第四の条件は実在の名前を……たとえば電話帳などに多く出て来る名前をなるだけ使いたくない事である。
前にも述べた通り、実在しない突飛な名前を使うと、読者の記憶へは残り易い代りに、この全篇の迫真性を極度に薄める
しかし一方に実在の名前をなるたけ使おうとすると困る問題が一つ出て来る。
これも前述の通り探偵小説では善人と悪人とをハッキリ区別しなければならない場合が非常に多いのだから、善人の場合は差支えないが、悪人の名前にウッカリ実在の名前を使うと意外な結果を招き易い。
これは架空の話だから御差し合いの方には
こうして種々な条件を附けて来ると、創作人物の名前なるものは、いい加減、神経衰弱のタネになるものである。だから私などは今日まで気に入った名前ばかりで一篇を創作した場合は一度もないので、十中八九は、いい加減なところで辛抱して来た場合が非常に多い。
無責任なようではあるが、そんな風に考えて徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、締切りに間に合わない場合が多いのだから止むを得ない。
又一方から見ると作者が創作人物の名前を悠々閑々と思案する……などいう事は今のスピード時代には望まれない事かも知れない。
作者の道楽かもしくは、お庭の石を
妙なものと云おうか、又はありがたい事と云おうか、ここに一つ不思議な現象がある。
最初はいい加減な名前で我慢して、そのうちにいい名前を附けてやるつもりで筋を進めて行く
最初は不似合に思っている名前でも原稿紙の十四五枚も書いて行く
もう一つ面白いのは主役と
端役の名前などはドウでもいいと思うのは大変な間違いである。主役の名前はどこでも主役らしく、端役の名前は必ず端役らしく附けて行かなければならぬ事は無論であるが、その主役に対する色どり、対照の軽重なぞを一歩誤ると、読者に余計な注意力を浪費させ、筋の混濁を惹起し、全篇の風姿を打毀すことがあるのだから油断がならない。
同時に後から主要な役割を受持つ端役の名前は、最初からそうした用意も籠めて名前を選んでおかなければならないのだから、端役の選名といっても中々軽々しく行かないのである。
おかしいのは赤ちゃんの名前を、やはり赤ちゃんらしく可愛いくしておかなければならないので、そいつが大きくなって悪党になったりする時に非常に困ることがある。
更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。
私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。
全く閉口するのは西洋人の名前である。外国人の名前の特徴なんか外国語の出来ない私にとっては全然わからないし、
万止むを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生れ故郷の地名や、附近の地面の発音の特徴をもじって作るよりほかに方法を知らないので、こうして白状するさえ情ない気がする。
厳密に云うと日本でも、その地方地方で特有の名前がある。
いずれにしても創作人物の名前が、神経衰弱のタネになるのは私一人ではないらしい。
しかもウッカリすると、作者の個性だか趣味だかが一定しているために、全然別の創作の中の同じような性格の人物の名前が、似通ったようなのがチョイチョイ出て来る事もあるのだから油断がならない。
しかし又一方にそうした傾向を利用した、作者の趣味とピッタリした人物を中心にして色々な物語を書いて行くのはたしかに賢明な方法である。
ホームス、ルパン、ミッキーマウス、ノラクロ何とかいったような名前は、要するに創作人物の名前の持つ魅力を百パーセントに利用したもので、そんなダシの利く名前を発見した人の喜びは考えるさえ嬉しくてならない。
まだまだ創作人物の名前については重要な事を沢山に書残しているようであるが、さてこうして書き初めてみるとナカナカ重大な問題らしく、あとから――書く事がイクラでも出て来るのに驚いている。
まことに辻褄の合わない事ばかり並べ立てたようであるが、今までの小説評に、名前の附け方の評なぞ出ないようである。しかも考えようによっては、創作人物の名前の附け方というものは、たしかに一つの立派な芸術のように思われるから、ちょっとその口開きまでにコンナ愚文を発表してみた。
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年10月29日公開
2006年3月1日修正
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