その足音を聞き送ると、妾は、枕元のスイッチをひねってシャンデリヤを消した。パジャマと羽根布団で
窓の外はもう夕方で、山の手の方から海へかけて一面に
そう思いながらも、妾はジッと瞳を
ところが眼の下のスクリーンはなかなか妾の思う通りに進展しなかった。
妾は寒い往来を辷りまわる自動車を、あとからあとから見送っているうちに、鼻の穴がムズ
するとその時だった。そんな自動車の群れの中から、見おぼえのある新型のフォードが眼の下のアパートの勝手口にスルスルと近付いた……と思うと、その中からブルドッグ・オヤジの黒い外套が茶色の中折れを冠り直しながらヒョロヒョロと降りて来た。その足どりを見るとかなり酔っているらしく、石段の前に立ちはだかって、もう一度帽子を冠り直しながら、あぶなっかしい手付きでネクタイを直し初めた。すると又それと殆んど同時に勝手口の
妾はハッとした。今にも爆弾が破裂するかと思って、首を引っこめる心構えをした。けれども爆弾は破裂しなかった。
妾は
運命の神様ラドウーラの御つかわしめになっているハラムは、ツイ今しがた妾の処からウルフが帰りかけたのを見るや否や、どこかでお酒を飲んでいるブル・オヤジに何かしら大変な急用を知らせたに違いない。ことによると昇降器に故障が出来たのもラドウーラ様がハラムに御命令遊ばしたトリックの一つかも知れない。そうしてウルフの帰りを手間取らして、妾の旦那と色男が、わざっと妾の眼の下の往来でブツカリ合うように時間を手加減なすったのかも知れない。
そう思いながら腋の下の寒いのも忘れて一心に見とれていると、ブルとウルの二人は、だしぬけにブツカリ合ってビックリしたらしく
妾はこんな面白い光景を見た事がなかった。あの包みが直ぐ横の電柱か、自動車の横腹にぶつかったら……と思うと、何度もハラハラさせられた。
ところが不思議な事に、二人はそのまま別れて行かなかった。
ブル・オヤジはウルフを睨み付けたまま、右手をあげて合図をすると、自動車の中から、
それを見るとそこいらを通りかかっている三四人の洋服男が立ち止まって見物し出した。ズット向うの四ツ辻に突立っている交通巡査も、こっちの方を注意しはじめた。
妾はブル・オヤジの大胆なのに呆れてしまった。おおかたブル・オヤジは相手の正体を知らないでいるのだろう。よしんば正体を知っているにしても、その相手が持っている黒い包みの中味ばっかりは知っていよう筈がない……だから自分の経営しているビルデングから出て来た怪しげな浮浪人を
「……俺は貴様の正体ぐらい、トックの昔に知っているぞ。貴様はお尋ね者の……だろう」
妾は夢中になって
ウルフのそうした姿を見ると、ブル・オヤジは、なおのこと大きな声でタンカを切り出した。
「貴様等の秘密行動は一から十まで俺の耳に筒抜けなんだぞ。日本の警察全体の耳よりも俺の耳の方がズット上等なんだぞ。貴様がこのごろここへ出這入りし初めた事も、タッタ今、貴様の変装と一緒に、或る方面から電話で知らせて来たんだ。だから俺は大急ぎで飛ばして来た。貴様の
「……………」
「……敵にするなら敵でもいい。貴様等の首を絞めるくらい何でもない。論より証拠この通りだ。貴様等みたいな青二才におじけて俺の荒仕事が出来ると思うか。しかし、きょうは許してやる。俺の可愛い奴のために見のがしてやる。ここで出会ったんだから仕方があるまい」
「………………」
「行け…………」
ブル・オヤジが、こう云うのと一緒に、ウルフの両手を掴んでいた運転手が手を離して、グルリと相手の横ワキへまわった。その菜っ葉服のポケットの中でピストルを構えているのが真上から見ているせいか、よくわかった。
けれどもウルフは行かなかった。その代りに今まで猫背に
妾は何だかつまんなくなって来た。
睨み合っている二人はお互いに、お互い同志の事を知り過ぎるくらい知り合っているのだった。それでいてこの妾に気兼ねをしているために、何んにも手出しが出来ずにいるのだった。
妾は窓から首を引っこめて、大きなクシャミを一つした。寝台の下に手を入れて、コロコロ倒れる瓶の間から、重たいパンの固まりを取り上げると、その横腹をやぶきながら、もう一度窓の下をのぞいてみた。
五階の下の往来では二人がまだ睨み合っている。見物人も元の通りに四五人突立っている。その真上に重たい銀色の
……それだけだった……けれども、タッタそれだけで、妾は
それから何十分ぐらい経っていたか、わからなかった。
隣りの
それはウルフが四五日前に教えてくれたピストルの無音発射の試験を実地にやってみて、成功したばかしのところだった。妾の寝台の上にだらしなく眠りこけていたハラムの真黒い、おおきな腹の弾力が、妾の小さなブローニングの爆音を、あらかた丸呑みにしてくれたのだった。反動がずいぶん
ハラムはそのあとからワレガネみたいな悲鳴をあげて床の上に転がり落ちた。そのまま絨毯の上をドタリドタリとノタ打ちまわると、それにつれて真赤な帯がグルグルとハラムの胴体に巻き付いて行った。
ハラムは、その間じゅう息詰まるような唸り声をあげつづけた。
「……オヒイ……サマ……オオオヒイ……サマア……アア……アア……」
妾はそれを見下しながら麻雀台の傍に突立っていた。「恋」というものの詰らなさ……アホラシサをゾクゾクするほど感じさせられながら、シンミリした火薬の煙と、
底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
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