……今もそのつもりでいる。
……だから教育家になったのだ。今の教育法に一大革命を起すべく……児童のアタマに隠れている数理的な天才を、社会に
……しかし今の教育法では駄目だ。全く駄目なんだ。今の教育法は、すべての人間の特徴を殺してしまう教育法なんだ。数学だけ甲でいる事を許さない教育法なんだ。
……だから今までにドレ程の数学家が、自分の天才を発見し得ずに、闇から闇に
……俺は今日まで黙々として、そうした教育法と戦って来た。そうして幾多の数学家の卵を地上に
……太郎もその卵の一つであった。
……
……けれども俺は太郎に命じて、そうした数理的才能を決して他人の前で発表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が
……視学官ぐらいに何がわかるものか。
……ネエ。太郎、そうじゃないか。
……
……ネエ。太郎……。
……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。
……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。
……だけども……だけども……。
ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。
……だけども……だけども……。
というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を
それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、
彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには
彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に
そこは太郎が
彼は
……だけども……だけども……。
という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を
……だけども……だけども……。
と考えながら彼は自分の
……だけども……だけども……。
……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、
……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。
……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん
……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。
……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。
……アハハハハハハ……。
……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に
……アハ……アハ……アハ……。
彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、思いがけない背後から、突然非常な力で……グワーン……とドヤシ付けられたように感じた。そうしてタッタ今、凝視していた
……お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん……。
と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで
「……ナアーンダ。お前だったのか……アハ……アハ……アハ……」
底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
※「気持」「気持ち」の不統一は底本のママとした。「初め」は「始め」が正しいと思われるが、これも底本のママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:柳沢成雄
2001年4月19日公開
2006年3月16日修正
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