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一足お先に(ひとあしおさきに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:10:01  点击:  切换到繁體中文


 私は余りのいたましさに思わず眼を閉じさせられた。
 ……片っ方の乳房を喪った偉大なヴィナス……
 ……黄金の毒気にむしばまれた大理石像……
 ……悪魔にじられたエロの女神……
 ……天罰をこうむったバムパイヤ……
 なぞという無残な形容詞を次から次に考えさせられた。
 けれども、そんな言葉を頭にひらめかしているうちに又、何とも知れない異常な衝動がズキズキと私の全身にうずき拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなって来た。この女の全身の肉体美と、痛々しい黒血を噛み出した乳房とを一所にして、明るい光線の下にさらしてみたら……というようなアラレモナイ息苦しい願望が、そこいら中にノタ打ちまわるのを押しとどめることが出来なくなったのであった。
 私はそれでもジッと気を落ち着けて鋏を取り直した。軽い緞子どんすの羽根布団を、寝床の下へ無造作に掴みけて、未亡人の腹部に捲き付いている黒繻子くろじゅすの細帯に手をかけたのであったが、その時に私はフト奇妙な事に気が付いた。
 それは幅の狭い帯の下に挟まっている、ザラザラした固いものの手触てざわりであった。
 私はその固いものが指先に触れると、その正体がだよくわからないうちに、一種の不愉快な、蛇の腹に触ったような予感を受けたので、ゾッとして手を引っこめたが、又すぐに神経を取り直して両手をさしのばすと、そのゆるやかな黒繻子の帯を重なったまま引き上げて、容赦なくブツリブツリと切断して行った。そうしてその下の青い襦袢の襟に絡まり込んでいる、茶革ちゃがわのサック様のものを引きずり出したが、その二重に折り曲げられたふたを無造作に開いて、紫天鵞絨びろうどのクッションにうずめられた宝石行列を一眼見ると、私はハッと息を呑んだ。……生れて初めて見る稲妻色の光りの束……底知れぬ深藍色しんらんしょくの反射……静かに燃え立つ血色のほのお……それは考える迄もなく、男爵未亡人の秘蔵の中でも一粒りのものでなければならなかった。生命いのちと掛け換えの一粒一粒に相違なかった。
 私はワナナク手で茶革の蓋を折り曲げて、タオル寝巻の内懐うちぶところに落し込んだ。そうしてジッと未亡人の寝顔を見返りながら、たまらない残忍な、愉快な気持ちに満たされつつ、心の底から押し上げるように笑い出した。
「……ウフ……ウフ……ウフウフウフウフウフ……」

 それから私がドンナ事を特一号室の中でしたか、全く記憶していない。ただ、いつの間にか私は一糸もまとわぬ裸体ぱだかになって、青白いあばら骨を骸骨のように波打たせて、骨だらけの左手に麻酔薬の残った小瓶を……右手にはギラギラ光る舶来の鋏を振りまわしながら、瓦斯ガス入り電球の下に一本足を爪立てて、野蛮人のようにピョンピョンと飛びまわっていた事を記憶しているだけである。そうしてその間じゅう心の底から、
「ウフウフウフ……アハアハアハ……」
 と笑い続けていた事を、かすかに記憶しているようである……。……が……しかし、それは唯それだけであった。私の記憶はそこいらからパッタリと中絶してしまって、その次に気が付いた時には奇妙にも、やはり丸裸体まるはだかのまま、貧弱な十しょくの光りを背にして、自分の病棟付きの手洗場の片隅に、壁に向って突っ立っていた。そうして片手で薄黒いザラザラした壁を押さえて、ウットリと窓の外を眺めながら、長々と放尿しているのであったが、その時に、眼の前のコンクリート壁に植えられた硝子ガラスの破片に、西に傾いた満月が、病的に黄色くなったまま引っかかっている光景が、タマラナク咽喉のどが渇いていたその時の気持ちと一緒に、今でも不思議なくらいハッキリと印象に残っているようである。
 私はその時にはもう、今まで自分がして来た事をキレイに忘れていたように思う。そうしてユックリと放尿してしまうと、電球の真下の白いタイル張りの上に投げ出してある白いタオル寝巻きと、黒い革のバンドを取り上げて、不思議そうにあらためていた事を記憶おぼえている。……俺はドウしてコンナに丸裸になったんだろう……と疑いながら……。しかし私は子供の時分から便所に這入る時に限って、冬でも着物を脱いで行く習慣があったので、多分夢うつつのうちに、そうした習慣を繰り返したのだろうと考え付くと、格別不思議にも感じなくなったように思う。そうして別に深い考えも無しに、どこかへ汚れでも着いていはしないかと思って、一通り裏表をあらためて、バンドと一緒に二三度力強くハタイただけで、元の通りにキチンと着直した。それから片隅の手洗場のコックをねじって、勢よくき出る水のシブキにせかえりながら、ゴクゴクと腹一パイになるまで呑んだ。それから、そのあとで丁寧ていねいに手を洗ったのであったが、それとても平生よりイクラカ念入りに洗った位の事で、左右のてのひらには何の汚染よごれも残っていなかったように思う。そうしてヤットコサと自分の室に帰ると、いつもの習慣通り、寝がけに枕元に引っかけておいた西洋手拭で、顔と手を拭いたが、その時にはもう死ぬ程ねむくなっていたので、スリッパを穿かずに出かけていたことなぞは、ミジンも気付かないまま、倒れるように寝台に這い上ったのであった。

 私の記憶はここで又中絶してしまっている。そうしてタッタ今眼を醒ましても、まだその記憶を思い出さずにいた。……昼間からズーッと眠り続けたつもりでいたのであったが、そうした深い睡眠と、甚だしい記憶の喪失が、私の恐ろしい夢中遊行から来た疲労のせいであったことは、もはや疑う余地が無かった。しかも、そうしたタマラナイ、浅ましい記憶の全部を、現在眼の前で、副院長に図星ずぼしを差された一刹那せつなに、電光のような超スピードで、ギラギラと恢復かいふくしてしまった私は、もう坐っている力も無いくらい、ヘタバリ込んでしまったのであった。
 ……相手はソンナ実例を知りつくしている、医学博士の副院長である。私の行動を隅から隅まで、研究しつくして来ているらしい人間である。神の審判の前に引き出されたも同然である……。
 ……と……そんな事までハッキリと感付いてしまうと、私のはらわたのドン底から、浅ましい、おそろしい、タマラナイ胴ぶるいが起って来た。どうかして逃れる工夫は無いかと思い思い……その戦慄を押さえ付けようとすればする程、一層烈しく全身がわななき出すのであった。

       三

 その時に副院長の、柔かい弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。
「そうでしょう。それに違い無いでしょう」
「……………」
「歌原男爵夫人を殺したのは貴方に違い無いでしょう」
 私は返事はおろか、呼吸をする事も出来なくなった。寝台の上にひれ伏したまま胴震いを続けるばかりであった。
 副院長はソット咳払いをした。
「……あの特等室の惨事が発見されたのは、今朝けさの三時頃の事です。隣家となりの二号室の附添つきそい看護婦が、あの廊下の突当りの手洗い場に行きかけると、あのへやドアいて、まぶしい電燈の光りが廊下にさしている。それで看護婦はチョット不思議に思いながら、へやの中を覗いたのですが、そのまま悲鳴をあげて、宿直の宮原君の処へ転がり込んで来たものです。私はその宮原君から掛かった電話を聞くとすぐに、中野の自宅からタクシーを飛ばして来たのですが、その時にはもう既に、京橋署の連中が大勢来ていて、検屍けんしが済んでしまっておりましたし、犯人の手がかりを集められるだけ集めてあったらしいのです。ですから私は現場げんじょうに立ち会っていた宮原君から、委細の報告を聞いた訳ですが、その話によりますと歌原男爵未亡人はミゾオチの処を、鋭利なトレード製の鋏で十サンチ近くも突き刺されている上に、暴行を加えられていた事が判明したのです。それから入口の近くに寝ていた看護婦も、麻酔が強過ぎたために、無残にも絶息している事が確かめられましたが、その上に犯人は、未亡人が大切にしていた宝石れのサックを奪って逃走している事が、間もなく眼を醒ました女中頭の婆さんの証言によって判明したのだそうです。
 ……しかし、犯人が、それからどこへドウ踪跡そうせきくらましたかという事は、まだ的確に解っていないらしいのです。……へやの中には分厚い絨毯じゅうたんが敷いてあるし、廊下は到る処にマットが張り詰めてありますから、足跡なぞは到底、判然しないだろうと思われるのですが、しかし、それでも警察側では犯人が夕方から、見舞人か患者にばけて、この病院の中に紛れ込んでいたもので、出て行きがけには、明け放しになっていた屋上庭園から、玄関の露台に降りて、アスファルト伝いに逃走したものと見込みを付けているらしく、そんな方面の事を看護婦や医員に聞いておりましたそうです。私が来ました時にも官服や私服の連中が、屋根の上から、玄関のまわりを熱心に調査していたようです。
 ……一方に歌原家からは、身内の人が四五人駈け付けて来ましたので、その筋の許可を得て、夫人の死体を引き渡したのが、今から約三十分ばかり前の事ですが……むろん確かな事はわかりませんけれども、その筋では、余程大胆な前科者か何かと考えているらしく、敷布団しきぶとんの血痕や、雪洞ぼんぼり型の電球おおいに附着しているボンヤリした血の指紋なぞを調べながら「おんなじ手口だ」と云ってうなずき合ったり「田端だ田端だ」と口をすべらしていた……というような事実を聞きました。チョウド一週間ばかり前のこと、田端で同じようなり口の後家さんごろしがあった事が、大きく新聞に書き立ててあったのですから、その筋では事によると、同じ犯人とにらんでいるのかも知れません。
 ……併し私はまだ、それでも不安心のように思っておりますうちに、丁度玄関で帰りかけている旧友の予審判事に会いましたので、私はいい幸いと思いまして、特に力強く証言しておきました。歌原未亡人がこの病院に這入ったのは、まだ昨夜の事で、新聞にも何も出ていないのだから、これは多分、兼ねてから未亡人を付け狙っていた者が、急に思い付いて実行した事であろうと思う。この病院の現在患者は、皆相当の有産階級や知識階級である上に、動きの取れない重症患者や、身体からだの不自由な者ばかりで、こんな無鉄砲な、残忍兇暴な真似の出来るものは一人も居ない筈である……と……」
 私は頭をシッカリと抱えたまま、長い、ふるえた溜息をした。それは今の話を聞いて取りあえず、気が遠くなる程安心すると同時に、わざわざこんな事を私に告げ知らせに来ている、副院長の心をはかりかねて、何ともいえない生々なまなましい不安に襲われかけたからであった。……だから……私はそう気付くと同時に、その溜息を途中で切って、続いて出る副院長の言葉を聞き澄ますべく、ピッタリと息を殺していた。
「……新東さん。御安心なさい。貴方は私がオセッカイをしない限り、永久に清浄な身体からだでおられるのです。すくなくとも社会的には晴天白日の人間として、大手を振って歩けるのです。……けれども貴方御自身の良心と同時に、私の眼をあざむく事は出来ないのですよ。いいですか。……私は特一号室の出来事を耳にすると同時に、何よりも先に貴方の事を思い出しました。昨日の午前中に、貴方を回診した時の事を思い出したのです。あの夢遊病の話を聞いておられた貴方の、異様に憂鬱な表情を思い出したのです。そうして誰よりも先に貴方に疑いをかけながら、自動車を飛ばして来たのです。……そうして歌原未亡人の死体を家人に引き渡すとすぐに、病室の取片付とりかたづけ方を看護婦に命じて、新聞記者が来ても留守だと答えるように頼んでから、コッソリと裏廊下伝いにこのへやに来て、貴方の寝台のまわりを手探りで探したのです。盗まれた茶皮のサックがどこかに隠して在りはしまいかと思って。
 ……ところで私は先ず第一に、あなたの枕元に在る、その西洋手拭いを掴んでみたのですが、果せるかなです。タッタ今手を拭いたように裏表から濡れておりました。貴方がズット以前から熟睡しておられたものならば、そんな濡れ方をしている筈はないのです。それから私は気が付いて、あの向うの二等病室づきの手洗い場に行ってみましたが、手洗い場の龍口栓コックは十分に締まっていない上に、床のタイルの上に水滴がおびただしくこぼれておりました。多分貴方は、コンナ事は怪しむに足りない。よくある事だからと思って、故意わざとソンナ風にして血痕を洗われたのかも知れませんが、私の眼から見るとそうは思われません。血痕という特別なものを、そこで洗い落された貴方が、貴方自身の心の秘密を胡麻化ごまかすためにそうされたので、頭のいい、技巧をろうし過ぎた洗い方だとしか思われないのです。
 ……私はそれから正面に三つ並んでいる大便所を、一つ一つに開いてみましたが、あの一番左側の水洗式の壺の中に、キルクの栓が一個浮いているのを見逃しませんでした。マッチをってみると、その水の表面にはホコリが一粒も浮いていない。つまり最近に流されたものである事を確かめて、イヨイヨ動かす事の出来ない確信を得ました。貴方はあの特一号室から出て来て、このへやに品物を隠されたのちに、あすこに行って手足の血痕を洗い落されました。そうしておろかにも、麻酔に使われた硝子ガラスの小瓶を、水洗式の壺に投げ込んで打ち砕いたあとで、水を放流されたまでは、誠に都合よく運ばれたのですが、その軽いコルクの栓が、U字型になっている便器の水堰みずせきを超え得ないで、烈しい水の渦巻きの中をクルクル回転したまま、又もとの水面に浮かみ上がって来るかどうかを見届けられなかったのは、貴方にも似合わない大きな手落ちでした。明日あすにも私が警官に注意をすれば、あの便所の中から瓶の破片を発見する事は、さして困難な仕事ではないだろうと思われます。……どうです。私がお話しする事に間違いがありますか」
 私は私の身体からだの震えがいつの間にか止まっているのに気が付いた。そうして私が丸ッキリ知らない事までも、知っているように話す副院長の、不可思議な説明ぶりに、全身の好奇心を傾けながら耳を澄ましている私自身を発見したのであった。
 ……何だか他人の事を聞いているような気持になりながら……。

 その時に副院長は又一つ咳払いをした。そうして多少得意になったらしく、今迄より一層なめらかに、原稿でも読むようにスラスラと言葉を続けた。
「……警察の連中はたしかに方針を誤っているのです。十中八九までこの事件を、強力犯ごうりきはん係の手に渡すに違い無いと思われます。その結果、この事件は必然的に迷宮に入って、有耶無耶うやむやうちに葬られる事になるでしょう。……しかし、かく申す私だけは、専門家ではありませんが、警察の連中に欠けている医学上の知識を持っている御蔭おかげで、この事件の真相をタヤスク看破する事が出来たのです。この事件が当然智能犯係の手に廻るべきものである事を、一目で看破してしまったのです。
 ……この事件は時日が経過するに連れて、非常に真相のわかりにくい事件になるでしょう。……何故かというとこの事件は、すくなくとも三重の皮を冠っているのですからね……その表面から見ると疑いも無い普通の強窃盗ごうせっとう事件ですが、その表面の皮を一枚めくって、事件の肉ともいうべき部分を覗いてみますと、極めて稀有けうな例ではありますが、夢遊病者が描き現わした一種特別の惨劇と見る事が出来るのです。夢中遊行者の行動は必ずしもフラフラヨロヨロとした、たよりのないものばかりに限られている訳ではありませんからね。普通人のようにシッカリした足取りで、普通人以上に巧妙な智慧を使って、複雑深刻を極めた犯罪を遂行すいこうする事があると、記録にも残っているくらいですがまさにその通りです。貴方は、貴方特有の強健なあしゆびと、アキレス腱の跳躍力を利用して、この事件を遂行されたに違い無いのです。あなた独得の明敏な頭脳と、スバラシク強健な足の跳躍力とを一緒にして、この惨劇を計画されたに相違無いのです。あなたは標本室の薬液を盗んで、四人の女を眠らせて、この兇行を遂げられたのです。そうして夫人の懐中かみいれを奪って、このへやに帰って、その懐中かみいれを寝床の下に隠してから、知らぬ顔をして便所に行かれたのでしょう。そこで血痕を残らず洗い浄めたのちに、初めて安心して眠られたのでしょう」
 私は又も、肋骨あばらぼねうずき出す程の、烈しい動悸に囚われてしまった。今の今まで他人の事のように思って耳を傾けていた事件の説明が、急角度に私の方に折れ曲って来たので……そうして身動きも出来ない理詰りづめの十字架に、ヒシヒシと私を縛り付け初めたので……。
「……貴方は最早もう、それで十分に犯罪の痕跡を堙滅いんめつしたと思っていられるかも知れませんが……しかし……もし……万が一にも私が、あの標本室に残された、貴方の重大な過失をあばき立てたらドウでしょう。あなたが持って行かれた、あの小さな瓶のあとに残っている薄いホコリの輪と、クロロホルムの瓶の肩に、不用意に残された仔指こゆびらしい指紋の断片とを、司法当局の前に提出したらどうでしょう。……さもなくとも直接事件の調査に立ち会った宿直の宮原君が、警官から当病院内の麻酔薬の取扱方について質問された時に「それは平生いつも、標本室の中に厳重に保管してある。しかもその標本室の鍵は、この通り、宿直に当ったものが肌身離さず持っているのだから、盗み出される気遣きづかいは絶対に無い」と答えていなかったらどうでしょう。そればかりでなく、その後で、警官たちが他の調査に気を取られているすきに、宮原君が念のため先廻りをして、標本室のドアに鍵が、掛かっているかどうかを確かめていなかったとしたら、どうでしょう。……あすこから麻酔薬を盗み出したものが確かにいる。……その人間の仔指こゆびの指紋はコレダという事を警官に突き止められたとしたら、ソモソモどんな事になったでしょうか」
「……………」
「……あなたはそれでも、すべてを夢中遊行のせいにして、知らぬ存ぜぬの一点張りで押し通されるかも知れませんね。又、司法当局も、あなたの平常の素行から推して、今夜の兇行を貴方の夢中遊行から起った事件と見做みなして、無罪の判決を下すかも知れませんネ。しかし……しかし、多分、その裁判には私も何かの証人として呼び出される事と思いますが……又、呼び出されないにしても、勝手に出席する権利があると思うのですが……その裁判に私が出席するとなれば、断じてソンナ手軽い裁判では済みますまいよ。どの方面から考えても、貴方は死刑を免れない事になるのですよ。……私は事件の真相のモウ一つ底の真相を知っているのですから……」
 ……私は愕然がくぜんとして顔を上げた。
 私は今の今まで私の胸の上に捲き付いて、肉に喰い込むほどギリギリと締まって来た鉄の鎖が、この副院長の最後の言葉を聞くと同時に、ブッツリと切れたように感じたのであった。そうしてわれを忘れて、まともに副院長の顔を見上げた……その唇にほのめいている意地の悪い微笑を……その額に輝いている得意満面の光りを、臆面もなく見上げ見下す事が出来たのであった。……事件の真相の底……真相の底……私の知らないこの事件の真相の奥底……と、二三度心のうちで繰返してみながら……。そうして、
 ……この男は、まだこの上に、何を知っているのだろう……。
 と疑い迷っているうちに、又もグッタリと寝台の上に突っ伏して、重ね合わせた手の甲に額の重みを押し付けたのであった。ヘトヘトに疲れた気持ちと、グングン高まって来る好奇心とを同時に感じながら……。
 その時に副院長は、すこし音調を高くして言葉を継いだ。あたかも私を冷やかすかのように……。
「……あなたはエライ人です。あなたはこんな仕事に対する隠れたる天才です。あなたは昨日きのうの朝、足の夢を見られると同時に……そうしてあの有名な宝石蒐集狂しゅうしゅうきょうの未亡人が、入院した事を聞かれると同時に、この仕事の方針を立てられたのです。……否……あなたはズット前から、何かの本で夢遊病の事を研究しておられたもので、足の夢を見られたというのも、あなたがこの事件に就いて計画された一つの巧妙なトリックだったかも知れないのです。

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