| 底本: | 芥川龍之介全集 第十二巻 |
| 出版社: | 岩波書店 |
| 初版発行日: | 1996(平成8)年10月8日発行 |
| 入力に使用: | 1996(平成8)年10月8日発行 |
こゝではプロレタリア文学の悪口をいふのではない。これを弁護しやうと思ふ。しかし私は一般にブルヂヨア作家と目されてゐる所より、お前などが弁護する必要がないといはれるかも知れない。
プロレタリア文学とは何であるか。これには色々の人がそれ/″\異つた見解を述べてゐるが、私はプロレタリア文明の生んだ文学でブルヂヨア文明の生んだブルヂヨア文学と対比すべきものであると思ふ。しかし現在の社会にはプロレタリア文明は存しない故にその文明に依つて生れたプロレタリア文学はない筈である。故に何か外にあてはまるものはないかといへば、同じブルヂヨア文明の生んだ文芸の中の一つをプロレタリア文学と見ることであらう。でこゝに同じ文明の下にあつてもその作家次第で、プロレタリア文学ともブルヂヨア文学ともなるのである。即ちプロレタリアの作家が作つたものがプロレタリア文学である。しかし作家のプロレタリアであるかないかは中々考察するに至難でプロレタリア文学の作家といはれてゐる彼のバアナードシヨオの如きは中々豪奢な生活をしてゐて日本のブルヂヨア作家よりもブルヂヨア的な生活をしてゐる。シヨオの外に、さういふ生活をしてゐるプロレタリア文学者は大陸に多くゐる筈である。故に作品の中にプロレタリアの生活を書いてゐるかゐないかによつてブルヂヨア文学とプロレタリア文学が区別さるべきであらうか。これも疑問である。シヨオのものにはプロレタリアの生活が表向きに書かれてゐない。出てくる人物は大抵ブルヂヨア若しくは中産階級である。しかし彼の作品を目してプロレタリア文学といふかといへば、人物や生活はプロレタリアのそれでなくても背後にブルヂヨア生活等の崩壊が暗示されてゐるからである。従つてプロレタリア文学とブルヂヨア文学との区別は作者や題材によつてできるものではない。即ち作者の態度で決定されるものであらう。作者がプロレタリアの精神に反対か賛成かで分たれるものである。
さてプロレタリアの精神に味方したものに大体二通りあると思ふ。第一は宣伝を目的としたものと、第二に文芸を造る
私が文壇においてプロレタリア文学の叫びは三四年来耳にするのであるが、私の目する所をもつてすれば私達の胸を打つプロレタリア文学なるものは未だ嘗て現れないやうであり、又同時にプロレタリア文学は誰の人によつても未だ形ちをもつに至らざる処女地のやうなものであると思ふ。私達今の作家の多くが所謂ブルヂヨア的である故にこれから新しい文学を樹立せんとする新人は大いにプロレタリア文学の処女地を開拓すべきであらうと思ふ。いゝものはいゝのである。プロレタリア文学の完成を私は大いに期待するものである。
底本:「芥川龍之介全集 第十二巻」岩波書店
1996(平成8)年10月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
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