二
私たちの行程は非常に困難であった。
私と連れ立った候補生は、途中で苦痛のために二度ばかり失神して、あまり頑強でない私の
しかし二人とも大佐には追附き得なかった。大佐は途中で二度ばかり私を振返って、
「ソンナ奴は放っとき給え。早く来給え」
と噛んで吐き出すような冷めたい語気で云ったが、私の頑固な態度を見て諦めたのであろう。そのままグングンと私たちから遠ざかって行った。そうした理屈のわからない残忍極まる大佐の態度を見ると、私はイヨイヨ
候補生はホントウに目が見えないらしかった。その眼の前の零下二十度近い空気を凝視している
私は遥かの地平線に散り乱れる海光色の光弾と、中空に
候補生も何か感じているらしく、その大きく見開いた無感覚な両眼から、涙をパラリパラリと落しているのが、月の光りを透かして見えた。
私は
「軍医大佐殿とはモウ余程離れておりますか」
「……ソウ……百
候補生は答えないまま空虚な瞳を星空へ向けた。血の気の無い白い唇をポカンと開け、暫く何か考えているらしかったが、やがて上衣の内ポケットから小さな封筒大の油紙
しかし私は受取らなかった。彼の手と油紙包みを一所に握りながら問うた。
「これを……私に呉れるのですか」
「……イイエ……」
と青年は頭を強く振った。なおも湧出す新しい涙を、汚れた脱脂綿で押えた。
「お願いするのです。この包を私の故郷の妻に渡して下さい」
「
「……ハイ。妻の
「中味の品物は何ですか」
「僕たちの財産を入れた金庫の鍵です」
「……金庫の鍵……」
「そうです。その
と云う
「とにかく……話して御覧なさい」
「……あ……有難う御座います……」
「サアサア……泣かないで……」
「すみません。済みません。こうなんです」
「……ハハア……」
「……僕の先祖はザクセン王国の旧家です。僕の家にはザクセン王以上の富を今でも保有しております。父は僕と同姓同名でミュンヘン大学の教授をつとめておりました。僕はその一人息子でポーエル・ハインリッヒという者です。今の母親は継母で、父の後妻なんですが、僕と十歳ぐらいしか
「成る程。よくわかります」
「僕が継母に
私は太い、長い、ふるえたタメ息を腹の底から吐き出した。最初は不承不承に聞いていたつもりであったが、いつの間にか一も二もなく候補生に同情させられていた。
「成る程……
「……でしょう……ですから僕は、僕の財産の一切を妻のイッポリタに譲るという遺言書と一緒に、色々な証書や、家に伝わった宝石や何かの全部を詰め込んだ金庫の鍵を、戦線に持って来てしまったんです。ちょうど妻が
「成る程。よくわかります」
「それだけじゃないのです。私の出征した後で帰って来た妻は、私の母親と弁護士に勧められて、
「それあ
「……怪しからんです……しかし妻は、僕から離別した意味の手紙を受取らない限り、一歩もこの家を出て行かないと頑張っているそうですが……私たちは固く固く信じ合っているものですからね……」
候補生は一秒の時間も惜しいくらい迅速に、要領よく事情を説明した。恐らく彼が鉄と、火と、毒
「どうぞどうぞ後生ですから、この鍵を
私は思わず
見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。
「……ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します……僕は……この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に……
「……………」
「……しかし……しかし
そう云う
「……見えませぬ。……見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ……ああ……残念です……」
私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の
「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように……」
候補生は真黒く凍った両手で、私の
「僕はモウジキ死にます。遅かれ早かれヴェルダンの土になります。……その前にタッタ
私はモウすこしで混乱するところであった。
死のマグネシューム光が照し出す荒涼たる黒土原……殺人器械の交響楽が刻み出す氷光の静寂の中に、あらゆる希望を奪い尽くされた少年が、タッタ一つ恩人の顔だけを見て死にたいと風
しかし地平線の向うでダンダンと発狂に近付いて来るヴェルダン要塞の震動に、凝然と耳を傾けていた候補生は、間もなく頭を強く左右に振った。ヨロヨロと私から退き離れた。
「ああ。何もならぬ事を申しました。さあ参りましょう。軍医大佐殿が待っておられますから……疑われると
私はここでシッカリと候補生を抱き締めて、何とか慰めてやりたかった。昂奮の余りの超自然的な感情とはいえ、この零下何度の殺気に
しかし候補生は何かしら気が
私は神様に命ぜられたような崇高な感じに打たれつつ
三
やがて二
その僅かに二三尺から、四五尺の高さに残っているコンクリートや煉瓦塀の断続の間に白と、黒と、灰色の
もうスッカリ麻痺していた私の神経は、そんな物凄い光景を見ても、何とも感じなかったようであった。候補生を肩にかけたままグングンとその死骸の山の間に進み入った。ガチャリガチャリと鳴る軍医大佐の
そこは戦前まで村の中央に在った学校の運動場らしかった。周囲に折れたり引裂かれたりしたポプラやユーカリの幹が白々と並んでいるのを見てもわかる。その並木の一本一本を中心にして三方に、四五
その広場の中央に近く、やはり数十の負傷兵が、縦横十文字に投出されたように寝転がっていたが、しかしこの負傷兵たちが、何のために白樺の林から隔離されて、コンナ陰惨な死骸の堡塁の中間に収容されているのか私はサッパリ見当が付かなかった。しかもこの連中は比較的軽傷の者が多いらしく、村の入口らしい、石橋の処で待っていた大佐と、私たちとが一緒になって中央に進み入ると、寝たまま半身を起して敬礼する者が居た。それは特別に軍医の注意を惹いて、早く治療を受けたいといったような、負傷兵特有の痛々しい策略でもないらしい敬礼ぶりであった。
しかしワルデルゼイ軍医大佐は、そっちをジロリと見たきり、敬礼を返さなかった。直ぐに私の方を振返って、
「その小僧をそこへ突放し給え」
と云ったがその鬚だらけの顔付の恐しかったこと……月光を背にして立っていたせいでもあったろう。地獄から出張して来た青鬼か何ぞのように物凄く見えた。
私が候補生を地面にソッと寝かしてやると、軍医大佐は苦々しい顔をしたまま私を身近く招き寄せた。携帯電燈をカチリと照して、そこいらに寝散らばっている負傷兵の傷口を、私と一緒に一々点検しながら、無学な負傷兵にはわからない
「この傷はドウ思うね……クラデル君……」
「……ハ……
「普通の貫通銃創と違ったところはないかね」
「銃創の周囲に
「……というと……どういう事になるかね」
私はヤット軍医大佐の質問の意味がわかった。
しかし私は返事が出来なかった。……自分の銃で、自分の
大佐は鬚の間から白い歯を
「そんならこの下士官の傷はドウ思うね」
「……ハ……やはり上膊部の貫通銃創であります。火傷は見当らないようですが……」
「それでも何か違うところはないかね」
「……弾丸の入口と出口との比較が、ほかの負傷兵のと違います。仏軍の弾丸ではないようで……近距離から発射された銃弾の貫通創と思います」
「……ウム……ナカナカ君はよく見える。そこでつまりドウいう事になるかね」
私は又も返事に困った。前の時と同じ理由で……。
「この脚部の
「弾丸の入口が後方に在ります」
「……というとドンナ意味になるかね」
「……………………」
「それじゃ君……コッチに来たまえ。この腕の傷がわかるかね」
「わかります。弾丸の口径が違います。私は
「何の弾丸だったね。それは……」
「……………………」
「味方の将校のピストルの
「……………………」
「……ハハハ……もう大抵わかったね。ここに集めて在る負傷兵の種類が……」
「……ハイ……ワ……わかりました」
私は何故となくガタガタ震え出した。
しかしワルデルゼイ軍医大佐は、依然として「研究」を中止しなかった。なおも次から次へと私を引っぱりまわして、殆んど百名に近いかと思われる負傷者の患部を診察しては質問し、質問しては次に移って行ったが、いずれもその最後は、私が答える事の出来ない質問に帰着する種類の負傷ばかりであった。
悽愴極まる屍体の山と石油臭の中に隔離されている約一小隊の生霊に、モウ間もなく与えられるであろう軍律の制裁……或る不可知の運命を考えさせられながら、その不名誉この上もない……
「……そこでクラデル君。これらの全部の負傷兵の種類を通じての特徴として、君は何を感じますかね」
「……ハッ……。皆、味方の銃弾か、銃剣によって
「……よろしい……」
吾が意を得たりという風に云い放った軍医大佐はピタリ顔面の摩擦を中止した。満足げに
その時に姿勢を正したワルデルゼイ軍医大佐は、三方の屍体の山を見まわしながら真白い息を吐いて
「……皆ア……立て――エッ……」
アッチ、コッチに寝転がっていた負傷兵が皆、弾かれたようにヒョコリヒョコリと立上った。中には二三人、地面に凍り付いたように長くなっている者も在ったが、それは早くも軍医大佐の命令の意味を覚って、失神した連中であったらしい。
何の反響も与えない三方の屍体の山が、云い知れぬモノスゴイ気分を場内一面に横溢させている。
「皆、俺の前に一列に並べ。早く並べ……何をしとるか。倒れとる奴は引摺り起せ」
声に応じて二三人の負傷兵が寄り集まって、長くなっている仲間を抱き上げようとしたが結局、無駄であった。正体のなくなっている酔漢と同様にグタグタとなって何度も何度も戦友の腕から辷り落ちるのであった。真実に気絶しているらしいので、凍死しては
「……放っとき給え……ほっときたまえ……凍死する奴は勝手に凍死させておけ。そんな者はいいから早く並べ。……ヨオシ……皆、気を附け……整頓……番号……」
「二、三、四……八十……八十一ッ……」
「八十一か……」
「ハイ。八十一名であります」
最後尾に居るポーエル候補生が真正面を向いたまま答えた。
「よろしい。寝ている奴が三人と……合計八十四名だな」
「そうであります」
今度は候補生の一つ前に居る中年の軍曹が答えた。ピストルで腕を撃たれている男だ。肩から白い繃帯と副木で綿に包まれた腕を釣っているのがこの場合、恐ろしく贅沢なものに見える。
「……よろしい……」
軍医大佐が又も咳一咳した。
「……馬鹿……誰が休めと云うたか……銃殺するぞ。馬鹿者
死骸の山を背景にして、蒼白な月光に正面した負傷兵の一列の顔はドレもコレも生きた色を失っていた。死人よりも力ない……幽霊よりもタヨリない表情であった。その生きた死相の行列は、一生涯、私の網膜にコビリ付いて離れないであろう。
「……汝等は……何故に普通の負傷兵から区別されて、ここに整列させられているか、自分で知っているか」
軍医大佐の言葉が終らぬ
ツルツルと一筋、つめたい汗の玉が背筋を走ったと思うと、私も眼の前の光景が、二三十
倒れた仲間を振返って見る者は愚か、身動きする者すらいなかった。皆、蒼白い月の光の中に氷結したようにシインと並んで立っていた。……その時の彼等がドンナ気持で立っていたか、私には想像出来なかった。ただボンヤリと
「わからなければモウ一つ質問する」
軍医大佐は一歩前進して自分の背後を指した。
「眼を開いて汝等の正面を見よ。あの物凄い銃砲の音と、火薬の渦巻を見よ。あれが見えるか。あれは一体、何事であるか……わかるか……」
「……………」
誰も返事をしなかった。返事の代りに又も二三人バタリバタリと引っくり返っただけであった。
「……よろしい……それから……廻れエ、右ッ……」
皆、器械のように決然と廻転した。
「よしッ。汝等の背後に山積して在る汝等の同胞の死骸を見よ……これはイッタイ何事であるか汝等の同胞は何のためにコンナ悲壮な運命を甘受しているのか……わかるか……」
思い出したように
光弾が……仏軍のマグネシューム光がタラタラと白い首筋の一列を照して直ぐに消えた。
「……よろしい。廻れエ、右ッ……整頓……。わからなければ今一つ尋ねる。ええか。……イッタイ吾々軍医なるものは何のために戦場に来ているのか汝等は知っているか」
「……………」
「……ただ自分達の負傷の手当のためにばかり来ていると思ったら大間違いだぞ。汝等のような売国奴同然の非国民を発見して処分するのが俺達、軍医の第一、第二、第三の責務である。負傷の手当てなどいうものは第四、第五の仕事という事を知らないのか! エエッ!」
そういう
ワルデルゼイ軍医大佐は更に強く咳一咳した。声がすこし
「……ええか……よく聞け……軍医の学問の第一として教えられることは
「……………」
「……現在……汝等の父母の国は、汝等の父母が描きあらわした偉大な民族性の発展を恐れ憎んでいる全世界の各国から撃滅されむとしつつ在る。学術に、技芸に、経済政策に、模範的の進取精神を輝かして、世界を掠奪せむとしている吾々独逸民族に対して、卑怯、野蛮な全世界の未開民族どもが、あった限りの非人道的な暴力を加えつつ在る。英、仏、伊、露、米、等々々は皆、吾々の文化を恐れ、吾々の正義を滅ぼそうとしている旧式野蛮国である……わかったか……」
「……………」
「これを憤ったカイゼルは現在、吾々を率いて全世界を相手に戦っている。汝等の父母、同胞、独逸民族の興亡を
「……………………」
「その戦いの勝敗の分岐点……全、独逸民の生死のわかれ目の運命は、今、汝等の真正面に吠え、唸り、燃え、渦巻いているヴェルダンの要塞戦にかかっているのだ。その危機一髪の戦いに肉弾となって砕けた勇敢なる死骸は……見ろ……汝等の背後にあの通り山積しているのだ。……その死骸を見て汝等は恥しいとは思わないのか」
「……………」
「汝等はそれでも人間か。光栄ある独逸民族か。世界を敵として正義のために戦うべく、父母兄弟に送られて来た勇士と思っているのか」
「……………」
「……下等動物の
「……………」
「汝等は戦死者の列に入る事は出来ない。無論……故郷の両親や妻子にも扶助料は渡らない覚悟をしろ。ただ汝等の卑怯な行為が、汝等の父母、兄弟、朋友たちに絶対に洩らされない……軍法会議にも渡されない……今日只今限りの秘密の
私はモウ立っている事が出来ない位ふるえ出していた。眼の前の負傷兵の一列が、どうして身動き一つせずにチャント立っているのだろうと不思議に思った位であった。
ワルデルゼイ軍医大佐は、演説を終ると同時に右手を唇に当てて、呼子の笛を高らかに吹き鳴らした。その寒い、鋭い音響が私の骨の髄まで沁み
それは輜重隊の大行李に配属されている工兵隊の一部が、程近い処に伏せて在ったのであろうと思われる。かねてから打合わせて在ったと見えて一小隊、約百名ばかりの
その列の後方から小隊長と見える一人の青年士官が、長靴と、長剣の鎖を得意気に鳴らして走り出て来た。軍医大佐の前に来て停止すると同時に物々しく
折からヴェルダンの中空に辷り昇った強力な照明弾が、向い合った味方同志の兵士の行列を、あく迄も青々と、透きとおる程悽惨に照し出した。
その背後の死骸の山と一緒に……。
戦場(せんじょう)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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