに喜んだ。時々かざしている傘の絵を見て、馬の走って行く方向にクルクル廻わしているところへ、浴衣がけの父がノッソリ縁側に出て来て、傘の上から問うた。
「それは何の絵けエ」
 弾力のある柔和な声であった。

 奥の八畳の座敷中央に火鉢と座布団があって、その上にお祖父様が座っておられた。大変におこった怖い顔をして右手に、総鉄張り、梅の花の銀象眼ぞうがん煙管きせるを持っておられた。その前に父が両手を突いて、お祖父様のお説教を聞いているのを、私はお庭の植込みの中からソーッと覗いていた。
 そのうち、突然にお祖父様の右手ががったと思うと、煙管が父のモジャモジャした頭の中央に打突ぶつかってケシ飛んだ。それが眼にも止まらない早さだったのでビックリして見ているうちに、父のモジャモジャ頭の中から真赤な滴りがポタリポタリと糸を引いて畳の上に落ちて流れ拡がり初めた。しかし父は両手を突いたままジッとして動かなかった。
 お祖父様は、座布団の上から手を伸ばして、くの字型に曲った鉄張り銀象眼の煙管を取上げ、父の眼の前に投げ出された。
真直まっすぐめて来い(モット折檻してやるから真直にして来いという意味)」
 と激しい声で大喝された。
 父はうやうやしく一礼して煙管を拾って立上った。その血だらけの青い顔が、悠々と座敷を出て行くところで、私の記憶は断絶している。多分泣き出したのであろう。
 それが何事であったかは、むろんわからなかったし、のちになって父に聞いてみる気も起らなかった。

 父は十六の年に、お祖父様を説伏ときふせて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年をでずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈さんれつなる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子あかごが猛獣のおりの中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍はっかの惨毒から救い出すためには、びょうたる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」
 その時はまだ私が生まれていない前だったから、果してこの通りの事を云ったかどうか保証の限りでないが、そののちの父は正しく前述の通りの覚悟で東奔西走していたし、お祖父様やお祖母ばあ様も、母までも、その覚悟で、あらん限りの貧乏と闘いつつ留守居していた事を、私は明らかに回想する事が出来る。なつかしい、恨めしい、恐ろしい、ありがたい父であった。

 父は或る時、お祖父様に舶来の洋傘こうもりのお土産を持って来て差上げた。それは銀の柄の処のボタンを押すとバネ仕掛でパッと拡がるようになっていたので欲しくてたまらず、コッソリ持出して廊下でボタンを押してみたが、どうしても開かないので、失望して、又ソット、モトの押入れに入れた。何だか恐ろしかったので、逃げるように表へ出た。
 又或る時、やはりお祖父様に、鼈甲縁べっこうぶち折畳おりたたみ眼鏡を持って来て差上げた。これも、その折畳まり工合ぐあいが面白くて不思議なので欲しくてたまらず、そっと持出して引っぱってみるうちに壊れてしまったらしい。お祖母様に大変に叱られた。
 又或る時、父は自分が東京からかぶって来た臘虎らっこ頭巾ずきん帽子をお祖父様に差上げた。お祖父様は大層お喜びになって、御自分でお冠りになり、それから私に冠せてアハハハと大きな声でお笑いになった。
 私は眼の前が真暗になった上に、臘虎の皮特有の妙な臭気がしたので直ぐに脱いで投棄てたように思う。
 その時に父はコンナ話を、お祖父様にした……とのちになって私に話した。
「あの帽子は東京で一番高価たかいゼイタクなものだったので、大得意で故郷ににしきを飾るつもりで冠って来たものです。染得そめえたり西湖柳色のというところですよ。然るにだんだんと故郷に近づくに連れてあの帽子が気になりました。在郷の同志が、身動きもならぬ程貧乏し、落魄らくはくしている顔付きを思い出すに連れて、十円もする帽子を大得意で帰って来る自分の心理状態が恥かしくて、たまらなくなりましたから、汽車が博多駅に着く前に折畳んでふところに入れて、知人に会わぬようにコソコソと只今帰って参りました。途中でこの帽子をドウ仕末しようかと考えましたが、結局アナタ(お祖父様)に差上るよりほかに道がないと気が付きました。アナタに差上るのならばドンナに身分不相応なものでも恥かしくないことが、わかると同時に、日本の国体のありがたさがイヨイヨハッキリと心に映じました。人間はエラクなると増長したくなるものです。栄耀栄華えいようえいがをしたくなるものです。しかも、それが威張れば威張るほどツマラヌ奴に見えて来るし、栄耀をすればする程、自分の恥をさらすことになるものですが、不思議なことに、ドンナに身分不相応な事でも、天子様と、神様と、親様の御為おんためにする事なら、決して恥かしくないことがわかりました。日本人たる者は、天子様と、神様と、親様のためと、この三つに限って、無限のゼイタクを許されている訳です。私はこの十円の帽子のお蔭で、大きな悟りを開く事が出来ました。その記念と思ってドウゾこの帽子を冠って下さい」
 お祖父様は、そののち、前記の洋傘こうもりと、鼈甲縁の折畳眼鏡と、ラッコの帽子を大自慢にして外出されるようになった。そうして到る処で父の自慢話を初められるのを、いつもお供していた私は、子供心に又初まったと思い思い聞いていた。
 但「染め得たり西湖、柳色の衣」という一句は、たしか唐詩選の中に在ると思っているが、まだ調べていない。意味も何もわからないまま、口調がいいのと、父が力をめてくり返しくり返し云っていたので、その当時から暗記しているだけの事である。

 それから私が五六歳の頃になると、父が久しく帰らず、家が貧窮の極に達していたらしい。住吉の堂々たる住宅から、博多鰯町いわしまち、旧株式取引所裏のアバラ屋に移って、母は軍隊の襯衣シャツ縫いや、足袋たびの底刺しで夜の眼も合わさず、お祖母さまと当時十七八であった父の妹のかおる伯母の二人は押絵おしえ作りにいそしみ、彩紙いろがみや、チリメンの切屑を机一パイに散らかしていた。押絵の三人一組が二円。軍隊の襯衣シャツ縫いと足袋の底刺しが一日十何銭、米が一しょう十銭といったような言葉がまだ六歳の私の耳に一種の凄愴味を帯びて泌み込むようになった。一間四方位の大きな穴の明いた屋根の上の満月を、夜着の袖から顔を出してマジマジと見ていた記憶なぞがハッキリと残っている。
 父が東京から電報為替で金一円也を送って来たのもその頃であったという。
 広崎栄太郎という父の旧友が、賭将棋で勝った金十七銭也を持って来て、私の一家のうえしのがしてくれたのもその頃の事であったと、その後に父から聞いた。

 その家にどこからともなく帰って来た父が、私の頭を撫でる間もなく、剃刀かみそりを取出してしきりに磨ぎ立て、尻をまくってアグラを掻き睾丸きんたまの毛を剃り初めたのには驚いた。何でも睾丸きんたまにシラミが湧いたから剃るのだ……といったような事を話していたから、余程、落魄らくはくして帰って来たものであったらしい。
「門司の石田屋という宿屋で頭山とうやまと俺とが宿賃が払えずに、故郷を眼の前に見ながらフン詰まっていた。ところで頭山も俺も睾丸きんたまの毛にシラミがウジャウジャしていたから、一つこいつを喧嘩させて見ようではないか。そうして負けた方がここに滞在して小さくなっている。勝った方が金策に出る事にしようではないかと云うと、頭山が面白い、やってみようと云うた。ところが頭山のヤツは真黒くて精悍せいかんな恰好をしている。俺のに湧いたヤツは真白くてムクムク肥って活動力がないのでドウ見ても勝てそうにない。しかし俺には確信があったから、新聞紙を四ツに折って、その溝の十文字の処で選手を闘わせてみると案の定俺の白いヤツが黒い奴を押し倒おして動かせない。そこで俺が解放される事になって帰って来た訳だが、ナアニ頭山は正直だから、シラミを逃がさないようにシッカリとつまんで出すのだから、土俵へ上らないうちに代表選手が半死半生になっている。これに反して俺の方は、選手を抓み出す時から出来るだけソーッと抓んでてのひらに入れてソーッと下に置くのだから双方の元気に雲泥の相違がある。勝敗の数は勿論、問題じゃないことになるのだ」
 これも事実だかどうだか頭山さんに聞いてみない事にはわからないが、その時に家中うちじゅうが引っくり返るほど笑い転げていた事を思い出すと、やはりソンナ話を睾丸きんたまの毛を剃り剃り父が話していたのかも知れぬ。とにかく父が帰ると同時に家中が急に明るく、朗らかになった気持だけは、今でも忘れない。
 なお父が濛々たる関羽髯を剃落したのも、そのついでではなかったかと思う。

 それから父は、家族連中の環視の中で、先祖重代の刀を取出して、その切羽せっぱとハバキの金を剥ぎ、つばの中の金象眼きんぞうがんを掘出して白紙に包んだままどこかへ出て行った。そうして直ぐに帰って来たようにも思う。ナカナカ帰って来なかったようにも思う。

 そののちの事であったか、その時の事であったか、父のおとと五百枝いおえと、末弟の林駒生こまおと三人が、家の外に集まって下水の掃除をしていた姿を思い出す。その中で、どうしても一個所竹竿の通らない処を、父がくわで掘出して土管を埋め直し、若い叔父さま二人に水を汲んで来て流して見ろと命じていた。その泥だらけの颯爽さっそうたる姿を、そこいら一面に生えていた、犬蓼いぬたでの花と一所いっしょに思い出す。

 やはりその頃の事であったと思う。
 父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂なか川の洲口すぐちを泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。
 その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切あぶらぎっていた。その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花いちじく色のいぼが在った。左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本ずつ、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、おかに上ってから繰返し繰返し引っぱった。
「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」
 と父が笑った。
 父は九歳の時に遠賀おんが郡の芦屋あしやで、お祖父様の夜網打ちの艫櫓ともろを押したというから、相当水泳が上手であったらしい。那珂川の洲口といえば、今でも海水、河水の交会する、三角波の重畳した難コースで、岸の上から見てもゾッとするのに、負ぶさってる私は怖くも何とも感じなかった。すくなくとも父の肩から上と私の背中だけは水面上に出ていたと思う。

 そのうちに私等一家はイヨイヨ貧窮して来て、お祖父様も花鳥風月を友とする事が出来なくなられたらしい。お祖母様と、モウ七歳になっていた私を連れて二日市に移住し、漢学の塾を開かれた一方に、母は亡弟たかしを抱いて市内柳原に住み、相変らず足袋の底と、軍隊の襯衣シャツに親しんだ。
 父は帰って来る都度に、先ず両親を訪い、次いで母と弟を省みた。

 二日市の橋元屋という旅館の裏に住んでいる時、突然に父が帰って来て、小さな錻力ぶりきのポンプを呉れた時の嬉しかった事は今でも忘れていない。そのポンプはかなり上等のものだったらしく、長いゴムのホースの尖端の筒先からほとばしる水が、数間先の土塀を越えて、通行人を驚かした。父は手ずから金盥かなだらいに水を入れて二階の板縁に持出し、私と二人でポンプを突いて遊んでくれたが、そのうちに退屈したと見えて、私の顔に筒先を向けては大声で笑い興じた。父と二人でアンナに楽しく遊んだ事は前後に一度もない。

 そののち、同じ二日市で榊屋さかきやの隠宅というのに引越した時に、父が私に羊羹ようかんを三キレ新聞紙に包んだのをドンゴロス(ズックの事)の革鞄かばんから出してくれた。それが新聞を見た初まりで、私が七歳の時であった。
 お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読そどくが一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。あとでお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体からだを荒っぽく仕上げて下さい」
 これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経しきょうの一部と、易経えききょうの一部を教えて下すったものであるが、孝経こうきょうは、どうしたものか教えて下さらなかった。
 とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩かんぱいし、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折ようせつというのをやっていたかも知れない。
 ちなみに弟のたかしは、私が八歳の時に疫痢えきりで死んだ。そのためであったろう。母は又、私の処に帰って来て、大きな乳を私に見せびらかすようになった。同時に私等は、宗像むなかた神与じんよ村の八並やつなみから筥崎はこざきへ移転して来た。

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