女史の経済的独立と母性保護問題とについて、平塚雷鳥さんと私との間に
平塚さんが日本における女流思想家の三女史の識見を引出して社会の耳目を集める機縁を一つ
無名氏の手紙は、私が今、三女史の包囲攻撃の中に陥っていることを気附かずにいるかと言って注意されました。如何にも私は自分を論争の十字火の下に暴露して立っていることを認めます。私は論争を好まない者です。また論争に習わない者です。けれども必要のための論争は辞すべきものでないと思っています。三女史に対して捧げている前述のような尊敬は尊敬として、たとい三女史の博詞宏弁を以てしても私の意見の自信を
私は思います。三女史と私とは決して目的においては異っていないのです。女子の解放と完成――それに由って女子が人類のより高くより善い協同生活の構成に参加すること――を目的としている点について、全く同一の方向を取っているのであると信じますが、その出発点と、歩度と、歩む道程とが互に異っているのです。中にも殆ど同じ道程を取っていながら、出発点と歩度とが異っているに過ぎないのでないかと思われるのは山川さんと私との距離だと思います。既に方向を同じくしている以上、三女史も私も互に敵視すべき間柄でなく、私たちは
私の与えられた紙数に制限があります。私は出来るだけ簡略にして言いたいだけの事をこの制限の中に書き並べて行こうと思います。
私が女子の経済的独立を主張しているのは、
なぜにこれを特に女子に向って高調する必要があるかということは、既に私においては、この八、九年間に度々繰返して述べている所ですから、今は自説を述べる代りに、今春
私は今更唯物主義に由って経済一元論などを唱えるのでなく、以上のような相対的の意味で経済的独立を主張しているのです。山田さんがこれを誤解して、人間の絶対の独立を経済的手段に由って私が企画しているかの如く攻撃せられたのは、的なきに矢を放たれたものかと思います。
その上、山田さんは、人間が果して精神的にも経済的にも独立することの出来るものであろうかといって、経済的独立の思想及び行為を冷笑し、「独立という美くしそうな言葉に魅せられ」とか「独立などという空想に迷わされ」とかいっておられるようですが、これは思いがけない奇論だと思います。山田さんほどの人がまさか「独立」と「孤立」との意味を
近頃
しかし山田さんの奇抜な独立否定説が必ずしも確信を持って述べられていない証拠には、山田さんは同じ文章の中で「私たちは……他人から独立を
平塚さんと山川さんとは決して独立の否定などはされないのですが、前者は私と方法を異にして「母性の保護こそ女子の経済的独立を完全に実現する唯一の道」であると主張され、後者は平塚さんの母性保護も私のいう意味の経済的独立も、現実の問題としては「共に結構であり、両者は
平塚さんに対しては後にいうとして、私は山川さんに申上げて置きます。私は人間の独立に経済的因素が絶対の必要だとは考えず、あくまでも相対的の必要であると思っています。その必要も人間の進化が精神的に高まって行くに従って減少して行かねばならぬ性質のものです。人間が真の福祉に生きる理想生活の実現される時は経済的労働から解放された時であろうと思います。この意味において、私は資本主義的経済関係に束縛されている現在の低級な人類生活を、更に層一層より善き理想的秩序の中へ進化させようとする共通の目的において一致した凡ての新思想と凡ての新主義に味方する者です。山川さんがこれを反対に
しかし千里の路も一歩から初めます。人間生活は長足の進歩をしたとはいえ、高遠な理想生活の全階段からいえば、まだ物質的条件が優勢な位地を占め、主客
私は山川さんの立場とせらるる社会主義とても、それが物質的社会主義の範囲にある間は、決して絶対最高の理想生活に応じるために設けられる絶対最高の社会的秩序ではなくて、物質的条件の必要な現代生活を眼中に置いて、資本主義的精神と金銭万能主義との不法に優勢である社会状態の中に住みながら、それを幾段か高い、よりよき秩序に拠って改造しようとするに外ならないと思います。
私は「より善き秩序」のいくつも提供されることを望みます。私が前に、共通の目的において一致した新思想と新主義との凡てに対する味方であると述べたのはこの意味です。そうして、カントのいわゆる「各人に属する、天賦の、唯一の権利」である自由独立の生存を危険にする限り、資本主義の排斥されねばならぬことは、今日において明白な問題ですから、これに代る正当な経済生活の新しい秩序を要求することは、無産階級にある私たちに取って一層痛切なものがあります。しかし米田庄太郎氏がいわれたように、人類は盲目的に新しい社会的秩序を贈られてはなりません。「これを受くるためには、人類は大に奮闘しなければならぬ。つまり、目的意識的に新しい社会的秩序を造るべく努力せねばならぬ」と思います。
山川さんは、私の文中に「経済的に独立する自覚と努力とさえあれば」といい、「富の分配を公平にする制度さえ人間が作れば」といったのに対して、この二句の間に矛盾のあることを指摘されましたが、私のいうのは、そういう自覚と努力とが各人自身に必要である人間が個人主義的に動き出せば、個人主義の徹底である共同責任主義へ向わずには置かず、そういう精神的にも経済的にも独立的意志の堅実な個人が集って団体生活を理想的に整頓しようとするなら、経済的には富の分配を公平にする制度が相互一致の中に実現されるに違いないという意味であったのです。矛盾はないと思います。
山川さんは「そういう制度が作られていない現代においては、個人の自覚と努力だけで貧困を免れることは出来ない」といわれましたが、制度は個人の多数が意識的に作るのです。制度が先にあっても宜しいが、個人が多数に目覚めて、その制度を我物として活かすのでなくては、制度も猫に小判ですから、私は先ず個人の自覚と努力とを特にそれの乏しい婦人の側に促しているのです。勿論大多数の人間がその気にならない限り、制度があっても大多数の人間が完全に貧困を免れることは出来ませんが、一人でも早く気が附いて努力すれば、その人は或程度までの経済的独立が得られるものだと信じます。不完全な独立であるにしても、在来のように女子が男子に寄食して遊民と奴隷との位地に堕落していたのに比ぶれば、既に内面的に独立生活の中にあるものです。「道を問うは既に道に入るなり」という意味において、確かにこのようにいうことが出来ると思います。
経済的独立ということを具体的にいえば、人間が心的に体的に、いずれかの労働に由って自ら物質的の生活を充たして行くことです。「今日の社会にあっては、その種類の何たるを問わず、遊手坐食はいずれの方面より観察するも断じて許さざる所である。……労働を重んずると
しかるに三女史とも共通の、もしくは個別的の種々の理由から、積極的もしくは消極的に女子の労働生活に反対されました。平塚、山田の二女史はこれを「詩人の空想だ」という風にまでいわれました。詩人の空想というものが、そのように安価にかつ悪い意味にのみ用いることの出来ないものであり、現実と離れた空想というものもないこと位は「美学」の一冊でも読んだ人たちには自明の事だと思いますが、
平塚・山川・山田三女史に答う(ひらつか・やまかわ・やまださんじょしにこたう)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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