| 底本: | 芥川龍之介全集 第一巻 |
| 出版社: | 岩波書店 |
| 初版発行日: | 1995(平成7)年11月8日 |
| 入力に使用: | 1995(平成7)年11月8日 |
| 底本の親本: | 梅・馬・鶯 |
| 出版社: | 新潮社 |
| 初版発行日: | 1926(大正15)年12月25日 |
一人の老人が瞑想に耽りながら、岩の多い岸に坐つてゐる。顔には鳥の脚のやうに肉がない。処はジル湖の大部を占める、
少年が云ふ、「御師匠様、此長い間の断食と、日が暮れてから
との中に住む物を御招きになる戒行とは、あなたの御力には及ばない事でござります。暫くそのやうな勤行はおやめになさいまし。何故と申しますと、あなたの御手は何時よりも重く、私の肩にかかつて居りますし、あなたのおみ足は何時もより確でないやうでございます。人の話すのを聞きますと、あなたは鷲よりも年をとつてゐらつしやると申すではございませんか。それでもあなたは、老年にはつきものになつて居る休息と云ふものを、お求めなさらないのでございます。」
少年は熱心に情に激したやうに云ふ。恰も其心を瞬刻の言と思とにこめたやうに云ふのである。老人は遅々として迫らぬ如く答へる。恰も其心を遠き日と遠き行とに奪はれた如く答へるのである。
「己はお前に、己の休息する事の出来ない訣を話して聞かせよう。何も隠す必要はない。お前は此五年有余の年月を、忠実に、時には愛情を以て己に仕へてくれた。己は其おかげで、何時の世にも賢哲を苦める落莫の情を、僅なりとも慰める事が出来たのだ。其上己の戒行の終と心願の成就とも、今は目の前に迫つてゐる。それ故お前は一層此訣を知る必要があるのだ。」
「御師匠様、私があなたにおたづね申したいやうに思召して下さいますな。火をおこして置きますのも、雨の洩らぬやうに茅葺を
「お前は恐れてゐるな。」老人の眼はかう云つた。さうしてその眼は一瞬の怒に煌いた。
「時によりますと夜、あなたが秦皮樹の杖を持つて、本をよんでお出になりますと、私は戸の外に不思議な物を見ることがございます。灰色の
「お前は古の神々を恐れるのか。あの神々が、戦のある毎に、お前の祖先の槍を強うしてくれたのだぞ。お前はあの矮人たちを恐れるのか。あの矮人たちも昔は夜になると、湖の底から出て来て、お前の祖先の炉の上で、蟋蟀と共に唄つたのだぞ。此末世になつても、猶彼等は地上の美しさを守つてゐるのだ。が、己は先づ他人が老年の眠に沈む時に、己一人断食もすれば戒行もつとめて来た。其訳をお前に話して聞かさなければならぬ。それは今一度お前の
「其時にはすつかり若くなつてお出になりませうか。」
「己は其時になればお前のやうに若くなつてゐるつもりだ。けれども今は、まだ年をとつてもゐれば疲れてもゐる。お前は己を己の椅子と本との所へ、つれて行つてくれなければならぬ。」
少年はフオビスの子エンガスを其室に残して、其魔術師の工夫した、異花の
少年は薔薇と百合とを両腕に抱へきれぬほど集めた。そして蛍をも其真珠と紅宝石との中に押し入れて、それを老人のまどろんでゐる室の中へ運んで来た。少年は一抱へづつ薔薇と百合とを床の上と卓子の上とに置いた。それから静に戸を閉ぢて、燈心草の床の上に横になつた。彼は此床の上に、傍に其選んだ妻を持ち、耳にその子供たちの笑ひ声を聞き、平和な壮年の時代を夢みようとするのである。黎明に少年は起きて、砂時計を携へながら湖の岸に下りた。彼は小舟の中へパンと一瓶の葡萄酒とを入れた。それは彼の主人が悠久の途に上るのに際して、食物に不足しない為であつた。それから彼は坐つて其第一時間が黎明を去るのを待つてゐた。次第に鳥が唄ひはじめた。かくて砂時計の最後の砂が落ちてゐた時に、忽ちすべてのものは其音楽を以て溢るゝやうに見えた。これは其年の中の最も美しい、最も生命に満ちた時期であつた。そして今や何人も其中に鼓動する春の心臓に耳を傾けることが出来たのである。少年は立つて、其主人を見に行つた。青葉の枝が戸口を塞いでゐる。彼はそれを押しのけて、はいらなければならなかつた。彼が室に入つた時に、日の光は環をなしてゆらめきながら、床の上や壁の上に、落ちてゐた。あらゆる物が柔な緑の影に満たされてゐるのである。
けれ共、老人は薔薇と百合との束を、緊く抱きながら坐つてゐた。頭は胸の上に低れてゐる。左手の卓子の上に、金貨と銀貨とに満ちた皮袋ののつてゐるのは、旅に上る為であらう。右手には長い杖があつた。少年は老人にさはつてみた。けれ共彼は動かなかつた。またその手を上げて見た。けれ共それは冷かつた。そして又力なく垂れてしまつた。
「御師匠様は外の人のやうに、珠数を算へたり祈祷を唱へたりして、いらつしやればよかつたのだ。御師匠様のお尋ねなすつた物は、御心次第で御行状や御一生の中にも見当つたものを。それを不死の霊たちなどの中に、お探しなさらなければよかつたのだ。ああ、さうだ。祈祷をなすつたり、珠数に接吻したりしていらつしやればよかつたのだ。」
少年は老人の古びた青天鵞絨を見た。そしてそれが薔薇と百合との花粉に掩はれてゐるのを見た。そして彼がそれを見てゐるうちに、窓につみ上げてある青葉の枝に止つてゐた一羽の
底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店
1995(平成7)年11月8日発行
底本の親本:「梅・馬・鶯」新潮社
1926(大正15)年12月25日発行
初出:「新思潮」第一巻第五号
1914(大正3)年6月1日発行
※初出時の表題は、「春の心臓――W.B.Yeats――」。署名は、押川隆之介(目次では、柳川隆之介)。
入力:もりみつじゅんじ
校正:j.utiyama
1998年11月30日公開
2004年3月7日修正
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