外はスゴイ月夜であった。玄関の正反対側から突出ている煙突の上で月がグングンと西に流れていた。
庭の木立の間の暗いジメジメした土の上を手探りで歩いて行くうちにビッショリと汗をかいた。
東京市内の地理と警察網に精通している新聞記者の私であった。誰にも発見されずに深夜の大久保を抜け出して、新宿の遊廓街に出るのは造作ない事であった。
そこで私はグデングデンに酔っ払ったふりをしながら
このアパートは最新式の設備で、贅沢な暖房装置がある。出入りはむろん自由になっていた。それでも私は細心の注意をして、音を立ないように三階の一番奥の自分の
室の中央のデスクには受話機を外した卓上電話器と、昨夜の十一時近くまで書いていた日曜附録の原稿が散らばっていた。
寝台の脚にかけたフランネルの
室の隅の洗面器で音を立てないように手を洗った。立てても差支えないとは思ったが……。
最後に私は椅子の上に置いた帽子を取上げて
そのまま室の隅の帽子かけに掛けようとしたが、その
……お女郎蜘蛛だ……あの南堂家の木立の中に
私はフッと
何がなしにホッとした。
南堂伯爵未亡人の死と、私とを結び付けて考え得る者は、今逃がしてやった一匹のお女郎蜘蛛以外に絶無である。心臓に短剣を刺された屍体が、私の名前を叫び立てでもしない限り……。
私はこの原稿を書上げ次第、雑誌社に居る友人に郵送するつもりである。同時に新聞社へ宛てて神経衰弱がヒドクなったようだから一箇月ばかり静養して来る……という意味の届けを出して、警視庁の手の届かない遠い処へ飛ぶつもりでいるのだから万に一つも捕まる心配はない。
しかし用心だけは、どこまでもしておくのが私の癖だ。
この原稿を受取った私の友人は、いつもの通り内容をロクに見ないまま文選工場へまわすに違いない。締切を突破した予告原稿だから……。
そこでこの原稿はバラバラになって職工の手に渡る。印刷されてもわかる気遣いはない。製本されて纏まった文章になって、蒸気とガソリンの速力で全国の読者に配布されても地名や人名は仮名になっているし、
私のこうした行動が、この場合唯一の自白であり、且つ手がかりである事を私は知り過ぎる位知っている。……にも
その理由はただ一つ……事件の真相をどこまでも真実の形で認めてもらいたいからだ。南堂伯爵未亡人との約束を果したいからだ。
私は捕まり次第、脅喝殺人の罪に問われるにきまっている。うっかりすると謀殺か強盗の
私がすべての生命に対して特別に
私は現代社会の堕落層に住む寄生虫である。卑怯者と呼ばれても悪党と罵しられてもビクともしないであろう一種の冒険を、特に「
私はこれから
身におぼえのある堕落資本家諸氏よ。警戒するがいい……。
外はモウ明るくなって来たようだ。
ここいらで一服してみよう。
私は
むろん、それは尋常一様の訪問ではなかった。手早く言えば脅喝の目的であった。
私は日本屈指の大新聞、東都日報の外交部につとめる傍ら、本郷
ところがこの頃になって、その脅喝が著しく利いて来た。近頃の大新聞が、上流社会の
資本主義末期の社会層には、不景気に反逆する上流社会の堕落例が
南堂伯爵未亡人は、その
巨万の財産を死蔵して、珍書画の蒐集に没頭していた故伯爵が四五年前に肺病で死ぬと間もなく未亡人は、旧邸宅の大部分を
未亡人の美しさが見る見る年月を逆行し始めたのは、その頃からの事であった。モウ四十に近い
彼女はスバラシイ機智と魅力の持ち主であった。物質的にも精神的にも決して敵を作らなかった。子供のない残生を公共の仕事に使いつくす覚悟だと云い触らしていた。幼稚園や小学校に行って子供を愛撫するのが何よりの楽しみだとも云った。又、実際、彼女はそんな風に見えた。
彼女の事業に共鳴し、彼女の仕事のために奔走する紳士淑女が彼女の周囲に雲集した。彼女の事業を援助する興行物は必ず大入満員を占めた。
新聞や雑誌は争うて彼女の写真や、言葉や、文章を載せた。彼女の見事な筆跡で書いた
その中に私だけがタッタ一人、彼女に眩惑されなかった。或る不思議な動機から、出来るだけ彼女に遠ざかりながら、出来る限り真剣になって彼女の裏面を探りまわっていた。
その不思議な動機というのは南堂家の図書館に新しく取付けられている煙突であった。
……事実……私が南堂伯爵未亡人の素行調査にアンナにまで夢中になり始めた、そのソモソモの動機というのは、アノ粗末な、赤煉瓦の煙突に外ならなかったのだ。
大久保百人町附近の人は知っているであろう。
昔風の
ところでその杉木立の中にポツネンと立っている南堂家の図書館というのは、五
ところが伯爵の死後、玄関と正反対の位置に新たに取付けられた煙突というのは、普通の赤煉瓦を真四角に積み上げたデッカイ、不恰好なものであった。
私はズット前から、この煙突の正体を怪しんでいた。……というのは、この煙突が出来てから、
この事実を初めて発見した時には
けむりを吐かぬ煙突(けむりをはかぬえんとつ)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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