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一足お先に(ひとあしおさきに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:10:01  点击:  切换到繁體中文


 それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。
「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢おとしと病歴だけ書かして頂くのですが、如何いかがでしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」
 と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒がらすとうの中にピッタリと封じめられて、強烈な薬液の中にひたされて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅にしまい込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じは無いであろう。それに上越うえこす精神的な「足禁あしどめ」の方法は無いであろう。
 こう決心すると私は矢もたてもたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的をげたのであった。果して足の幽霊封じに有効かドウカは別として……。

 私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎるくらい意識していた。だから副院長に話したら訳なく見せてもらえるであろう自分の足の標本を、わざわざ人目を忍んで見に来た位であったが、しかし、そうした私の行動がイクラ滑稽こっけいに見えたにしても、私自身にとっては決して、笑い事ではないのであった。この不景気のなかに、妹と二人切りで、利子の薄い、限られた貯金を使って、ドウデモコウデモ学校を卒業しなければならないという、兄らしい意識で、いつも一パイに緊張して来た私は、もう自分ながら同情にえないくらい神経過敏になり切っていた。妹に話したらき出すかも知れないほど、臆病者になり切っていたのであった。それはもうこの時既に、逸早いちはやく私の心理におおいかかっていた、片輪者かたわものらしいヒガミ根性のせいであったかも知れないけれども……。
 そう思い思い私は、変り果てた姿で、高い処に上がっている自分の足を見上げて、今一つホーッと溜息をした。
 その溜息はホントウの意味で「一足おきに」失敬した自分の足の行方を、眼の前に見届けた安心そのもののあらわれにほかならなかった。同時に、これからは断然足の夢を見まい……両脚のある時と同様に、快活に元気よくしよう……片輪者のヒガミ根性なぞを、ミジンも見せないようにして、他人ひと様に対しよう……放ったらかしていた勉強もポツポツ始めよう。そうして妹に安心させよう……と心の底で固く固く誓い固めた溜め息でもあった。
 私はアンマリ長い事あおむいて首が痛くなったので、頭をガックリとうつ向けてくびの骨を休めた。そのついでに、足下の棚の低い瓶の中に眠っている赤ん坊が、ひたいの中央から鼻の下まで切り割られたあとを、太い麻糸でブツブツに縫い合わせられたまま、奇妙な泣き笑いみたような表情を凝固させているのを見返りながら、ソロソロと入口のドアの前に引返ひっかえした。そこで耳を澄ましてドアを開くと、幸い誰も居ない様子なので、大急ぎで廊下へ出た。そうして元来た道とは反対に、賄場まかないばの前の狭い廊下から、近道伝いに自分のへやに帰ると、急にガッカリして寝台の上に這い上った。枕元に松葉杖を立てかけたまま、手足を投げ出して引っくり返ってしまった。

 久しく身体からだを使わなかったせいか、僅かばかりの散歩のうちに非常に疲れてしまったらしい。私は思わずグッスリと眠ってしまった。しかし余り長く眠ったようにも思わないうちに眼を醒ますと、いつの間にか日が暮れていて、窓の外には青い月影が映っている。その光りでへやの中も薄明うすあかくなっているが、青木はまだ帰っていないらしく、夜具を畳んだままの寝台の上に、私の松葉杖が二本とも並べて投げ出してある。大方、私が眠っているうちに看護婦が来て、へやの掃除をしたものであろう。
 いったい何時頃かしらんと思って、枕元の腕時計を月あかりに透かしてみると驚いた……四時をすこしまわっている。恐ろしくよく寝たものだ。ことによると時計が違っているのかも知れないが、それにしても病院中が森閑しんかんとなっているのだから、真夜中には違い無いであろう。とにかく用を足して本当に寝る事にしようと思い思い、もう一度窓の外を振り返ると、その時にタッタ今まで真暗まっくらであった窓の向うの特等病室の電燈が、真白に輝き出しているのに気が付いた。こっちの窓一パイに乱れかかっているエニシダの枝ごしに、白いドローンウォークの花模様が、青紫色の光明を反射さしているのがトテモまぶしくて美しかった。
 私はその美しさに心を惹かるるともなく、ボンヤリと見惚みとれていたが、そのうちに又、奇妙な事に気が付いた。
 気のせいか知れないけれども、病院中がヒッソリと寝鎮ねしずまっている中に、玄関の方向から特等室の前の廊下へかけては、何かしらバタバタと足音がしているようである。そう思って見ると、その特等室のまぶしい電燈の光りまでもブルブルと震えているようで、人影は見えないけれどもへやの中まで何かしら混雑しているらしい気はいが感じられるようである。……もしかしたら歌原未亡人の容態が変ったのかも知れない……と思ううちに、どこか遠くからケタタマしく自動車の警笛サイレンが聞えて、素晴らしい速度スピードでグングンこっちへ近付いて来た。そうして間もなく病院の前の曲り角で、二三度ブーブーと鳴らしながらピッタリと止まった。……と思って見ているうちに、今度は特等室の電燈がパッと消えた。ドローンウォークの花模様のネガチブをハッキリと、私の網膜に残したまま……。
 その瞬間に……サテは歌原未亡人が死んだのだな……と私は直覚した。そうして……タッタ今死体を運び出して、自宅へ持って行くところだな……と考え付いた。
 私はそう考え付きながらタッタ一人、腕を組んで微笑した……が……しかし……ナゼこの時に微笑したのか自分でもよく解らなかった。多分、一昨日の夜中から昨日きのうの昼間へかけて、さしもに異常なセンセーションを病院中に捲き起した歌原未亡人……まだ顔も姿も知らないまんまに、私の悪夢の対象になりそうに思われて、怖くて怖くて仕様がなかったその当の本人が、案外手もなく、コロリと死んでしまったらしいので、チョット張り合い抜けがしたのが可笑おかしかったのであろう。それと同時に、介抱が巧く行かなかった当の責任者の副院長が、さぞかし狼狽しているだろうと想像した、あざけりの意味の微笑もまじっていたように思う。とにかくこの時の私が、妙に冷静な、悪魔的な気分になりつつ、寝台から辷り降りたことは事実であった。それから悠々と片足をさし伸ばして、寝台の下のスリッパを探すべく、暗い床の上を爪先で掻きまわしたのであったが、不思議な事に、この時はいくら探してもスリッパが足に触れなかった。私は昨日きのう昨日きのうまで、片っ方しか要らないスリッパを、両方とも、寝台の枕元の左側にキチンと揃えておく事にしていたのだから、ドッチかに探り当らない筈は無いのであったが……。
 そんな事を考えまわしているうちに私は、何かしら、ドキンドキンとするような、気味のわるい予感に襲われたように思う。そうして尚も不思議に思い思い、慌てて片足をさし伸ばして、遠くの方まで爪先で引っ掻きまわしているうちに又、フト気が付いた。これは寝がけに松葉杖を突いて来たのだから、ウッカリして平生いつもと違った処にスリッパを脱いだものに違い無い。それじゃイクラ探しても解らない筈だと、又も微苦笑しいしい電燈のスイッチをひねったが……その途端に私はツイ鼻の先に、思いもかけぬ人間の姿を発見したので、思わずアッと声を上げた。寝台のまん中に坐り直して、うしろ手を突いたまま固くなってしまった。
 それは入口のドアの前に突っ立っている、副院長の姿であった。いつの間に這入って来たものかわからないが、大方私がまだ眠っているうちに、コッソリと忍び込んだものであろう。霜降りのモーニングを着て、派手な縞のズボンを穿いているが、鼻眼鏡はかけていなかった。髪の毛をクシャクシャにしたまま、青白い、冴え返るほどスゴイ表情をして、両手を高々と胸の上に組んで、私をジイと睨み付けているのであったが、その近眼らしい眩しそうな眼付きを見ると、発狂しているのではないらしい。鋭敏な理智と、深刻な憎悪の光りに満ち満ちているようである。
 臆病者の私が咄嗟とっさに、これだけの観察をする余裕を持っていたのは、吾ながら意外であった。それは多分、眼が醒めた時から私を支配していた、悪魔的な冷静さのお蔭であったろうと思うが、そのまままたたきもせずに相手の瞳を見詰めていると、柳井副院長も、私に負けない冷静さで私の視線を睨み返しつつ、タッタ一言、白い唇を動かした。
「歌原未亡人は、貴方あなたが殺したのでしょう」
「……………」
 私は思わず息を詰めた。高圧電気に打たれたように全身を硬直さして、副院長の顔を一瞬間、穴のくほど凝視した……が……その次の瞬間には、もう、全身の骨が消え失せたかと思うくらい力が抜けて来た。そのままフラフラと寝床の上にヒレ伏してしまったのであった。
 私の眼の前が真暗になった。同時に気が遠くなりかけて、シイイインと耳鳴りがし初めた……と思う間もなく、私の頭の奥の奥の方から、世にもおそろしい、物すごい出来事の記憶がアリアリと浮かみ現われ初めた……と見るうちに、次から次へと非常な高速度でグングン展開して行った。……と同時に私のわきの下からポタポタと、氷のような汗がしたたり初めた。
 それはツイ今しがた、私が起き上る前の睡眠中に起った出来事であった。
 私はマザマザとした夢中遊行を起しながら、この室をさまよい出て、思いもかけぬ恐ろしい大罪を平気で犯して来たのであった。しかも、その大罪に関する私の記憶は、普通の夢中遊行者のソレと同様に、夢遊発作のあとの疲れで、グッスリと眠り込んでいるうちに、あとかたもなく私の潜在意識の底に消え込んでしまっていたので、ツイ今しがた眼を醒ました時には、チットモ思い出し得ずにいたのであったが……そのタマラナイ浅ましい記憶がタッタ今、副院長の暗示的な言葉で刺戟されると同時に、いともアザヤカに……電光のように眼まぐるしくひらめき現われて来たのであった。
 それは確かに私の夢中遊行に違い無いと思われた。

 ……フト気が付いてみると私は、タオル寝巻に、黒い革のバンドを捲き付けて、一本足の素跣足すはだしのまま、とある暗い廊下の途中に在る青ペンキ塗りのドアの前に、ピッタリと身体からだを押し付けていた。そうして廊下の左右のはずれにさしている電燈の光りを、不思議そうにキョロキョロと見まわしているところであった。
 その時に私はチョット驚いた。……ここは一体どこなのだろう。俺は松葉杖を持たないまま、どうしてコンナ処まで来ているのだろう。そもそも俺は何の用事があってコンナペンキ塗りのドアの前にヘバリ付いているのだろう……と一生懸命に考え廻していたが、そのうちに、廊下の外れから反射して来る薄黄色い光線をタヨリに、頭の上の鴨居かもいに取り付けてある瀬戸物の白い標札を読んでみると、小さなゴチック文字で「標本室」と書いてあることがわかった。
 それを見た瞬間に私は、私の立っている場所がどこなのかハッキリとわかった。……と同時に私自身を、この真夜中にコンナ処まで誘い出して来た、或るおそろしい、深刻な慾望の目標が何であるかという事を、身ぶるいするほどアリアリと思い出したのであった。
 私はソレを思い出すと同時に、暗がりの中で襟元をつくろった。前後を見まわしてニヤリと笑いながら、タオル寝巻の片袖で、手の先を念入りに包んで、眼の前の青ペンキ塗りのドアに手をかけたが、昼間の通りに何の苦もなくいたので、そのまま影法師のように内側へ辷り込んで、コトリとも云わせずにドアを閉め切る事が出来た。
 向うの窓の磨硝子すりガラスからみ込む、月の光りに照らし出されたタタキの上は、大地と同様にシットリとして冷めたかった。私はその上を片足で飛び飛び、向うの棚の端まで行ったが、その端の方に並んでいる小さな瓶の群の中でも、一番小さい一つを取り上げて、中を透かしてみると、何も這入っていないようである。キルクの栓を開けていでみても薬品らしい香気が全く無い。
 私はその瓶を片手に持ったまま、室の隅に飛んで行って、そこに取り付けてある手洗場の水でゆすぎ上げて、指紋を残さないように龍口栓コックの周囲まで洗い浄めた。それからその瓶を懐中ふところに入れて、又も一本足で小刻みに飛びながら棚の向う側に来たが、ちょうど下から三段目の眼の高さの処に並んだ、中位の瓶の中でも、タッタ一つホコリのたかっていない紫色のヤツを両袖で抱えおろして、月あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬ローマ字体で「CHLOROFORM」……「[#ここから横組み]十ポンド[#ここで横組み終わり]」と印刷してあった。
 その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔とうすい気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟おおげさではないくらいに思った。
 私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子すりガラスにニジリ寄った。窓のかまちに瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少しずつ小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐うちぶところに落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、へその上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。
 それから私はソロソロとドアの処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソットドアを細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。
 私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私のあしゆびの弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。
 私の胸は又も躍った。
 片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。
 ……これはまずかった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。
 その大きな真鍮しんちゅうの振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。
 ……グズグズするな……。
 ……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。
 と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。そうして昼間見た特等一号室の前まで来ると、チョットそこいらを見まわしながら、小腰をかがめて鍵穴のあたりへ眼を付けたが、不思議な事に鍵穴の向うは一面に仄白ほのじろく光っているばかりで、室内の模様がチットモわからない。変だなと思って、なおよく瞳をらしてみると何の事だ。向う側の把手ハンドルに捲き付けてある繃帯の端ッコが、ちょうど鍵穴の真向うにブラ下がっているのであった。
 私はこの小さな失敗に思わず苦笑させられた。しかし又、そのお蔭で一層冷静に返りつつ、ドアの縁と入口の柱の間の僅かな隙間すきまに耳を押し当てて、しばらくの間ジットしていたが、へやの中からは何の物音も聞えて来ない。一人残らず眠っている気はいである。
「一般の入院患者さん達よ。病院泥棒が怖いと思ったら、ドアの把手ハンドルを繃帯で巻いてはいけませんよ。すくなくとも夜中やちゅうだけは繃帯を解いて鍵をかけておかないと剣呑けんのんですよ。その証拠は……ホーラ……御覧の通り……」
 とお説教でもしてみたいくらい軽い気持ちで……しかし指先はく迄も冷静に冴え返らせつつソーッとドアを引き開いた。その隙間からへやの中を一渡り見まわして、四人の女が四人ともイギタナイ眠りをむさぼっている様子を見届けると、なおも用心深くへやの中にニジリ込んで、うしろ手にシックリとドアを閉じた。

 私は出来るだけ手早く仕事を運んだ。
 へやの中にムウムウ充満している女の呼吸と、毛髪と、皮膚と、白粉おしろいと、香水の匂いにせかえりながら、片手でクロロフォルムの瓶をシッカリと握り締めつつ、見事な絨毯じゅうたんの花模様の上を、膝っ小僧と両手の三本足でいまわった。第一に、歌原男爵未亡人の寝床のそばに枕を並べている、人相のよくないお婆さんの枕元に在る鼻紙に、透明な液体をポタポタと落して、あぐらをいている鼻の穴にソーッと近づけた。しかし最初は手が震えていたらしく、薬液に濡れた紙を、お婆さんの顔の上で取り落しそうになったので、ヒヤリとして手を引っこめたが、そのうちにお婆さんの寝息の調子がハッキリと変って来たのでホッと安心した。同時にコレ位の僅かな分量で、一人の人間がヘタバルものならば、俺はチットばかり薬を持って来過ぎたな……と気が付いた。
 その次には厚い藁蒲団わらぶとんと絹蒲団を高々と重ねた上に、仰向けに寝ている歌原未亡人の枕元にい寄って、そのツンとそびえている鼻の穴の前に、ソーッと瓶の口を近づけたが、何だか効果がなさそうに思えたので、枕元に置いてあった脱脂綿を引きち切って、タップリとひたしながらがしていると、ポーッと上気じょうきしていたその顔が、いつとなく白くなったと思ううちに、何だか大理石のような冷たい感じにかわって来たようなので、又も慌てて手を引っこめた。
 それから未亡人の向う側の枕元に、婦人雑誌を拡げて、その上に頬を押し付けている看護婦の前に手を伸ばしながら、チョッピリした鼻の穴に、夫人のお流れを頂戴させると、見ているうちにグニャグニャとなって横たおしにブツ倒れながら、ドタリと大きな音を立てたのにはきもを冷やした。思わずハッとして手に汗を握った。すると又それと同時に、入口の近くに寝ていた一番若い看護婦が、ムニャムニャと寝返りをしかけたので、私は又、大急ぎでその方へ匍い寄って行って、残りの薬液の大部分を綿にひたして差し付けた。そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退いた。……モウ大丈夫という安心と、スバラシイ何ともいえない或るものを征服し得た誇りとを、胸一パイに躍らせながら……。
 私は、その嬉しさに駆られて、寝ている女たちの顔を見まわすべく、一本足で立ち上りかけたが、思いがけなくフラフラとなって、絨毯の上に後手うしろでを突いた。その瞬間にこれは多分、最前からへやの中の息苦しい女の匂いに混っている、麻酔ますい薬の透明な芳香に、いくらか脳髄を犯されたせいかも知れないと思った。……が……しかし、ここで眼をわしたり何かしたら大変な事になると思ったので、モウ一度両手を突いて、気を取り直しつつソロソロと立ち上った。並んで麻酔している女たちの枕元の、生冷なまつめたい壁紙のまん中に身体からだを寄せかけて、落ち付こう落ち付こうと努力しいしい、改めてへやの中を見まわした。

 へやのまん中には雪洞ぼんぼり型の電燈が一個ブラ下って、ホノ黄色い光りを放散していた。それはクーライト式になっていて、明るくすると五十しょく以上になりそうな、瓦斯ガス入りの大きなたまであったが、その光りに照し出された室内の調度の何一つとして、贅沢でないものはなかった。へやの一方に輝き並んでいる螺鈿らでんの茶棚、同じチャブ台、その上に居並ぶ銀の食器、上等の茶器、金色こんじき燦然さんぜんたる大トランク、その上に置かれた枝垂しだれのベコニヤ、印度いんどの宮殿を思わせる金糸きんしの壁かけ、支那の仙洞せんとうを忍ばせる白鳥の羽箒はぼうきなぞ……そんなものは一つ残らず、未亡人が入院した昨夜から、昨日きのうの昼間にかけて運び込まれたものに相違ないが、トテモ病院の中とは思えない豪奢ごうしゃぶりで、スースーと麻酔している女たちの夜具までも、赤や青の底眩そこまばゆい緞子どんすずくめであった。
 そんなものを見まわしているうちに、私は、タオル寝巻一枚の自分の姿が恥かしくなって来た。れ知らず襟元を掻き合せながら、男爵未亡人の寝姿に眼を移した。
 白いシーツに包んだ敷蒲団を、藁蒲団の上に高々と積み重ねて、その上に正しい姿勢で寝ていた男爵未亡人は、麻酔が利いたせいか、離被架リヒカの中からはすかいに脱け出して、グルグル捲きの頭をこちら向きにズリ落して、胸の繃帯を肩の処まであらわしたまま、白い、肉付きのいい両腕を左右に投げ出した、ダラシない姿にかわっている。ムッチリした大きな身体からだに、薄光りする青地の長襦袢ながじゅばんを巻き付けているのが、ちょうど全身にいれずみをしているようで、気味のわるいほど蠱惑こわく的に見えた。
 その姿を見返りつつ私は電球の下に進み寄って、絹房きぬぶさの付いた黒いひもを引いた。同時にへやの中が眩しいほど蒼白くなったが、私はチットも心配しなかった。病室の中が夜中に明るくなるのは決して珍らしい事ではないので、窓の外から人が見ていても、決して怪しまれる気遣いは無いと思ったからである。
 私はそのまま片足で老女の寝床を飛び越して、男爵未亡人の藁布団にたれかかりながら、横坐りに坐り込んだ。胸の上に置かれた羽根布団と離被架リヒカとを、静かに片わきへ引きけて、寝顔をジイッと覗き込んだ。
 麻酔のために頬と唇が白味がかっているとはいえ、電燈の光りにマトモに照し出されたその眼鼻立ち、青い絹に包まれているその肉体の豊麗さは何にたとえようもない。まさにあたたかい柔かい、スヤスヤと呼吸する白大理石の名彫刻である。ラテン型の輪廓美と、ジュー型の脂肪美と併せ備えた肉体美である。限り無い精力と、巨万の富と、行き届いた化粧法とに飽満ほうまんした、百パーセントの魅惑そのものの寝姿である……ことに、そのあごからくびすじへかけた肉線の水々みずみずしいこと……。
 私はややもするとクラクラとなりかける心を叱り付けながら、未亡人の枕元に光っている銀色のはさみを取り上げた。それは新しいガーゼを巻き付けた眼鏡型のの処から、薄っペラになった尖端せんたんまで一直線に、つるぎのように細くなっている、非常に鋭利なものであったが、その鋏を二三度開いたり、閉じたりして切れ味を考えると間もなく、未亡人の胸に捲き付けたおびただしい繃帯を、容赦なくブスブスと切り開いて、先ず右の方の大きな、まん丸い乳房を、青白い光線の下にさらし出した。
 その雪のような乳房の表面には、今まで締め付けていた繃帯の痕跡あとが淡紅色の海草のようにダンダラになってヘバリ付いていたが、しかし、私は溜息をせずにはいられなかった。
 この女性が、エロの殿堂のように唄われているのは、その比類の無い美貌のせいではなかった。又はその飽く事を知らぬ恋愛技巧のせいでもなかった。この女性が今までに、あらゆる異性の魂を吸い寄せ迷い込ませて来たエロの殿堂の神秘力は、その左右の乳房の間の、白い、なめらかな皮肌ひふの上に在る……底知れぬ×××××と、浮き上るほどの××××××を、さり気なくほのめき輝かしているミゾオチのまん中に在る……ということをのあたり発見した私は、それこそ生れて初めての思いにとらわれて、思わず身ぶるいをさせられたのであった。
 それから私は、またたきも出来ないほどの高度な好奇心にとらわれつつ、未亡人の左の肩から掛けられた繃帯を一気に切り離して、手術された左の乳房を光線にさらした。
 見ると、まだ※(「火+欣」、第3水準1-87-48)きんしょうが残っているらしく、こころもち潮紅ちょうこうしたまましなつぶれていて、乳首とあばらとを間近く引き寄せた縫い目の処には、黒い血のかたまりがコビリ着いたまま、青白い光りの下にシミジミとおののきふるえていた。

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