しかし、そのうちに彼はヤットの思いで立ち上った。手も力もなく
……俺はここへ何をしに来たんだ。……そうして……このまま帰ったら俺は一体どうなるんか……。
やがて彼は闇の中でガックリとうなずいた。
忽ちツカツカと石柱の根元に歩み寄って、盛り上った白菊の鉢に両手をかけた。
「……エエ
とイキミ声を出しながらジワジワと鉢を持ち上げかけた。
「俺が来た証拠だ……畜生……」
それは疲れ切った、空腹の彼にとっては、実に容易ならぬ大事業であった。大の男が二人がかりでもどうかと思われる巨大な白菊の満開の鉢を、ヤットの思いで胸の上まで抱え上げるうちに、彼の全身は、新しい汗で水を浴びたようになった。その夜露と泥とで
彼はそれから一歩一歩と、無限の地獄に
彼は肩の上に喰い込んでいる菊の鉢を、そのまま、眠っている少女の
……畜生……ブチ殺した方が
と唇を噛み締めながら考えた。
彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に
しかし彼はモウ汗も出ないほど
その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように
「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」
そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと
彼の
……あくる朝……。
晴れ渡った晩秋の
それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻を
若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白
すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、
若い女性は、それを見迎えながら微笑した。
「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」
しかし女の児は聴かなかった。
可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマの
「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のお
と云いさして女の児は息を切らした。
「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」
女の児は一層眼を丸くして頭を振った。
「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」
「……エ……」
若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。
「……ソウチタラネ……アノお人形のお
「……まあ……」
といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の
「……マア……
「イーエ……お母チャマ……アタチ知っててよ。ゆうべね。アタチ達が帰ってからね。アノお人形のお
女性はすこしばかり血色を取り返した。
「……まあ……オホホ……」
「それでね……アノ御家来の熊さんが、持って行って上げたのよ……キット……」
「……ネ……ソウデチョ……お母チャマ……」
「……………」
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2000年10月25日公開
2006年3月9日修正
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