と私は投げ出すように云った。浴槽のふちに頭を載せて、手足を
「おだてるのじゃないわよ。……あなた考えなくちゃ駄目よ。……ネ……叔父さんはこの頃、あなたを養子にする事にきめたのよ。そうして自分の財産を全部譲るっていう遺言状を
「フーン僕に
と私は平気な声で云った。そのウラに隠されている彼女の
「そうよ……」
と云いながら彼女は大きな眼で今一度そこいらを見まわした。気味悪く笑いながら前よりも一層低い声で云った。
「だけど、その遺言状を書かしたのは
「……………」
「わかって?……」
「……よけいな事を……」
私は思わず噛んで吐き出すようにこう云った。そうして、その私の横頬を急に唇を噛んだまま睨み付けている彼女の視線をハッキリと感じながら、私は静かに眼を閉じた。
湯気が一しきり
「……あなたって人は……ほんとに
「……ウーン……どうせヤクザモノさ」
「だけど……」
「何だい……」
私は追いかけるようにこう云いながら心もち冷笑を含んで彼女を見上げた。その私の視線を彼女はチラリと流し眼に見返したが、やがてウッスリと眼を伏せると、独りでつぶやくように唇を動かした。
「叔父さんはね……もうじき死んでよ」
「フーン……どうして?……」
と、私は一層冷笑したい気持ちになって、彼女を見上げ見下した。こんな女にも何かしら直覚力があるのかと思って……。しかしその視線を横眼でジッと見返した彼女の全身には、私の冷笑と闘うべく、あらん限りの妖艶さが一時に
「あなたはエライ方ね……」
私は悠々と自分の足の爪先に視線を返しながら答えた。
「どうして……」
「あまり驚かないじゃないの」
「驚いたって仕様がないさ。そっちで勝手にする事だもの……」
「マア……口惜しいッ……」
と不意に金切声をあげた彼女は、血相をかえて掴みかかりそうになった。私はそれを避けようとしてドブリと湯の中へ落ち込んだが、その拍子に鼻の穴から湯が這入ったのを吐き出そうとして、烈しく
見ると彼女は
「……あたしの気持ちはわかっている癖に……あなたがソンナ悪党ってことは……
こう云いながら彼女は又も、その大きな眼をグルグルさして、二三度入口の方を振り返った……と思うと不意に、スックリと立ち上って、
「……あたしね……聞いてちょうだい……ずっと前、長崎で西洋人の小間使いになっているうちに、ソッと毒薬の小瓶を盗んでおいたのよ。……可愛らしい瀬戸物の真黒な小瓶よ。それはね……そのラマンさんという
私は眼の前にモヤモヤと渦巻きのぼる温泉の白い湯気を見守りながら、夢を見るようないい気持ちになって、ウットリと彼女の囁やきに聞き
「……その薬を、僕にも
「……………」
彼女は、私がふり返った眼の前でサッと血の色を喪った。今にも失神しそうにゴックリと唾を飲み込んで、額からポタポタと
「……驚くこたあないよ。僕も死にたいんだから……僕は、今まで叔父に忠告しなかった事を後悔しているんだ。あんたがそんな女だっていう事をね……だけど、どうせ忠告したって同じ事だと思ったから黙っていたんだ」
「……………」
「……ね……あんたは、まだ、そんな事をするくらいだから、生き甲斐のある人間に違いないだろう……しかし僕や叔父はもう人間の癈物だからね。この世に生きてたって仕様のない人間だからね……」
「……………」
「構わないから、その薬を
彼女はみるみる唇の色まで白くした。反対に私を睨んだ眼は、首を切られる鯛のように美しく充血した。今にも泣き出しそうにパチパチと
「……アハハハハハハハハ……アッハッハッハッ……」
と私は不意打ちに笑い出した。彼女が眼まぐるしく瞬を続けるのを見返りながら、
「……アハアハアハアハ……嘘だよ……今のは……。アハハハハハ。まあ、お前さんの好きなようにするさ。おれは知らん顔をしといてやるから……」
彼女は湯冷めで真白になった全身を、ブルブルと
私は、勢いよく大理石槽の湯の中へ飛び込んだ。ザブリザブリと身体を洗いつつ、坐ったまま彫像のように固くなっている彼女を眺めた。たまらない
「アハハハハハ。アハハハハハ。ここへお這入りよ。風邪を引くよ。……今のは嘘だったら、アハハハハハハハ」
それから三日目の寒い晩であったと思う。
温泉
「……モシモシ……モシモシ……四千四百三番ですか……大阪から急報ですよ……お話下さい……」
「……オーッ。青木かア!……何だア!……今頃……」
「……アアモシモシ。君は児島君かね……」
「イイエ違います。児島愛太郎です……」
「……ヤ……御令息ですか。失礼いたしました。私は青木商店の主人で
「……ハア……どんな事でしょうか……」
「もうお聞きになったかも知れませんが、中ノ島の浜村銀行が
「ハア……そうですか」
「頭取の浜村君と、支配人の井田君は昨夜からその筋へ召喚されておりますので、預金者は皆途方に暮れているのです」
「ナルホド」
「あなたのお父様と同銀行とは、兼ねてから深い御関係になっておられる事を承っておりましたので、取りあえずお知らせ致しますが……実は折返して今一度、至急に御来阪願いまして、その事に就いて御相談致したいと存じますので」
「どうも有り難う御座います。すぐに取次ぎます」
「どうかお願い致します。そうして出発の御時間を、すぐにお知らせ願いたいのですが……
「かしこまりました。しかし叔父はまだ、昨夜まで自宅に帰っておりませんので……」
「ハハア。……ナルホド……それは困りましたな……エエトそれではどう致したら……」
「ハイ。けれども昨晩までには帰ると申しておったのですから、事によるともうじき店に来るかも知れません。そうしたら間違いなく……」
「……ハ……どうかお願い致します……では失礼を……」
青木氏の声は落ち付いてはいたが、その口調には明らかに狼狽した響きが含まれていた。ことに依ると青木氏も叔父と同様に浜村銀行に預金しているのかも知れない。面白いな……と私は微笑しつつ電話を切った。そうしてまだ睡い眼をコスリコスリ、今
「オーイ。交換手……切ってくれエ。話は済んだんだア」
「モシモシ……あなたは愛太郎さん?」
「ナアンだ……伊奈子さんか……ちょうどよかった……今どこからかけているの……」
「公園の中の自動電話よ」
「フーン。何の用?……」
「……あのね……
「フーン。それで……」
「……あのね……そうしたらね……
「……どうして……」
「……あのね……妾……アノお薬を
「……フーン……だから温泉で僕に打ち明けたんだね」
「……エエ……まあそうよ……そうしたら昨夜、夜中から胸が苦しいと云い出してネ、今朝、お隣りの山際っていうお医者さんに
「ちょうどよかった」
「ええ……だからあなた早く来て頂戴な。そうして何とか芝居をして頂戴な……あたし何だか怖くなったから……」
「……バカ……何が怖い……そんな事は覚悟の前じゃないか……初めっから……」
「だって医者が見ている前で口と鼻からダラダラ出血し初めたんですもの……あのお薬は妾が聞いたのと何だか違っているようよ。……お医者が青くなって妾の顔を見ながら、これは何かの中毒だって云ったから、妾
「駄目だよ。浜村銀行は払やしないよ」
「……エッ……どうして?……」
「浜村銀行の頭取と支配人が昨夜大阪で拘引されたんだ。福岡の支店も支払停止にきまっている。叔父は破産しているんだよ。残っているのは待合の借りばかりだ」
「……………」
「みんなお前さんの自業自得さ。お気の毒様みたいなもんさ。……どこへでも行くがいい……」
「……ホント……」
「本当さ……今、大阪から電話が掛かって来たから知らせようと思ったところへ、お前さんが電話をかけたんだ。だから僕はすぐに電話口へ出たろう……ちょうどよかったんだ」
「……………」
「……ジャ
「待って頂戴……」
「……何だ……」
「……チョッと待ってネ。後生だから……あたし……」
「どうしたんだい」
「……………」
彼女が受話機を箱の上に置く音がした。そのあとから自動車らしい警笛がホンノリと通過すると間もなく、彼女が咳払いする音が聞えて来た。
「……モシモシ……モシモシ……時間ですよ……」
「……つないで……ちょうだい」
お金を入れる音がコチーンとした。
「オイオイ……どうしたんだ?」
「……あたし……今ね……叔父さんに上げたお薬の残りをアブサントに
「馬鹿……」
「……妾……今から帰って、お医者様にスッカリ白状するわ。みんな妾が一人でした事だって……ですから
彼女が受話機を取り落す音がした。そのあとからゴトーンと人間の身体が倒おれるような音が響いた。
「……馬鹿め……勝手にしろ……」
と云い放って私は受話機をかけた。
「……チイ……芝居だ。畜生め……このまま俺が逃げ出したら、立派な犯人が出来上るって寸法だろう……ハハンだ……電話の神様を知らねえか……」
こう思いながら二階に上って、昨夜の吸いさしの葉巻に火を
ウッカリするとそのうちに叔父が店にやって来るかも知れないと思い思い、グッスリと睡ってしまった。
× × ×
警察でも検事局でも私は一切知らない知らないで頑張り通した。血を吐いた叔父と伊奈子の死骸を突きつけられた時も、彼女が叔父の
霜の真白な町伝いに取引所前の店に帰ってみると、表の
しかし私は、三週間ばかり前から大評判になっている「
又は、
伊奈子の恐ろしい死に顔を見た瞬間に、彼女の真実を知ったからであった。
眼に見えぬ
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社
1929(昭和4)年12月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:久保あきら
2000年6月17日公開
2006年3月8日修正
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●表記について
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「ユ-一」、屋号を示す記号 273-2 「ユ-一」、屋号を示す記号、 285-18